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思考の踏み込み

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登山部 (弱小) 2

2014-11-03 06:55:46 | 日記
さてそんなひたすら20号の旅。



大月を過ぎたあたりで史跡「猿橋」という表示が目に付く。

何やら日本三奇橋の一つとか。

時間はまだある。
寄ってみよう!
この、ノープランさが下道ツーリングの醍醐味。
予定を決めて走ってはいけない。
予定があると時間を計算する。
計算すれば高速道路の方が良くなってしまう。

ただ目の前のモノだけに集中るする。
人生も同じだろう。




アーチ型の小さな木造の橋。
しかし下を見るとこの橋の凄さがわかる。





よくぞまあこんなところに橋をかけたモノだと思う。
しかも案内板の様なモノを読めば、何やら甲斐の武田信玄とか父親の信虎あたりがこのあたりでもって戦までやっていたらしい。

だとすればどうしてもこの谷を越える橋は必要だったのだろう。
もっと詳しくしらべてもいいが、それをやると主題が変わってしまいそうなので自粛する。

ともかくも、川の水の深い碧が印象的であった。
大月に寄られた方は一度行って見る価値はある。


登山部 (弱小)

2014-11-02 07:12:08 | 日記
カスクドールで飲んだ翌日、仲間内の登山部メンバーで山登り。
たまにはそういう他愛ない投稿をしてみようと思う。




登山部といっても極めて素人ぞろいのチームだから装備も知識も適当な集まり。ただみんな山が好き。
歴史だけはもう六年くらいになるのか、わりと続いている。

毎年一、二回。
皆が休みの合うときに企画し決行する。
今までに登った山は富士山が三回くらい (たしか) 、雲取山、八ケ岳、北岳、筑波山…。あと何カ所かいった気がするが今思い出せない。

まあだいたいそんな感じですが、今回は "大菩薩峠" 。
登山というには相当難易度は低いがそれには理由が。



そう。登山部メンバー内に夫婦がいてそこのSちゃんが初参加。
今回の主役も当然Sちゃん。
彼女でも無理のないコースが選ばれた。

ちなみにこの子どもを載せられるザックは皆で結婚祝いにプレゼントしたモノ。
今回はそのお披露目も兼ねている。

さて、大菩薩峠までの道のりは車チームとバイクチームに分かれたのだが、バイクチームは最近ハマっていることがある。

それは下道ツーリング。
高速を使わずにひたすら下道を往く。

"飛ばさない" "追い抜かない" すり抜けない" 。

ひたすらにフワフワとまったり走る。

大月辺りで一枚。すでに空気が美味しくなる。



何しろ普段は都内でカッとんでいる連中ばかり。可能な状況であれば白バイに追われても逃げてしまう者さえいる。
(白バイに追われたら停まりましょ…いや、白バイに追われる様な運転はやめましょう。)

まあそんなわけで我々には、こういう一般的には普通の "走り" が新鮮でなんとも楽しい。


この日は朝四時に高井戸に集合して、ひたすら甲州街道を往く。





私は忙しくて毎回参加していないが、同メンバーでこの「幹線道路ひたすらツーリング」は登山部と別の活動としてすでに何度かやっている。

一号線、つまり第二京浜そして第一京浜と合流し日本を横断する国道一号。

他にはひたすら246。
つまり青山通りから沼津まで抜ける国道246号線。

または川越街道や中山道、江戸通りからの国道6号線。
普段何気なく走っている都内主要道路を、この道ってどこまで続いてるのか?と予備知識なしで走ることは意外と面白い。

特に旧道と絡むところまで行くと、かつてはこんなに細い道を人々が往復したのかー 、と歴史的感慨が湧いてくる。

特に山越えや峠越えなどの道にさしかかると、よくぞここに道を繋げたものかな、と日本人の活力と行動力に感嘆せざるを得ない。

そして歴史的に有名な地に至れば、あるいは歴史上のあの人物もこの道を通ったか、と思えば楽しみは膨らむ。
他のメンバーはそういう知識はないので私がいつも能書きを言うのだが、いつも余り聞いてはいない…。 (苦笑)





過去帳其の二 9

2014-07-11 00:10:52 | 日記
以上の様に考えてくると、"孤独" とは必ずしも悪い言葉ではない。

孤独が好きな人間はそこにある張り詰めた緊張感であったり、研ぎ澄まされ高められ、他の介入を受け付けないほどの澄み切った感覚が好きなはずである。

私などは逆にこうした感覚のない平穏な暮らしを思うと、とてもやりきれなくなってしまう事さえある。

孤独である時間があまりにも長かった ー と初めに述べたが、その境遇を選択してきた理由はこうした気質の問題に行き着くのかもしれない。



天才と呼ばれる者たちは皆孤独である。それはその天才性故に、同じ次元を共有できる者がいないからである。

達磨が壁に向かって九年も座り続けなければならなかった孤独感は我々凡人には窺い様もない。
もちろん、私自身はただの凡人でしかも弱き者に過ぎないから、その孤独性はこうした天才達のモノとは質が違う。

