アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

時はしぼみおとろえる

2018-09-22 06:33:00 | 冥想アヴァンギャルド
◎滅びざる焔

W・B・イェイツの1899年の詩から

『情調

時はしぼみおとろえる
燃えつきたろうそくのよう
山々にだって森にだって
終わりがある終わりが来る
だが焔から生まれた情調には
ひとつとして滅び去った
ものがはたしであったろうか』
(W・B・イェイツ全詩集 北星堂書店P31から引用)

冥想修行者でなくても、中高年になってもまともに生きようとする人は、柔軟体操、呼吸法、あるいは坐法は欠かさないもの。

それでも気分が落ち込んで滅入ることもある。体調が思わしくなく、何事もやる気が起きないようなこともある。特に今年の夏の異常な猛暑にあっては、意識するしないにかかわらずそうしたことが多かったように思う。

だが気分も体調も天気のようなもので、それは永遠絶対のものではないから、それはやがてしぼみ衰え、別の相、アスペクトがやってくる。

それを横目に見つつ、一日に一度は、滅びざるものに視線を向け、振り子が正中に戻るように自分を立て直す。
背骨をまっすぐに立て。

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明智光秀の妻が髪を切る

2018-09-16 06:17:33 | 冥想アヴァンギャルド
◎髪と指

毛髪には呪力があり、禰宜は髪長であり、髪を伸ばす。仏僧は、剃髪して髪を切る。

インドでも中国でも日本でも古来長いは商品として販売することができた。だが単なる商品価値ではなく、を切る方には、神仏の加護が薄くなったり、外見が女らしくなくなるという女性としては致命的な問題も派生する。

明智光秀が元旦に朝倉家を立ち退き、柳が瀬の知人方に逗留していたが、ある日連歌の会を催すことになった。

人数が集まるので妻にもてなしを言いつけた。妻は、日々の食事も貧しいのにどうしたものかと悩んで、自分の黒髪を売って銀二十目に替え、その日の饗応を盛大に行うことができた。

光秀はこの仔細を知らず、妻ののないことを怒って、このようにするのは離縁してくれということかと罵りまくった。

そこに下女が出てきて、かくかくしかじかと事情を話したところ、光秀は、そのような事情があるとは夢にも知らず感情のままに言い過ぎたことを許したまえ。その代わりに私が天下を取ったとしても、生涯妾は持たないと誓った。

果たしてその後、光秀は一生他の女を近づけず、妻に先立たれた時には、彼女を武将でありながら徒歩で見送って、周囲の人々を感服させたという。

明智光秀は主君を裏切った不忠義者だが、なぜだかこの話だけは光秀を賞賛する話として伝わっているという。


松尾芭蕉が明智光秀公一族の菩提寺である西教寺を訪れた時の一句

月さびよ 明智が妻の 咄(はなし)せよ

出口王仁三郎は、光秀=利休説をとっている。

経絡は、エーテル体と重複するが、経絡の手のラインも足のラインも指で終わる。髪は頭部にあるが、手足に対する指のような位置づけが髪であるのかもしれない。

仏足頂来は、足指から放射するエネルギーを頂くのだともいう。

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死の前夜に魂の如きものが飛ぶ

2018-09-08 06:25:39 | 冥想アヴァンギャルド
◎討ち死に前夜

文禄年間の随筆義残後覚の巻三に出ている奇譚。

北國の人の話では,越中の大津の城を佐々内蔵助が攻略している時のこと。

攻撃側の人数があまりにも多く、城中では弱り果てて、このままでは明日にも討ち死にしようとお互いに別れの挨拶を言い交し始めたところ、女子供が悲しむこと限りなく、まことに哀れな状況であった。

