アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

役行者と空海

2016-12-03 06:21:12 | 修験道
◎知られざるご神業

修験の山大峰では、役行者信仰一辺倒だそうだ。その大峰でも修行した近藤得海氏。今も存命なら90代だろう。

『神奈川県大和市の近藤得海師(75歳)。一本歯のゲタで、のし歩く。

「まあ、役行者さんのあとのくくりをしているのが、お大師さんだな。イロハはお大師さんがつくったろ。
じゃ、アイウエオはだれがつくったんだ。役行者さんよ。そういう関係だよ。」

当方絶句するほかなかった。』
(異界を駈ける/藤田庄市/学研P133-134から引用)

役行者と空海の他と隔絶した高評価は出口王仁三郎と同様である。修験にそういう伝承があるのか、あるいは、チベットにおけるパドマサンバヴァのように、日本の霊界シーン自体を根本的に革正したのか。

いずれにしてもその時代に、仏教が入ってまもない若い日本に、役行者と空海ペアが出て、古神道・修験と仏教との調整、あるいは宗派を超えて一千年以上続く宗教ロードマップを敷いたのだろう。

こういうのをご神業と呼ぶのだろう。
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千日回峰行を生きる

2015-08-31 06:56:32 | 修験道
◎できた話よりもできなかった話が多い

千日回峰行を生きる/光永圓道/春秋社」は、千日回峰行者自身の問わず語り。記者が行者自身から聞き述べる本は、多いが、行者自身に語らせるのは異色。

光永圓道自身の語りの中に悟り云々はないが、自分でできることはなく、仏の意思のままに生かされてきたという雰囲気を全体に感ずることができる。

千日回峰行も続けていけば、雑念はそぎ落とされていくだろうし、毎日峰回りをする中であっと気が付くこともあるだろう。

また例の十万枚大護摩供は、断食、断水、不眠で七日日を過ごすのだが、自分の生命の危険をも顧みずに、行のために行を修めるという姿勢の真摯さは凄い。ただこうしたものの常として、この行を厳修したから悟れるなどという保証はない。

全体として、修行のために外部から隔離された専門道場の中での長く厳しい修行を経た方なので、仏に出会う・仏を感じるという体験は経ているのだろうと思う。ただそれが外界で通じるかどうかは、機根によるのだろう。天国と地獄の結婚というようなものを扱えるかどうかは、やはり別の問題のように思う。

五穀断ちとは、塩断ちのことであるとは、体験者でなければ知りえないが、身体が動きにくくなりながら、エコノミークラス症候群を起こさないようにするには、何か経行のような肉体を動かす作法があるのではないだろうか。

千日回峰行も十万枚大護摩供も若くないとできないし、誰もチャレンジできる行でもない。

この本は、できた話よりも、できなかった話が多く、筆者のフランクさがうかがえる。
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白山の平泉寺の焼亡

2010-09-30 06:12:48 | 修験道
◎パワースポットの盛衰

白山は、加賀、越前、美濃にまたがる修験の山として知られ、白山の寺といえば、平泉寺である。

白山は、大徳泰澄によって養老元年(717年)開かれたとされ、平泉寺は平安の中期よりその勢力が強力になっていった。
木曽義仲の兵乱では、1181年、平泉寺は最初は源氏についたが、後に平家方に寝返った。

さらに勢力が強勢となった南北朝の時代では、最初は比叡山・吉野など修験勢力が南朝についた関係で南朝方についたが、後に北朝方に寝返った。こうして16世紀天文の頃、平泉寺は六千坊と言われるほどの最大の伽藍を有するに至った。

しかし越前で一向一揆が盛んになるや、1574年本願寺顕如は、平泉寺破却を門徒に命じ、三日三晩の攻防の結果、平泉寺一山は猛火に包まれ、六千坊は灰塵に帰し、平泉寺は滅亡した。

1583年には、平泉寺再興が始まり、越前藩主などの支援も受け、寺運は再び高まったが、江戸時代は、天海僧正の意向もあり、上野寛永寺系の住持が多かった。

明治の神仏分離によって平泉寺は廃止され、白山神社のみとなり、住職は還俗して平泉氏を称して今日に至る。

古社名刹といえども、2千年タームで見ると、中断された時期があるのは不思議なことである。あの伊勢神宮ですらそうだったのであるから、いわんや白山平泉寺をや。

古社名刹はパワースポットとかいうけれども、そこに集まる人の運気を反映というか、白でも黒でもない人が多数参詣すると、やがてそのパワーは微弱化するみたいな法則があって、ついにはパワースポット上の寺社は一旦は滅亡するというようなことがあるのではないだろうか。


