前回の流れで、「私が立つから、相手が立つ」のです。
また逆に“私(思考)がいなかったら相手もいない”と
いうことですね。
心がざわつくときは、私(自我)が相手と睨みあってる状態
です。
そして相撲を取り始めたら、もう回りは見えなくなり
勝つことに必死になるのです。(笑)
しかし相手に勝っても負けても、一喜一憂となり
“スッキリ”とはならないのです。
ですから、それは因縁として残り奥に閉じ込められて
しまうのです。
それが、事あるごとに蒸し返される「思い込み」という
厄介なものですね。
これらをすべてやっているのが、自分としている私(自我)
です。
唯一“今の、真の自分”には、これらは“何も無い”ので
お気楽状態とも言えるのです。
頭の中に閉じ込めている、様々な不純物が無いから
“空っぽ”とも言えるのです。
また、生きて行く上で大切な純真さはそのままですから、
困る事など“何も無い”のです。
それが、その通りとなれば“絶対安心”と成り、
生きるも死ぬも無く、自然にお任せになるのですね。
そこに永遠に落ち着くため、弛まぬ“只なる実践”の
持続です。
また逆に“私(思考)がいなかったら相手もいない”と
いうことですね。
心がざわつくときは、私(自我)が相手と睨みあってる状態
です。
そして相撲を取り始めたら、もう回りは見えなくなり
勝つことに必死になるのです。(笑)
しかし相手に勝っても負けても、一喜一憂となり
“スッキリ”とはならないのです。
ですから、それは因縁として残り奥に閉じ込められて
しまうのです。
それが、事あるごとに蒸し返される「思い込み」という
厄介なものですね。
これらをすべてやっているのが、自分としている私(自我)
です。
唯一“今の、真の自分”には、これらは“何も無い”ので
お気楽状態とも言えるのです。
頭の中に閉じ込めている、様々な不純物が無いから
“空っぽ”とも言えるのです。
また、生きて行く上で大切な純真さはそのままですから、
困る事など“何も無い”のです。
それが、その通りとなれば“絶対安心”と成り、
生きるも死ぬも無く、自然にお任せになるのですね。
そこに永遠に落ち着くため、弛まぬ“只なる実践”の
持続です。