こうしているうちに、日暮れになろうとする頃、城中より太陽と見まがうほどの光る玉が数限りなく飛び出すのが見えた。

攻撃側はこれを見て、城中はもう死ぬ支度をしている、あの人玉のわーっと出ていくところを見なさいと言って、我も我もと見物した。

城中からは、降参の申し出を行い内蔵助もこれを受けたので、翌日城中の面々はとても喜び安堵した。

さてその日も暮れようとするところ、昨夕飛んだ人玉が、どこから湧いて出てきたのかことごとく城中を指して飛び戻ったという。
(参照:日本古文献の精神病学的考察P18(国会図書館デジタルアーカイブ))

この人魂の話は、俗人の大いに興味を引くところだが、出口王仁三郎もOSHOバグワンもほとんど言及していない。

大量死の起こる前夜には、そういうことを意識レベルの低下に伴って目撃する人も増えるということなのだろう。

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人を偏見なく見る

2018-09-07 05:31:55 | 冥想アヴァンギャルド
◎精神の高みを見る

学歴もなく教養もなく金もないが、悟っている人はいるものだ。例えば浄土真宗に妙好人として南無阿弥陀仏の連唱だけで覚醒した市井のそうした人がいることは知られている。

いまでもそのようにお題目教団や念仏教団のまじめな平信者のおばさんの中にそうした人はいるし、カルト教団の平信者の中にすらもそういう人がいないとも限らない。

神仏は、そうした覚者を教団の底辺とか辺縁部に配置することがあり、教団そのものの伝法、真理の伝承は時にそういう形で護持されていくことがある。

伊勢神宮が応仁の乱後にほとんど断絶寸前になった時に寄進の音頭をとったのは、有名神道家でなく、なんと仏教徒のおばさんだったことは有名だ。

スワミ・ラーマの支援者の一人アン夫人は、親族で知的障害をもつキティおばさんの世話を長年にわたってやってきた。アンにとっては、キティおばさんは、厄介者であり、キティおばさん自身にとっても知的障害を持って生きることは不幸なことだと感じているに相違ないと思い込んでいたのだが、意外なことにスワミ・ラーマは、チビで知的障害のあるキティおばさんは既に相当な覚者であることを示唆した。(キティおばさんは、スワミ・ラーマに5柱のサポート神霊のあることを見抜いた)

丹波哲郎の霊界探訪の「霊界旅行」では、光の存在に導かれて、バスが崖から転落した事故で死んだ25名のあの世での一人一人の消息を追う。その中で知恵遅れの若い女性が強姦されたことでシングル・マザーとなるのだが、彼女がこの不慮の死を遂げた25人の中では最高の境涯にあった。

このように知的障害とか知恵遅れと精神の高さは連動しない。また精神障害ですらも精神の高みと連動しないのだろう(ヘルダーリンみたいに神を見ても統合失調というのはある)。

もっともここは知的障害、精神障害の社会性のなさを否定するものではなく、求道者としては、彼らの精神の高みを偏見なく見るべきだということである。

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マニ教

2018-09-06 05:50:51 | 冥想アヴァンギャルド
◎文明のピークから衰退への切り替わりの早さ

円仁は、空海が長安にあって恵果から密教の奥義を伝授され大量の経典を日本持ち帰るという大きな成果を挙げたわずか20年ほど後に中国に入ったが、実のところ空海ほどの成果は上げられず、道教優先、廃仏の機運が高まる中、不安な日々を過ごしている。

その中で、会昌三年折しも唐は廻鶻(ウィグル)と交戦中であるため、唐は長安において廻鶻の崇拝する宗教であるマニ教徒をまとめて剃髪して袈裟を着せてそこで殺害したという記録が出て来る。

マニ教は、3世紀にイランで殉教したマニが教祖だが、ユダヤ教・ゾロアスター教・キリスト教・グノーシス主義などの混交した教義とされ、マニ自身はインドに2年くらい修行しているので、インド流の汎宗教観みたいなものによって、平気でこうした世界宗教の走りとなりえる教義を構築した可能性があるように思う。