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天狗の出自

2006-12-20 05:57:27 | 修験道
◎スピリチュアルな隣人

これは、太平記にある話。

1348年ある禅僧が仁和寺の六本杉のあたりで、夕立を避け、雨やどりしていた。晴れ間を待つうちにいつしか夜となり、雨後の月明かりに映える六本杉の梢に、比叡山、愛宕山のあたりから簾を降ろした輿が虚空を飛んで、三々五々集まってきた。

黒ずんだ黄袈裟で目は金色に光り、嘴は鳶に似て尖り、水晶の数珠を繰るのは後醍醐帝の外戚にあたる峯僧正春雅、その左右には南都の智教上人。浄土寺の忠円僧正、その他の居並ぶ人も同じように両脇に翼が生えている。

やがて一際りっぱな輿に乗ってやって来たのは、大塔宮護良親王で、先着の天狗達のあいさつを受けながら上座に坐った。

さてこの一団は寺侍の運んできた銀の銚子と金の盃を回して酒盛りを始めたが、一言も語り出すものがいなく、陰々滅々とした雰囲気のうちに献酬が続いた後、突然下座の方から「ワッ」という悲鳴が上がったかと思うと、一同一斉に手足を締めて悶え苦しむ。頭上からは黒煙が燃え立ち,七転八倒して泣き叫ぶこと一時間あまり、みんな火に焼けて、一塊の黒こげになってしまった。

禅僧は、生きた心地もなく「恐ろしいことだ。天狗道の苦患に日に3度熱鉄の玉を飲まされるとあるが、さてはこれがその呵責かと震えながら様子をうかがっていること4時間。すると一同何事もなかったかのように息を吹き返して、威儀を正した。

そこで峯の僧正が「せっかく北条家を滅亡させて、王政に復したのも束の間、今また足利尊氏の反逆によって武家に権力を奪われ、足利一族の悪政により天下は怨嗟の声に満ちている。この期をはずさず、足利家に内紛を起こさせる良い策略はないかと、大塔宮の御意志により皆様に参集願った。」と申すと、

忠円僧正が、「まず大塔宮が尊氏の弟直義の妻の子として男子として出生する。次は尊氏の尊崇篤い夢窓国師の弟子の野心家の妙吉侍者の心に峯の僧正が入り込み,邪法を吹き込み、政道に口を出させる。また智教上人は、佞奸で嫉妬深い上杉重能、畠山直忠の邪心に取り入り、高帥直、帥泰強大を滅亡させる。そうすれば、尊氏兄弟は不和となり、各国の叛乱を押さえることもできなくなるだろう。」

大塔宮以下の一座の大天狗、小天狗が、又とない謀略であると賛同して煙のように消え去ったのは、もう夜明け近くのことであった。
(参考:天狗の研究/知切光蔵/原書房)

天狗は、仏教十界説でいえば「天」の分類なので、天人五衰と同様に、熱鉄玉を飲むような激しい苦患の相を表す。時には、この談義のように有力者出身の天狗が、天下の謀略を行うため人に取り入ることもある。

これは、悪玉天狗の例であるが、修験道場とされる山に居る天狗は総じて善玉である。彦山豊前坊、京都愛宕山太郎坊、鞍馬山魔王大僧正、榛名山満行坊、赤城山杉ノ坊などなどがそれ。平安から江戸期まで、日本のスピリチュアルな隣人と言えば、天狗がその一つだったのだろう。これほどポピュラーなのは、日本人の集合的無意識に組み込まれているってことでしょう。


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天狗

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天狗の山

2006-12-19 05:19:15 | 修験道
◎最初は凶星

日本には、天狗のメッカと呼ぶべきところは数多く、京都の愛宕山を手始めに、伊吹山、秋葉山から南信濃にかけて、木曽の御嶽山、富士山の北側、戸隠、出羽三山、吾妻連峰、高尾山などなど数が多い。近畿の岩屋山や、埼玉県秩父地方も天狗譚が多いところとして知られる。至るところに天狗岩なんかもある。

