アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

スピリチュアルでの正統性

2018-12-14 05:40:23 | 究極というものの可能性
◎群盲象をなでる

今、スピリチュアルの世界は、百花斉放である。
まず宗派で言えば、伝統宗教があって、新興宗教があって、スピリチュアルといえば新興宗教の方を指すと思われがちだが、冥想手法には、奇妙なものはあるが目新しいものはまずない。

神仏道とのコンタクト方法は、見仏見神の一瞥、神人合一、そしてチャネリング(神降ろし)の三区分に分類されるが、その枠を出るものはない。

ヒーリング、ロハスなど生活改善系も、個々人の生活がおひとり様が増えてきてから余計にそうしたもののニーズは高まっているが、基調は昔ながらの肉体相手、エーテル体相手ということでは変わらない。

柔軟体操、ハタ・ヨーガ、呼吸法、導引などは、冥想の準備としていつでも必要であることも変わらない。

SNSやブログやtwitterなどのwebでも紙媒体でも、イベントでも、こうしたものがデパートのショウウィンドウよろしく並べ立てられているのだが、そこに今必要なものは、体系と秩序である。

要するにこうした物事には自ずと深浅高低があり、物事が起こり変化していくには、順序があるのだが、それを無視して、恐ろしく平板に皆出ているのが今の姿だと思う。

それを見分ける目は、知性と直観なのだが、万人に共通する物差しを呈示したとしても万人がそれを感得、納得できるわけではない。

たとえば電車で自分のとなりに大悟した人物が聖なるバイブレーションを放っていたとしても、気づく人は稀であり、「この人は覚者である」とマスコミが折り紙をつけたとしても誰もそれを証明することはできない。

各人がそれぞれの器量の中で、確信するしかないのだ。

今の時代は、価値観の多様な時代だが、悟っていない人が悟った人を見分けられないのだから、何が悟りか悟りでないかは当然にわからない。その土俵の上で、正統性を共通の認識基盤で語るのはほとんど無理だとは思う。

そうした土壌で、非二元が語られている。

自分という個が死ぬためには、完全な絶望が必要だ。完全に絶望するためには、前段として、相手に対する完全な信頼や愛情が必要であり、その時幸福の絶頂にいなければならない。その先に初めて完全な絶望があり得る。

非二元はその先だが、そうした文脈で非二元が語られているのだろうか。
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マントラ・シッディ

2018-12-13 05:25:03 | マントラ禅(冥想法7)
◎心身一如的

アー、アー、アー。
南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。
オーーーーーム、オーーーーーム、オーーーーーム。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
惟神霊幸倍坐世(かんながらたまちはえませ)、惟神霊幸倍坐世、惟神霊幸倍坐世。
ムー、ムー、ムー。
アッラー、アッラー、アッラー
スッブハーン・アッラー、スッブハーン・アッラー、スッブハーン・アッラー(アッラーの栄光をたたえまつる)。
これらは、伝統的マントラ。

そして伝統的でない奴。
非二元、非二元、非二元。
イワシの頭、イワシの頭、イワシの頭。
レッドブル、レッドブル、レッドブル。
モンスターエナジー、モンスターエナジー、モンスターエナジー。
などどんなマントラでもあり得る。

言霊が綺麗で美声だなどという迷信にはとらわれない。

真言宗の覚鑁は、初心者は余計なことは考えずにアーアーアーとやりましょう(阿字)とか、黄檗宗の加藤慈光は一週間念仏三昧したとかあるが、常にマントラ・シッディとは何かということが問題となる。

『マントラ・ヨーガも、マントラ禅も、一点集中によって思考の雑音を排除しようとする単純なトリックではあるが、マントラ禅の方が、精神安定剤よりは、生命力増強法としては、多少すぐれていると言えば言えるだろう。

とりわけ、マントラ・シッディという爆発的な心身一如的な歓喜や感謝や念力の発現は、マントラ禅の方がはるかに速い。』
(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジ/森北出版/P124から引用)

ダンテス・ダイジの定義では、マントラ・シッディとは、心身一如ではなく、心身一如的に止まる。だが冥想の可能性に限りはなく、妙好人のように究極にまで至る人たちもいる。
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非二元(ノンデュアリティー)とエクスタシー

