100年前の「明治の三陸」写真帖 明治の大津波から復興した三陸の姿を伝える

明治45年(1912年)に刊行された「写真帖」掲載の岩手県三陸沿岸の貴重な写真や資料を順次公開

VOL24 明治の学校2 「遠野中学校」(上閉伊郡遠野町)

2014-07-12 17:50:42 | 明治の上閉伊郡(現釜石市・遠野市他)

明治の学校2 「遠野中学校」(上閉伊郡遠野町)

 遠野中学校(現在の岩手県立遠野高校)は、県内でも有数の歴史ある学校です。創立は明治34年(1901年)で、遠野高校の学校要覧沿革を調べたところ、校舎は明治と大正期に火災で焼失したものの、校地の移転はなく、現在と同じ場所(遠野市六日町)のようです。なお写真の校舎は明治40年の火災の後再建された白亜の建物です。

前稿記述のとおり、当時の岩手県三陸沿岸地区唯一の中学校として、上閉伊郡(遠野・釜石)のみならず、下閉伊・気仙地区からも若者が集まり幾多の優秀な人材が育っています。 


VOL23 明治の学校1 「岩手県立水産學校」(下閉伊郡宮古町)

2014-07-12 14:19:25 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

 「岩手県立水産學校」(下閉伊郡宮古町)

 当時の三陸沿岸地域には、小学校を卒業した後の上級学校といえば、本稿の「岩手県立水産学校」(現在の岩手県立宮古水産高校)と、次稿の「遠野中学校(現在の岩手県立遠野高校)の2校しかなかったので、漁業関係の子弟にかぎらず地域の秀才が競って入学し、鈴木善幸元首相・熊谷義雄元衆議院議員(普代村出身)などの人材を輩出しています。(私の祖父は8期生でした)

 因みに内陸には盛岡中学校(同盛岡一高)や一関中学校(同一関一高)、福岡中学校(福岡高校)などの中学校があり、宮古から盛岡中学校へ入る生徒も大勢いたようです。

 さて岩手県立水産学校ですが、明治28年(1895年)に水産補習学校として設立、その後下閉伊郡立水産学校を経て明治34年(1901年)に県立移管されています。校舎は現在宮古市磯鶏地区にありますが、写真の当時は藤原地区(現在の藤原小学校)にあり白い外壁が一際目立つ存在でした(当時の上級学校は、盛岡中学や遠野中学もなぜか校舎は白く塗られています)。《VOL6.明治の宮古の街並み其の1 参照》

 明治末期の三陸沿岸地域においては学校の重要度は現代の比ではありませんでした。この写真が本写真帖には各郡役所の次の頁に掲載されていることからも推し量れます。

 

「明治の三陸博覧会」記念写真帳とは?


VOL22 明治の久慈港(九戸郡久慈町)

2014-07-12 10:37:43 | 明治の九戸郡(現久慈市他)

明治の久慈港(九戸郡久慈町)全景

タイトルは久慈港全景となっていますが、写真には所謂港らしい風景はありません。

撮影場所を地図と照らし合わせて推測しますと、遠くに見える島影(弁天鼻と牛島?)や中央の細長い砂州を見ると、現在の湊町の金刀比羅神社吹きの高台から俯瞰したものでしょうか。

写真上半分を横断する川は夏井川とすると、海側の砂州は現在と較べると狭小です。写真の右端には鮭の川止めと思われる柵が見られます。手前の葉の落ちた木立や民家の煙突の煙などから冬季の撮影と思われます。

現在の久慈港は長内町の埋め立てが進み大型船も寄港できる近代的な港湾となっていますが、当時は未だ港湾整備されていなかったのかもしれません。但しVOL17の「鍬ケ崎湊2」で既述したように、明治44年には三陸汽船の久慈航路が就航していますのでその後徐々に港が整えられていき、大正11年に内務省指定港湾になっています。

写真で気にかかるのは、この地区も明治の三陸大津波で大きな被害を蒙ったはずですか、この撮影時は早くも海辺近くまで民家が密集して建てられていることです。今回の東日本大震災で大きな被害を受けていなければよかったのですが…。(因みに明治の大津波の際は、NHKのあまちゃんでも有名になった近くの小袖海岸の「つりがね洞」の由来となった釣り鐘状の岩が、その大波で落下と云われています)

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