マニ教は3世紀になまじそれらしい経典を作ったがゆえに晩唐に中国にまで布教できたほどの共鳴者を集めるぐらいの宗教だったのだろう。

アヴェスターの時代は、インドとイランの宗教において相当に交流が成されていた形跡があるのだが、そうした気分がまだ残っている時代にマニも出てインドとイランを往来したのだろう。

これを見ると、聖者ゾロアスターは、イランのみならず、インドにも中東にも大きな影響を与えた人物であることが感じられる。

イエス生誕時の東方三博士はマギと呼ばれるのだが、東方なのでゾロアスター教も意識せられる。

東方三博士のイメージは、頭頂の封印を切る2、3人の神霊のシンボルでもあると思う。

世界宗教のるつぼであった盛唐から晩唐への切り替わりは早く、バブルを謳歌した日本も関西国際空港が台風で水没するという文明の切り替わりを象徴するような事件が起きた。

更なるスーパー台風も予想され、出口王仁三郎のいろは歌の諸外国の軍船が日本周辺で転覆しまくるシーンも想起されることである。
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喪服の白から黒への転換

2018-09-05 05:36:08 | 冥想アヴァンギャルド
◎おざなりな明治政府の施策

韓流ドラマや中国ドラマを見ると葬礼シーンでは、全員が白を着用しているのを見て、おやおや日本文化は中国、朝鮮伝来ではないのかいと違和感を感じることがある。

明治政府は、天皇家の宗教も仏教から神道へ廃仏毀釈などの流れで半ば強制的に変更させたのだが、皇族の葬礼についてももともと決まりは持っていなかった。

当時庶民の喪服は白だったが、明治30年の英昭皇太后(孝明天皇の女御にして明治天皇の嫡母)の葬礼から、洋風の黒喪章を左肩や左腕につけることと定め、これが喪服は黒になった始まりと言われる(天皇と葬儀/井上亮/新潮社P263)

光は善、闇は悪、白は善、黒は悪みたいな漠然とした印象を持つことがあるのだが、それは世界の宗教シーンでは一般的な見方である。

だが死のとらえ方が、白なのか黒なのかというのは、その社会の世界観の反映である。

死を黒と見るのは、死を忌避する近代西欧文明に特有の心性であり、日本は明治後期からこの仲間入りをして今に至る。

死を白と見るのは、死と親和的あるいは神仏と親和的な東洋的心性特徴である。それは最終ステージで自分を容易に棄てられるということにつながってくる。

現代中国は無神論である共産主義。李朝の儒教社会から出た朝鮮は、50年の日本統治時代の後、儒仏道に加えキリスト教、カルトの混在する混乱した状況が今にも続き、北朝鮮は無神論。

そうした中国、朝鮮が白喪服の伝統を変えないというのは、庶民の現実の見方、神仏への見方が、本来日本と底流は共通しているというところは、面白いと思う。

宗教の分類について一神教だ多神教だと、ためにするが如き議論はあるが、人間にとっての神仏への肌感覚はこの辺にあるのではないかとおもう。

それにしても明治政府は、いろいろなことをやり過ぎて悪影響を様々に残している。
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三毒 心を曇らせるもの

2018-09-03 05:23:21 | 冥想アヴァンギャルド
◎人の頭には穴が空いている

仏教で三毒というのは、貪(むさぼる、欲深)、 瞋(怒り)、癡(迷妄、迷い、疑い)。

これを積善陰徳の功過格風に読むと本筋ではないのだろう。

スワミ・ラーマ(スワミジ)は、以下のように語っているが、これは三毒のことを言っている。

『「神の恩寵はつねにそそいでいるが、一般にいって、人の頭には穴が空いている」スワミジは言った。

「それでなぜ神の恩寵に浴せるだろう?恐れの穴、疑念の穴、憎しみ、怒り、嫉妬、貪欲、欲望、執着の穴をふさいでいくのは、霊性に欠かせぬ修養の一部だ。

あらゆる努力を真摯に行い、完全に力つき、絶望の淵で泣き叫ぶ。この抑えきれぬ叫びこそ、祈りの最上の形だ。献身の扉が開き、忘我の境地へと続く。この忘我の境地が神の恩寵だ。恩寵とは、着実で真塾な努力を重ねて受けとる結実だ。』
(ヒマラヤ聖者最後の教え -伝説のヨガ・マスターの覚醒と解脱 スワミ・ラーマその生と死-下 パンディット・ラジマニ・ティグナイト/著ヒカルランドP172から引用)

