電脳くおりあ

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ユリウス・カエサルの初等教育時代

2004-09-01 09:05:16 | 子ども・教育
 塩野七生さんの『ローマ人の物語』の文庫版の8・9・10巻が出た。「ユリウス・カエサル ルビコン以前」が、上・中・下の三巻本になっている。私は、塩野七生さんの『ローマ人の物語』は、1巻だけ単行本で買った。その後、しばらくご無沙汰していて、文庫版が出てから、順次買って読んでいる。活字が大きく、持ちやすく、読みやすい。だから、エドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』とは、また違ったローマ史として楽しく読んでいる。

……アレクサンダー大王やスキピオ・アフリカヌスやポンペイウスのような早熟の天才タイプでなくても、男ならせめて、三十歳になれば起ってくれないと困る。それなのにカエサルが「起つ」のは四十歳になってからだから、伝記を書く者にとってはこれほど困る存在もない。
 それも、「起った」とたんにローマ世界は彼を中心にしてまわりはじめるという珍しいタイプの男でもあったから、困るのは二重になる。(新潮文庫/8/P141)


 それ故、近現代のローマ史は、四十歳以前のカエサルにはほとんど触れないということになっているらしい。その代わり、カエサルの起つ以前のローマ史を伝記の三分の一ほどを使って書くことになるという。塩野七海さんは、『ローマ人の物語』なので、カエサルの四十歳以前も書かなければならない。というわけで、彼女は、カエサルの初等教育時代のスケッチもしている。

……古代ローマでも子弟の教育は六、七歳からはじまった。公立の学校というものはなく、一般の家庭でも子供たちは私塾に通う。両親が教育を施せるだけの知的水準にあれば、親のいずれかが家庭内で教師役を務めることも珍しくない。十一歳頃までつづく初等教育が、言ってみれば読み、書き、そろばんであったのだから、初期の手ほどきならば親で十分に間に合ったのである。(同上/P42)

 「そろばん」とあるが、本にはちゃんと「携帯用の銅製のローマ時代の”そろばん”」の写真が載っている。本当に彼らは「そろばん」をやっていたのだ。基本的に、今の日本の「そろばん」と形は似ている。「そろばん」というのは、中国が起源かと思ったら、そうではなく、古代のメソポタミアに起源を持ち、ギリシャ・ローマ時代に基本形ができたものだそうだ。そして、それが中国経由で日本にやってくる。室町時代のことだ。この辺は、「播州そろばんの歴史」に教えてもらった。

……初期の手ほどきも終わる八、九歳の頃からは、ローマの両家ならば以後の子弟の教育を、家庭教師に託すのも習慣になっていた。(中略)
 それで、少年カエサルの家庭教師になったのは、エジプトのアレキサンドリアで学業を修めたというガリア人だった。自らもギリシア語も解することでこのような場合の選択眼もあったに違いない、母アウレリアの実質主義の結果であったろう。というわけで少年カエサルは、母国語であるラテン語を完璧にすることも、当時の国際語であったギリシア語の母国語並みの習得も、ガリア人から学んだのであった。(同上/P43・44)

 名門で経済力のある家庭の場合は、乳母からギリシア人、その後もずっとアテネで学んだギリシア人というのが理想であったようだが、名門ではあったが、経済力のないカエサル家では、ガリア人で満足しなければならなかったらしい。

……初等教育の後期から高等教育の初期、年齢でいえば八,九歳から十六歳までの間に学ぶのは、課目別に分ければ次のようになる。
 ラテン語とギリシア語。
 言語を効果的に使うことで適切に表現する技能を学ぶ、修辞学(レトリック)。
 論理的に表現する能力を会得するための、弁証学。
 それに、数学と幾何学と歴史と地理。
 ここまでの七学課が、「アルテス・リベラーレス」、直訳すれば「自由学課」、意訳すれば、1人前の人間に必要な「教養学課」になる。現代でもイタリア語の「アルテ・リベラーレ」、英語の「リベラル・アーツ」として残っている。(同上/P44・45)

 この七学課を、1人の教師が教えることになる。ローマの授業は、先人の書き残した文章を読むことから始まる。「つまり、"教材"は先人の書き遺した文章であり、生徒たちが使う"ノート"は、蝋を流した木版で、これに鉄か象牙のペンで書いていく」のだそうだ。いわば、総合学習的に教えることができるので、1人の教師の方がいいという利点があった。しかし、そのためには教師の質が問われることになり、ローマでは家庭教師の地位は高く、報酬も高かったらしい。

……家庭教師についてであれ私塾に通ってであれ、これらの教養学課の勉学は午前中に限られていた。午後は、体育の時間だ。その時間は家庭教師から解放され、ローマではあちこちにあった、チルクスとかスタディウムとか呼ばれる公営の競技場付属の体育施設に、肉体を鍛えに行くのである。(同上/P47)

 私には、午前中に寺子屋に通い、午後同上に剣術を習いに行く、江戸時代の武士の子供姿が思い浮かんでくる。教育のパターンがよく似ている。

……少年のカエサルがとくに得意としたのは、馬を御すことであったという。首のうしろに両手をまわした姿で、しかもあぶみのない時代、勢いよく馬を乗りまわすのは、馬という動物を熟知してこそできることである。この才能は、後の彼に生涯の決戦での勝利を恵むことになる。それにしても、手綱もなしで馬を乗りまわして得意がる少年は、母親にしてみれば心臓もとまる存在であったろう。(同上/P49)

 ここまで、読むことによって、私たちは、カエサルの少年時代の教育や学習の仕方が大体わかるような気がする。それは、ローマの歴史が作り出した、教育の基本だったということもできる。私は、カエサルの時代の教育と現代の教育と比べて、基礎基本のところがそんなに変わっていないことに驚く。斎藤孝さんの教育論など、ある意味では、カエサルのやったようなことかもしれないのだ。

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