2018-12-12 05:34:30 | 現代冥想の到達点
◎なにもかもなしだけでは、なにもかもなしが成立しない

非二元(ノンデュアリティー)は、なにもないだけではない。あらゆる欲望は、その最後に欲望からの解脱を欲望する。その解脱にさいして、味もそっけもない、非二元(ノンデュアリティー)な何もかもなしだけではない。

それはもはや、個人の心理体験ではない。まずそれまでの世界が崩壊し、そこで虚無を見ることが多い。その虚無を見ている自分さえもなくなれば、どのような宇宙にも出入自在となる。虚無を体験した自分という幻想が神秘そのものによって殺されて初めて非二元と言える。

そのように殺された人の歌。

生きながら死人となりてなりはてて 思いのままにするわざぞよき
(至道無難)

自分が自分がなくなり自分を取り巻く宇宙がなくなるのは恐ろしいことだ。そこには意外なことに、快感などという感覚刺激を超えた形のない歓喜が随伴する。

これが究極のエクスタシーなのだ。

ところが、冥想修行の進展プロセスを考える場合、男と女では、求める究極のエクスタシーが根本的に異なっている。

ダンテス・ダイジは、これについて、いろいろな場所で仄めかして来ていたが、最近そのこと専一に書かれている文章を発見したので、それを紹介してみたい。

この女性の強い時代で、LGBTを容認しようという時節に、男と女では、求める究極のエクスタシーが相違するというのは、大いに誤解を招く。だが、単に男女両性具有だの、男女の違いを超えるだの言っても、それを語ったり考えたりしている本人が女性であった場合、彼女の語ったり、想ったりする非二元(ノンデュアリティー)は、ファイナルなものではない可能性があり得る。

勿論女性で悟った人は起こりえる。そんな人は他人に見せるかどうかは別にして、七つの次元、七つの身体を出入自在にして超能力も普通に使えるはずなのだ。

女性が非二元(ノンデュアリティー)を語るというのは、どうなんでしょう。アヴィラのテレサや古代ローマのペルペトゥアなどは知っているけれど。そうではない女性もいる。

非二元(ノンデュアリティー)とエクスタシーは切り離せない。エクスタシーからあらゆる世界のドラマ、現象の転変、個生命の誕生と死滅などが発生するからである。

ダンテス・ダイジは、なにもかもなしとあらゆる現象はペアだと喝破している。なにもかもなしだけでは、なにもかもなしが成立しないのだ。

古代インドで、ブラフマンとアートマンの関係は語らず並置させる書き方なのは、このあたりが理由なのだろう。
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ロストフの14秒

2018-12-11 03:55:49 | 時代のおわり
◎中国製の設備を使わない

NHKスペシャル「ロストフの14秒 日本vs.ベルギー」でサッカー・ロシア・ワールドカップ決勝トーナメント1回戦の日本対ベルギー戦を分析。

試合は後半、原口と乾のシュートで日本がよもやの2点リード。そこでキャプテン長谷部が何でもないパスをミスし、思い切り香川に当て、転々としたボールはベルギー・ボールとなった。

このミスを見て、最もそういうものに疎そうな原口が『怖いな』と思った。

それからロビングのセンタリングが日本のゴールを侵し、センタリングからのヘッド、そして後半ロス・タイムのカウンター攻撃で日本はまさかの2-3の逆転負けを食らった。

原口は『怖いな』と思った瞬間に、試合の結末までも感じ取ったのだ。

東日本大震災と福島原発事故を忌んだ日本は自民党政権を選んで満8年。

長谷部のミス・パスは、2点リードの油断の雰囲気の中で発生したが、それが世の中の流れを変える分水嶺だと気がついた人は原口などわずかであったのだろう。

米中貿易戦争は、すでに米国にとっては中国は敵国の位置づけであることを示している。安全保障を米国に依存している日本も遠からず同じ対応を迫られるのは目に見えている。

アメリカ、カナダ、ニュージーランド、オーストラリアに続いて、日本もZTE、ファーウェイ(華偉)を排除することを決定。ドイツは排除しないことを決定したそうだから、ドイツはまたも枢軸国側になるのだろうか。

通信の世界では、Huaweiの孟晩舟CFOがカナダで逮捕されるなど、『怖いな』と思わせるシーンは起きている。

アメリカが戦後、人権を尊重する民主主義を進めたので、世界中の人々は、神を信仰しつつ人権を尊重する社会のあることを確認することができた。それに対し中国は、無神論かつ人権圧殺の国。チベット、ウィグルは、その被害の象徴。心あれば、貧富の格差を少なくすることが社会安定の基本だとわかるのだが、中国ではそうはなっていない。