三毒が残っているうちには、その先へ進めない。聖者だって怒ることがあるなどと気にしていてはダメなのだ。

これは論理的には矛盾だが、そこがわからないと神の恩寵はないと思う。

ダンテス・ダイジの『恐怖の恵み』というのもそれに類する。

ウォーター・フロントなど低地に住んでいる人は水害に遭いやすいというのは、津波や2018年の一連の西日本大水害で学んだことである。だが、低地に住んでいる人は多く、生産流通などの基幹設備の多くが低地に設置されている。

だが、そのようにいつかひどい目に遭う選択をする人を見ると、悲しくなるものである。

自分を棄ててくれる男性しか選ばない女性。明らかに犯罪であることを犯す人などなど。

イエスではないが、人は自分が何をやっているのかわかっていない人は多いものだ。

そういう人はしばしば三毒で心を曇らせているのだろう。

日々の真摯な努力を。
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弟子に神を見せてあげる

2018-09-01 06:52:32 | 冥想アヴァンギャルド
◎どんな神を見たいのか

ある日、スワミ・ラーマが師匠に「神を見せて欲しい」と何か月も懇願し続けた。それに根負けしたのか、師匠は彼に「明日、神を見せてやる」と約束した。

スワミ・ラーマは、うれしさと期待で一晩中眠れず、神の姿についてあれこれと想像を巡らした。そうしたことを考えつくし、疲れ切ったが何もまとまらなかった。翌朝、沐浴し、断食し、新しい服を着て、髪までとかして師の前に出た。

師は彼に「本当に神が見たいのか」と念押しした。
彼は、「もちろんのことです。」
師は、「それでは、いったいおまえの見たい神はどんな神だ」と。

さて神は燃える柴の炎の中からモーゼを呼んだが、モーゼは神を見ることを恐れたので顔を隠した。モーゼは準備ができていなかったのだ。

唐代のフーテン禅僧普化が、ある日僧堂の前で生野菜をむしゃむしゃと食べていた。
臨済がこれを見て「一頭のロバそっくりだよ」と言った。
普化は、すかさずロバの鳴きまねをした。
臨済「このどろぼうめ」
普化「どろぼう、どろぼう」と言って出て行った。

普化は一個の神であって、臨済は何ものにも制約されず生きる一個の神を見ている。
人間は肉体を借り食物をも借りであるから、皆どろぼうのようなものだ。「どろぼう、どろぼう」。

そういうあなたはどんな神を見たいのか。その見たい神は本当に神なのだろうか。
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まっすぐ座る

2018-08-29 05:42:10 | 冥想アヴァンギャルド
◎ヨーガでも禅でも共通

「ヒマラヤ聖者最後の教え -伝説のヨガ・マスターの覚醒と解脱 スワミ・ラーマその生と死」を読み返しているが、その中で、背骨をまっすぐにして座るくだり(P156)があり、毒素排出と健康回復(P177,178)が個人のことだけではなく、世界全体にもつながっていく原理であることが示されている。

まず、まっすぐ座ることについて。

頭、首、胴をまっすぐにして座るのが、最も健康的で、最も快適な座り方。そうすると、脊柱の基底部に圧力がかかり、熱が生じる。その熱が強まると、プラーナのエネルギーが広がり、上へ上へと上昇していく。脊柱をまっすぐにし、神経系がリラックスしていくことで、プラーナのエネルギーは脊柱に沿って、頭に向かってのびのびと上昇していく。この座り方では、怠惰やぼんやりした状態を避けられる。

