「心」を科学する
心の深層部分で乳胎児期の母との受け身の接し方に、あるいは無意識の内に獲得したその仕方に、人間の社会の歴史、共同体の歴史との著しい関連付けをしている。すなわち社会的な行動や生活の挫折と、母と乳胎児との接し方の挫折は同一視され、共同体の社会的段階と病像とを不可分な関係として捉えられる。
それは西欧文化の展開の根拠でもあり、さらにさかのぼり、氏族共同体の内婚の禁止の時期のことも取り上げる。内婚制は原始共同体と古代的共同体との中間期の段階で、当時は族外婚は禁止されていたが、それを誤魔化すために妊娠した女性の相手は神様だったという神様神話が古事記には書かれている。このような族外婚が氏族内で半分以上になると内婚制は崩壊し、氏族内婚から族外婚制へと移行していく。ここでは近親婚は半分くらいしか禁制が通用せず、近親の親と子や兄弟姉妹との関係はタブーではなかった。この時代の男女には、まさに近親相姦的傾向があり、乳児期の母との接触にトラブル、すなわち受け身である時期に時代的な障害を受けることで、同性愛的な傾向としてのパラノイアにかかった近親婚があったと考えられている。
こうした、時代情況下での影響は西欧文化がキリスト教の影響から乳児期に儀式行為と称し、乳児の身体に特別な傷を負わせてきたこととも共通して取り出せる。この習俗が、もっとも重要な大洋期における心的加害行為であり、これが起因となって内向的個人主義あるいは全体主義、思索的文化といった固有の世界を生み出していると吉本は指摘している。
まさに、男女の性愛の行動と社会構造との関わり合いの過程で、無意識のうちに心的世界に入ってしまう時代病といえる。
さらに、その脱出法のひとつとしてとして乳胎児期に母との接触の仕方で起きてしまう病像を、過去に追いやってしまえば、つまりそのような社会システムができあがれば、すくなくとも方法論としては解決する。
そのひとつには、人工授精と人工出産すなわち母体内で受胎するということから、人工的な環境での受精と生長、さらに一連の育児を社会システムで行うと、母からの受け身のダイレクトな影響は受けることなく育つことになる。あくまでも未来映画のような論理的方法論としての想定で、あるヒントを暗示しているように思われる。
乳胎児期の母との接し方が最重要ではあるが、西欧全文化の根源というには、一部飛躍がありはしないか。日本人の子育て法を他方の極に置くとはいえ、過去の戦時には日本人とて満州・朝鮮半島などで残虐な行為をしてきている。戦争の悲惨さは、いかに大洋期が良い環境であったとしても、国家という共同体が個人に逆立して強制すると同時に、個人の内部に残虐さが内在し、殺戮に走れるというテーマを突き詰める必要があると考えられる。
そもそも「大洋」とは、母と乳胎児との 関係から発生した心と感覚の錯合した前意味的な芽生えをもった世界である。発語でいえば前言語的な固有言語世界で、喃語(あわわ言葉)や幼児言語の世界に対応し、「母音は言語的な皮質の優位で感受され、また「母」の像の根源にはあらゆる自然現象を擬人化し、命名せずにはおられない発生機の習俗がかかわってくる」とみなされている。まさに古代人類の黎明の意識と、自然との関わりに対応している。
フロイトが捉えた神経症やパラノイアは「大洋」期に言語をどう獲得していくかと深く関わっていて、この前言語的世界だけが宿命的な強迫神経症を解く鍵と考えられている。
ところで私たちがいう心とは何かを突き止めようとすると、人間の生い立ちである生命史をたどり直す必要がある。
人の体の植物から動物への進化とは、植物の茎に体壁系(感覚器官系)をかぶせたものにあたっている。
逆にいえば、動物の体から腸管を一本引き抜いて、それをちょうど袖まくりするように裏返しにひっくり返したものに他ならない。
植物系の茎の維管束は、動物の血管系で、葉の表面は、動物の腸管と肝臓、肺胞の内側に当たる。植物は大地と天空というふたつの自然に体自体を開いてつながっている。そこでは大陽はまるで心臓が血液を押し流すように、光を押し出し、光合成という代謝活動を行っている。
一方、動物は体腔と腸腔を入江に、肝臓と腎臓という入口と出口で外界を遮断し、体壁系で自然との直接のつながり避けている。内臓系は遠方の外界と共振する「植物器官」で中心は心臓、体壁系は近接する外界の自然と反応する「動物器官」で中心は頭脳ということになる。
また内臓系は腸管系・血管系・腎管系の三つに分かれ、吸収・循環・排出を行う。血管系は体壁系の神経に当たっている。それに対し体壁系は外皮系・神経系・筋肉系の器官に別れ、外皮系は皮膚の触覚が進化して、目・耳・鼻などの感覚器官が開き、神経系は発達して脊髄になっおり、そのは発達したものが脳、また筋肉系は脊髄の両側にでき、広がって内臓をすべて包んでいる。
この内臓系の動きつまり植物系の器官を基にする心と、体壁系つまり神経や筋肉などの動物系の感覚器官を基にする心の動きのふたつがあるとしている。これらふたつが表出されたものが人間の心だということになる。
言語は動物的な反射が意識のさわりを含むようになり、それが次第に発達して自己表出としての指示性をもつようになったときに、人間に言語を使う条件が整ったこと、またそのさわりのようなものを感じて、その現実的反射が自己表出されたとき、言語が人間のために存在し、他者のためにも存在する言語の指示性を獲得したことになると論じていた。
内臓の動きが心を表すのを「自己表出」、感覚器官が反映して動く心を「指示表出」と対応させることになった。
