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思考の踏み込み

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過去帳其の二 6

2014-07-08 07:39:01 | 日記
こうして考えてくると、"孤独" とは決してマイナスなイメージばかりのモノとはいえないようだ。

そもそも "solitude" もしくは "loneliness" を "孤独" と訳した人物は偉いと思う。

"独" はまぎれもなく一人で在る事だが、"孤" からは自然と "弧" が連想される。


(厳密にはまったく別の言葉なのだが、"コ" という日本語の音の世界では必ずしも別のものではなくなる。)

"弧" とは弓の形状の謂である。

数学的には曲線あるいは円周の一部分、とされる。

従って、"コ" が与える印象としては "張りつめている" や "緊張感" 、"集中力" などがあるように個人的には思う。

そこにはむしろ "美" を感じさせ、けしてネガティブな印象はない。

強いていえば張り詰めた細い糸が小刻みに震えている様や、今にも切れてしまいそうな様子がある。
それはある種の弱さを連想させるのだが、全体的に言って "弧" には美しくしなやかな強さこそ感じさせる。




"孤独" とはおそらく明治期に造られた英訳語だと思われるが、訳者の精神の格調の高さが窺えて、優れた新漢語の一つといっていいのではないか。

それまでも鰥寡孤獨 (カンカコドク) という熟語はあった。
ここでの "孤" はみなし子、"獨" は子のない老人を指す。

しかし、明治後に普及した "孤独" はどうやら "孤往独邁 (コオウドクマイ) " という言葉が元になっている形跡がある。

「強い信念を貫いて生きる」とかいった意味の言葉だ。
この "コ" はやはり "弧" の方にイメージとしては近い様に勝手にだが感じている。

さて、その勝手な感覚は "弧" が形容している "弓" について、思考をこれまた勝手に発展させていく様なので少し立ち寄ってみたい。



過去帳其の二 5

2014-07-07 00:21:44 | 日記
ー たとえば触れる者皆傷付ける様な険しい空気感を纏って生きる事も悪くはないだろう。

個人的には一定の緊張感を纏っている人間や、協調性など皆無でどうしようもない変わり者とかいった変物も嫌いではない。

だが根本的に人間は集団生物であるという絶対原理がある以上は、自身の生き方の選択としては、もっと同調率や協調性を自由に扱える様な強さが欲しいものだとやはり思う。

合気道の達人、武道の神様とまで言われた塩田剛三は弟子に「合気道で一番強い技はなんですか?」と問われ、こう答えたという。



" ー それは 自分を殺そうとして襲って来た相手と一つになって、友達になってしまう事だよ。 "



相手がどういう者であろうと ー 殺意を持っていてさえ ー それを全て受け入れ自己に取り込んでしまう。
しかしそれは妥協ではなく、調和なんだ、と塩田は言う。
本当に強い人とはこういう人物のことを言うのだろう。

武道という、本来殺し合いの技術世界において ー 合気道が到達しまた塩田が到達していた世界観は明らかに一つ抜け出している ー 。

もちろんそれは塩田剛三の武の達人としての下地があってはじめて言えるセリフなのだが、この辺りまでいくと技術と人間性は別のモノではない。

なぜならこの次元の技術に至るには、相当に高度で統合された身体が必要であり、それは精神面もそれ相応に高めるモノであるからだ。

従って必ずしも合気道や武術の達人にならなくても、己が身体を整え感覚を高めていけば塩田のいた融通無碍な心境に辿り着くことは出来るはずである。

(肘の角度にお気付きだろうか?塩田の神技を解くカギの一つは明らかに "同調" の原理である。そして塩田の肘はしっかりと腰と繋がっている。崩されている側との差もそこにある。)


そしてそこへ行くための推進力とでも言うか、強くなりたいと願う気持ちは自然、弱い者ほど多く持っている。

弱き者ほど実は恵まれているのである。


その ー 弱さがあるからこそ人は自らと闘い、鍛錬し強くなり得る事もできる。
臆病者ほど智慧も湧くし、虚弱な者ほど健康への意識は強い。
そして孤独であるからこそ、自己と徹底して対話する時間も生まれるのである。

実は弱者こそが生き残ってきた ー という真実は人類史のみならず、生物史においてさえ、明らかな事実なのである。

(もちろんそのためには自己の弱さと真正面から向き合う覚悟が必要ではあるが。)

過去帳其の二 4

2014-07-06 01:19:29 | 日記
ー ところがその虚像は他者との密接な関係性の中に入ると、比較の対象が生まれる事によって儚くも崩れ去る。



不思議な事に意識下では認識すらしていない自己の暗部を、無意識領域では実は良く知っていて、それが浮き彫りになることを意識の外で拒否しようとしている。

つまり独りでいる事、他者と深い付き合いをしない事はそうした側面からの逃避である。

ー 自分は孤独だと嘆き、狭くて薄暗い処へわざわざこもり、自己をなぐさめる。
それはあたかも自分で自分の皮膚を撫でて悦に浸る様な行為に似ている。

これは厳しすぎる観方だろうか?

