今日はちょっと長くなるけどご容赦なのだ
昭和を代表する役者、小沢昭一さんが亡くなられました
小沢昭一さんといえばTBSラジオの「小沢昭一的こころ」という番組なのだ
夕方、ごはんの仕度をしながらおかーちゃんが聞いてたラジオから流れる
ちゃーんちゃかちゃーかちゃっちゃ、ちゃーんちゃーんちゃーんという軽快なお囃子。
女子アナの
「講演、小沢昭一、筋書き、宮越太郎、お囃子、山本直純」というオープニング
そして、あのまったりとしたなんともいえないテンションの小沢節が始まります。
おかしくて、そしてまったりした雰囲気。
わしが聞いていたのは中学、高校にかけてか
中学入学早々わしは、いまで言うと「うつ病」みたいな感じでした
夢をもって入った中学。クラブ活動にも入ったけどなじめず、すぐ辞める。
勉強をしなくちゃいけない強迫観念。でもしたくない、あそびたい。
親の前ではよい顔をする。なんだかわからない。
帰宅しても、友達はクラブだしだれも遊んでくれない。
夕方流れるラジオから「愛のテーマ」が流れると
おれって、一体何をしてるのか?すごく不安な気持ちになってました。
いまでもこの曲を聴くと、心が不安になるんですよね・・
でも、しばらくすると流れてくる
ちゃーんちゃかちゃーかちゃっちゃ、ちゃーんちゃーんちゃーんという軽快なお囃子。
「小沢昭一的こころ」が始まると、なんだか心がやすらいだのです。
そして、ひとしきり小沢昭一節をきいて、笑って
漸くわしの長い1日は終わっていくのです。
ずいぶん助かったと思うぞ。。
そしてもうひとつ、小沢昭一さんと言えば
「ハーモニカブルース」
ハーモニカがほしかったんだよー♪
どーうしてかどうしてもほしかったんだー♪
ハーモニカがほしかったんだよー
でもハーモニカなんて売ってなかったんだ
戦争に負けたんだ
カボチャばかり食ってたんだ
(谷川俊太郎/ハーモニカブルース )
この歌を聴いたとき、なんだか心に響いたんだよなあ
戦争は駄目だって。
あと小沢さんの人柄をしめすエピソードには枚挙に暇が無い
評論家の石井さんというひとが寄せていた話
昭和40年代後半、住んでいた渋谷の家に伺ったとき、
「今ね、渋谷区で僕の家だけくみ取り式トイレなの。だから区はね、
僕の家の1件のためにバキュームカーを廃車できず、1台だけ残しているんだよ」と言って、
からからと笑った。転げそうにおかしかった。
道上洋三のおはパソで紹介されてた話
どこの温泉が、一番女湯が覗きやすいか?という話になり
小沢さんは、東北のある温泉を一番にあげてました。
小沢さんがその温泉につかり、女湯を覗いているとほんと良く見えたそう。
いっしょに入ってた人に、
「お兄さん、ここが良く見えるよ。こっちに来ナ」というと
「いや、わたしは・・」
「まあ、そう言わずに。男だろう」
「いや、わたしは・・」
「男らしくないねえ、こういうところは見たほうが良いんだよ!」
「いや、見えてるのは私の家内でして・・」
黒柳徹子さんは
小沢さんの「一人芝居の『唐来三和』に学習院大の生徒が見学に来て、
楽屋で手ぬぐいを渡しながら何気なく『おっかあによろしく』って言ったら、
その人は秋篠宮さま(当時は礼宮親王)だったんですって
おっかあってww
そして、朝刊紙のコラムに
小沢氏を惜しくコラムがありましたので、転載します。
日経春秋 2012/12/11付
昭和30年代あたりの日本映画を見ていると、小沢昭一さんがやたら出てくる。そば屋の出前持ち、盛り場のチンピラ、少年鑑別所の先生、正体不明の中国人バイヤー……などなど脇役が多いけれど、作品をぴりりと引き締めて存在感抜群で、あとあとまで忘れられない。
▼どんな演技にも漂う、おかしくて物悲しい空気に観客は沸いたはずだ。やがてラジオで「あしたはお父さんの小遣いについて考えるのココロだ~」と例の名調子の番組が始まって、小沢さんといえば昭和のおじさんの哀歓、ということになる。名前のとおりのその時代を生き、思いを語り、体現した人が83歳で亡くなった。
▼戦争中は軍国少年だったという。海軍兵学校予科に進むが半年ほどで敗戦となり、価値観の大転換を目の当たりにする。だから小沢さんの昭和物語はとてもノスタルジーばかりでは済まされず、苦く切なく恥も少なくない。バブル期にも世が平成に移っても、ハーモニカがほしかったんだよと歌い続けた焼け跡派である。
