アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

日本人の書いたチベット潜行記

2020-07-07 05:39:57 | 冥想アヴァンギャルド
◎秘密のマントラ

戦前の日本人の書いたチベット潜行記では河口慧海が随一。圧巻は風雪の5千メートルの峠を禅定でもって、頭に雪を乗せながら一晩を過ごすところ。

これに対し、西川一三の秘境西域八年の潜行は、ラマ僧になりすましてチベットを放浪するのだが、密教の素養がなさ過ぎて、ツォンカパの寺院で交合図を見てエロ画像よろしく興奮したのは、求道者ではないから仕方ない。

西川一三のは、ラマやチベット平民の平凡な日常風俗はわかるがそれ以上ではない。

西川一三は、日本の敗色濃い昭和18年にチベットに入ったが、笹目秀和は昭和10年に蒙古から崑崙山を目指した。二人ともほぼ同時期に蒙彊に入ったわけだが、どちらも二十歳そこそこなのに西川は最初から最後まで平民の間を泳ぎ、笹目は最初から大本教のご神体を奉還する密命を帯びた。なおかつ笹目秀和は、あまり鎮魂帰神の修行期間があったとも思えないのに、出発時から出口王仁三郎直々に宗教的使命を受け、朝鮮の聖山白頭山で仙人に会い、崑崙山で仙人に会いと、相当な機根の高さであったことが伺える。

笹目秀和(1902 - 1997)は、モンゴル神仙邂逅記を読んでも、聖者、覚者というよりは求道者。笹目秀和が秘密にしたマントラを他の者が大本教関係の書物で公開しているのを読んだことがあるが、その真贋と悪影響はどのように思ってのことなのだろうか。

この時代は核兵器という物質の極み、粗雑なバイブレーションの極みの時代。だからこそマントラについては、あまり効きにくいとも言われる。

マントラは美声だから効くというものでなく、その唱えられるバイブレーションの次元が問われる。言霊の立ち位置が難しい時代である。
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聖者という他人、教祖という他人

2020-06-26 06:19:50 | 冥想アヴァンギャルド
◎実は無神論砂漠のJAPAN

キリスト教には、万を超す聖者がいて、毎日の暦には、必ず複数の聖者が該当するものだ。

日本でも言霊の幸はふ国として八百万もの天津神国津神が津々浦々におはします。更に仏教と習合したものだから、ありとあらゆる諸仏像が寺院陋巷に鎮座しまくっている。

これらは、応仁の乱、戦国時代、全国大都市が焼夷弾による空襲を受けた第二次世界大戦を経ても、氏子檀家の神仏への崇敬の気持ちは変わるものでなかった。

だが、所詮八百万神も諸仏も他人であって自分ではなく、各宗派における聖者も他人、教祖も他人。

神像、仏像を愛でるのも、ラーマクリシュナのように神像なる太母と都度神人合一するのであれば、問題はないが、綺麗とか、美しいとか、神々しいとか言っているうちは先に進まない。古代中東のバアル信仰の昔から、出来のよい神像を愛でることはそこそこにせよと戒められている。

その神像を制作した者は、覚者だったのか、その神像に魂を入れた者は悟っていたのか。

この延長線上に唯の人間を祀った神社というのもある。

このような神仏グッズ、神仏ホールなどに取り囲まれた社会で暮らしていれば自ずと自分は篤信家であると誤解しがちなものである。これが、それを『外に求める』今の日本人。

小泉改革以降非正規労働者が激増し、一生涯一勤務先が崩れ、主婦は死語となり、日本の核家族化は不可逆となり、国民の貧困化は一挙に進行した。

貧困はどんな社会であっても神頼みの誘因になるが、巨大化し過ぎた新興宗教に入信しても巨大であるがゆえに現世利益は期待できないことは一目瞭然。『外』に解はない。

貧富の格差の先進国アメリカは、金持ちだけが幸はふ国だが、ドラッグ、カルト、パンクなど倒錯的なものも隆盛な一方で、率直に神仏を『内に』求める組織も人もいる印象がある。それを受け入れる準備のできた大衆がいるのだ。そのことをインド、チベットなどからアメリカに入った布教者は口をそろえて語っている。