アメリカは、既にルビコン川は渡った。2018年12月6日、ファーウェイ(華偉)と最も関係の深いソフトバンクが大規模障害を起こし、それから4日目にソフトバンクが、次世代通信「5G」の基地局などに中国製の設備を使わない方針を表明したのは、偶然ではないのだろうと想像する。

ダンテス・ダイジ忌
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我が名も知らぬ物

2018-12-10 06:07:02 | 丹田禅(冥想法8)
◎至道無難の龍澤寺所蔵法語から-4

至道無難の龍澤寺所蔵法語から
『人にすすめんと思わば、慈悲を第一とすべし。向かうもの如何ほど愚かなりとも、不便を加えて教えよ。』

この不便とは、わかりにくくという意味ではなく、愚かな人に向かってはわかりやすく方便で示しがちなのだが、方便ではなく直截示すのも加えなさいということか。


至道無難禅師道歌集から
『道を問う
主ありて 見聞覚知 する人は 生き畜生と 是を言うなり

同じく
主無くて 見聞覚知 する人を 生き佛とは 是を云うなり

身心無き時佛也
さかさまに よこす誓いに 問う時は 我が物ならぬ 我が物もなし

神よ仏よと問いし人に
名に迷う 浮世の中の おおたわけ 我が名も知らぬ 物となれかし』

『身心無き時佛也』というのが、『さかさまに よこす誓い』を指すのだろう。その時我が物でもなく我が物もない。(身心無き時とは身心脱落

主もなく、名も知らず、我が物でもなく、我が物もない。なにもかもなし

だが、悟った後は戦後新興宗教教祖のプロトタイプのようにワンパターン好々爺になるわけではなく、その人はその人らしくなる。ワンパターン好々爺の出来上がりを語るあたりが、最近の非二元説の怪しい部分。

その証拠とは、ニルヴァーナの後に人間がないインドにはなく、十牛図のように、涅槃から戻ってきて人間をやる中国、日本にしかない。インド、中国は仏教が滅亡して久しく、今では日本にしか残っていないと言っても過言ではないだろう。

禅の十牛図の第十「入鄽垂手(にってんすいしゅ)」で、徳利を下げて世を渡るとは、その人はその人の個人的潜在意識をも生きる。つまり、その人はその人らしくなるということだと思う。

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呂洞賓が櫛を売る

2018-12-09 06:37:06 | 道教
◎聞く人たち全てが出鱈目だと言う

朝鮮の神人姜甑山の語る呂洞賓のエピソード。

『一五二、又、言われるに、私のことは、呂洞賓のことと同じであると。

洞賓が自分に因縁のある者を求めて、長生術を伝えようとし商人に変装して、街路で大声で呼んで言うに、

この櫛で髪をとけば、白髪が黒くなり、曲がった腰が治り、衰えた気力が強壮になり、老いた顔が若返るが、この櫛の代金は千両であると言うと、聞く人たち全てが出鱈目を言っていると相手にしないので、

洞賓がある老婆に試験すると、果然その言葉どおりになった。

それを見た皆が、その時に初めて争って集まったが、洞賓は遂に昇天していたと。』(回天の聖者/姜甑山先生顕彰会P148から引用)

長生術とは、有限の年齢のことではない。今ここのことであり、時間のない世界のこと。

白髪が黒くなり、曲がった腰が治り云々は、その程度のことはできるが、それを問題にしているわけではないということ。

千両とは全財産を差し出せということであって、カルト風の物言いだが、すべてを差し出さないとそれは起こらない。すべてを棄てることを死と呼ぶ。

功利、メリット・デメリットで判断して確かだったから飛びつくというのでは、道の成就は覚束ない。何の見返りもなくすべてを棄てる準備ができた者だけが呂洞賓に出会える。
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ニルヴァーナと覚者の五態

2018-12-08 06:25:29 | 現代冥想の到達点
◎死ぬものとて何一つない未知なる国

人間と神仏を分ける立場にあっては、まず神人合一が一つ。そして神を見た、一瞥、ワンタッチしたという区分に別れ、それとは別に大神・ニルヴァーナが入って来るチャネラーという3区分になる。覚者の定義は、これが前提。

