こういう神託とか啓示とか、ある種の憑依状態によるなんらかの存在の言葉を自動筆記するとかいった事例は、長い世界全体の歴史の中でみればさして珍しいことではない。
(アブラハム一神教系における多くの預言者達もこうした啓示を受けたとされている。)
大天使ガブリエルとムハンマド。
だが、現代多くの者はこういう現象そのものに驚いてしまい、頭から拒絶し全否定するか、頭から信じて全肯定してしまうかどちらかである。
どちらも正しい態度ではない。
こうした文献をいろいろ読み比べる限りにおいて、神託をもたらす霊的存在にも段階があるらしく、低俗な霊の場合もあれば高級霊まで、様々であることがわかる。
それは文書をみればある程度判断できるものだ。
いたずらに終末思想を宣託する類のものなどはまず取るに足らないものとみていいし、それ以前に全くの創作であるケースもある。
だからといって全てが取るに足らないものだと決めつけることはやや気が早い。
中には明らかに人間の知性を超えた所から落ちてきたとしか思えない様なモノもあるからだ。
その意味でいくと、個人的意見としてはこのトバイアスの言葉は一部におかしな表現もみられるが、まず上級資料といってよいのではないかと思っている。
まあそれでも現代日本においてこういう話をすると異端視されがちなのだが、あくまで一つの説として思考上の参考になるのであえて書くことにした。
さて何が面白いかといって、"トバイアス" というユダヤ、キリスト教系の神霊が、それも普通のアメリカ人の身体を借りてわざわざ異教徒の開祖を称賛しているという点だろう。
そしてブッダとイエスを比較してまったく質の違う存在と語っている。
"イエスは生まれつき神の種が開花した存在であり、ブッダの様に自力で神との融合に至るモノとは違う ー "
その存在によって人間社会の意識レヴェルを押し上げる効は果たしたが、一般の人々がイエスになる事は不可能なのである。
これは単なる宗教のカテゴライズにおける "信" に向かう宗教か、"目覚め" に向かう宗教か、という二つの方向性の違いによるとばかりは言えないだろう。
イエスは初めから "天" に近い存在だった。それはそれで尊いだろう。
だが、私個人的にはあくまでも "人間" シッダールタが永い修練の果てに "目覚め" たという事象の方が魅力を感じてしまう。
(アブラハム一神教系における多くの預言者達もこうした啓示を受けたとされている。)
大天使ガブリエルとムハンマド。
だが、現代多くの者はこういう現象そのものに驚いてしまい、頭から拒絶し全否定するか、頭から信じて全肯定してしまうかどちらかである。
どちらも正しい態度ではない。
こうした文献をいろいろ読み比べる限りにおいて、神託をもたらす霊的存在にも段階があるらしく、低俗な霊の場合もあれば高級霊まで、様々であることがわかる。
それは文書をみればある程度判断できるものだ。
いたずらに終末思想を宣託する類のものなどはまず取るに足らないものとみていいし、それ以前に全くの創作であるケースもある。
だからといって全てが取るに足らないものだと決めつけることはやや気が早い。
中には明らかに人間の知性を超えた所から落ちてきたとしか思えない様なモノもあるからだ。
その意味でいくと、個人的意見としてはこのトバイアスの言葉は一部におかしな表現もみられるが、まず上級資料といってよいのではないかと思っている。
まあそれでも現代日本においてこういう話をすると異端視されがちなのだが、あくまで一つの説として思考上の参考になるのであえて書くことにした。
さて何が面白いかといって、"トバイアス" というユダヤ、キリスト教系の神霊が、それも普通のアメリカ人の身体を借りてわざわざ異教徒の開祖を称賛しているという点だろう。
そしてブッダとイエスを比較してまったく質の違う存在と語っている。
"イエスは生まれつき神の種が開花した存在であり、ブッダの様に自力で神との融合に至るモノとは違う ー "
その存在によって人間社会の意識レヴェルを押し上げる効は果たしたが、一般の人々がイエスになる事は不可能なのである。
これは単なる宗教のカテゴライズにおける "信" に向かう宗教か、"目覚め" に向かう宗教か、という二つの方向性の違いによるとばかりは言えないだろう。
イエスは初めから "天" に近い存在だった。それはそれで尊いだろう。
だが、私個人的にはあくまでも "人間" シッダールタが永い修練の果てに "目覚め" たという事象の方が魅力を感じてしまう。
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