アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

西行の恋心

2018-12-06 05:35:47 | 冥想アヴァンギャルド
◎願わくは花の下にて春死なむ

西行は、求道者であるが、悟った感じはない。歌を詠むには恋心が必要だと出口王仁三郎はいうが、心情を外部に顕すという恥ずかしさを吹っ切るところも要ると思う。

以下の西行の歌の花や木は大方桜のことである。


思ひかへす悟りや今日はなからまし 花にそめおく色なかりせば

春を経て花のさかりにあひ来つつ 思い出多きわが身なりけり

憂き世にはとどめおかじと春風の 散らすは花を惜しむなりけり

春ごとの花に心をなぐさめて 六十(むそじ)あまりの年を経にける

吉野山こずゑの花を見し日より 心は身にもそはずなりけり

花に染む 心のいかで 残りけん 捨て果ててきと 思ふわが身に

葉隠れに散りとどまれる花のみぞ 忍びし人に逢ふ心地する

思へただ花の散りなむ木のもとに なにを蔭にて我が身住みなむ

願わくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月の頃


悟った後はその人はその人らしくなるという。社会的に不適応であったとしても、桜とか愛人とか酒とか珍味とかこの世が好きだ人間が好きだという覚者はいるものだ。


以下は西行が悟っていないっぽい歌。

ともすれば月すむ空にあくがるる 心の果てを知るよしもがな

あはれなる心の奥をとめゆけば 月ぞ思ひの根にはなりける

ゆくへなく月に心の澄み澄みて はてはいかにかならむとすらむ

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虚の情報を実に転換するマスコミ

2018-11-29 05:29:07 | 冥想アヴァンギャルド
◎虚に踊る現代人の脳

ICT(情報通信技術Information and Communication Technology)あるいはITで、さらに豊かな社会を実現するなどというスローガンが最近掲げられている。

また膨大な個人情報漏洩問題と外国による選挙介入や人種差別など不適当な情報の削除責任問題に揺れているfacebookのザッカーバーグCEOは相変わらず、「今後さらに多くの人が発言の場を得るのは良いことだと思う」などと「SNSは、なんちゃっていいことだ」的な発言を繰り返している。

先週の台湾の4年に一度の統一地方選挙では、与党・民進党の惨敗。ハイライトとなった民進党の地盤であった高雄市長選挙では、国民党の落下傘候補韓国瑜が、逆転勝利した。

勝因は、ネット選挙で、対立候補を批判しなかったことや、自分は禿げ頭の野菜売りで、高雄を台湾一豊かな都市にするなどのわかりやすいスローガンだったことなどと言われている。

だがこの背景に中国のネット世論工作があったと言われる。韓国瑜の選挙宣伝用のネット動画は100万人以上が視聴し、それが実は中国の工作ではないかと言われる。だが、その大量アクセスが台湾メディアに大きく取り上げられ、それがさらに台湾全体で国民党への追い風となったとされている。

こうした国境を越えたネット工作は、日本を含め他のアクセス・ランキングでも広汎にあるのだろうと思われるふしがある。

どうみても大した中身のない外国系ブログやSNSが毎日更新されていないにもかかわらず常時上位にいるのは、よく見るところである。

音楽のヒット・ランキングでもそれと思しきことを国家ぐるみで推進している国もあり、ゆるキャラグランプリで組織票が問題になった。

だが、そうした虚の情報を実に転換するのはマスコミであるというところが問題の肝であるように思う。

一言で情報操作、マインド・コントロールと片付けることは簡単だが、権威あるべきいろいろなランキングがネット広告アクセス数を含め、国家、大企業、大組織、官憲などIT強者により大きく介入され、結果的に実態とはかけ離れていることは、そろそろ常識となってよいのだろうと思う。

