自己抹殺の筋道とは
完全に執着から抜け出るためには、不幸を体験するだけでは足りない。そのためには慰安のない不幸が必要だ。言葉に表せる一切の慰安は存在してはならない。なまじ慰安を求めれば不幸は解消されてしまう。それには自己内部から、一切の現世的な執着を引き起こすものを排除する。空間と時間の中で占めている一点を凝視し、無に帰すること。これは宗教へと接続したが、特異な信仰であり、独自の神学となっていく。自分を泥と化し、抹殺していこうとする無への強い意志は、思想あるいは宗教のマゾヒズムの極北であり、善存在否定の倫理ともいえる。これは病理から病理へと抜け出すことのできない迷宮を自分に設定するものであり、唯一最後の出口は自身の遺体に信仰を住まわせる死しかなかった。これが、最後にたどり着いた痛ましい「シモーヌ・ベイユ」の思想だった。
完全に執着から抜け出るためには、不幸を体験するだけでは足りない。そのためには慰安のない不幸が必要だ。言葉に表せる一切の慰安は存在してはならない。なまじ慰安を求めれば不幸は解消されてしまう。それには自己内部から、一切の現世的な執着を引き起こすものを排除する。空間と時間の中で占めている一点を凝視し、無に帰すること。これは宗教へと接続したが、特異な信仰であり、独自の神学となっていく。自分を泥と化し、抹殺していこうとする無への強い意志は、思想あるいは宗教のマゾヒズムの極北であり、善存在否定の倫理ともいえる。これは病理から病理へと抜け出すことのできない迷宮を自分に設定するものであり、唯一最後の出口は自身の遺体に信仰を住まわせる死しかなかった。これが、最後にたどり着いた痛ましい「シモーヌ・ベイユ」の思想だった。
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