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思考の踏み込み

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黄色6

2014-07-20 00:24:44 | 
フィンセント ファン ゴッホというこの、まるでロブマイヤーのシャンパングラスの様に薄く繊細で、しかし極めて美しい内面を抱えた男にとっては、俗世間というものはずいぶんと住みずらい世界であっただろう。



彼は絵を描く事以外にそこから逃れ、自らの魂を安らげる手段を持たなかった。
しかしその唯一の拠り所である絵ですら、彼の生前はまったくその "世間" に評価されることはなかった。

やがて彼は自殺という悲しい結末を迎えるのだが、本来現世には在り続ける事すら難しい様なこの男が、死を選択せざるを得ないギリギリの段階まで、絵を描き続けられたということは、ひとえに弟テオの存在による。

テオが存在してくれて、ゴッホに寄り添い続けてくれた事はゴッホにとってこの世での僅かな幸いの一つだったが、後世の我々にとっても幸いであった。

彼がいなければゴッホは創作を続けられなかったし、その作品も残らなかったであろう。

そのテオに向けてゴッホは多くの手紙を書いているが、その中に黄色の絵の具を送ってくれ、というモノがある。

これはゴッホのその短い生涯におけるささやかな明るい時代、アルルにおける希望の光がさしていた頃の傾向である。

彼はこの時期、ずいぶんと黄色を描いている。

「夜のカフェテラス」アルル時代。黄色を美しく引き立てる為の青の色使いが見事である。



黄色の持つ力には不思議な要素があり、不安を軽減させる効果があるのだという。

黄色い紐とそうでない紐を子供に飛び越えさせると、明確に黄色い方が記録が伸びるという。

しかしこれは不安の軽減というより、意欲の増大とみる方が正確な様に思う。どちらも作用としては同じだが、黄色の本質をつかまえるにはハッキリ区別しておくべきかと思う。

ゴッホの不安定で、純粋過ぎる精神では夜を迎える事さえ時に不安であっただろう。
その事は彼が一日で一枚描いてしまうという作画スピードの速さからも想像できる。

彼の独特のタッチにはそれがよく表れていて作品の魅力になっている。
そのスピードはあるいは黄色の持つ力によって支えられたのかもしれない。

黄色5

2014-07-19 01:21:11 | 
さてさて ー もし私が絵描きであったとして、ルノワールの様に "黄色を描きたい ー " と思ったとしたら何を画題に選ぶだろうか。

黄色は生命力を表す色だという。
このことは意外と知られていない。

人が黄色に対して持つイメージは民族や文化によって変わったりするが、生物界ではどうやら明確な様である。

単純に強い生物や、生命力が旺盛な幼体に黄色がしばしば見られることは、この色と生命力との関係性を示唆している。

黄色を描きたいという画家は ー 畢竟、この生命力と向き合う事になる。

例えば虎。




画題としては使い古されたモノではあるが、黄色を主にして描いた作品はどれだけあるだろうか。

虎の黄は色よりもやはり、虎そのものが主役になりかねない。
それほどに生物としての存在感が強い。

キリンも黄色い動物である。
ライオンさえ、時に蹴り殺される事さえあるほどでやはり "強者" の範疇に入る。
だがキリンを描いた名画とはお目にかかった事がない。

なぜだろう?
きっと構図のバランスが難しいからであろう。
それよりも、幻獣、霊獣として東アジアで描かれた "麒麟" の方が意匠として素晴らしい。



だが霊獣 "麒麟" は五色の体色を持つといわれ、必ずしも黄色は強調されない。


向日葵はどうだろうか。

この、常に太陽に向かって咲く花は明るくイキイキとしていて、やはり力強い。
だが画題として選べば、どうやったってゴッホの二番煎じにならざるを得ない。
なにもゴッホの "ヒマワリ" に挑戦してまでこの画題でもって黄色に取り組む事はあるまい。





黄色4

2014-07-18 07:34:03 | 
アマランスはなぜ青でなく赤だったのかー?

こう考えてみるだけで、近代人が色彩感覚までそれまでの前近代のモノと変質していった可能性を考えてみる必要が見えてくるが、それは単に交感神経と副交感神経の問題であるかもしれず、この疑問はただの思考の遊びに終わるかもしれないが、今回のテーマはほぼ思考上の "踏み込み" までいかない、遊びに近い内容なのでそれもまた可として続ける。

例えばルノワールは語っている。

" ー 私は赤を響かせたい!
うまくいかないのなら、効果の出るまで赤を足し、他の色を補う… "