20世紀、21世紀は、マスコミが人の頭の中を支配している時代。頭からマスコミをとったら何も残らない時代。それは空恐ろしいことでもある。

今やそれは、キャッシュレスという金の世界にも及ぶ。金のために働く人は多く、命の次は金の人はあまりにも多い。だが、一方で北海道の電力ブラックアウト、ソウルの基幹回線火災による現金を持たないことは致命的である事件も時々起きている。かつては、新円切り替えなど政策によるそれに類することはあったが、こんどは現金データが通信途絶で使えないという新たな危機が現実化した。

核爆発で強力なEMPが発生し、データが消えるというのもある。

便利は危ない
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自分だけのための冥想

2018-11-19 05:16:30 | 冥想アヴァンギャルド
◎生きとし生けるものすべての孤独

釈迦は対機説法と言って、同じことを質問されても、相手が変わると全く違う回答をしてみせた。

禅家でも二人の人物が同じように御簾を巻き上げても、一人はだめで一人はOK。

そういうことは、まともな宗教家なら皆同じ。

OSHOバグワンは、釈迦も釈迦だけの道に沿って進んで行ったように、各人には、各人だけの冥想の道、各人のためのヨーガがあるとする。

そしてあれだけ講話を重ねたにもかかわらず、各人には各人のためだけのアドバイスしかできず、万人に共通のアドバイスなどはないと釘を刺す。

自分の道は、自分で進むしかなく、自分の生は他人が代わることはできず、自分の死も他人が代わって死ぬことはできない。

そうした絶対の孤独の中で人は修行する。その暗闇をアヴィラのテレサは暗夜と称した。

その孤独を押し詰めると、絶望と恐怖しかない。恐怖は欲望とペアで発生する。夢を携えて欲望はやってくるが、その先には絶望しかない。人間であることに永遠とか不壊不滅はない。築き上げたものはあの世に持っていけない。

今は『絆』という言葉が流行るが、いつの時代でも、どんな歓楽の席にあっても人は詮ずるところ一人でしかない。

あらゆる生きとし生けるもの、あらゆる死せるものは、すべて孤独であるしかないと知る時に『命の悲しみ』に出会うことがあるのだろうと思う。
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冥想の4か条-4

2018-11-18 05:34:46 | 冥想アヴァンギャルド
◎そもそもの最初から備わっているような何か

OSHOバグワンの冥想の4か条の続き。

『第四番は深刻さだ。瞑想について考えたり話したりする人々は、瞑想を深刻なものと受け取っている。彼らは、それを仕事のようなものとして受けとめており、遊びのようなものとしては受けとめていない。だが、もし瞑想を深刻なものとして受けとめるなら、瞑想が起こるような状況は創り出せない。深刻さとは緊張だ。そして緊張した心は、決して瞑想の中には存在できない。

瞑想をゲームとして、子供がやるようなゲームとして受けとめなくてはならない。瞑想する人々は、遊び心に満ちているべきだ。すなわち存在との戯れ、生との戯れ―――無重力で緊張のない心、何かをやっている気分ではなく、リラックスしている気分でなされるべきだ。リラックスした瞬間、遊び心に満ちた瞬間にのみ、そのハプニングは可能だ。

深刻な人は宗教的にはなりえない。すべての宗教家たちは、あれほどまでに深刻だ!まるで病的で、憂鬱な顔をしている人々だけが、宗教的であるかのようだ。だが瞑想とは、しなければならないような重大な何かではない。

それは、絶対的に無目的な何かだ。つまるところ、そもそもの最初から備わっているような何かだ。達成されるべき何かがあるわけでも、何かを通らねばならないようなものでもない。それは意味づけできないものだ。』
(グレート・チャレンジ/和尚/市民出版社P18-19から引用)