覚者の社会性というのは、あまりまともに論じられることはないのだが、混乱する部分ではある。

1.ニルヴァーナにほとんど四六時中いるのだが、社会生活はほとんど営めない。

ラーマクリシュナなど。臨終正念のように覚醒してすぐ亡くなるようなケースは、社会性という点では、大悟の後社会には出なかったという点で似たようなものだと思う。

2.ニルヴァーナに時々入りながら、社会生活もそれなりにこなす。

こうしたタイプの覚者は、マスに対して布教する人と、その人自身が悟りを生きることで布教はしない人との二類型がある。
これは、現代における理想の生き方だが、こういう人は、昔も今も極めて稀れ。
OSHOバグワン、クリシュナムルティ、ダンテス・ダイジ、出口王仁三郎、空海、一休など。

3.ニルヴァーナには一度出会ったか、一度入ったきりだが、社会生活もそれなりにこなす。
道元など。

4.ニルヴァーナには一度出会ったか、一度入ったが、直後のまともな社会生活を営めない時期。聖胎長養

宗峰妙超の鴨川の河原での乞食生活は有名。出口王仁三郎は六度死んだが、その直後の社会生活ができない時期がこれにあたるのだろう。

5.未悟で社会的にはまともでない時期
未悟の求道者であれば、その人生で必ず悟るというわけではないが、覚者であっても疾風怒濤にあって、社会的に変に見られる時期。

そうした時期は、後世の崇拝者や教団にとって都合が悪いものだから、隠されたり、美化された伝説にされることが多い。

俗人であった時代の釈迦、久松真一の苦悩の時代、侠客気取りの時代の出口王仁三郎など。


死ぬものとて何一つない未知なる国こそ覚者の日常であり、そういう日常ではない自称覚者は偽ものである。


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マインド・コントロールのない宗教

2018-12-07 05:03:01 | 究極というものの可能性
◎それを払しょくするか、相手にしない行法

天国は良く、地獄は悪いというマインドコントロール。この教団は、教祖も教義も正しく、聖なるものであるというマインド・コントロール。

考える時間を与えず、次々に繰り出されるイメージと音楽・効果音と情報。これを人間に四六時中投入することでポジティブな気分やポジティブな世界観を何年かは維持することができるかもしれない。こうしたスマホを眠る時以外は手離さないライフ・スタイルはほとんど完成の域に達した。スマホ・ホリック、ゲーム・ホリック。

組織宗教である以上は、どうしても組織、教団の維持のために、他の教団は誤っていて、わが教団は正しいとやるものだが、これもマインド・コントロール。

その教団では、ある修行をやれば、どんな信者も同じように同じステージをだんだん上がって行って、最後は同じ悟りに至るという、修行内容と結果が連動するという誤解

人間の本当の幸福はそういうレベルにあるものだろうか。

いずれも記憶と想念の改変、注意力を内側に向けさせないことが狙いであって、そのマインド・コントロールで最大のメリットを受ける者は、教祖だったり、教団だったり、ゲーム会社だったり、スマホ会社だったり、政府だったり、企業だったり、外国政府だったり、政党だったり・・・・であって、本人はマインド・コントロールされている限り、真理にはたどり着けない。

人間は、メディア・マスコミ経由、教育経由、家庭経由などそれまで生きてきた環境に応じて、あらゆる洗脳を経てきたので、その頭の中は外部からインプットされた情報とそれをもとに頭の中で組み立てられた派生的な情報で満タンになっている。

人間はニルヴァーナにコンタクトすれば、見神、見仏、見性するなどというのも、いわば洗脳情報である。論証の手段がなく、証拠がないから。

釈迦といふいたずらものが世にいでて
おほくの人をまよはするかな(一休)