もともと中国の史記や漢書では地上に災厄をもたらす、凶星のことで、特に彗星の出現のことを謂ったようだ。日本では637年に出現した超特大の彗星のことを、日本書紀で天狗と読んだのが嚆矢(こうし=はじめ)とされる。

ところが時代が下がるにつれて、世の中の怪異、霊異のことを天狗と言うようになり、平安時代になると山に棲む小さな妖異として世人に認知されるようになった。その当時には何といっても京都愛宕山の太郎坊が全国的な知名度を誇っていた。

天狗は山伏の友人。役行者が使ったという前鬼、後鬼も時代が下がると、天狗の人気の高さによって、いつのまにか天狗の姿になっていたそうだ。天狗は修験者を助ける神霊の代表格と見て良いのではないだろうか。

天狗の得意技は神隠しと天狗さらい。江戸時代には神隠しの下手人として恐れられた。天狗に逢うのは、まれなことで、逢っても一生に1回か2回のことである。

山奥も開発が進み、道路ができ、天狗が身を潜めることのできる場所も少なくなった今の時代。山伏が里に出たように、天狗も街に入らざるを得なくなってしまったのだろうか、ひたすら闇をなくすことにご執心の近代西欧文明の最後のステージ。


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天狗

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修験道フリー・ウェイ-14

2006-12-11 04:49:08 | 修験道
◎修験三十三通記-12
(深秘分第三、無作三身大事)

いったい修験で言う無作三身とは、本来この身は仏であるが故に、このままで(無作)三身(法身、報身、応身)であるということ。あらゆる生き物の精神や肉体などすべての存在がそれぞれがニルヴァーナ(仏)そのものであり、偏っておらず、遍満しており、常住普遍である。これが法身である。

次に各々の法身に、もとより覚っていることの徳があって、明瞭にはっきりしている。これを報身と呼ぶ。

次にその報身であるところのあらゆる生き物それぞれの精神や肉体などは、おのおのその徳の働きを施している。つまり天はあまねく地上を覆い、地は遍く万物を載せている。水は万物を湿らし、風は万物を生み出し、火は万物を焼き、食は飢えを止めるなど、皆これ無作の応用(報身)の働きである。

仏界から地獄界までの十界の過去のカルマにによって得た心身(正報)やそれを取り巻く国土山川草木などの環境(依報)というもの、また精神や肉体の二区分が厳然として動じないことが、このままでいい(無作の三身)ということである。

風は樹木の枝を鳴らし、波は砂や石を打つ。これらの窮極の世界(法界)の音は、このままでいい(無作の三身)という説法である。

それで、最澄によれば、悟るための修行をして法身や報身になるというのは、夢物語(夢中の権果(かりそめの現れ))であり、このままで窮極の実在である(無作の三身)というのは、悟りを開く前のほんものの仏であるという。

全体として修験三十三通記に特徴的な窮極の側、つまりニルヴァーナ、仏の側から見る視点からの説明である。この説明を知的に理解しても、人生を生きる意味が見つかったり、その虚しさを解決する鍵が手に入ったりするわけではない。それは、人間の側にそもそも解決などないからであることを、心して読まなければいけないからである。


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不動明王立像(神童寺)

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修験道フリー・ウェイ-13

2006-11-29 04:29:06 | 修験道
◎修験三十三通記-11
(深秘分第二-螺緒(かいのお)の大事))-2

続いては、大峰修験中興の祖聖宝僧正の口伝。

螺緒は、理・智・事(母・父・子)の三点を表す。
左の緒は胎蔵界の理であり、母の陰。長さ二丈一尺でこれを曳き回しという。
右の緒は金剛界の智で、父の陽で慧。長さ一丈六尺で、これを螺緒という。

修験者は、(陰陽とも備えた)不二であり、(三分法で言えば)、理は母であり、智は父であり、事は(母と父から生れた)行者である。このことは、理をもって体と為し、智をもって性と為し、和合をもって(大日如来の)身と為す。つまり理と智が和合すると即身(自性=大日如来)であるということ。

他の宗派は、理と智は、もとより備わっていることを言うが、自性身(大日如来)がもとからあることを許しているものはない。

修験の意義は、人も仏法も仏法そのものであるから、理・智・事の三点がもとより備わっている。故に理である母、智である父から生れた我が身は、理智が合体した金剛不壊の法身の大日如来である。