実質無神論な日本人のことを、冷静にえこひいきせず見ていたOSHOバグワンも来日せず、クリシュナムルティも来日しなかった。日本人には、神人合一を求める気運がとても少ないとみていたのは、ロトがソドムの町で50人の正しい人もいなかった話と似ている。

そんな無神論砂漠の先に、世界は3%、日本は2%というネガティブ予言が見える。日本はワンランク・ダウンの評価なのだ。

イナゴの害は、アフリカにからパキスタンまで到着、南米ではパラグアイからアルゼンチンまで襲来。大雨洪水は、長江上中流域を中心に中国24の省(省は23だが自治区なども数えると34)で大規模な洪水が発生し、三峡ダム決壊への懸念が高まっているという。

更に米中対立は日を追って深まり、北朝鮮は韓国への軍事行動計画を「延期」、人災天災があざなえる縄の如くからんでいる。

それでも日々冥想を。
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日本の焚書坑儒

2020-06-07 07:03:29 | 冥想アヴァンギャルド
◎宗教なき冥想道

日本では焚書坑儒はなかったことになっている。

だが『日本神代文字 古代和字総観 吾郷清彦/著 大陸書房』を見ると日本の神代文字は、何十種にも及びそれを用いた文献は残っている。

何が世界文化遺産と言って、神代文字を世界文化遺産と言わない不思議。

敗戦後、日本が国力を盛り返してくる一方で、日本精神、大和魂の復興が手探りで試みられるようになったが、せいぜいが教育勅語の復興の動きなどであまり成功しているとは言い難い。何しろそれは国家神道という国家を挙げての戦争推進体制の一部だったのだからさもありなむ。

古事記にも原古事記があったであろうことは言われている。古事記の時代以前は日本には文字がなかったことになっているが、中国にもない神代文字が残されていることから、それは日本のとある時代に用いられていたものだろうと思う。

今東光が、声をひそめて聖徳太子朝鮮人説を唱えている。聖徳太子(574年-622年)は、仏教を日本で興隆せしめた大恩人であって、それほどの功績ある人物ならば、子孫は重用され、顕彰する絵画、尊像、文書が多数残っていてもよさそうなものである。

それがそうではなくて、本人を含めた一族抹殺の噂まである。

712年の古事記の出来た頃には、既に神代文字の原日本語について、ほぼ『日本にはもともとオリジナル文字はなかった』と広言できるほどに焚書坑儒が進んでいたのではないか。

その焚書を最初に唱えて主導したのは聖徳太子か。つまり聖徳太子没後90年の時点で、漢字の古事記が編まれたのではないか。

日本私紀などに神代文字があることは言及されている。

聖徳太子以前は古神道主導の日本教は隠然として存在していたが、それを為政者側が仏教にシフトさせるために、神代文字文書、学者、古神道修行者を体系的に焚書坑儒していったのではないか。

そうでなければ、日本では一族抹殺というようなことはあまりしないのだが、聖徳太子についてそれが行われた形跡があることは理解できないように思う。

聖者には組織宗教のトップタイプと遊戯者のタイプがある。ダンテス・ダイジは、聖徳太子を組織宗教のトップタイプに分類しているのだが、その聖徳太子にして、その反動を知りながら神代文字抹殺を為さしめた状況はどのようなものだったのだろうか。

聖徳太子没後の大物聖者として役小角(634年-701年)が出ている。古神道があまりにも抑圧されたので、その反動として登場したのだろうと思うが、その反攻策も表面的には成功したようには見えない。そして役行者没後に古事記編纂というタイミングは、一連の流れと思われる。

清明き古神道は、以後その命脈を保ちつつ、伊勢神宮を頂点として巷の祠(ほこら)まで残っていて滅んではいないが、国家神道の不幸な時代も出口王仁三郎がバランサーとして活動して戦後の古神道系新興宗教教団の隆盛につないだ。

そして今、宗教なき冥想道の時代が近づいている。
その前に新たな焚書坑儒もあるかも。
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慈悲が成熟する