何のために坐るのか。

七日間押し詰めて坐れば、悟りが開けるかもしれない。

先師が死去したので、慌てて千日間坐ったら、覚醒するかもしれない。

一生をかけて周天を積み上げ、頭頂上に出神を出そうとしたが、今生ではちょこっとしか出なかったかもしれない。

一生をかけて毎日念入りに呼吸法を繰り返し、柔軟系のハタ・ヨーガを繰り返し、ボディの浄化を進めたが、その生ではクリア・ヨーガに進めなかったかもしれない。

毎日自分の呼吸を見つめるヴィパッサナーをやっていたが、発狂しちまって、何年か何十年か、戻って来なかったかもしれない。

皆真剣に我が人生をかけて坐っている。現代人に必要なのは、深刻さ、本気度の方であって、一旦たがを緩めればあらゆるマインド・コントロールの罠にからめとられる。テレビ、スマホ、モバゲー等々。

ここで言うリラックスとは、連続的な緊張、努力の先にある、とあるリラックスのことだと心得たい。

まずは、本気が先だと思う。現代は、本気でやらない時代、深刻なことを我がことと考えない時代。

このOSHOバグワンの4つめの条件は、大いに人を誤らせる。クリシュナムルティは、おちゃらけたところはほとんどなかった。

遊戯、戯れを言えるのは、神を知り、
耳で見て目できき、鼻で食べて、口で嗅ぐような連中だけだ。


耳も目も口鼻もきき手足きき 頭も腹もきくぞ八ツ耳
出口王仁三郎
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冥想の4か条-3

2018-11-15 03:11:51 | 冥想アヴァンギャルド
◎瞬間から瞬間に生きる

OSHOバグワンの冥想の4か条の続き。

『瞑想的な心は、瞬間から瞬間に生きるということだ。それは積み重ならない。
やって来るひとつひとつの瞬間を、ありのままに生きる。それは決して“今ここ”を超えてはいかない。それは常に今だ。 やってくるそれぞれの瞬間に受容的だ。』
(グレート・チャレンジ/和尚/市民出版社P17から引用)

これは、今ここであって、まるで以上3か条は、クリシュナムルティが語っているかのようだ。現代人が冥想に向き合う姿勢というのは、この辺が入り口となっているのだろうと思う。

何のために冥想するのか。それを悟るためだとか、ニルヴァーナを知るためとか、神と合体するためなどと語ると、それは間違いとなる。よってこの冥想の4か条みたいなものが必要になってくる。

受容的とは、天機・天命を俟つという姿勢のことであるように思う。

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冥想の4か条-2

2018-11-14 04:46:20 | 冥想アヴァンギャルド
◎全面的に自分の無知に気づいている

OSHOバグワンの冥想の4か条の続き。

『瞑想に関して私が言いたい第二のことは、あなたは全面的に自分の無知に気づいていなければならないということだ。蓄積してきた借り物の知識が本当の知識ではないと知られるときにのみ、自分の無知に気づくことができる。』(グレート・チャレンジ/和尚/市民出版社P13-14から引用)

『蓄積してきた借り物の知識が本当の知識ではないと知られるとき』とは、いつの時点のことを言うのだろうか。

全体なるもの、この一なるものを感得して初めて、自分の無知を知り得る。

一方ソクラテスの無知の知は、自分が無知であることを自覚していたということで、この第二の条件と等しいと思う。よってソクラテスの哲学は今でいう哲学ではなく、禅問答に近いジュニャーナ・ヨーガとさる冥想法を合わせたようなものであるように思う。

ソクラテスは、さらに汝自身を知れとやったが、汝自身とは、アートマンのこと。

ダンテス・ダイジは、あらゆるものが見知らない状態があることを語ったが、それが、全面的に自分の無知に気づいている状態かもしれない。
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冥想の4か条-1

2018-11-13 05:28:39 | 冥想アヴァンギャルド
◎待つ心 如来

OSHOバグワンが冥想の4か条を語っている。

『瞑想とはまさに、何かが起こりうるような受容的な状況を創造することだ。そしてあなたにできる唯一のことは、待つことなのだ。

待つ心とは、知られざるものを待っている状態を指している。なぜなら、これから起こることは、前もって知ることはできないからだ。』
(グレート・チャレンジ/和尚/市民出版社P12から引用)

