
『渇(かっ)すれども盗泉(とうせん)の水を飲まず』

いくら苦しく困っていても、不正、不義に汚れることを嫌い、身を慎むこと。故事:中国の孔子が「盗泉」という所を通った時、喉(のど)が渇いていたが、その地名の悪さを嫌ってそこの水を飲まなかった。類:●鷹は死すとも穂を摘まず●悪木盗泉出典:「淮南子-説山訓」「曾子立廉、不飲盗泉、所謂養志者也」 人物:孔子(こうし) 中国、春秋時代の学者、思想家。前551~前479。名は丘(きゅう)。字(あざな)は仲尼(ちゅうじ)。儒教の開祖。魯の昌平郷陬邑(すうゆう=山東省曲阜県)の生まれ。最初司寇(しこう)として魯国に仕えたが、容れられず、辞して祖国を去り、多くの門人を引き連れて、約14年間、70余国を歴訪、遊説。聖王の道を総合大成し、「仁」を理想とする道徳主義を説いて、徳治政治を強調した。晩年は教育と著述に専念し、六経(易、書、詩、礼、楽、春秋)を選択編定したとされる。後世、文宣王と諡(おくりな)され、至聖として孔子廟(文廟ともいう)に祀られた。

<松下幸之助一日一話> PHP研究所編

学ぶ心
人は教わらず、また学ばずして何一つとして考えられるものではない。幼児のときは親から、学校では先生から、就職すれば先輩から、というように教わり、学んでのちはじめて自分の考えが出るものである。学ぶという心がけさえあれば、宇宙の万物はみな先生となる。物いわぬ木石から秋の夜空に輝く星くずなどの自然現象、また先輩の厳しい叱責、後輩の純粋なアドバイス、一つとして師ならざるものはない。どんなことからも、どんな人からも、謙虚に、素直に学びたい。学ぶ心が旺盛な人ほど、新しい考えをつくり出し、独創性を発揮する人であるといっても過言ではない。