だが、協調性の低さとは実は同調率の低さであり、それは身体面からみればやはり弱さなのである。

わかりやすい話をすれば、握手がある。

握手をする時、必ず両者の肘の角度は同じになる。これは同調している証である。





ところが一方がその握手を嫌々やっていればその角度は一致しない。
同調していないからである。

他者との同調が出来ない理由は様々だが、特別に感情的に敵対しているわけではない様な相手との同調が果たしにくい理由は、ほとんどが自己の身体の偏りや強張りであろう。

これは心の偏りや、頑ななあり様とも言い換えられる。
それは状態としてはやはり "弱い" のである。

身心の緩んでいる者であれば、もっと他者を受け入れやすいものであるし、他者もまた近付き易い ー 。



過去帳其の二 3

2014-07-05 06:17:38 | 日記
自己の生存の為の自己主張の本能は他の社会的生物においては、生殖活動に関わる事に限ってのみ強く見受けられる。



ところが人間は必ずしもそうではない。
もちろんそれも根底には性エネルギーが認められる以上、同じ事だともいえるが、他動物の様に単純にはいかない事は間違いがない。

ここでいう根底の性エネルギーとは、単に性欲の事を指すわけではない。
根底部分まで行けば "性" は "勢" でもあるし、"精" でもあり、"生" そのものでもある。それは本来質として "聖" として存在する。

それは複雑に昇華し、変化して形を変えて姿を現す。
鹿が角を蓄える如く、孔雀が煌びやかな羽根を拡げるが如く、様々に自己の表現をして見せ華やかでかつまた騒々しい。

その騒がしさや単純にいかない理由を辿るとどうも "立姿" という問題が出てくると思われるが、精神や意識と人体の構造と立姿の関係性はここでは触れるつもりはない。
(この事は「ブッダ」で書いた。)

要は人間とは根本的に矛盾を抱えた生物であるということである。

その矛盾を柔らげ、調整、統合しようとして道徳であったり宗教や哲学というモノが生まれた。

多くの人はそうした人類の知恵によって、それなりに社会性にうまく帰属し、当人がどう感じているかどうかは別にせよ、人生は辛いとかなんとかいいながらも実はけっこう幸せに暮らしているものである。



その一方で世の中には必ずしも社会にうまく帰属出来ない者達がいる。

理由は様々であろうが、本質をついてしまえば全ては当人の弱さに因を為している事が多い。

明らかに自分もこの後者の系譜に入るケースである。

結局は孤独を選択する者は己の弱い部分を必死で護ろうとしているだけなのである。
誰しも他人に自己の弱い部分をつつかれたくはない。
いや、自分自身でさえその部分を見たくない。
それどころかそもそも向き合おうともしない。
意識はその部分を否定し、都合の良い自己像を創り上げる ー 。


過去帳其の二 2

2014-07-03 05:52:28 | 日記
ー どうもこの人生には孤独がついてまわることが多い様だ。

いや、ついてまわるという表現は正しくない。
厳密に見つめれば、常に一人で在る状態を選択してきたというべきだろう。

当然その理由は幾つかある。

やむを得ない場合もあったし、性格に根ざしているというケースもある。
その事はいい。

ただふと思い返してみると、一般的にみて余りにも独りでいる時間が長い事に時に茫然とすることがある ー 。





人間は社会的生物である以上、本来単独で生きられるものではないし、仮にそうやって暮らして生命を保ち得たとしても精神が健全であることをやめてしまう。

だがその一方で人間のやっかいな所は他の社会的生物の様に素直には社会的性に帰属しきれない所である。

即ち "個" の主張の強い生き物だということである。

これは現代社会において個人主義の傾向が強まってきたからいうのではなく、遥かな太古から存在していた意識であるはずだ。



要するに、"個" と "全体" の二律背反であり、もっと踏み込んで言えば自己の生存の為の自己主張の本能と、種族保存の為に発動する自己犠牲の本能との方向が僅かにズレていることの矛盾から生じている現象という所であろうか ー 。