禅定と智慧の二つの法は、コラボレートして、五智の種を生ずる。陰陽の父母は和合して五行(木火土金水)の子を成す。

経典では、梵字のバン(鑁)の字の法界は、種の形で、円塔のようである。理と智が異なるものではないことでこれを法身の体(大日如来)と名付ける。

まさにこれは、父母誕生以前の根源であり、仏法のままに徳を備えていることの内的証明である。あらゆる生きとし生ける者は、一つとしてこの螺緒を曳かない者はない。
これで、自性法身の窮極とは、金剛界、胎蔵界が合体したものであるということが、既にわかった。

以上は、修験者にとってのアヴァンギャルドな見解であるが、後世に修行する機根の劣った者を導くために、両流の秘伝を注記した。
境涯の高い修行者に対してでなければこれを示してはいけない。まして新参や大衆に示してはいけない。深く心に秘めなさい。

まあ、クンダリーニ・ヨーガの悟境の解説なので、あまり公開してはならないということです。でも、こんなことを知的に理解するのは容易だが、知的に理解できたからといって、何かが変わるわけではないところに、知性が発達したクールなリアリストである現代日本人の無神論的世界観の問題がある。

よって、修験の窮極の二元性と三元性から見た原理のところが知的理解できたとしても、冥想をする経済的、社会的な合理性を直観するのは極めて困難なので、ますます人は冥想しない。その上、冥想しようとする人は、変わり者や世間体が悪いものとして扱われ、肩身の狭い思いをすることが珍しくないのである。ところが冥想をしないことは、実は人として決定的な判断であったと、後に思うことがあるかもしれない。


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螺緒

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修験道フリー・ウェイ-12

2006-11-28 05:27:43 | 修験道
◎修験三十三通記-10
(深秘分第二-螺緒(かいのお)の大事))-1

以下は、山伏の持つ法螺貝にことよせて、即身成仏というか、この身と大日如来が何一つ異なることがなかったという境地について、六大(地水火風空)などを用いて説明をしているもの。理屈で理解しただけでは何にもならないので、クンダリーニ覚醒でもってこの状態を自ら確認することが期待される訳である。

螺緒とは、法螺貝を包む紐組のこと。
法螺貝の貝は、梵字のバンの字のことで、智慧の本体であり、ありのまま(無作)の姿(三身=法身、報身、応身)の教義(法門)のこと。
螺緒とは、ア字のことで、出入りする呼吸のことであり二つにわかれた水が和合する源である。故に両方の緒をバンの字の形にこれを結ぶ。これはつまり二バン和合の形である。

経典では、二つの水が和合して、一つの円の塔となる。一つのバンの字となって斉しく三業(身業、口業、意業)を運ぶ。

口伝にいわく、根緒の5寸であるのは、五智のこと。両方の緒の長さを合わせると三十七尺となるのは三十七尊のこと。赤い色は智の象徴。緒が大きいことは、中身が空であるが、量ることができるから、智の働きのシンボル。

以上金剛界の智の門を表すが、この中に5色の区別がある。
黄色は胎蔵界の理を表す、赤は金剛界の智を表し、白は水輪のこと。黒はあらゆる存在(諸法)が未分化である極点を表し、青は五大(地水火風空)の窮極の色。

裏書きでは、片緒は、生の世界が分かれている様子。両緒は円満であり、衆生と仏が一体である意。

彦山の宝蓮上人の伝では、螺緒は、陰陽が同じものである(不二)事の根源で、金剛界、胎蔵界をつなぐ糸である。だから臍にへその緒がある。そこで腰下は、胎蔵界のア字で、腹は金剛界のバン字である。とすると真ん中にある臍は、金胎不二の位置にあるということになる。金剛界、胎蔵界は、我々の肉体と精神の異なる呼び名でもある。

色とは、五大(地水火風空)である物質であり、それが如来の身体そのもの(本有の理体(胎蔵界))である。
心とは、識大(精神)であり、もとより悟っていることで本覚の智徳(金剛界)と言われる。物質(色)と精神(識)で金剛界と胎蔵界の両部なので、凡夫であろうとも、その身以外のものに仏体を求める必要はない。

