昨日のつづきで今年1月某日。
アマゾンから届いた「雪沼とその周辺」。さっそく読んでみると、これは雪沼という架空の土地周辺に住む人たちが主人公の短編集らしかった。各短編は独立しているが、ちらりと他の短編の登場人物が触れられたりしていて、なんとはなしに繋がりを感じさせる。最初に読んだのはもちろん「送り火」であった。
やはり絹代さんは陽平さんと結婚していた。ずいぶんと年が離れているけども、似合いの夫婦に思える。そして一人息子の誕生。と思ったらこの子は事故でなくなってしまっている。「送り火」とはそういうことだったのか。なぜ、こんな世渡りが下手で無欲でやさしい二人が、ごくささやかな幸せを大切に生きているだけなのに、こんなに悲しい思いをしなくてはならないのか。取り返しのつかないことへの悲しみをしみじみと感じる。陽平さんは、もう老境といってもよい年だ。二人は十三回忌の法事の夜にたくさんのランプを庭に吊るす。
これは「あたり」です。この本は「あたり」でした。ベストセラーだろうが文学賞の受賞作だろうが、近頃はロクでもない本が多い中、「あたり」を探すのは一苦労で、年に3~4冊しかない。ほとんどは「まあまあ」「多少難あり」で、時たま「買って損した!金返せ」モノがあって、そういうのに当たった時には1週間くらいムカムカして、罵倒したくて別な意味でエネルギーがわいてくる。そんな中、堀江敏幸の小説は希少な「あたり」モンであったのでたいへん気分よく読めた。
「雪沼とその周辺」の中で私がもっとも気に入った短編は「レンガを積む」であった。
東京の大手レコード店で店長をやっていた蓮根さんは、母親の病気と仕事の行き詰まりから故郷にもどることにして、商店街のなかほどにあるレコード店を居抜きで買い取る。そこは三軒つづきの二階建て長屋の真ん中で履物店とお茶屋に挟まれている。うわっ、それって、うちの近所の寂れた商店街にありそう。このレトロな情緒たっぷりのレコード店で、開店準備のために家具調ステレオの置き場所をあれこれ考えているところだ。レンガは、スピーカーの音質をよくするために下に積むのだ。私はそういうのに疎いのだけど、スピーカーは置き方によって随分音が違うらしい。
この蓮根さんには一つの特技があって、お客の様子を見ただけでだいたいその人にぴったりのレコードを推測できる。その人の印象、天候や体調や気分に合いそうなその曲をさりげなく店内でかけるとお客の耳がぴくりと反応する。そんなわけで、東京のレコード店でアルバイトをしていたときから蓮根さんの売上は群を抜いていた。店長に抜擢されたのもそのおかげであるけども、やがてコンパクト・ディスクが流通するようになってから、お客の好みが読めなくなり、またあたらしい音楽の傾向にもついて行けなくなる。東京から田舎の商店街に引っ越すことにしたのはそのせいだ。
ああ、ここにも時代の変化についていけなくて、というよりも古きよきものを弊履のごとく捨て去ることが厭で、愛着を持ち、大切にしようとしている人がいる。この小説は全編そのような人たちの話だ。
ところで、蓮根さんがスピーカーの設置をやっと終えた店の前に、履物店の安西さんがのぞきに来る。
いやー、ぞくぞくしますね。演歌と浪曲しか聞かない中年男に「美しき水車小屋の娘」ですよ旦那。なんでわかるんでしょう。私も自分にぴったりの音楽を選んでもらいたい。ひどく心を打たれた乙女のような気持を味わいたい。こんなレコード店があったら週1で通いますとも、ええ。これってすごい才能じゃありませんか。それに、言葉を介さなくっても、むしろ言葉を介するよりもはるかに強力に、感動を伝えることのできるこんなコミュニケーションの仕方ってあるんですねえ。もう、うれしくなってしまった。
アマゾンから届いた「雪沼とその周辺」。さっそく読んでみると、これは雪沼という架空の土地周辺に住む人たちが主人公の短編集らしかった。各短編は独立しているが、ちらりと他の短編の登場人物が触れられたりしていて、なんとはなしに繋がりを感じさせる。最初に読んだのはもちろん「送り火」であった。