この言葉にはルノワールが対象と、あるいは "赤" そのものと、完全に溶け合いたいという表現者としての純粋極まりない叫びが良く現れている。

彼は近代人であるが、その枠にとどまらない真の芸術家の一人といえよう。


世に表現者と呼ばれる人は腐るほどいるが、そのほとんどはルノワールの様に表現したい内容を持たない者がほとんどである。

( 彼らはルノワールの言葉に当てはめるとすれば、私は売れたい!目立ちたい!という程度であり、全存在を懸けて表現したい内容など持っていない。
そういう者の作品は絵であれ、音楽であれ、演技やお笑いであってさえ、その中身の薄さはその表現にそのまま表れる。…これは余談。)




さて ー 青い空気感を纏って過ごした日々を少し変えたい、なんとなくそう思ったとき、自然とある色が浮かんだ。

ー 黄色である。


Yellow Diamond。美し過ぎる。

ある色を見つめておいて、真っ白な背景に目を移すと何もないはずなのに違う色が浮かび上がる。

これを補色の原理というが、青の補色は黄色である。
(正確には光の補色が青と黄。色の補色は青とオレンジとなる。)

なぜ補色などという生理現象が起こるのかはよくわからないが、血圧が常に高低の調整をはかる機能がある様に、そこには生命の持つバランス感覚が認められる。

色一つとっても、深く思考を踏み込ませていけば、命の持つ果てしない世界が姿を現しはじめる ー 。

その、黄色について少し触れてみようというのが今回のテーマなのだが、ついついこの "青" という好きな色について深入りし過ぎて、そこからさらに派生して "赤" についてや、色彩論だったり芸術論に飛びかけてしまったのでここから修正。



黄色3

2014-07-17 06:05:30 | 
アマランサスという花はこの、空想上の "常世の花" から名前をとっているものだが、ふと疑問に思う事は近代人が空想を描き、"非所有" への憧れを託した象徴に "青" を選択した事に対して、古代人はなぜ "赤" だったのか?

アマランサス。

これは単に未開人や子供ほど赤などの原色を好むとかいった統計と同質だとみるのは、やや思考として雑な気がする。

近代とそれ以前では明らかな表現世界における隔絶がある。

それはなにか?

絵画における写実性で考えるとわかりやすい。
写実以前の世界の、一見して子供の様な絵を、技術の稚拙によるものだと思い込んでいるうちは現代芸術はけして力強い作品を生み出せないだろう。



中世の富士山図。

横山大観 富士山図。


上のモノは写実性など皆無である。この写実性という意味で言えば、例えば同じ富士山の表現でいうと、北斎も大観も、富岡鉄斎でさえも近代人であることから抜け出し得てはいない。

北斎は構図の名人。大観は技巧の達人。鉄斎は儒者として境地の到達地点が高い。しかし富士山図に限ってはいずれも対象との完全な一体化はみられない。

葛飾北斎 凱風快晴。

富岡鉄斎 富士山図。



音楽においても、例えばクラシック音楽という同ジャンル内においてさえ、19世紀の後半くらいから明らかに、この写実的な構成になってくる。

ここで言う写実性とは何か?

それは対象と溶け込めきれない、理性が隠しきれない状態である。

例えばマーラーやリストの音にはバッハやモーツァルトの様に、音そのものに溶け込んでいく様な忘我性はない。
常に対象と対立した理性がつきまとう。

芸術において、これが目につくうちは邪魔くさく感じるだけである。少なくとも私はそう思う。
(マーラーの「復活」などは好きだし、リストにも名曲は多いが。)

黄色2

2014-07-16 05:04:20 | 
地球上で青といえばまず海と空であろう。
我々生物が (どうやら) 海から派生してきた事を考えるとすると、青が鎮静へと向かわせる性質を持つ理由は光の波長による刺激などよりも、もっと生命としての "記憶" とかいった問題になるのかもしれない。




しかし海の青は、水が青い光の波長を吸収しにくく、他の色より反射し易いという理由によるものである。

そして空もまた空気中の粒子の分散の度合いが、青い波長を反射しやすいバランスになっているというだけで空そのものが青いわけではない。

要するに安定した固有色を持たず、条件次第でいくらでも変化してしまうのが我々が普段よく目にする "青" であり、物質において色素として安定して存在するモノとなると少ない色である。

そのためかどうか、人間の視覚自体が "青" に対しては他の色の様に "知覚" する事が難しく、"感覚" に留まるのだともいわれる。

ごく日常的な色でありながら、非現実的で抽象的な色、というのが "青" の実態であるが、それ故に人間の創造力を刺激し、自己の内面に向かわせる力も持っている。

( 実際青い色は交感神経を刺激し、血圧や脈拍を下げる効果が認められている。「静」の字を青を入れて作った漢字の製作者の洞察力はやはり尋常ではない。)


ー この様に青は色としては一種の勢力として認められるものの、消極的な位置にある。
それは穏やかにであるが、赤の方へと向かうという。




青から赤へ。

"赤" といえば、古代人が永遠に枯れない花として創造した "アマランス" ー 常世の花 が思いうかぶ…。