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思考の踏み込み

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ブッダ10

2014-05-17 00:55:41 | 
なぜそんな単純な原因で苦しむのか?

分からないからである。
知らないし、気づかないのである。

MRIでどんなに精密で最新の検査を受けても、性の力や鳩尾の強張りなどは見えてこない。



なぜなら数値化できるものではないから。

だが、感覚を磨く訓練をした専門家ならば触れなくとも分かることである。

先途した身体のアンバランスの特徴くらいなら素人でも判断できるが、人体はもっと奥深く、微細な変化を絶えず起こしている。

ー そうした研究をしている人がいる。

その人こそ、ブッダの居た場所への地図を我々に伝えてくれる可能性を持っている人である。

本ブログにもわずかにではあるが、何度か登場して頂いた 「D先生」のことだ。


ー なぜ、本名を明かさないかは、後で触れる。別に明かしても構わないがそんなことは大した問題でない。

だが間違いなく言えることは、D先生の行っている作業は、今地球上で一番アカデミックな内容を有していて、真の意味で科学的であり (蟲師続章4を読んで頂ければこの意味が分かると思う。) 、何よりも深淵で面白い。

そしてそれは現代日本人が忘れ果てた日本の古く、永い伝統文化と繋がっていて ー 我々日本人が本当の意味で日本人であるための方法論で貫かれてい
る。



といってそれはよくある偏狭な国粋論でも観念的な精神主義でもない。
全て具体的な身体技法である。

その中にはブッダの行ったであろう修行と、それによる身体の変化について具体的に解き明かすことができる可能性が秘められている。

それは私の様な者が語れる内容では本来無いのだが、今回はそれを推して投稿することにした。

ある一人の、暗闇で彷徨う知人の為に。
その人が読むか読まないかも別にどちらでもいい。

だから今回のテーマは一人に理解して貰えればそれで良いし、理解されなくても構わない。
D先生の本名をことさらに明かさない一つの理由でもある。

だが、必ずしも個人に向けた内容にはしていないからご興味ある方は読み進めて頂ければ幸いである。


ブッダ9

2014-05-17 00:54:31 | 
例えば心に余裕が無い人間のみぞおちは固い。

みぞおちと眉間は繋がっていて、そういう者の眉間は険しい。
人相もやがて悪くなり、対人関係にも影響し、心に余裕が出来にくい状況がさらに広がる。



試しに眉間にシワをよせてみるといい。みぞおちが強張っていくのがわかる。
この状態が続けば、肩が内に巻き込んできて胸が縮み、呼吸器は萎縮して息は浅くなり怒りっぽくなったり、行動力がなくなり物事への意欲も失う。

背は猫背になり、頭は下を向くから自然と三白眼になってさらに人相を悪くする。

背中が曲がると恥骨が前に出る。
すると腰が抜ける。
"腰が抜ける" というのは心の状態の表現ではなくて実際の身体の状態を言ったものである。
(日本語にはこうした優れた観察眼をもとにした日常語がとても多い。)



腰は性の力と直接関係している。
人間の活動のエネルギーの大本は全て性エネルギーであり、どんなに高尚な理念で生きる者でも根元まで辿ると性エネルギーの変形である。

それ故に腰に力の無いものは生きる意欲さえ弱い。

老人が頑固になるのも強情になるのも腰が強張っていくからである。
老化とは年齢の事でなくて、性の衰えの事である。若くして老人の様な者のいかに多いことか。

簡単な事である。

一番始めの段階で、みぞおちをゆるめてあげることができれば、もっと人は苦しまなくていいことなどいくらでもある。

もちろん人生とはそんなに単純ではないし、人体ももっと複雑だが、実際は単純な原因で必要以上に苦しんでいることが実に多いのである。

ブッダ8

2014-05-17 00:53:32 | 
要するに "悟り" という言葉はまぎらわしい。

なぜならそこからは、何か隠された真理を見つけるとか、数式で解を導き出そうとする行為とかに似た意味が連想されるからで、つまり頭で理解できるものだという誤解を招きやすい。

その言葉の字面に引きづられてその道を目指す者たちは頭でっかちになる一方で、皮肉な事に迷いが増えるばかりになる。



ブッダの到達した場所はそんなものであろうはずがない。



ー "悟り" とは間違いなく身体的な変化の事である。

何も難しく考えることはない。

イライラし、呼吸が浅い者が何を考えてもくだらない思考しか浮かんでこない様なことなどは誰でも経験していることだ。

ちょっと美味しいモノを食べたり、好い事があったりするだけで、身体はゆるみ変化し、心に余裕が生まれる。

そうすると感覚の良いものはモノの見え方や感じ方さえ変わることに気付くはずだ。これは頭で考えてどうこうできるものではない。
全て感覚で知るとこである。

そうした事を "鍛錬" という次元で行うと人体は極限まで統合され統一される。

その極地まで辿り着いたのが "ブッダ" であると私は考えている。

もちろんブッダの到達した場所は険しすぎて、我々凡人にはやはりうかがい知ることさえ困難なモノではあるが、その凡人でさえ、呼吸を整え、身体の中心を出し、下肚に心を上手く鎮められた時 ー えも言われぬ心地よい快に満たされることができる。

