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思考の踏み込み

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黄色

2014-07-15 06:21:14 | 
不思議なもので過去の記録から抜きだし多少の校正をして投稿しているだけなのだが、内容があまりに内省的で深い海の底を潜水し続ける様なモノであったので、どうも身体というか、自己を包む空気感までが深い青に染められていって、なにやら爽やかでない日々が続いた。



魂の色は青であるという。

これはどうにもあやしい。

正確には "青" という色の性質が魂の方向へ向かわせる作用がある、というべきではないだろうか。

魂という、明らかに物質以前の存在に色があろうはずがない。

ー そう考える方が理に適っている。

"色" とは明らかに物質以後の、あるいは生命の、もしくは感受体の発生以後に生じた "現象" に過ぎない。

"魂" などはその存在さえ誰も証明できないが、存在しないと証明できる者もいない。

むしろ感覚的に自己の内部をカテゴライズしていって分析していけば、どうやらそれらしいモノが "在る" と認識する方が腑に落ちやすい。


その感覚の性質を見つめればやはりそこには色はない。
なにも霊感とか第六感とか超能力とかに頼らなくても、この位の推理はごく普通人でもできる。

ではなぜ "青" がそちらに向かわせる性質を持つのか?

これは色彩と光の波長の問題になり、ここでの主題としたいことからは逸れるのだが、青という色自体が不思議な色であることは間違いがない。

なにが不思議か。

地球上に青い物質というモノが極めて少ないという事実である。

"Blue rose" 響きが良い。


南北米大陸の原住民やアフリカ大陸の一部言語によっては「青」という単語に相当するモノが存在しないところもある。

そうしたところからか、"青" にはメーテリンクの童話 "幸福の青い鳥" や ノブァーリスの未完の小説 "青い花" などにみられる様に実在しないモノを追いかけるロマンを託されてきた ー 。










ねこ9

2014-03-12 08:37:26 | 
"ネコ派" にとって彼らねこたちの魅力を語り尽くすことなどいつまでたってもできやしない。

睡魔とはけして戦わないことも、夜な夜な秘密の徘徊をすることも、遊ぶときはいつだって真剣なことも、ゲーゲー草で自由自在に体調管理してることも、餅が絡まり合うみたいなケンカの仕方も、道路を横断するだけで大冒険をしているかのようなその大袈裟で楽しそうな日常も、、、。

ー そもそも "ねこ" という名称の響きすらも!
かれらの一挙手一投足は全て愛おしくて素早いから、言葉は追いつけない。

(何故か一輪車の事を "ねこ" と言ったりする。ねこ好きにはなんとなくわかる微笑ましいネーミングである。)




ともかくもそんなことを書いていけばキリがないので、最後は東京事変の「黒猫道」という大好きな曲の歌詞を載せて終わりにしようと思う。


椎名林檎の曲にはよくネコの描写がでるが、これはその極め付けだろう。








作詞 椎名林檎 『黒猫道』


退いた退いたほらオレサマのお通り
僕は闊歩しつつ唱えている

「黒いのは条件反射」



吠えるものか今日もまるで無勘定だ
除(ノ)ケモノにされても良いからかまうなよ人間関係

立ち止まって撫ぜられるのも
自動車警笛(クラクション)を鳴らされるのも
手ぐせで尻尾を掴まれるのも
もう毛頭堪忍

誰も立って居ない道を行け
頭一個の狭さで行け
黒くなって人目に付かぬ様にさあ急いで急いで



前を向いたら後退不能なのだ
僕は譲歩しつつ構えている

「黒いのは防衛本能」

吠えるものか今日もまるで不干渉だ
除(ノ)ケモノにされても良いからかまうなよ人間関係



冷たくても大きな獣
吐息が温かい生き物
彼等を食さぬ僕を臆病者なんて云うな

魚と葉っぱで生きられる
無駄な殺生を避けていける
四六時中喪に服し涙を呑む信心者さ



退いた退いたほらオレサマのお通り
"不吉。"と、嫌われて丁度好い
かまうなよ人間関係


ねこ8

2014-03-11 08:43:35 | 
ねこは勝手気ままでそもそも人間に可愛がられようという計算もしていないが、唯一鳴き声だけは多少努力の痕跡を感じなくもない。

何故なら、ネコ同士で鳴くことは発情期とケンカの時以外では基本的にはほとんどない。

したがっていわゆる "猫なで声" というやつは対人間用にネコ達が使っている一つの技というか、彼らの人間に対するリップサービスみたいなものだろう。

ネコは頭がいいので人間がよく喋る生き物であることを知っているらしい。
ノラネコより圧倒的にイエネコがよく鳴くのはこの意味で自然である。





話はそれるが、似たような意味で女性という生き物は男という生き物に対して "甘える" もしくは "甘えてみせる" という技術を持っている。

これは男が女性の前で見栄を張ったり格好つけたりすることと、根っこの部分では質として同じものといえる。

ところが男女平等を勘違いし、男と張り合おうとして男に甘える術を知らない肩肘の強張った女性。

あるいは女として甘えてみせることと、人間として甘ったれることの区別がつかない女性。

そしてその区別のつかない甘えを全て許すことが優しさだと勘違いし、ワガママな女を助長させる男ども。
またそういう男が優しくて良い男だと思い込む女性達。

別に女性が男性に対して甘えてみせなければならないなどとは思わないが、この、人間における男と女という生き物の関係性が、うまくいく手段として女性が開発した優れた方法が甘えるということである。

"モテる女" といわれる人々はだいたいこの行為が自然で上手いものだが、度が過ぎれば小悪魔とか魔性の女とかになる。

ところがこの自然な女性の本能を見失っている女性が近年多い様な気がする。
男性の側にも当然原因はあるだろうが、どうにも女性としての自然な生き方を忘れて苦しんでいる女性が増えているのではないか?