これは、まっすぐ座っている人は毎度実感されていることではないか。その感じを知らない人に伝えるのは難しいので、やってもらうしかないのだが。

禅でも背骨をまっすぐは変わらない。

帰宅してから、疲れて頭の中がごちゃごちゃのところで座れるかというところでも、一つ自発的意志力は必要となる。
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人間や世界を知るきっかけ

2018-08-25 07:05:06 | 冥想アヴァンギャルド
◎○元論に惑わされない

親と学校のくびきから解き放たれる青少年の頃、人は多かれ少なかれ人間や世界全体を知ろうと意識する。

進学に就職にあるいは浪人・ひきこもり・家事手伝いとその進路は分かれる。

人間はホロスコープ流に見れば、外的世界と私生活に二分される。生活実感でみれば、肉体で感得できることと、頭の中で考えることに二分される。

少年期以前はこの区分が混沌としている場合が多いが、だんだんその黎明を経て世の中のいろいろなことがわかるのではないかと期待と興奮に駆り立てられ、学問や宗教の世界に入る人もいる。

20代の頃、向いに呂洞賓のことを研究するんだと言っていたフランス人が住んでいたが、彼は今どうしているんだろうか。
本当に自分は20代の頃は全くわかっていなかったと思う。当時その呂洞賓のことは何一つ知らなかったし、今でも彼が何を成し遂げたのかすらわかっているわけでもない。

光と闇のゾロアスターの二元論、古代インドにも二元論あり。易経も陰陽二元。
サットヴァ(純質)、 ラジャス(激質)、タマス(惰質)の古代インドからの三元論、地水火風の四元論(ホロスコープなどもこれ)、それに空を加えた五元論。

だがその五元論は、支那では同じ五元でも五元が陰陽に分かれ十干に転じ十二支をも組み合わせる全く異なったものを用い、黄帝以来の九元(九星)もある。

それぞれの○元論でもって予言する占い者は必死にその正当性、妥当性を主張する。さらに、時に大悟覚醒を経た聖者もその○元論に言及してお墨付きを与えるので、まじめな探究者にとっては何が本当に正しいものかわからないという羽目になる。

現象の世界は、いろいろな○元論があってよいと思う。これは初学の青年たちの好奇心を満足させるために置かれているのと、またジュニャーナ・ヨーガ(知識のヨーガ)へと向かう人々のために置かれているのだろうと思う。

出口王仁三郎の怪しい四元論や、ダンテス・ダイジの時間・空間・物質という妙な三元論もあまりに露骨であり、そういうことに気づかせるトラップなのかなとも思う。・・・覚者は宇宙全体を説明したがる。

○元論は現象の世界、色の世界だが、現代科学の相当部分はそればかり研究している。民主主義で私権擁護が基本だからそうなるのも仕方がない曲学阿世。


何の木の花とはしらず 匂ひかな
(芭蕉)


そして、もちろん世界の仕組みなどということは気にせず、性欲や金のゾンビみたいになる人も少なくはない。
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武器と洪水

2018-08-24 05:14:39 | 冥想アヴァンギャルド
◎ギリシア神話テティスの結婚

テティスはギリシア神話に出てくる海の女神の一柱。
テティスをめぐってゼウスとポセイドーンが争った。

神託の女神テミスがこの結婚の将来について、「テティスがゼウスまたはポセイドーンに身を委ねるときには、ゼウスの武器である電光やポセイドーンの武器である三叉戟よりも強大な武器を持つ息子を生むであろう」と予言した。

テミスはこの予言により、ゼウスとポセイドーンにテティスを諦めさせ、テティスは結局人間の英雄であるペーレウスと結婚することになった。

ペーレウスとテティスの間にトロイア戦争の英雄アキレスが生まれたのはこの後続く数々の大戦争の始まりとなった。これは、人類の正統な成熟プロセスの始まりともなった。

ゼウスとポセイドーンは、核兵器を超える絶滅兵器の出現を回避し、その代わりに人類に長い成長期間を与えたのだ。

ギリシア神話では、この後人類が滅亡する大洪水が繰り返されたことを記録しているが、出口王仁三郎も大洪水がまたあることを予言している。
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ヴィパッサナー呼吸を見つめる