そうしたバイアスを一枚一枚玉ねぎの皮をむいていくタイプの修行法がクンダリーニ・ヨーガ。

一方一足飛びに真理そのものニルヴァーナそのものに飛び込もうとするのが只管打坐。

どちらにしても、まともな冥想というのは、
マインド・コントロールを払しょくするか、相手にしない行法なのである。

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西行の恋心

2018-12-06 05:35:47 | 冥想アヴァンギャルド
◎願わくは花の下にて春死なむ

西行は、求道者であるが、悟った感じはない。歌を詠むには恋心が必要だと出口王仁三郎はいうが、心情を外部に顕すという恥ずかしさを吹っ切るところも要ると思う。

以下の西行の歌の花や木は大方桜のことである。


思ひかへす悟りや今日はなからまし 花にそめおく色なかりせば

春を経て花のさかりにあひ来つつ 思い出多きわが身なりけり

憂き世にはとどめおかじと春風の 散らすは花を惜しむなりけり

春ごとの花に心をなぐさめて 六十(むそじ)あまりの年を経にける

吉野山こずゑの花を見し日より 心は身にもそはずなりけり

花に染む 心のいかで 残りけん 捨て果ててきと 思ふわが身に

葉隠れに散りとどまれる花のみぞ 忍びし人に逢ふ心地する

思へただ花の散りなむ木のもとに なにを蔭にて我が身住みなむ

願わくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月の頃


悟った後はその人はその人らしくなるという。社会的に不適応であったとしても、桜とか愛人とか酒とか珍味とかこの世が好きだ人間が好きだという覚者はいるものだ。


以下は西行が悟っていないっぽい歌。

ともすれば月すむ空にあくがるる 心の果てを知るよしもがな

あはれなる心の奥をとめゆけば 月ぞ思ひの根にはなりける

ゆくへなく月に心の澄み澄みて はてはいかにかならむとすらむ

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実名SNSと政府による思想管理

2018-12-05 05:38:18 | マインド・コントロール
◎大量破壊兵器並みの威力

facebookの内部告発者クリストファー・ワイリーによって、facebookが、扇動的、偏執的なメッセージに乗りやすい人を標的にすることを主たる手段として、英国のEU離脱に係る国民投票やトランプの当選した米国大統領選挙に大きな影響(思想調整、マインド・コントロール、情報操作、洗脳)を与えたことが、海外では大きな話題になっているそうだ。
(参照:日経ビジネスオンライン2018年12月4日伏見香名子/「これは戦争だ」心を操る大量破壊兵器 内部告発者クリストファー・ワイリー氏ロングインタビュー(中))

これは、自由主義社会において行われたところが特徴的だが、実名SNSであるfacebookで行われたところが、将来における大きな不安を感じさせる。

なんとなれば、選挙で言えば、出口調査の結果や事前の支持率や評判を操作して、選挙行動を誤った前提情報により、情報操作者の狙いどおりにできるだろうということがあるからだ。

またもっと非常時の情報統制でそれが利用されるだろうという可能性はさらに懸念される(玉串を隠す)。

中国という共産主義国では、戸籍上に個々人の思想傾向がリンクして管理され、日本でいえば営業成績上位者が昇給対象となるように共産主義思想の優れた者は、出世の道が開ける。中国ではソ連から導入されたといわれるこの制度がすっかり定着している。究極の実名管理であり、中国のSNSは思想管理がしっかりしているといわれるが、ネットに目を光らせる政府の人が多いだけでなく、戸籍と思想を連動して管理するのは最近始まったことではない。

中国では、平時にこのような実名SNS以上の思想管理を行っているが、自由主義国家でもfacebookがこのように情報操作できるのであれば、敵国などとある勢力の好む政治指導者を当選させることすら可能なのであって、実名SNSさえあれば敵国を内から滅ぼせるのだから「大量破壊兵器などいらない」と嘯くこともできる。

なおinstagramもfacebookの傘下であり、猫やペットの写真を載せて楽しんでいる場合なのかという恐怖の囁きも冗談には聞こえない。

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フランシスコ法王、同性愛は罪深い行為

2018-12-04 05:21:25 | キリスト者の秘蹟
◎神仏の目からすればアウト

同性愛者は、性同一性障害という病気の場合もあるだろうが、単なる異常な嗜好の場合もある。日本のテレビやマスコミでは、同性愛者が闊歩する異常な状態である。

ローマ・カトリック教会のフランシスコ法王は同性愛を「深刻な問題」と捉えて憂慮していることが、イタリアで2018年12月1日に出版されたフランシスコ法王のインタビュー本「The Strength of a Vocation(召命の力)」で明らかにされたそうだ(2018年12月2日 15:23 のAFPBBニュース)。

