すでにおわかりのとおり、頭の中で勝手に浮遊する「思考癖」
を消し去る、忘れ去るのが“只なる実践”の持続です。
「思考癖」は想念ですから、“只の念”になれば問題は
何も起こりませんね。
例えば「あの人」は「あの人」で即終れば、“只の念”と
いうことです。
厳密に言うと“只の念”とは、“何も無い今の心”
つまり“今この瞬間・無思考”ということです。
ですから「思考癖」は、ここに滞在することは
出来ないし消え去るということです。
しかし、「思考癖」という「思考自我」は強大なエネルギー
を持っていますから、そう簡単に自分から離れることは
出来ないのです。
この様にブログを書いているのも「思考自我」ですから
見極めが必要ということです。
「思考自我」には、強大なエネルギーを弱めていくことは
「死」を意味することですから完全に嫌がるのです。
この“只なる実践”は、完全に嫌がる「思考自我」を
弱め切り捨てていくことを行じているのです。
そして「思考自我」という、年から年中動きまわる
強大なエネルギーを弱め、人間として必要な本当の道具
“只の思考”に落ち着かせるのです。
“只の思考”を使うのは瞬間・瞬間で、1日トータル5分も
あれば十分で、無ければ無いで結構です。
とにかく、何かに付け面倒を嫌がる、理屈を持ち出す、
文句を言いたがる、只を嫌がる、楽なことだけやり、
苦を排除する私(自我)を消し去り忘れ去るのです。
残り僅かな人生に、一時の楽と心配、迷い、不安、苦悩、恐れを
持ち続けるか、“真の自分”を知りその中で
すべてを捨て去り、永遠の穏やかな安らぎの境地なるかは、
弛まぬ“只なる実践”の持続で明かになってきます。
を消し去る、忘れ去るのが“只なる実践”の持続です。
「思考癖」は想念ですから、“只の念”になれば問題は
何も起こりませんね。
例えば「あの人」は「あの人」で即終れば、“只の念”と
いうことです。
厳密に言うと“只の念”とは、“何も無い今の心”
つまり“今この瞬間・無思考”ということです。
ですから「思考癖」は、ここに滞在することは
出来ないし消え去るということです。
しかし、「思考癖」という「思考自我」は強大なエネルギー
を持っていますから、そう簡単に自分から離れることは
出来ないのです。
この様にブログを書いているのも「思考自我」ですから
見極めが必要ということです。
「思考自我」には、強大なエネルギーを弱めていくことは
「死」を意味することですから完全に嫌がるのです。
この“只なる実践”は、完全に嫌がる「思考自我」を
弱め切り捨てていくことを行じているのです。
そして「思考自我」という、年から年中動きまわる
強大なエネルギーを弱め、人間として必要な本当の道具
“只の思考”に落ち着かせるのです。
“只の思考”を使うのは瞬間・瞬間で、1日トータル5分も
あれば十分で、無ければ無いで結構です。
とにかく、何かに付け面倒を嫌がる、理屈を持ち出す、
文句を言いたがる、只を嫌がる、楽なことだけやり、
苦を排除する私(自我)を消し去り忘れ去るのです。
残り僅かな人生に、一時の楽と心配、迷い、不安、苦悩、恐れを
持ち続けるか、“真の自分”を知りその中で
すべてを捨て去り、永遠の穏やかな安らぎの境地なるかは、
弛まぬ“只なる実践”の持続で明かになってきます。