七つの身体、世界の逆転、時間・空間・物質と、それを理解する道具立てはそろっているが、学校の勉強とか資格試験みたいに一定の知識を覚えこめば合格できるというような「教学試験」のようなものではない。

それが起こるまで待つしかないというが、それまでの努力の積み重ねは必要なものだと、OSHOバグワンも言う。

十牛図でも第七図までが、努力のシーン。
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頭と胸のバランス

2018-11-08 05:29:53 | 冥想アヴァンギャルド
◎頭でっかちな現代人=マインド人

冥想は、バランサーである。

OSHOバグワンは、マインドという言葉を頭(脳)の側の心という意味で使っているようで、ハートという言葉を胸の側の心という意味で使っているようだ。

知性とはマインドの属性の一つであり、昨今の人類は、マインドの側ばかり強化してきたから、全人類が狂気に落ちる寸前であると見立てる。事実狂人は増えている。

そこでOSHOバグワン流に言えば、人間のハートの弦が緩み過ぎていると怒り、敵意、妬み、憎しみしか出てこない。マインドの弦が張りすぎていると狂気が生じる。

ハートの弦が緩み過ぎていれば、少し締め、愛が生まれるように。マインドの弦が張りすぎていれば、少し緩め、鋭敏な知性が生まれるように

そして多くの現代人は、ハートの弦が緩み過ぎて怒りっぽく、マインドの弦が張りすぎて生きづらく、その結果は胃をやられる結果になりやすい。

このハートの弦とマインドの弦のバランスをとるのが冥想である。
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死後の転生を釈迦が説く

2018-10-25 05:34:44 | 冥想アヴァンギャルド
◎ニルヴァーナから戻らない

釈迦が、ナーディカ村で、何十人かの既になくなった在俗信者や僧尼が、死後どうなったかを問われ、ある者は在世中に心の解脱を達成し、ある者は三つの束縛をなくしたから、欲情と怒りと迷いが次第に弱まるので、もう一度だけ転生してきて苦しみを滅ぼし尽くすなどと答えているシーンが仏伝にある。

その中で尼僧ナンダーは人を下界に結び付ける5種の束縛(貪り、怒り、我執、誤った戒律や禁制への執着、疑い)を滅ぼしたので、ひとりでに生まれて、ニルヴァーナに入り、そこから戻って来ないというのがある。

この『ひとりでに生まれて』とは、死後どこにどのように生まれることなのだろうか。

とある定まったプロセスに沿って大悟覚醒し、ニルヴァーナに入るのだが、それが『ひとりでに』ということだろうか。
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上にある神、下にある神

2018-10-24 05:25:08 | 冥想アヴァンギャルド
◎西にある神、東にある神

ある宗教では神は上にあるという。その場合、神と人とはもともと別ではないが、神は優れ、人は劣ったものと思い込みがちになるので、自ずとその宗教での冥想手法は祈りの冥想となる。その場合、人と神がもとより一つだと語ると異端として排除されるようなことまで起きることがある。

ある宗教では神は下にあるという。下にある神は立ち昇り、だんだん上がっていくと体験する人がいる。その場合、神と人とはもともと別ではないが、祈りではなく冥想の宗教となる。

またある宗教では、西にどんどん行けば神がいるなどという。あらゆるゴミにもがらくたにも神が宿り、地獄の果てでも神がいるのならば、あるいはすべてのすべてが神であるのだから、西も東も関係はない。

またある宗教では、神は上でもなく下でもなく東でもなく西でもなく内でもなく外でもないという。そして今日只今ここで神を体験せよ、感得せよ、神になれと坐らせる。

この時代は神仏に対するあらゆるアプローチが出そろった。ネットで探しでもすれば、その手法はどこでやっているかはわかる。

だが師匠なくして、到達するのは困難であり、ネットでは本物の師匠は見つかりやしない。

悟りは情報の質とか真正さということではない。
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人間の性根には限りがある