2020-06-05 05:16:06 | 冥想アヴァンギャルド
◎至道無難の即心記

江戸時代初期の禅僧至道無難の言葉(即心記より)。

『ものには習熟する時があるものだ。幼少の頃いろはを習い、世間に出る頃には中国のことも何でも書けるようになっている。これはいろはが成熟したものである。

仏道も修行者が自らの悪業を無くするうちは苦しいが、それを除き去り尽くして仏になってから後は、何事にも苦しみはない。

また慈悲についても同じこと。慈悲を行ううちは、慈悲をするという意識がある。だが慈悲が熟する時は、慈悲をするということを意識しない。慈悲を行って、慈悲を意識しないとき、これを仏という。

慈悲はみな菩薩のなせる業なれば
身のわざわいのいかでかあるべき
(慈悲は既に見仏見性体験を経た菩薩の行為なのだから、身に災いがあるはずもない)』

今はやさしさを尊ぶ時代であり、慈悲が熟しやすい時期である。この説話にも、見仏見性を経ていない者の慈悲っぽい行為は、厳しく見れば、慈悲ではないという側面が隠れている。

そこで日々の冥想により悟りを目指すことになる。
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かもめのジョナサン

2020-05-26 05:24:31 | 冥想アヴァンギャルド
◎ヒッピーと垂直飛行、冥想十字マップまで

私が小学生の頃、朝のニュースの時間に、新宿東口広場からの中継が流れ、長髪の若者男女が大勢座り込んでいて、煙草を吸ったり、ぼーっとしたりしている映像が流され、「一体何をしているんだろう」と考えさせられたものだ。そのヒッピーたちも今は70代だろうか。

そうした世代が読んだのが「かもめのジョナサン」。当時はさっぱり興味を惹かない本だったが、今見てみると水平飛行と垂直飛行のことだとわかる。

古代ギリシアの壺絵(飛び魚)にあるように、冥想修行は水平飛行しかできないうちはまだまだ。垂直飛行ができて初めて一人前とされた。

水平飛行とは、まあアストラル・トリップだが、垂直飛行とは、アートマンと合一し、ニルヴァーナを目指すこと。

「かもめのジョナサン」は、古代ギリシアの壺絵(飛び魚)にヒントを得たのかもしれない。

人間は誰でもトランスから飛ぶことができるが、水平飛行は容易で本質的な解決とは関係ないが、垂直飛行こそ眼目である。

道元の一生を描いた映画で身心脱落シーンはグルグル垂直上昇していたが、あれってどうなのだろう。

ダンテス・ダイジは、冥想十字マップで、別次元の水平と垂直を出している。
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人間とは魂が肉体を持っていること

2020-05-23 06:12:36 | 冥想アヴァンギャルド
◎至福千年の時代の生き方とは

人間とは、肉体が魂を持っているということではない。魂が肉体を持っているということ。

その発想のもとに肉体は魂の乗り物であるという表現が出てくる。霊主体従とは、これと同義。

次の時代は霊的時代であるというが、肉体は魂の乗り物であると万人が自覚することが最終的な狙いではない。

ババジの弟子のスワミ・ラーマの出くわしたエピソードの中に、ヒマラヤのベテランのヨーギが、横死した若い男性の肉体を引き上げて、その肉体に這い乗って別の人格としてその後生きる話が出てくる。

でもって、人格と輪廻転生の主体は別などとのたまうのだが、とても抵抗のあるエピソードである。

禅の十牛図の第八から第十までは、一旦死んだその肉体に、悟りの後に戻ってきて、下町の商店街を発泡酒の缶をぶら下げて帰って行くみたいな図柄。要するに一旦は、悟りの肉体的衝撃に耐えてくれて弱った肉体だけど、その肉体と人格に再度戻って行く話なのである。

どちらの話も如何に大悟するかということが主旨なのだが、ヒマラヤのヨーギは、今生の肉体では大悟できないことを見切って、次の肉体を得るというショートカットに出た。

一方十牛図は、運よくあるいは出生時から今生で大悟することを予定した肉体で生まれてきて、大悟後その肉体をもいとおしんだという違いはある。

ところが、チベット死者の書を読むと、死のルート・マップ上にも大悟のチャンスはある。臨終正念。ヒマラヤのヨーギが焦って別の肉体をゲットに行かなくても大悟のルートがあることはわかっていたはず。