迷いも悟りも、凡夫も聖者もそのままであって動ずることがない。だから修行者の肉体も精神も大日如来の本体であり、金胎両界を包含する円い密壇である。四重円の諸尊は、それぞれの自性の蓮に坐している。九会曼陀羅(金剛界)の輪光は、もとより備わっている日輪を広くしている。

蓮華三昧経では、

もとより悟っている大日如来の本体(法身)に帰依します。
常に妙法心は蓮台に坐しています。
本来人は、釈迦のような三身(法身、報身、応身)の徳を備えている。
三十七尊は心の中におわします。
(続く)

金剛界曼陀羅は三十七尊というが、数秘術で、666の反キリストの数字も、777の十字架の数字も、888のイエスの数字も素数37の倍数となっている。金剛界は物質側ではなく、精神側であるが、37がこの世のいろいろなものの基本となる数字であることは、なぜか洋の東西を問わず知られている。


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緒が組紐になっていませんけれど

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一言主の神の由緒

2006-11-23 07:31:22 | 修験道
◎善事も一言、悪事も一言

役行者を伊豆大島に島流しにした勢力は、一言主の神であるが、一言主の神の出自も実に不思議である。これは古事記に出ている話。

雄略天皇が葛城山に登った時、お供は紅い紐をつけた青摺り染めの衣服を賜って着ていた。そのときその向かいの山の尾根伝いに山に登る人たちがあり、天皇の行幸と同じ隊列、装束で登ってきた。

それで雄略天皇は、「この大和の国に私をおいてほかに大王はないのに、今誰が私と同じ様子で行くんですか」と問うた。すると先方の行列も「この大和の国に私をおいてほかに大王はないのに、今誰が私と同じ様子で行くんですか」と同じ言葉で問い返してきた。

それで雄略天皇は、怒って矢を弓につがえ、お供も矢をつがえた。すると向こうの人たちもみんな矢をつがえた。
雄略天皇は、「それでは、まずそちらの名を名乗れ。そしてそれぞれが自分の名を名乗って矢を放ちましょう。」と言った。

向こうは答えて「私が先に問われた。だから私が先に名乗ろう。私は悪いことも一言、善いことも一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神である。」と言った。

雄略はこれを聞いておそれかしこまって、「おそれおおいことです。わが大神よ。この世の方であろうとは存じませんでした。」と言って、自分の太刀や弓矢を始めとしてお供の者着ている衣服も脱がせて、拝んで献上した。

このときその一言主の大神は、手を打ってその献上されたものを受け取った。そして雄略が帰る時、山の麓に一言主の大神一行が集まって、長谷の入口まで送ってくれた。
この一言主の大神はその時に初めて顕れたのである。

『善事も一言、悪事も一言、言い離つ神』とは何か。天皇の行列に、わざわざ贈り物欲しさだけで登場してくる高級神霊はまずいない。

これは死者の書や臨死体験でよく出てくる、自分の人生が鏡に一連のドラマとして見せられて、次に一瞬で、その人の行く先を地獄、極楽に振り分ける閻魔大王のことではないのだろうか。あなたの一生で為した数々の善事を一言で、また数々の悪事を一言で、計量、評価してみせられるのは閻魔大王しかいないだろう。

だから、これは単に奈良の葛城山のローカル神仙のことではあるまい。

従って雄略天皇は、葛城山中で神事を行ったところ、閻魔大王のビジョンを見て、恐れ畏しこみ、太刀、弓矢など献上したというのが真相に近いのではないだろうか。

これは、大燈国師が花園上皇に召された時に、上皇が「仏法不思議、王法と対座す」と問うたのに対して,大燈国師が即座に「王法不思議、仏法と対座す」と切り返した様子とシンクロしている。

後世に一言主の相対的地位は、日本書紀や日本霊異記などで、徐々に天皇より低いものにされていくが、天皇が民間勢力にへりくだるのはまずいという理由があったのだろうが、そもそもはこのようなことだったのではなかろうか。

なお、全国の一言主神社は、一言だけ願いを叶えてくれる、人気の神社だそうです。

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蔵王権現の謎

2006-11-21 05:59:33 | 修験道
◎人工的イメージの匂い

金峯山秘密伝によれば、天智天皇の御世に、役行者が金峯山の大峰山頂で修行をしていた。役行者は、末法の世にふさわしく、濁世に現れる魔物を退治できる強力な仏の登場を祈願したところ、まず過去仏として釈迦が現れ、次に現世仏として千手観音が現れ、次に未来仏として弥勒菩薩が出現した。

