この“真実世界”は、すべて在って“何も無い”のです。
またこの幻想世界は、すべて在る「思考世界」です。
ですから“真実世界”は思い考えてもさっぱり
わからない世界なんです。
思い考えてもさっぱりわからないなら、思考を使わなければ
穏やかな安らぎの境地であるとわかるのです。
つまり、この“真実世界”とは思考の無い世界であると
言えるのです。
またこの幻想世界とは、思考に紛れた問題の起こる世界と
言えるのです。
「それは理屈じゃないのか?」と言われるのですが、それは
その通りですから“実践”で開眼するしかないのです。
そして“只なる実践”の持続で目覚めてくる人は、
“目覚めた”なんてわからないのです。
わかるものは、おわかりのとおり・・わかったという
「思考自我」です。
繰り返し述べていますが “真の自分”はまったく
何もわからないのです。
“只なる実践”は心を見続けることですから、他のことは
“何も無い”のです。
すると、宇宙全体も砂粒も髪の毛も、そして何もかも
“真心”と判明してくるのです。
絶えず“無”に意識を置きながら“実践”です。
またこの幻想世界は、すべて在る「思考世界」です。
ですから“真実世界”は思い考えてもさっぱり
わからない世界なんです。
思い考えてもさっぱりわからないなら、思考を使わなければ
穏やかな安らぎの境地であるとわかるのです。
つまり、この“真実世界”とは思考の無い世界であると
言えるのです。
またこの幻想世界とは、思考に紛れた問題の起こる世界と
言えるのです。
「それは理屈じゃないのか?」と言われるのですが、それは
その通りですから“実践”で開眼するしかないのです。
そして“只なる実践”の持続で目覚めてくる人は、
“目覚めた”なんてわからないのです。
わかるものは、おわかりのとおり・・わかったという
「思考自我」です。
繰り返し述べていますが “真の自分”はまったく
何もわからないのです。
“只なる実践”は心を見続けることですから、他のことは
“何も無い”のです。
すると、宇宙全体も砂粒も髪の毛も、そして何もかも
“真心”と判明してくるのです。
絶えず“無”に意識を置きながら“実践”です。