世の中では、漠然とインドのヨーガは、ニルヴァーナに到達したらそれで終わり、一方日本では、ニルヴァーナ後も人間としての生があるなどと云う。

悟り、ニルヴァーナの側から見たら、確かに両方とも同じかもしれないが、どちらが次の至福千年、千年王国に近いかと言えば、後者なのではないかと思う。
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アレハンドロ・ホドロフスキー監督の映画エンドレス・ポエトリー

2020-05-16 05:15:15 | 冥想アヴァンギャルド
◎書割の前で動く人間と人間の欲望のぶつかり合い

エンドレス・ポエトリーという映画は、アレハンドロ・ホドロフスキー監督の自伝的映画の第二作。

私がアレハンドロ・ホドロフスキーの名を知ったのは、『タロットの宇宙/アレハンドロ・ホドロフスキー/国書刊行会』という著作によって。タロットという78枚の曼荼羅から覗き込む宇宙が結構いい線を行っていることに驚かされたからである。

彼は、1929年チリの田舎町トコピジャでロシア系ユダヤ人の子として生まれ、祖父らが同じ町に住んでいたことから、ポグロムなどの迫害を避けるために移住してきた一家なのだろう。
随所にユダヤ的な日常で彼が嫌っていた部分がせりふに登場していた。以前イギリスでユダヤ人の家政婦をやっていた日本人の著作を読んだことがあるのだが、その本で書くことを避けていたユダヤ人のいやな部分がほぼ推測されたのはプチ収穫。

ユダヤ人は伝統的な理財の民族。欧州各地でゲットーという狭い地域に押し込められていたのだが、ディアスポラが民族的な生活習慣にも影を差していることに気がつかされた。

映画では、学究肌のイケメンのアレハンドロが、親の実業に就いて欲しいという期待を裏切って、食えない詩人として立っていく。舞台は、貧困と窃盗と暴力あふれる田舎町トコピジャから一家の転居で首都サンチアゴに移っていく。

処女の毒蛇女との失恋、矮人との性交渉など。彼の友人には男色者が多いわりに自分は男色ではなかったと強調する。

詩人として名声と有力者の知己を得たアレハンドロは、あれほど反目していた父と和解してパリに旅立っていくシーンでこの映画は終わる。

どうしてこの映画は、見たくもないもの見せたくもないものをこれほどに並べ立てるのか。それも現実というものが、薄っぺらい書割(商店街の風景など)の前で動く人間と人間の欲望のぶつかり合いであると冒頭から描いて見せて、映画全体がむきだしのインモラルの連続であるにしては、人間の生業の深さと浅薄さと不条理を見事に呈示させていると感じさせられた。
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白魔術と黒魔術

2020-05-15 05:30:41 | 冥想アヴァンギャルド
◎やむなく認めた黒魔術なるホワイト・フォックスに手を噛まれる

簡単に定義すれば、他人を助けるために使うのが白魔術。自分のために使うのが黒魔術。

カルト教団で、教祖の写真やアクセサリー、礼拝グッズ、著作などを売っているが、何を販売しようが、カルト教団であるがゆえに人はこれを黒魔術的と考える。

ところが、同様に教祖の写真やアクセサリー、グッズ、テキストを伝統教団が販売するのは白魔術だとされるので、新興宗教はしばしば伝統宗教の新たな分派の形をとり、カルトに分類されることを免れようとする。

宗教団体に限らず、音楽シーン、映画、演劇、スポーツなどあらゆる分野でグッズやテキスト、映像が売られる時代ではあるが、それは表面的には白でも黒でもない行為だが、厳しめに見れば天からの賜物を無駄使いする行為であって黒分類となるように思う。