心の深層部分で乳胎児期の母との受け身の接し方に、あるいは無意識の内に獲得したその仕方に、人間の社会の歴史、共同体の歴史との著しい関連付けをしている。すなわち社会的な行動や生活の挫折と、母と乳胎児との接し方の挫折は同一視され、共同体の社会的段階と病像とを不可分な関係として捉えられる。
それは西欧文化の展開の根拠でもあり、さらにさかのぼり、氏族共同体の内婚の禁止の時期のことも取り上げる。内婚制は原始共同体と古代的共同体との中間期の段階で、当時は族外婚は禁止されていたが、それを誤魔化すために妊娠した女性の相手は神様だったという神様神話が古事記には書かれている。このような族外婚が氏族内で半分以上になると内婚制は崩壊し、氏族内婚から族外婚制へと移行していく。ここでは近親婚は半分くらいしか禁制が通用せず、近親の親と子や兄弟姉妹との関係はタブーではなかった。この時代の男女には、まさに近親相姦的傾向があり、乳児期の母との接触にトラブル、すなわち受け身である時期に時代的な障害を受けることで、同性愛的な傾向としてのパラノイアにかかった近親婚があったと考えられている。
こうした、時代情況下での影響は西欧文化がキリスト教の影響から乳児期に儀式行為と称し、乳児の身体に特別な傷を負わせてきたこととも共通して取り出せる。この習俗が、もっとも重要な大洋期における心的加害行為であり、これが起因となって内向的個人主義あるいは全体主義、思索的文化といった固有の世界を生み出していると吉本は指摘している。
まさに、男女の性愛の行動と社会構造との関わり合いの過程で、無意識のうちに心的世界に入ってしまう時代病といえる。
さらに、その脱出法のひとつとしてとして乳胎児期に母との接触の仕方で起きてしまう病像を、過去に追いやってしまえば、つまりそのような社会システムができあがれば、すくなくとも方法論としては解決する。
そのひとつには、人工授精と人工出産すなわち母体内で受胎するということから、人工的な環境での受精と生長、さらに一連の育児を社会システムで行うと、母からの受け身のダイレクトな影響は受けることなく育つことになる。あくまでも未来映画のような論理的方法論としての想定で、あるヒントを暗示しているように思われる。
乳胎児期の母との接し方が最重要ではあるが、西欧全文化の根源というには、一部飛躍がありはしないか。日本人の子育て法を他方の極に置くとはいえ、過去の戦時には日本人とて満州・朝鮮半島などで残虐な行為をしてきている。戦争の悲惨さは、いかに大洋期が良い環境であったとしても、国家という共同体が個人に逆立して強制すると同時に、個人の内部に残虐さが内在し、殺戮に走れるというテーマを突き詰める必要があると考えられる。
そもそも「大洋」とは、母と乳胎児との 関係から発生した心と感覚の錯合した前意味的な芽生えをもった世界である。発語でいえば前言語的な固有言語世界で、喃語(あわわ言葉)や幼児言語の世界に対応し、「母音は言語的な皮質の優位で感受され、また「母」の像の根源にはあらゆる自然現象を擬人化し、命名せずにはおられない発生機の習俗がかかわってくる」とみなされている。まさに古代人類の黎明の意識と、自然との関わりに対応している。
フロイトが捉えた神経症やパラノイアは「大洋」期に言語をどう獲得していくかと深く関わっていて、この前言語的世界だけが宿命的な強迫神経症を解く鍵と考えられている。
ところで私たちがいう心とは何かを突き止めようとすると、人間の生い立ちである生命史をたどり直す必要がある。
人の体の植物から動物への進化とは、植物の茎に体壁系(感覚器官系)をかぶせたものにあたっている。
逆にいえば、動物の体から腸管を一本引き抜いて、それをちょうど袖まくりするように裏返しにひっくり返したものに他ならない。
植物系の茎の維管束は、動物の血管系で、葉の表面は、動物の腸管と肝臓、肺胞の内側に当たる。植物は大地と天空というふたつの自然に体自体を開いてつながっている。そこでは大陽はまるで心臓が血液を押し流すように、光を押し出し、光合成という代謝活動を行っている。
一方、動物は体腔と腸腔を入江に、肝臓と腎臓という入口と出口で外界を遮断し、体壁系で自然との直接のつながり避けている。内臓系は遠方の外界と共振する「植物器官」で中心は心臓、体壁系は近接する外界の自然と反応する「動物器官」で中心は頭脳ということになる。
また内臓系は腸管系・血管系・腎管系の三つに分かれ、吸収・循環・排出を行う。血管系は体壁系の神経に当たっている。それに対し体壁系は外皮系・神経系・筋肉系の器官に別れ、外皮系は皮膚の触覚が進化して、目・耳・鼻などの感覚器官が開き、神経系は発達して脊髄になっおり、そのは発達したものが脳、また筋肉系は脊髄の両側にでき、広がって内臓をすべて包んでいる。
この内臓系の動きつまり植物系の器官を基にする心と、体壁系つまり神経や筋肉などの動物系の感覚器官を基にする心の動きのふたつがあるとしている。これらふたつが表出されたものが人間の心だということになる。
言語は動物的な反射が意識のさわりを含むようになり、それが次第に発達して自己表出としての指示性をもつようになったときに、人間に言語を使う条件が整ったこと、またそのさわりのようなものを感じて、その現実的反射が自己表出されたとき、言語が人間のために存在し、他者のためにも存在する言語の指示性を獲得したことになると論じていた。
内臓の動きが心を表すのを「自己表出」、感覚器官が反映して動く心を「指示表出」と対応させることになった。
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