それで良いと思っている。
初めから高みにいる "天才" 達の人生より、自分の様な弱き者が一段一段、ゆっくりとではあるが登っていく事は、時にしんどい事もあるが、けっこう楽しいからだ… 。





後記 : 本ブログにおける投稿は全てこの、一段ずつ登ってきた過程で見つめたこと、気付いた事の記録であり、主題は異なれどどれもがその先に繋がるモノとして書いているものである。

それをこの辺で明確にしてみても良いかと思いあえて過去帳から、本来他人の目にふれさせる様な内容でない個人的な記録を抜き出してみた。
(途中、強引な論理の展開もあったがあえて当時のままにした。)

それが ー もし自分の様に低い段から上がる必要のある人達の、何らかのお役に立つことがあれば幸いである。



ー だが、今振り返ってみてもやはり孤独とは辛いモノである。

自己の弱さが招く孤独程度ならば、それを変えれば良いだけだが、本当の意味で ー なす術のない真の孤独を味わった事のある者であれば ー その寂しさ、悲しさは辛いなどという安易な言葉ではとても言い切れるものではない、と言うだろう。

だからこそ人間は社会的生物なのであるし、より人を愛する事ができるのだと思う。

今や ー ずいぶんと永い付き合いとなった我が友 "孤独" も、いずれは良き隣人くらいの関係にしたいものである。




過去帳其の二 8

2014-07-10 07:38:44 | 日記
弓についてもう少し触れてみよう。

"阿波研造" という人物をご存知の方が今の日本にはどれだけいるだろうか。

オイゲン ヘリゲルの「弓と禅」が有名だが、弓術を "道" にまで高め弓禅一如を体現した人物として偉大である。

阿波研造。1980~1939年。

こうした達人が存在したという事実を我々はもっと知るべきであろう。

彼は小手先の技術としての弓術を否定し、当時の弓道界と隔絶。
"孤独" な高みを独り歩んだ。
しかし、その実力は全国弓道大会で四日連続百発百中という人間離れしたモノ。
彼はいかにしてその境地に辿り着いたのか?


阿波研造は言う ー 。

" ー 的と私が一体になるならば、矢は有と非有の不動の中心にある。
射は術ではない。的中は我が心を射抜き、仏陀に到る。"


これは間違いなく彼が、身体の統合を高次元において ー "弓を引く" という所作から達成し、その先に到達した証となる言葉であろう。

人生を矢を射る事に例えたが、その奥義とでもいうべきヒントがこの言葉にはある。

彼は目を閉じていても的を外さなかったといわれる。
日本人研究の為に来日した哲学者ヘリゲルはその事を疑うと「ではやって見せよう」と、阿波。

夜、暗闇の中阿波は矢を放つ。
当然の様に矢は的の中心を射抜く。

驚くべきは二本目。
一本目の矢筈の真ん中から入って一矢目を引き裂いていた。

その時の炸裂音を印象深くヘリゲルは聞き、やがて阿波に傾倒してゆく。

果たして本当にこんな事が人間には可能なのだろうかー ?

私自身、弓道など縁はないし、阿波の事をそれほど詳しくもしらないのだが、いずれにせよ、阿波研造の "弓禅一如" からはただの精神論などではない、深淵な身体技術が垣間見られて興味が尽きない。



(補記 : ちなみに「弓と禅」はスティーブ ジョブズが生涯の愛読書としていた、とか言われて話題にもなったから最近はご存知の方は多いかもしれない。

ヘリゲルがどこまで阿波の本質に迫り得ていたかはともかく、興味がある方は読んでみる価値はあるだろう。)


過去帳其の二 7

2014-07-09 00:17:35 | 日記
人間の行為が美しく見える瞬間というモノは様々にあるが、弓を引く姿はその最上のモノの一つであり、同時に象徴的でもある。



目的を定め、的を絞り、精神を集中させるというシンプルな構図は、人間が抱えている内的エネルギーの処理問題の理想形であるといえる。

多くの者はこの内的エネルギーという矢を何処へ向けていいかわからなかったり、的が絞りきれなかったり、弓を引く力がなかったりして矢の扱いに苦しみ悩むものである。

それだけに矢がうまく的を射る事が出来た者の人生は幸福に満ちている。

だが的を射抜く事が目的なのではない。
的を定め、矢を放つ。
そこで生まれる集中力とそれによる統合感が作り出す身体的な "快" 、これこそがこの浮世を楽しみ、我々の内の奔放なる "力" と調和する一番効率的な手段である。

ー 弓を引くというこの単純な人間の動作は、こうした意味からも象徴美として、即芸術たりえる要素を持っていると私は感じてしまうのである。

(しかし上掲のブールデルのヘラクレス像は、躍動感はよく出ているが弓を引く "姿" としてはあまり美しくはない。
やはり武によって身体を練った下の侍の様な "型" の方が美しい ー )