この世に相手がいる訳が無いのですね。
相手がいなければ、自分も当然いないということです。
しかも誰もいないのです。
「お前、無茶苦茶言うな!」と「思考自我」は怒りだす
でしょうけれども、そうだから仕方ありませんね。(笑)
繰り返し述べていますが、この幻想世界にはすべて
ありますから腑に落ちないのです。
またこの事実の世界には“それはそれ、これはこれ”しか
ありませんので、「思考自我」にはわからないのです。
そして、大宇宙というひとつが“真の自分”とでも
言えるのですが、ここまでくると私(思考)は完全否定します。
ですが、私(思考)がいなければ“教え”が訪れてきて、
そのものになってくるのです。
これはすでにおわかりのとおり、頭の中に私(自我)が在るか
無いかの違いだけです。
この違いが天と地の差となり、「苦の世界」か永遠の
穏やかな安らぎの世界となるかですね。
でも、私(自我)は強大なエネルギーですので、おいそれと
いなくなることはありません。(笑)
“只なる実践”の持続は、私(自我)を無くす訳では
ありませんが、自分としている強大なエネルギーを
約10/1になるよう極小にして、“お気楽な人生”で
過ごそうとしているのです。
つまり、人間特有の「我・執着」を極小にするのが
“只なる実践”です。
相手がいなければ、自分も当然いないということです。
しかも誰もいないのです。
「お前、無茶苦茶言うな!」と「思考自我」は怒りだす
でしょうけれども、そうだから仕方ありませんね。(笑)
繰り返し述べていますが、この幻想世界にはすべて
ありますから腑に落ちないのです。
またこの事実の世界には“それはそれ、これはこれ”しか
ありませんので、「思考自我」にはわからないのです。
そして、大宇宙というひとつが“真の自分”とでも
言えるのですが、ここまでくると私(思考)は完全否定します。
ですが、私(思考)がいなければ“教え”が訪れてきて、
そのものになってくるのです。
これはすでにおわかりのとおり、頭の中に私(自我)が在るか
無いかの違いだけです。
この違いが天と地の差となり、「苦の世界」か永遠の
穏やかな安らぎの世界となるかですね。
でも、私(自我)は強大なエネルギーですので、おいそれと
いなくなることはありません。(笑)
“只なる実践”の持続は、私(自我)を無くす訳では
ありませんが、自分としている強大なエネルギーを
約10/1になるよう極小にして、“お気楽な人生”で
過ごそうとしているのです。
つまり、人間特有の「我・執着」を極小にするのが
“只なる実践”です。