まず、ローマ・カトリック教会は同性愛を罪深い行為とする立場で、2005年に初めて、同性愛傾向がみられる人々が聖職に就くことを規定で禁止。2016年に出された聖職者育成に関する教令では禁欲義務が強調され、同性愛者に加え「同性愛文化」を支持する者についても聖職に就くことが禁じられたという。

フランシスコ法王は、このインタビュー本の中で法王は「同性愛の傾向は当初は見られなくても、後になって現れる」と憂慮し、「聖職者や使徒的生活者の場は、同性愛者の居場所ではない」と断定している由。

修道あるいは修行は、神知らぬ者が、神知る者をまねぶことである。修道院での生活規則や仏教の専門道場における規則など求道者がどのように生活すべきかを記したものはあり、それは通常戒律という形で現れるもの。道教でいう善本もその系列であり、功過格もその一つ。

そうした神のルール、仏のルール、道のルールからの逸脱、違反はあらゆるバリエーションがあり、この個々人の価値観多様化の時代においては、個々人のあらゆる禍禍々(まがまが)しき行為の他に、そういう行為が巨大産業になっているものすらある。それは、もとより神のものであって、人が勝手に売買や仲介をすべきものやことではないことを商売にしているもののことである。

聖書では、黄金の子牛を崇拝するのはいけないというが、現代の黄金の子牛であるブランド品を身に着けることとか、アイドルに熱狂することはどうなのかという厳しい見方もあり得る。

このように世の中には、社会通念や法規制はないものの神仏の目からすればアウトであるものも数多い。

こうした社会に暮らす大半の人々のことを「何が善で何が悪かわからなくなった理性の発達した最後の時代の人々」と幻視されていたのだろう。
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神性に満たされた神の子の場所

2018-12-03 05:05:21 | キリスト者の秘蹟
◎すべての霊の霊性が消滅する、際限なき場所

ゾイゼの神性に満たされた神の子の場所。
『さて、露わなる神性に満たされた神の子の場所は何処でしょうか。それは神の単一性の、超実体的な光の中にあり、さらにその名付け難い名称を敢えて表現すれば、無であり、その無に移し入れられた状態に即していえば、実在する静寂であり、そこから霊が再び自らに立ち返った状態に照らして言えば、三位一体の本性なのです。

またその固有性に則して見れば、自性の光であり、創造されることのない原因性から考えれば、万物に存在を与える存在なのです。

そして暗い形状のない状態の中で、多様性はすべて消え失せ、こうして霊は、その固有の自己を失うのです。

霊は自分自身の業に関しては、無となるのです。またこれこそ、最高の到達点であり、そこにおいてすべての霊の霊性が消滅する、際限なき場所(daz endlos wa)なのです。

そしてその中で、常に自分を消し去っていること、それが永遠の至福です。』
(ゾイゼの生涯/ドイツ神秘主義叢書 5 ハインリヒ・ゾイゼ/創文社P220から引用)

自己が無に移し入れられるのは死であり、『霊が再び自らに立ち返った状態』こそが再生である。さらに霊が固有の自己を失うとは、神人合一であり(そのように表現すると異端認定されやすい)、それを三位一体と呼ぶ。霊性を失うのは自分だけでなく、すべての霊であるとし、父なる神と一体化した立場にあって、はじめてこのように言える。

その場を際限なき場所と呼び、カルマからの解脱でありながら、常に自分を消し去る生き方とは、仏教でいえば、諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教(諸々の悪をなさず、諸々の善いことを行い、自ら心を浄める、是れ諸仏の教えなり)であり、それが至福であるとする。

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このことは憶えておく必要はない

2018-12-02 05:36:38 | 究極というものの可能性
◎見知らぬ世界に

『このことは憶えておく必要はない
君はいつも見知らぬ世界に
いつも見知らぬ旅人としてある
君たちは常に今から
まったく新しい旅へ出発する』
ダンテス・ダイジの原典『救世主入門』の一節)

見知らぬ世界の見知らぬ旅人とは、ありふれているとも言えるし、さほど頻繁に出会うものでもないとも言える。

酒を食らいすぎて目が覚めたら、自分が「見知らぬ世界の見知らぬ旅人」であったことを自覚したこともある。

山水画では、山岳河川などの大自然に比較して人物はあまりにも小さく、なぜ主人公である人間を「見知らぬ世界の見知らぬ旅人」のように一目で見えるような描き方をするのか。それは安藤広重の東海道五十三次の人物とは全く異なる構図である。