▼「戦争ってものは、なっちゃってからでは止められません。なりそうなときでも駄目。なりそうな気配が出そうなときに止めないと」。かつてお話をうかがったさいに、こう力をこめていたのを思い出す。最期までラジオ番組の収録にこだわっていたという小沢さんだ。言い残しておきたいことが、まだまだあっただろう。
天声人語
小沢昭一さんは、変哲(へんてつ)の俳号で句作をたしなんだ。
〈夕刊をかぶり小走り初時雨(しぐれ)〉。
その夕刊の、雨よけに使えば真っ先にぬれる1面に、83歳の訃報(ふほう)が出た。
怪しげな役で光る名優として、民衆芸能の語り部として、まさに変哲だらけの、
代えの利かない才人だった
▼〈竹とんぼ握りたるまま昼寝の子〉。永六輔さんや桂米朝さんらと楽しんだ作には、
たくまざるユーモアの中に、小さきもの、弱きものへの優しさがにじんでいる。
〈手のなかの散歩の土産てんとう虫〉
▼40代から集めた大道芸や露天商、見せ物小屋などの記録もまた、
消えゆくものへの惜別だろう。名も無い人々が放浪しながら、
食べていくための「地べたの芸」だ。担い手と共に絶える間際、
辛うじて映像や音声に拾われたものも多い
▼研究者としての業績に、朝日賞が贈られた。
2時間近い記念講演の終わり、都心の駅でハーモニカを吹く芸人を語ると自らも一曲。
取り締まりに気づいて逃げ出す演技で舞台袖へと消え、喝采を浴びた
▼TBSラジオ「小沢昭一の小沢昭一的こころ」は約40年、1万回を超えた。
3年前、「ぼちぼち」のしゃれでお墓を取り上げた回に、「千の風」になるのは嫌だと語っている
▼「ちっちゃい石ころ一つでもいいから、私の骨のある場所の目印、あってほしいな。
そこから私ね、この世の行く末をじっと見てるんだ」。目印は大きめでお願いします。
暖かくなったら、世相の笑い飛ばし方を教わりにお訪ねしたいのこころ、である。
余録:俳優の小沢昭一さんが子供のころ
毎日新聞 2012年12月11日 00時10分
俳優の小沢昭一(おざわ・しょういち)さんが子供のころに住んだ東京・蒲田(かまた)では週に3日は夜店が出た。
うち「千里眼」という露店では客の悩み事を書くと、あぶり出しで答えが出るという紙を売っていた。
ある客は「どうして女にもてないのか」と書いた
▲あぶり出すと「鏡を見ろ」と出る。感心した小沢少年は紙を買ったが、
問いと関係ない答えしか出ない。もてない客と露店主とが連れ立って歩くのを見たのは後のことだ。
当時の家には三河万歳(みかわまんざい)など門付(かどづ)け芸人がよく来た
▲小沢さんが日本各地の消え行く大道(だいどう)芸や門付け芸を記録して歩いたのは、
芸能の原点を求めてのことといわれる。
「それは半分うそ。子供のころにオモシロカッタことに、もういっぺん再会したかったから。
僕の道楽の最たるものだった」(「道楽三昧(ざんまい)」岩波新書)
▲農民が畑を耕すように、舌を振るって日々の糧を得ることを「舌耕(ぜっこう)」という。
そんな人々の芸を記録した小沢さんは、井上ひさし原作の一人芝居「唐来参和(とうらいさんな)」の660回の公演を成し遂げた。
こちらの舌耕芸は落語家の立川志の輔(たてかわしのすけ)さんによって志ん生(しんしょう)にたとえられる
▲舌でリスナーの耳を耕し、時にニヤリと頬をゆるませ、時に抱腹絶倒(ほうふくぜっとう)を呼び起こす。そんな語りが1万回を超えたのがラジオ番組の「小沢昭一的こころ」である。
どうでもいいことにへそ曲がり的情熱を注ぎ、しみじみと人生の哀感(あいかん)を楽しんでしまう
「こころ」だった
▲俳号は変哲(へんてつ)、かつて戯れに詠んだ辞世(じせい)句に「志ん生に会えると春の黄泉(よみ)の道」がある。冬の旅立ちは俳人として不本意だったろうが、天国では怪しげな物売りから落語の名人まで、舌耕芸の先人が待つ。
「明日は○○についてのこころなのだ!」で締めくくるのは
わしの不肖ブログでも使わせてもらってるのだ。
これからもずーっと使わしてもらうの心なのだ。
合掌
![]() | 小沢昭一の小沢昭一的こころ大全集 |
クリエーター情報なし | |
Geneon =music= |