2018-10-20 06:03:29 | 冥想アヴァンギャルド
◎人間の総決算

人間の性根には限りがあるから、あまり読書や学問に力を入れると、その結果実務には疎くなるとして、学者の論に至らぬところをかばったのは、勝海舟(氷川清話)。

人間の性根というか気力には限りがある。人間には、公生活の面と私生活の面があるが、両方がちゃんとできるのが望ましい。21世紀の人にあっては、神仏を知りつつ、公生活と私生活を両立させるのがベスト。

だが、気力は肉体が若い時が極盛であり、老いるに従って落ちる。

公私両立させ、さらに冥想もやり続けるには、かなりの気力・性根の維持が必要となる。

ダンテス・ダイジも、若い時には忙しいことを理由に冥想をしないで老境になってからしようと思っている人もいるが、いざ老人になると、冥想に打ち込もうとする気力は既に失われているというようなニュアンスのことを言っている。

老人は、ある日老人になるのでなく、少年、青年、中年の無数の日々の積み重ねの結果そうなる。

その点でも3分間坐禅の継続もばかにならないものであり、背骨を真っすぐに立てる時間を毎日設けるというのも、効果効果と言わずに行うことが大切だと思う。

人の一日の性根には限りがあり、性根こそ行動エネルギーの源泉なのだが、その限られたエネルギーを老人になるまで日々何に振り向けてきたかが、人間の総決算ということになろう。

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時はしぼみおとろえる

2018-09-22 06:33:00 | 冥想アヴァンギャルド
◎滅びざる焔

W・B・イェイツの1899年の詩から

『情調

時はしぼみおとろえる
燃えつきたろうそくのよう
山々にだって森にだって
終わりがある終わりが来る
だが焔から生まれた情調には
ひとつとして滅び去った
ものがはたしであったろうか』
(W・B・イェイツ全詩集 北星堂書店P31から引用)

冥想修行者でなくても、中高年になってもまともに生きようとする人は、柔軟体操、呼吸法、あるいは坐法は欠かさないもの。

それでも気分が落ち込んで滅入ることもある。体調が思わしくなく、何事もやる気が起きないようなこともある。特に今年の夏の異常な猛暑にあっては、意識するしないにかかわらずそうしたことが多かったように思う。

だが気分も体調も天気のようなもので、それは永遠絶対のものではないから、それはやがてしぼみ衰え、別の相、アスペクトがやってくる。

それを横目に見つつ、一日に一度は、滅びざるものに視線を向け、振り子が正中に戻るように自分を立て直す。
背骨をまっすぐに立て。

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明智光秀の妻が髪を切る

2018-09-16 06:17:33 | 冥想アヴァンギャルド
◎髪と指

毛髪には呪力があり、禰宜は髪長であり、髪を伸ばす。仏僧は、剃髪して髪を切る。

インドでも中国でも日本でも古来長いは商品として販売することができた。だが単なる商品価値ではなく、を切る方には、神仏の加護が薄くなったり、外見が女らしくなくなるという女性としては致命的な問題も派生する。

明智光秀が元旦に朝倉家を立ち退き、柳が瀬の知人方に逗留していたが、ある日連歌の会を催すことになった。

人数が集まるので妻にもてなしを言いつけた。妻は、日々の食事も貧しいのにどうしたものかと悩んで、自分の黒髪を売って銀二十目に替え、その日の饗応を盛大に行うことができた。

光秀はこの仔細を知らず、妻ののないことを怒って、このようにするのは離縁してくれということかと罵りまくった。

そこに下女が出てきて、かくかくしかじかと事情を話したところ、光秀は、そのような事情があるとは夢にも知らず感情のままに言い過ぎたことを許したまえ。その代わりに私が天下を取ったとしても、生涯妾は持たないと誓った。