やはり絹代さんは陽平さんと結婚していた。ずいぶんと年が離れているけども、似合いの夫婦に思える。そして一人息子の誕生。と思ったらこの子は事故でなくなってしまっている。「送り火」とはそういうことだったのか。なぜ、こんな世渡りが下手で無欲でやさしい二人が、ごくささやかな幸せを大切に生きているだけなのに、こんなに悲しい思いをしなくてはならないのか。取り返しのつかないことへの悲しみをしみじみと感じる。陽平さんは、もう老境といってもよい年だ。二人は十三回忌の法事の夜にたくさんのランプを庭に吊るす。
これは「あたり」です。この本は「あたり」でした。ベストセラーだろうが文学賞の受賞作だろうが、近頃はロクでもない本が多い中、「あたり」を探すのは一苦労で、年に3~4冊しかない。ほとんどは「まあまあ」「多少難あり」で、時たま「買って損した!金返せ」モノがあって、そういうのに当たった時には1週間くらいムカムカして、罵倒したくて別な意味でエネルギーがわいてくる。そんな中、堀江敏幸の小説は希少な「あたり」モンであったのでたいへん気分よく読めた。
「雪沼とその周辺」の中で私がもっとも気に入った短編は「レンガを積む」であった。
東京の大手レコード店で店長をやっていた蓮根さんは、母親の病気と仕事の行き詰まりから故郷にもどることにして、商店街のなかほどにあるレコード店を居抜きで買い取る。そこは三軒つづきの二階建て長屋の真ん中で履物店とお茶屋に挟まれている。うわっ、それって、うちの近所の寂れた商店街にありそう。このレトロな情緒たっぷりのレコード店で、開店準備のために家具調ステレオの置き場所をあれこれ考えているところだ。レンガは、スピーカーの音質をよくするために下に積むのだ。私はそういうのに疎いのだけど、スピーカーは置き方によって随分音が違うらしい。
この蓮根さんには一つの特技があって、お客の様子を見ただけでだいたいその人にぴったりのレコードを推測できる。その人の印象、天候や体調や気分に合いそうなその曲をさりげなく店内でかけるとお客の耳がぴくりと反応する。そんなわけで、東京のレコード店でアルバイトをしていたときから蓮根さんの売上は群を抜いていた。店長に抜擢されたのもそのおかげであるけども、やがてコンパクト・ディスクが流通するようになってから、お客の好みが読めなくなり、またあたらしい音楽の傾向にもついて行けなくなる。東京から田舎の商店街に引っ越すことにしたのはそのせいだ。
ああ、ここにも時代の変化についていけなくて、というよりも古きよきものを弊履のごとく捨て去ることが厭で、愛着を持ち、大切にしようとしている人がいる。この小説は全編そのような人たちの話だ。
ところで、蓮根さんがスピーカーの設置をやっと終えた店の前に、履物店の安西さんがのぞきに来る。
不世出とうたわれたあの演歌の歌い手が大好きな安西さんは、なにかと言えばそれをかけてくれと言い、あとは浪曲一筋で通している。そうだ、こういうときこそ、ちがう種類の音楽に引き寄せてやりたい。自分の趣味とはかけ離れているのに、おや、と感じるような曲だ。なにがいいだろう?ふたたびちゅんちゅんと台から台へ飛び移る雀となった蓮根さんは、しばらく考えた末に、かかっていたシューマンの交響曲を止め、店の奥のレコード棚からフィッシャー=ディースカウの歌う「美しき水車小屋の娘」を取り出し、家具調ステレオのターンテーブルに載せて、重いノブ式のスイッチを三十三回転の目盛りのほうへがちゃりとひねった。トーンアームがあがり、レコードの縁にむかって移動すると、リード部分の沈黙の帯にゆっくり針が降りていく。伴奏の抜けがいい。案じていた低域もしゃきっとして、明るいバリトンが響く。十数秒後、そろそろかと視線を移すと、安西さんが口をすぼめた思案顔のまま、でもひどく心を打たれた乙女のように頬を赤らめて、レジの横に立てかけたジャケットのほうにちらりと目をやるのが見えた。
いやー、ぞくぞくしますね。演歌と浪曲しか聞かない中年男に「美しき水車小屋の娘」ですよ旦那。なんでわかるんでしょう。私も自分にぴったりの音楽を選んでもらいたい。ひどく心を打たれた乙女のような気持を味わいたい。こんなレコード店があったら週1で通いますとも、ええ。これってすごい才能じゃありませんか。それに、言葉を介さなくっても、むしろ言葉を介するよりもはるかに強力に、感動を伝えることのできるこんなコミュニケーションの仕方ってあるんですねえ。もう、うれしくなってしまった。