2018-08-23 05:05:02 | 冥想アヴァンギャルド
◎グルの必要性

坐って息を感じる。大方の呼吸法では、吐く息は意識するが、吸う息は無意識のままでよいとされる。

ヴィパッサナー=呼吸を見つめる冥想法は、釈迦はこれで覚醒したとも言われる重要な冥想法。

吸う息は誕生で、吐く息は死。坐って呼吸を感じると、吐いて吸う間に呼吸のない時間帯がある。深まってきて呼吸の回数が落ちると呼吸のない時間も長くなる。

OSHOバグワンは、その呼吸のない時間、すなわち隙間を感じ取ることがヴィパッサナーの眼目だという(新瞑想法入門 和尚/講話 瞑想社P165)。

彼は、息と意識が一つにならねばならない、息とともに内に入り、息とともに外に出ることによりその隙間をつかむことができるとする。

これは、アナパナサティー(安般念)と呼ばれる冥想法。

ところが、呼吸を見つめ続けると、眠れなくなるらしい。そのせいで発狂もしやすいという側面もあるらしい。

そのことはOSHOバグワンが他の本でつぶやいているのだが、新瞑想法入門でも、井上ウィマラ氏の著書「呼吸による気づきの教え」にも大安般守意経にもそんなことは書いていない。

その意味でヴィパッサナーこそまともなグルの指導なしでは危険な冥想法ではある。

だが今の時代は、メディアとスマホ・ゲームで人間精神を操作しまくっている時代。それだけでも容易に人を耽溺と依存と倒錯に追い込みやすいのだが、精神マニピュレイトという点では同類の冥想もグルなしでは危険な側面がある。

グルを求める気持ちの真摯さは、生得のものもあろうが、環境、教育の影響も大きい。そこがなくして真正のグルにも出会えないとほとんどの経典は口をそろえている。
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釈迦が罵られた時

2018-08-21 05:30:29 | 冥想アヴァンギャルド
◎それを受け取らない

サンユッタ・ニカーヤでは、釈迦が罵られた場面がいくつか出てくる。

そもそも罵られても罵られる原因がない釈迦ではあるが、それを耐え忍び、反撃せず諭す釈迦という面が出てくる。
(ブッダ 悪魔との対話 /岩波文庫P129-133)

これは不愉快だが、受け流すというどちらかというと人格の練られ具合の話。これは大悟覚醒とは何の関係もない側面の話である。罵られても決して傷つくことのない自分を承知しているし、他方聖者も泣き悲しみもすれば怒りもする。

さて罵った相手を諭すといっても、縁なき衆生は度し難しであり、釈迦といえどもどんなクレーマーをも改心させることなどできない。

非のない相手を罵るような手合いにその罵詈雑言は、釈迦が受け取らなければ自分に返ってくると諭すのだが、わかってくれるのかどうか。

この辺の議論は、やや本質とはズレた議論ではある。
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NHK「ねこねこ55」

2018-08-20 05:28:21 | 冥想アヴァンギャルド
◎野良猫の春夏秋冬

最近NHKで「ねこねこ55」というの魅力を引き出している番組も始まり、猫を飼ったことのない人にも、折からの猫ブームもあって、さらに猫の魅力が知られるようになっている。

猫を飼うといっても犬と同様に15年から20年程度のつきあいとなる。2~3年で飽きたというわけにはいかない。泊りの外出ができにくくなるなどいろいろな弊害も起きてくる。

