読書と追憶

主に読んだ本の備忘録です。

異文化コミュニケーション

2007-10-21 12:31:06 | 日記
 「煉瓦を積む」で、コミュニケーションのあり方について考えされられるところがあって、思い出したことがあった。これまた少し古い話になるが、2,3年前のお盆に親戚が集まった際、夫の伯母にあたる人が、「今年の夏はほんとに大変だった。」と愚痴をこぼしていたことがあった。なんでも、ライオンズクラブの縁で海外から高校生のホームステイを受け入れることになったのだそうだ。
 
 伯母の家に来たのは台湾の女子高校生で、言葉は通じないが、漢字の筆談と片言の英語でなんとか意思の疎通はできる。伯母がお習字の練習をしていると、「私も」と筆を持ち、独特の流麗な書体で漢文を書くので驚いたが、なんでも5歳から書道をやっているとか。ただし困ったのは食事で、せっかく日本に来たのだからと毎夜のようにすきやき、しゃぶしゃぶ、海鮮生き造りと料理屋へ連れて行くのだが、どれも口に合わないようでほとんど食べない。こう食欲がなくては体が持たないのではないかと心配し、家でいろいろ作ってみるが、家庭料理も口に合わない。では、あなた作ってごらん、とご飯を作ってもらうと、持参してきたなんだか独特の香辛料をふんだんに使ってあって、今度はこちらの家族が食べれない。どうしたものかと頭を痛めたが、本人はいたってマイペースで、持参の「ふりかけ」をごはんに山盛りかけて、おかずにはあまり手を付けずに「おいしいおいしい」と機嫌よく食べる。
 「おいしいからおばあちゃんも食べて。」とたくさんくれたその「ふりかけ」は大袋に幾つも持参してきて、お土産にもしてくれたのだけど、やっぱり味が濃くて自分にはそんなには食べれない。「でんぶ」に似た味なのでタラのような魚が原料ではないかと思うがなにせ八角っぽい香辛料と甘辛い味付けの濃さが日本人向きではない。家族が持て余したので、それではと飼い犬「あふちゃん」のご飯にふりかけてやっていたら、犬も賢いから余りものの処理に使われていると感づいて不機嫌になり、ご飯ごとひっくり返すようになってしまって・・・。
 そこで、高校生になる伯母の孫が口を挟んだ。
 「犬?今犬の話をした?あれが賢いって、冗談じゃないよ。あれはすごいバカ!名前呼んでも来ないもん。お手だってお座りだってしない。名前を呼んでも知らん顔している犬っている?あれはぜってー犬じゃない。ひつじの血が混じってるんじゃない?顔の黒いやつ。」
 伯母は眉を顰め、「まあまあ、ひつじだなんてあんた、高校でちゃんと理科の勉強したのかって笑われますよ。あふちゃんはね、バカだから振り向かないんじゃありませんよ。ちゃんとわかっていてわざと振り向かないんです。その証拠に、あとでチラッとこっちを見て、ニッと笑いますからね。きっと賢いんです。」と弁護する。
 「あー、根性わるー!なにそれ?絶対あいつは犬じゃないぜ!」と孫は激昂する。あふちゃんはアフガン犬だ。アフガン犬はどうも難しい犬らしい。
 「ともかく、そんなこんなで持て余しちゃったからそのふりかけをあげようと思ってここに持ってきたの。」と伯母さんは大量のおみやげの中からごそごそとその袋を取り出した。昭和1桁生まれは「もったいない精神」が骨身にしみているのである。ほんとに業務用並の大袋でラベルには「風味絶佳 栄養満点」みたいな漢字の宣伝文句がずらずらと書き連ねてある。いかにも栄養満点そうなのでありがたくもらっておいた。
 
 「で、食事も困ったけどももっと困ったのはね、」と伯母さんの話はつづく。
 商売をやっているから日中は家族が出払って、その子と伯母さんの二人だけが取り残される。ライオンズクラブのイベントがある日にはいいけど、その他の日には時間のつぶしようがなくってね。片言の日本語と筆談じゃあ会話にも限りがあって、仕方なく、カルチャーセンターで教わっているちぎり絵だの木目込み人形だのをいっしょにやってみるんだけど、これがまあ不器用で、習字はあんなにうまいのになんで折り紙ひとつできないんだろう。幼稚園で折り紙やらないの?って聞くと、やったことも見たこともないって。そうそう、それでね、ちょうど8月6日に広島の平和記念式典をテレビでやっていて、それを見てたら「おばあちゃん、あれはなに?」って聞くの。千羽鶴をよ。「えっ、千羽鶴知らないの?8月6日の原爆記念日は?」「知らない」「学校で習わないの?」「うーん、見たことない」広島、長崎って世界的に有名だと思っていたんだけど、知らないのかねえ。
 「原爆投下については日本と外国とでは解釈が違うんですよ。特に日本の植民地だったアジアの国々では、原爆投下は日本の敗戦につながったということで、植民地支配から解放されるために必要であったのだという理解がされているようなんです。」と私が言うと、伯母は首をかしげて、「なんでだろうねえ、私にはよくわからないけども、学校で教えた方がいいと思うよ。」と頷く。よく伝わっていなかったようだ。「台湾はどうだか知りませんが、8月15日の終戦の日は日本からの植民地解放記念日としてお祝いをするところもあるようです。」「え、そう?まあまあ、そんなわけで私はあの子に折鶴の折り方を教えてやりましたよ。時間がかかったけど。」

 うーん、これは異文化コミュニケーションというのだろうか。結局、異文化理解は難しいということなのだ。で、当人たちはきっと誤解したままでコミュニケーションをしたと思いこんでいるだけなのだろうなあ。と考えながら思い出したのはうちの義母の家で広島平和式典のもようをニュースで見ていたときのことだ。義母が、「こんな式典は、日本じゃなくって原爆を落としたアメリカですればいいのに。『過ちは繰り返しません』って、その過ちを犯した国に言ってほしいもんだ。」と言う。たまたまその席にいた義母の叔父さんが「アメリカで原爆写真展をするのだって大変なのに、アメリカ人がそんなことをするはずがないだろう。」と答えると、義母はにっこり笑って「まあ、日本は南北に長いから、どこかに原爆が落ちても被害は一部ですむけども、アメリカは平べったいからね、みんな被災してしまうだろうよ。」と自信満々で言う。「おまえ、そりゃー、違うよ、面積が・・・」と言いかけた叔父さんも、この誤解をどう説明していいか、言葉に詰まってしまい、私も、何をどう言えばいいのやら、ともかく、戦後の義務教育はなんのかんの言いながらも質が高いんだなあということを、戦時中に勤労奉仕ばかりさせられていたのでまるで勉強していないという義母のこの誤解から実感したのであった。

 異文化コミュニケーションどころか、家族とコミュニケーションするのだって難しいのだ。飼い犬の気持ちもわかりはしない。人になにかを伝えるというのは、ほんとに難しいことだ。