現代のカルチャー、思潮、発想の多くは経済性と便利(金と便利)指向で起きており、これは本来黒魔術分類。

ところが人間は、白魔術だけでは生きられないところがある。それはなぜかというと人間は肉体を持っており、肉体を維持する物質の部分にささえられているからである。

出口王仁三郎は、霊が主、体が従とし、霊の部分である精神性は白指向であって教説の大半はそれ。だが、霊にも肉体に近い副守護神があるとして悪部分、黒の部分があることも認めている。

キリスト教では、悪魔は肯定していないが、黒い聖母や、万聖節ハロウィンは、教団の内部に取り込まれ、肉体的な部分、経済的な部分を認めてはいる。

近代西欧文明は、キリスト教がバックボーンだが、このやむなく認めた功利性の部分(ホワイト・フォックス/白狐)につけこまれ、その災禍が極大化に向かっているのが今の時代だと思う。

つけ込んだ勢力は、百年前はフリーメーソンなどと言われていたが、広汎なマインド・コントロールの結果、人々の頭に経済性と便利の二語が離れることはなくなった。今や誰がフリーメーソン、誰がフリーメーソンでないと見分けがつかないほど、功利追求が当たり前と感じられるほどに動物に近く劣化したともいえるし、別の意味で進化したとも言える。

共産主義という考え方はある意味で純粋な功利主義マインドの社会である。

このような神仏的に見れば砂漠のような社会で、まともに誠実に敬虔に生きようとする人は、砂漠に咲く花のようなものか。
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スピリチュアルのるつぼとしてのカリフォルニア

2020-05-14 05:44:02 | 冥想アヴァンギャルド
◎アーユルヴェーダからゴールデン・ドーン

アーユルヴェーダは、テレビでも紹介されるし、お店もぽつぽつあるし、代替療法としては認知されている方だと思う。

ところが1930年代のハリウッドで既にアーユルヴェーダは大流行しており、戦後の1970年代のニューエイジ運動でもアメリカでアーユルヴェーダは再び大流行した。

そうした流れで、アーユルヴェーダは、最近になってようやく日本にも入ってきたというわけだ。

戦前のアメリカの名優ジョン・バリモアは、1930年代には40代になっていたが、アルコール中毒がたたり、せりふも覚えられなくなり、3度目の結婚にも失敗し、失意にあった。

そこで彼はインドのコルカタに渡り、アロマセラピー中心のアーユルヴェーダ施術を受けて、カーマスートラ的酒池肉林の1週間を過ごして回春した。

ところが、街で通りかかった老ヨーギに手相を見てもらい、「お前はアメリカに帰って、酒の飲み過ぎで死ぬだろう」と予言され、帰国後、その通り60歳前に酒の飲み過ぎで亡くなった。

アーユルヴェーダは、最近インドから直輸入されたわけでなく、戦前のカリフォルニアに既にあった。そしてそれがビジネスモデルを確立して日本に入って来たのだろう。

19世紀末から神智学のブラバツキー夫人に触発された心霊主義復古の流れは、欧州では二度の世界大戦で戦場となったこともあり一旦沈静化した。ところがカリフォルニアでは、降霊術、占星術、新興カルトの勃興、パラマンサ・ヨガナンダの訪米、水晶玉占い、カード占い、ヨーガ、薔薇十字派などなどスピリチュアルのフルメニューの何でもあり状態が1930年代から既にあった。

アレイスター・クロウリーのフリーセックスを基調とする霊的結社OTO東方騎士団(Ordo Templi Orientis, OTO)は、欧州では結局壊滅したが、アメリカのが一番長く続いた。

1970年代にアクアリアン・エイジとか夏至の祭りとか盛んに言われたが、これらはもとはクロウリーの用語である。

タロットでは黄金の夜明け団というのはそれなりの権威あるネーミングかもしれないが、今から見るとあらゆる奔放な試行錯誤の連続だった。だが、それが巡り巡って、カリフォルニアでのスピリチュアルの百花斉放と、現代アメリカ全体のまともな人間精神への取り組みにつながっているのは、卒啄同機であって当然と言えば当然のことであると思う。
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オーディンの箴言