だから意外に猫を飼っている人は少ない。朝のジョギングで野良猫の変遷を見ていると、パッと猫の顔ぶれが変わる時期がある。今の時期がそう。

昔は深く考えてはおらず、猫は屍解であって死体を残さず亡くなるそうだからそうやっていなくなるのだろうと思っていた。
最近気がついたのだが、それは生息地に藪や繁みがあってそこで小動物を捕獲できる地域の猫の話。

都会の猫はエサを人に頼るしかない。よって都会の野良猫は本当に宿無しであって、主な居場所は実は自動車の下ではないかと考えるようになった。都会猫の死因のほとんどは交通事故と語る人がいるのだが、私も実はそうなのではないかと考えるに至った。

一人の人間が20年間で飼える猫はせいぜい1~2匹。これに対して猫は、1年間で1匹の猫は37匹に増える。篤志の人がたくさんの猫を飼って気の毒な猫を救おうとしても限度がある。

だから野良猫の避妊・去勢は、不幸な猫ちゃんを増やさないためにも必要なのだという結論が出てくる。

出口王仁三郎は、外猫に「お前は〇年だけ飼ってやる」と言って猫に引導を渡すシーンがあるが、最初はなんて無慈悲な応対をするのものかと目を見張ったが、飼育限度をこえた高い繁殖能力を持つ猫のすべてを救済することなどできないと、彼は最初から承知していたのだと、最近わかってきた。

これも死の世界の一側面。日常的に死を扱う職業の人なら当たり前なのかもしれないが、なかなか慣れないものである。

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宗教、それで食べている人たちのための

2018-08-17 06:56:38 | 冥想アヴァンギャルド
◎せめて一本の蜘蛛の糸を

宗教は、争いであり、ビジネスであり、金もうけ。

宗教といえばそういう目で見られる。最古のネットワーク・ビジネス(ねずみ講)と言われても仕方がない。

更に戦いや人殺しを是認する宗教はある。キリスト教、イスラム教などは代表格。日本でも戦国時代は念仏教団が軍団となって戦った。古代インドでもバガバッド・ギータでは、聖者クリシュナが王子アルジュナに殺せ、戦えと唆しもした。

こうして何千年をかけて、宗教は、「幸福や真理を与える」というプロパガンダのもとに人間を破壊してきたとも言える。

西洋では、神と人は別物であるという立脚点から、どうしても「人は罪人である」というように意識にハイ・プレッシャーをかけて破裂を狙う修行法をとらせがち。

これに対して東洋では、神と人とはより親和的であり、時に人は神となることも認め、漸進的なクンダリーニ・ヨーガのような道と急速な只管打坐のような二種の道が用意されているが、神と人とは対立的ではない。

このように西洋の宗教と東洋の宗教はアプローチは違うものの、信者数に比しそれほど多数の覚者を出したわけでもなかったためか、
現在では、宗教で食べている人たちの生業のための組織がいわゆる宗教だと思われている。

「私はその組織に金を払うという信心をするのだから、教団の一員であるという安心感としっかりしたブランドをゲットするのだ。」みたいな。これでは、店で有名ブランド品を買うのと何ら変わりはない。

このように宗教は、いわば有名ブランドの一つに落ちてしまった部分がある。

だが、本来の宗教は、個人に対し、安全も成功も富も健康も家族も名誉も定業も長寿も、保証はしない

本来の宗教は、真理、真如、正念がなんであるかを教えてくれなどしない。

だったら人間に救済などないだろう。
そこがスタート・ラインなのである。天国はあるらしい、この世は地獄のようだ。

時に経典を読めば、天国も地獄もないといい、仏教では、地獄は最低、天国は最上。

一方で、天国地獄はおろか、時間などなく、一なるものが変化し続けているだけともいう説まである。

こうして人は、宗教すら信じられず、何が正しいのか、何が善いことなのかすら判断できなくなっている。

さらにテレビ、スマホ・携帯電話の普及で、そういうことを考える余裕も与えられないのが、最近の流行のライフ・スタイルである。

こうした哀れな人々に、せめて一本の蜘蛛の糸を。
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