それを維持し、さらに高めることができればおそらくその先には霊的な統合とかいった別次元の世界があると思われるが、ごく普通人である私にはその先の事などはわからないし、特に知る必要もないと思っている。

ここで踏み込んでいって、文字に表現しようという内容は ー その手前までの段階だが、それさえもこれまで言語化することが難しくて感覚的に伝えられてきたに過ぎない。

いずれにせよ、ブッダが苦行時代に身につけたヨガ的な呼吸法を基盤とした身体技法はブッダがブッダたりえるには必要な要素であったことは間違いがない。
ブッダが無益として切り捨てたのは、いたずらに苦しむだけの形式化した苦行のことであり有効な内容も当然その中に混交されていたとみなければならない。



ブッダが入滅してすでに二千年以上経った。
あまりにも永い時が過ぎはしたが、こうした分析はブッダの二千年後に産まれたある "人物" によってようやく可能になりはじめた。

ようやく我々はブッダが辿り着いた場所への地図の見方を理解し始めることができるかもしれない、というのが本テーマの核心である。
次からそれにふれていく。









ブッダ7

2014-05-16 01:13:43 | 
ブッダは "悟り" を開いたという。

果たして "悟り" とは何か ー ?



天上天下唯我独尊像。


「悟」という言葉の語源はサンスクリット語で बोधि bodhi(ボーディ) だと言われるが、そこから「悟」には直結しない。

サンスクリット語や古代インド世界の多様な言語は極めて複雑で、この「悟」の周辺のことばだけでも十種類以上もある。

本来、人がそこへ到達することさえ困難とされる状態を表すことばがこれほど豊富であるということは、やはりインド世界の深淵さを明示している。

これには優秀な漢字世界をもってしても対応に困惑した形跡がある。

vitarkaというサンスクリット語を「覚り」と訳した仏典の旧訳もあるし、仏教外のインド世界、ヒンドゥーのリグヴェーダ用語だと "ニルヴァーナ" こそが最高の到達点とされている。

これは「涅槃」と訳されて、日本ではシャカの入滅 ー つまり死の美称程度に思われている。

ともかくも様々な表現が、色々な漢字に音写されたり意訳されたりした。

そのまま音写して「菩提」。または中国語に存在した「覚悟」に当てたり、「証」や「証得」「証悟」。「道」の表現もみえるが、これなどは老子世界からの転用だろう。
翻訳者の苦しげな息づかいまで目に浮かびそうではないか。


大蔵経。



他にも「開眼」や「開悟」「成道」などもみえる。

これらが禅の興った中国唐の時代に「頓悟」や「漸悟」などの言葉の流行を背景に、宋の頃に禅と共に日本に伝わり、「悟」の字だけを取り出して "悟り" という意味に当てた様だ。

つまりブッダの到達した場所を表す言葉は中国における段階ですでに適訳が定まらなかった上に、日本に入ってからはさらに限定的な表現に収まり本質から遠ざかったというのが実態だろう。

それはブッダと同じ境地を目指した者たちをだいぶ困惑させたのではないかと思われる。



ブッダ6

2014-05-15 01:21:44 | 
しかし実際はもっとドロドロとしているものである。

ヒンドゥー教とイスラム教による弾圧の歴史によって仏教はインド世界から追い出されたというのが歴史的な実態であろう。



そこからはカーストの持つ負の要素が浮き彫りにされてくるし、王朝の度重なる交代劇などにも翻弄されて早々と仏教はインド世界でほぼ壊滅している。



ー しかしそんなことは些事である。

"些事" とはささいなこと、取るに足らないこと。

なぜなら人類全体の経た経験という意味において ー ブッダの到達した境地は極めて偉大な功績であって、その光彩はささいな俗事など消し去って余りあるものだからである。


そしてそのブッダが現れる背景にはやはり特殊なインド的世界が必要であったのである。
その功を考えれば仏教を弾圧したり、醜い宗教戦争の様な歴史がインド世界にあったとしても、それは些事だというのである。


(インド洋を観ていると、訳もなく飛び込んで自殺してしまうものがいるという。インド世界の特殊性は風土的な何らかの理由もあるとみなければならない。いずれにせよ人を精神性に向かわせる何かがあるようだ。そこから修行者たちを容認し、ブッダを生むに至る特殊な世界が出来上がってきたのではないかと思う。)

では、ブッダの偉大な到達によって我々が受けた恩恵とは具体的になんなのか?

ここからようやく今回の本題に入ることとなる。