2020-05-08 05:39:56 | 冥想アヴァンギャルド
◎冬は氷雪に降り込められる地域

北欧観光案内番組では、サウナとニシンの酢漬けは紹介されるが、オーディンの箴言が紹介されることはない。特にフィンランド。

北欧神話エッダは、神々の黄昏において、緑したたる新大陸の浮上を予言している。その点で、アトランティス起源で、来る至福千年、ネオアトランティスを予言しているから、正統的なものであるとわかる。

以下『』内は、「エッダ/新潮社P27-28」から引用。オーディンの箴言は下世話にも読めるが、ベン・シラの知恵と同様に、
時間のない世界を知った者のアドバイスとして読むことができる。

『注意深い客は、食事に呼ばれたら沈黙を守る。人の話に耳を傾け、眼であたりに気を配る。このように、賢明な人は誰でも、あたりに注意を払う。』
酒に酔って漫然とおしゃべりをするのもよいが、酒席では失敗しやすいことをオーディンは繰り返し注意する。

『臆病者は戦から身を守ったら、いつまでも生きられると考える。だが、槍には無事でも、寄る年波は容赦してくれない。』
コロナ禍はいつか過ぎるが、それをやり過ごしたとしても老いと死には勝てぬ。

『喰いしん坊は、分別を持たないと、食べ過ぎて一生身体を壊す。賢い人と一緒に来ると、愚か者は、腹のことで笑い種にされることが多い。』
食べ過ぎを嗤う人が、別の他人に食べ過ぎを嗤われる時節もある。依存、ホリックは誰でも陥りやすい罠なので、他人事とばかり考えてはいけない。

日本でも東北、北海道、北陸はそうなのだが、冬は氷雪に降り込められるということがある。冬の生活自体が、内省的、冥想的なリズムでできている。

温暖地域に比べ文明は発達しにくいかもしれないが、オーディンの箴言を読むとそうしたペースが根底にあることを感じさせられる。
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個人のカルマと世界動乱の雰囲気

2020-05-07 05:25:45 | 冥想アヴァンギャルド
◎生まれ変わってもよいと感じる国そうではない国

今でも冬の北海道では、車で移動していてガス欠になって人里離れた場所で止まると低体温症から死の危険があると言う。同様に古代イスラエルの砂漠での共同体の刑罰は、罪人を裸にしてサボテンにくくりつけることで、摂氏50度で熱射病となり半日もすれば死に至ったという。

古代イスラエルのような厳しい自然環境で生活する場合は、日常的に水や食べ物が不足しているので、羊などを放牧するために雨が降る場所に移動する。それでも食べ物がなくなれば他の部族と争って奪わなければならない。

クンダリーニ・ヨーギ本山博は、こうした厳しい生活環境だともう一度輪廻転生して来ようという気持ちは起こりにくいとする。中世の西欧も凶作と疫病の連続で免罪符を購入することを競ったように(もともとキリスト教には輪廻転生はないが)再生しようとは思わない環境だったのだろう。

第二次世界大戦で多くの犠牲者を出した日本。そんな時代的な雰囲気の中で、個人の因縁、カルマから、わが不幸、不条理を考えようというのが、戦後の新興宗教の基本線だったように思う。

笹目秀和は、神が敷いた地上天国実現のルートからずれ始めたのが大正5、6年(1917-1918)頃と見ているのだが、さもありなむ。

私の印象で言えば、1989年の冷戦終了で、唯一の超大国となったアメリカの時代と中国の経済急成長の時代が、ここ30年の主潮であり、どこが転換点のカーブだったかといえば、2000年頃だったように思う。

中国の経済急成長については、ピルズベリーなどアメリカの中国専門家たちがここに来て飼い犬に手を噛まれたというような発言をしてきているが、実はそれも予想の範囲内なのだろう(良き支那物)。

特にコロナ禍になってからは個人のカルマ云々よりも人類全体の運命如何というものが強く出て来ているように思う。

戦前のアメリカは日本との太平洋戦争について開戦の何十年も前からオレンジ計画という勝利のシナリオがあって、経済力、工業生産力でアメリカが圧倒するプランのまま勝利した。だが、今度の中国との紛争は、圧倒的というわけにはいかないのではないのだろうと思う。また、それが最終的に第三次世界大戦に向かう導火線になることはあるかもしれない。