ここのところ立て続けにそういう女性に接する機会が続いてついこんな脱線をしてしまったが、ネコ達は猫なで声を出すのにも、もっと自由で自己中心的でしかも気高い。世の女性の方々はもっと研究されては如何だろうか。

一番賢い女性は、猫が人間に飼われてやってると思っているように、男のチンケなプライドを立てる術を知っていて上手く手のひらで男を転がしているものだ。
けして、やくたいもない男のプライドと張り合ったりはしない。

以上全て余談だが、女性がその本能を見失うと困るのは男ではなくて、子供たちである。育児放棄も幼児虐待も無気力な子供たちも、本当の意味での女性の幸せを真剣に考えることからスタートしなければ解決できない問題であることに気付かねばならない。










ねこ7

2014-03-10 08:35:14 | 
たとえばねこの手。



肉球。



ちいちゃなくち。



しっぽ。



耳。かなり高性能。



猫背すぎる背中。



おなかも。



ねこのこのフォルムの仕上がりは果たして偶然だろうか。
この世の可愛い形を全て集めてくっつけたのではないか?

イエネコが人間によって品種改良されてこうなっていったのならわかるが、基本的な形はそれ以前から変わらないだろう。

つまり、この形態は愛玩動物として辿り着いたものではなく、全てネコ目ー 食肉目としての機能性の結果であるという信じ難い事実がまた、ねこの持つ魅力の核心でもある。そのことは、ネコが平均して保有している狩猟者としての本能が証明している。

(明るさによって形を変えるその瞳はまさにその象徴だろう。)

ネコたちが大半を寝て過ごすこともその狩猟者としての能力の高さの証でもある。
つまり捕食に必要とする時間と、その小さな体が求める必要カロリーのバランスが極めて効率がいいから、いってみればやることがなくて寝ているという状況である。



これはコアラがその主食たるユーカリの葉の有毒物質を消化するために20時間の睡眠を必要とすることとは根本的に異なる。

現代人がまた、一日中あくせく働いていることもねこたちからすれば、さぞかしムダの多いことに見えるだろう。
きっとねこたちは人間の活動を「ご苦労なことで…」とか思いながら見ているだろう。



例えイエネコとしてエサを貰っていたところで、彼らはいつでも野生に戻って食べていくことができる。

要するに彼らは経済人としてみればかなりハイクラスな人々なのである。
従って当然、気が向かなければ人間に媚びる必要もなく、芸なんか覚えるはずもない。それは知能が低いからではない。

かれらが自由でいられる理由も、人間がねこたちの気ままな暮らしに憧れる本質もそこにあるといえる。



ねこ6

2014-03-09 07:25:46 | 
ネコの不思議さはそのフォルムにもある。

普通どの生物も幼体、つまり赤ちゃんの頃は異様に可愛いものである。
それは保護を必要として産まれて来る以上は当然なものである。

成体になるほどにその可愛いらしさはやがて逞しさや大人っぽさへと変わっていくものだ。

ところがネコに限ってはどうもこの幼体から成体への変化が、全体のサイズ以外には少なくしか起きないのではないかと思う。



そして比率的に顔に占める目の大きさという点も他動物にはない特徴だろう。目の大きさは普通、幼体ほど大きいから、大きな目は見るものの母性なり父性を刺激し易いものだからだ。



フォルムばかりではない。
その性質も幼体期から大きく変化しはしない。彼らは人間に撫でられることで "退行" しているといわれる。
つまり母親に舐めてもらっていた感覚へのタイムスリップである。
(本来のどを鳴らす行為も母ネコに対してだけみせるものであり、またその範囲より大きい音は安全上出さない。)

人の人生でも "憧憬" にこそ真の幸せがあるとかいわれたりするが、ネコたちは人に "飼われる" ことで常にその憧憬の中に暮らしているのかもしれない。

要するに "イエネコ" たちは子供のままであり、母ネコを除けばよほどの老ネコかノラでなければ、赤ん坊の頃と大差ない。
(家族や社会を形成しないのもその原因だろう。特にオスネコなどは父親としての役割などなんにもない。)

それでいてトラをそのまま縮小したかのような高い身体能力と哺乳類の中でも高いとされる知能を持っているのだ。

ねこ達の魅力はあの小さな身体にこの極端なギャップが内包されているところにこそあるのではないだろうか?

箱好きも同じらしい…