果たしてその後、光秀は一生他の女を近づけず、妻に先立たれた時には、彼女を武将でありながら徒歩で見送って、周囲の人々を感服させたという。

明智光秀は主君を裏切った不忠義者だが、なぜだかこの話だけは光秀を賞賛する話として伝わっているという。


松尾芭蕉が明智光秀公一族の菩提寺である西教寺を訪れた時の一句

月さびよ 明智が妻の 咄(はなし)せよ

出口王仁三郎は、光秀=利休説をとっている。

経絡は、エーテル体と重複するが、経絡の手のラインも足のラインも指で終わる。髪は頭部にあるが、手足に対する指のような位置づけが髪であるのかもしれない。

仏足頂来は、足指から放射するエネルギーを頂くのだともいう。

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死の前夜に魂の如きものが飛ぶ

2018-09-08 06:25:39 | 冥想アヴァンギャルド
◎討ち死に前夜

文禄年間の随筆義残後覚の巻三に出ている奇譚。

北國の人の話では,越中の大津の城を佐々内蔵助が攻略している時のこと。

攻撃側の人数があまりにも多く、城中では弱り果てて、このままでは明日にも討ち死にしようとお互いに別れの挨拶を言い交し始めたところ、女子供が悲しむこと限りなく、まことに哀れな状況であった。

こうしているうちに、日暮れになろうとする頃、城中より太陽と見まがうほどの光る玉が数限りなく飛び出すのが見えた。

攻撃側はこれを見て、城中はもう死ぬ支度をしている、あの人玉のわーっと出ていくところを見なさいと言って、我も我もと見物した。

城中からは、降参の申し出を行い内蔵助もこれを受けたので、翌日城中の面々はとても喜び安堵した。

さてその日も暮れようとするところ、昨夕飛んだ人玉が、どこから湧いて出てきたのかことごとく城中を指して飛び戻ったという。
(参照:日本古文献の精神病学的考察P18(国会図書館デジタルアーカイブ))

この人魂の話は、俗人の大いに興味を引くところだが、出口王仁三郎もOSHOバグワンもほとんど言及していない。

大量死の起こる前夜には、そういうことを意識レベルの低下に伴って目撃する人も増えるということなのだろう。

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人を偏見なく見る

2018-09-07 05:31:55 | 冥想アヴァンギャルド
◎精神の高みを見る

学歴もなく教養もなく金もないが、悟っている人はいるものだ。例えば浄土真宗に妙好人として南無阿弥陀仏の連唱だけで覚醒した市井のそうした人がいることは知られている。

いまでもそのようにお題目教団や念仏教団のまじめな平信者のおばさんの中にそうした人はいるし、カルト教団の平信者の中にすらもそういう人がいないとも限らない。

神仏は、そうした覚者を教団の底辺とか辺縁部に配置することがあり、教団そのものの伝法、真理の伝承は時にそういう形で護持されていくことがある。

伊勢神宮が応仁の乱後にほとんど断絶寸前になった時に寄進の音頭をとったのは、有名神道家でなく、なんと仏教徒のおばさんだったことは有名だ。

スワミ・ラーマの支援者の一人アン夫人は、親族で知的障害をもつキティおばさんの世話を長年にわたってやってきた。アンにとっては、キティおばさんは、厄介者であり、キティおばさん自身にとっても知的障害を持って生きることは不幸なことだと感じているに相違ないと思い込んでいたのだが、意外なことにスワミ・ラーマは、チビで知的障害のあるキティおばさんは既に相当な覚者であることを示唆した。(キティおばさんは、スワミ・ラーマに5柱のサポート神霊のあることを見抜いた)

丹波哲郎の霊界探訪の「霊界旅行」では、光の存在に導かれて、バスが崖から転落した事故で死んだ25名のあの世での一人一人の消息を追う。その中で知恵遅れの若い女性が強姦されたことでシングル・マザーとなるのだが、彼女がこの不慮の死を遂げた25人の中では最高の境涯にあった。

このように知的障害とか知恵遅れと精神の高さは連動しない。また精神障害ですらも精神の高みと連動しないのだろう(ヘルダーリンみたいに神を見ても統合失調というのはある)。

もっともここは知的障害、精神障害の社会性のなさを否定するものではなく、求道者としては、彼らの精神の高みを偏見なく見るべきだということである。

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