大本教のご神体を返還した笹目秀和は、今次の混乱は、小三災(飢病戦)にとどまらず、6万年に1回の大周期の転換であると主張し、大三災(風水火)が起こることも語っている。

今の雰囲気は、ぬるま湯な2010年代初めの雰囲気とは明らかに違っている。

背骨を起こし冥想を。


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釈迦のマーガンディヤとの問答

2020-04-26 03:23:21 | 冥想アヴァンギャルド
◎教義とも学問とも知識とも関係なく

釈迦がマーガンディヤと問答した。

『839 師は答えた。「マーガンディヤよ。『教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』、とはわたくしは説かない。

『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らなくても、清らかになることができる』、とも説かない。

それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」』
(ブッダのことば/岩波文庫P186から引用)

教義とも学問とも知識とも関係なく、戒律や道徳を守ることともかかわりないというのは、相手によっては、悪事やりたい放題でも道に至るのかと大いに誤解させる説明である。

未悟の人がこのような覚者の説明を聞いて、調子に乗ってカルト教団を設立して、ブランチ・ディビディアンとか、オウム真理教などのように世の中を騒がせるというのはよく見ることである。

SNSでは、政治批評のコメントを立てる人が多いが、この釈迦の説明は、そのような議論をしかける自分を見つめ直さなければ「平安な心はない」と言っている。

自分を省察するということがどういうことなのか、全く想像もできない人もいるにはいるものだ。

だが、釈迦は、そんな人にも真っ直ぐに真実を説く。
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冥想のお試しキャンペーン

2020-04-25 06:00:22 | 冥想アヴァンギャルド
◎パチンカーに限らないが

大阪府で営業自粛命令に従わず営業しているパチンコ屋名を大阪府が店名公表したところ、予想どおりパチンカーが殺到してほぼ満員だという。

パチンコ中毒、パチンコ依存と他人事のように評価する人が多いのだと思うが、外に出て気晴らしするというスタイルに依存する人も多い。

大体ずっと自宅にいるのは、オタクとか、ニートとか、根暗とか、消極的、非生産的などと言われて、ここ何十年低い評価しかされて来なかったではないか。青年期に普通に禅をたしなんだのは、明治維新の元勲の世代まで。

只管打坐は、広間で集まってするものでなく、半畳に結跏趺坐、半跏趺坐して30分から40分をワン・クールでこれを何度か繰り返す。

オームは、唱え始めは落ち着かないかもしれないが、唱えるにつれ流れに任すにつれ、オームがオームを唱える。出きるまで。

南無阿弥陀仏は、独特のリズムがあるが、無理に坂東曲(ぶし)のようにヘッドバンキングして大きく身体を揺らさなくてもトランスには入れる。南無阿弥陀仏となるまでやる。ただし大声を張り上げると近所迷惑なので、心の中で唱えざるを得ないことがある。

南無妙法蓮華経は、また別のリズムがあるが、すべてが南無妙法蓮華経となるまでやる。そこが狙いだとか目標だとか考えてはいけないのもご高承のとおり。

観想法というのもある。イエスの一生を最初から最後まで想起して、イエスになりきるというのも代表的な観想法。スティグマタが出現することもある。

空を観ずるという観想法はチベット密教。チベット密教ではいきなり空観ではなく、いくつかの観想を積み上げて後、最後の方に空観。

PCでこのページを見ている人には、右側のコラムに冥想法の数々が並んでいることにお気づきと思います。

その中でもカーマ・ヨーガ(性愛冥想)、ソーマ・ヨーガ(薬物冥想)は、クンダリーニ・ヨーガと同様に初手から困難な道。

だからといって、とりつきやすい冥想法だから脇道に行かないということもない。

パチンコでもジャンキーになり、モバゲーでもジャンキーになる。同様に厳密に言えば、自宅で行う完璧に安全な冥想法などない。が、それでも自分に本当にしっくりフィットするものを求めるのであれば、肉体を整えつつ(冥想の準備)、一つ冥想を体験してみるというのは、この蟄居閉門を強制された時期の示すサインなのだと思う。