後に精神病者の症状の一つに「見知らぬ世界の見知らぬ旅人」である自覚を発見したこともあった。

『このことは憶えておく必要はない』とは、知識として理解しても何の意味もないからだとは、推測ができる。ところが、『このことは憶えておく必要はない』の狙いは、知識として理解しても何の意味もないからだとは推測ができるが、まさか『本当に自分がそうなんだから憶えておく必要はない』という意味であることを知るのは、それが起きて後の事だろうと見当はついている。
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疑いなき、清よ明き心

2018-12-01 06:10:55 | マインド・コントロール
◎出家信者たちが描いた疑念

『オウム真理教を検証する/井上順孝/責任編集 春秋社P121-129』に出ている、信者が脱会するきっかけになった情動(出家信者たちが描いた疑念のパターン)の分類をまとめると、以下。

1.度が過ぎている。
暴力容認、殺人など手段を選ばないなど。

2.嘘、矛盾、言行不一致
人は、嘘、矛盾、言行不一致があると、その師やその組織に疑いを持ち始めるものだ。

3.宗教者としての麻原や幹部たちの能力への疑念
麻原には空中浮揚などの超能力、予言能力、神通力があるとされていたが、空中浮揚写真はあっても、麻原は空中浮揚を人前で実演することはなかった。
スパイが誰かを見抜けなかった。予言は外しまくり。

4.一部の人だけ特別扱い
教団内で性行為を禁止していたが、特別扱いされる人たちがいた。

まとめは以上だが、更に「教団の外に出ると様々な恐怖がある」と煽っているので、なかなか脱会に踏み切れないというのが、マインド・コントロールの構図。

オウムの出家者というのは、全財産を教団に寄付したりしているので、のっぴきならない立場での生き方だが、それでもこのような情動で、その生き方に疑念を抱く。

翻って、人と人とが争いを事とし地獄的と言われるこの世がこうしたカルトの一種であると見立てれば、『この社会からの脱出』は、『カルトからの脱出』とメカニズムは似ている。

まず、この世、この社会を疑うことから始まり、本音と建て前により騙されていることに気づき、超能力があるスーパーな人などいないことを直視し、万人が幸福ではなく極く一部の人だけがいい目を見て幸福になっていることを見れば、疑団は確実となる。

瞑想生活、冥想を組み込んだ生活に入るというのは、こうした疑いを持たれては続かないし、広まらないのだろうと思う。また社会生活をするには常に社会から疎外される恐怖がつきまとう。それは社会で生活する以上は払拭はできない。そこで『迷いのままに悟る』という姿勢しかないのだと思う。坐るのに適当な場所も時間もなく、今ここで坐るしかない。

古神道ではそういうのを含めて清よ明き心と言うが、黄泉の国から帰還して、両性具有を伊都能売として実現して初めて清よ明き心である。清濁の清だけで清よ明き心と言うわけではない。

※超能力はあるが、覚者の超能力は恣意的には使うことはできず、天意・天機に沿った行使しかできないとつくづく思う。ここは敢えて超能力はないと書くが、出産なんかは、実に超能力のようなものだ。
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吉祥なる縁起

2018-11-30 03:41:46 | 究極というものの可能性
◎それを仮にニルヴァーナと名付ける

龍樹の中論の冒頭の帰敬偈。

『滅することなく、生ずることなく、
断絶することなく、常住することなく、
一つのものがなく(あるいは、一つのものでなく) 、
種々なるものがなく(あるいは、種々なるものでなく)、
来ることなく、去ることなく、
言語的展開(ブラパンチャ)の寂滅した、
吉祥なる縁起を説いた正覚者、説法者中最も勝れたかの仏に、
わたしは礼拝する。』
(空の実践 (講談社選書メチエ ブッディスト・セオロジー)/ 立川 武蔵/講談社P31から引用)

言葉でも語れない、来ることなく、去ることなく、滅することなく、生ずることもないもの、それを仮にニルヴァーナと名付ける。

非二元とネーミングするのは、簡単だが、何もかもなしということを想像し、観想するだけではだめで、哲学するだけでは届かず、自ら吉祥なる縁起となりきることができるかどうか、それを実体験することが胆なのだと思う。

実体験できるとも書いていないが、師がそれを生きていれば、自ずと目指すところはそれになると思う。

今ここは実体験してなんぼ。
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