ここでは、メソッドだけ挙げたが、悟った師匠は絶対必要である。
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日本人のコロナ死亡率が少ない件

2020-04-24 05:44:10 | 冥想アヴァンギャルド
◎自己の際限ない欲望を見つめ直すことから始める

日本人のコロナ死亡率が少ないことは、古来より水が豊富で流水で手洗いうがいをする習慣があったこと、靴を脱いで室内を歩く生活スタイルになっていること。あるいは、入浴を頻繁にすること、BCGを広汎に接種されていることなどいろいろと言われている。

だがそれよりも何よりも、日本は世界に先駆けて世界の民族の範たるべき生き方をすることが求められていることの方がクリティカル。

それが十分にできていないから、世界に先がけて、原爆が二発も日本に落とされたり、東日本大震災のような未曽有の大津波が文明都市が並ぶ千キロにもわたる海岸線を襲ったり、原発のメルトダウンが起きたりしている。

コロナの感染拡大は世界のうちで日本は初ではなかった。だが、これほど世界のライフ・スタイルが、スマホを持ち、イアホンを耳に刺し、目で動画を追い、というような世界共通のものとなったからには、どこで発生してもおかしくはなかったと思う。

コロナは、予防と感染拡大防止、治療法、治療薬の開発は勿論重要だが、まずはパンデミックの原因・遠因である自己の際限ない欲望を見つめ直すことから始めないといけない。経済性と便利、金と便利を求めることは、いつの時代にも最優先事項というわけではなかったはず。
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世界的な言語の統一について

2020-04-18 06:19:40 | 冥想アヴァンギャルド
◎英語から言霊へ

明治初年頃に活躍した朝鮮の神人姜甑山は将来世界的に言語が統一されることを予言している。

しかしながら出口王仁三郎は、世界的な言語の統一ということは言っていない。ただ七十五声の言霊の活用ということは語る。

現代は、まさに英語が世界言語として君臨している。日本語であれば、少ない字数で済むものを多くの単語を必要とする英語。世界的な言語の統一とは、日本語が英語にとって代わるということではないと思う。

これについて、出口王仁三郎は、動物や虫、魚、草木、岩石に至るまで言葉を発しない者はないとする。古人は、すべてこれらの言語を諒解していたことは、中臣の祓に『草の片葉をも言止めて云々』とあることでわかるとする。

これに対して、外人は虫の声が聞こえないということは仄聞するところである。

ラッパ(無生物)はタチツテトのたった五音で軍隊を動かし、三味線(無生物)はパピプペポ、タチツテトの十音を以て一切を語り、牛はマミムメモ、馬はハヒフヘホ、猫はナニヌネノ、犬はワヰウヱヲというように、おのおの特定の言霊を使用することで、自分の意思を完全に表現する。その上で、足りない所は、目を働かせ身体のしぐさでもって補い、また声の抑揚や沈黙などで、その意思を明かに表示する。

出口王仁三郎は、自分の耳を澄まして聞き慣れれば、これらを聞き分けることが
できるという。さらに動物はおぼろげながら人語を理解できるのに対し、現代人の方は逆に禽獣草木の声が理解できないのは恥ずかしいことだとまで言う。(霊界物語第32巻第1章 万物同言)

すなわち動物や虫、魚、草木、岩石の声がわかることが言霊を駆使する基礎なのである。そこで初めて言霊の意義と活用の実地と理論が理解できようというもの。

英語、フランス語、スペイン語、ドイツ語、イタリア語、ロシア語、中国語などの語学が堪能にならなくとも、動物や虫、魚、草木、岩石の声が聞き分けられるレベルなら、外人との会話は、アーウーだけでもできるとする。

このように世界的な言語の統一とは、語学の統一ではなく、万人が動物や虫、魚、草木、岩石の声が聞き分けられるほどに感性が精妙になることなのだと思う。それが成るためには、愛がなければできはしない。

旧約聖書に、バベルの塔崩壊後に他人の言語が聞き分けられなくなったとあるが、それはこうしたレベルでの言語の話なのだろうと思う。これも霊的文明の相。
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