役行者はこの三仏の出現に納得せず、更に祈念を凝らしたところ、突然忿怒の顔をした青黒い蔵王権現が出現したので、これを降魔の尊像としたとされる。

一方最も早く金剛蔵王が登場するのは、天平の頃。

天平19年(747年)大仏の鋳造が開始された。その時、聖武天皇は良弁法師に、「金峯山の土地は皆黄金だという噂なので、金剛蔵王に祈って金を手に入れて、大仏鋳造に役立てたらどうだ」と申しつけた。

良弁は、早速金峯山に登って祈願したところ、金剛蔵王が夢に現れて、この山の黄金は採掘してはならぬと禁じたという。

このようにして当時から様々な人の潜在意識下に登場したはずの蔵王権現であるが、その彫像を見るとほとんどすべてが右手を上げ右足を上げたスタイルなのはどうしたことだろうか。

霊界の永続するイメージとして蔵王権現が存在しているならば、いろいろな人が、生き生きと活躍する蔵王権現を見て、その塑像が作成されているはずだが、そうではなくこのポーズだけである。その理由としては、見た人が良弁や役行者に限られ、蔵王権現を見なかった人が説話から想像のみで制作してしまったか、あるいは、実際蔵王権現のビジョンを見た人がいないか、どちらかではないかということである。

蔵王権現は、金峯山のローカル神霊ではあるが、鎌倉から南北朝にかけていろいろな説話が付け加えられてはいるが、全くポーズが同じということから、人工のイメージの匂いを感じてしまう。単純に忿怒ポーズのバリエーションが少ないということでもないと思う。


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蔵王権現/奈良 如意輪寺

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修験のパワー・スポット

2006-11-18 06:22:31 | 修験道
◎人が去れば、地を巡る

修験で基本的な疑問点がひとつあって、それはなぜ峰々を経めぐって修行の場としなければならなかったのかということである。

奥駆けなど峰々を廻り歩くことが第一義的に必要なことであれば、役行者は37歳まで待つことなく、肉体の力の横溢した20代から回峯しているのが常識的な手順になるのではないだろうか。役行者はそれまでに箕面山、葛木山を主たる修行場としてはいたが、奥駆けへのトライは遅かった。

そしてもう一つ考慮すべき点があって、修験はクンダリーニ・ヨーガなので、そのステージがある程度深まったところで、働いたり托鉢したりして食を入手するという、「日常生活」ができなくなる段階が到来する。それは、冥想にしか専念できない時期ということになるのだが、そういう時期には、山の峯々を縦走しながら、露命をつないでいくことは困難だろうと考えられる。誰か他の人に生活の面倒をみてもらわないとならない。そうした施設があることも条件。

さて、ある程度精妙なるものについての感受性が開くと、この寺社は神気が高いとか、霊的パワーの評価をやるものである。そういったことに関心が高いブログは非常に多く、ヒーラーを称する人達が、頻繁にそうしたパワー・スポットを訪問して感想を述べる中にそのパワーの評価が入っているものである。

どうもパワー・スポットには2種類あって、地のパワー・スポットと人のパワー・スポットがあるようだ。地のパワー・スポットとは、修験で巡礼地とされているところで、出羽三山、鳥海山、早池峰山、伊吹山、石鎚山等々日本全国北から南から、修験の聖地とされている場所。そうした聖地には人が集まるものである。

人のパワースポットとは、覚者のこと。大日如来(仏、神)に出会えば、その人のバイブレーションは、不退転の精妙なるものになるので、その人はいわば「人のパワー・スポット」となる。そして、人のパワー・スポットにも往々にして人が集まるものである。

たまに、いろいろな新興宗教遍歴をしている人がいるが、こうした人は、新興宗教の教祖廻りという、いわば人のパワー・スポット廻りをしているようなもの。パワー・スポットであった教祖が亡くなると、往々にしてそのパワーに集まっていた弟子たちが蜘蛛の子を散らすようにいなくなるのは、そのパワーに依存して修行していたのであるから、当然の流れということにもなろう。世間では、教団内の権力闘争だけが関心を呼ぶが、真面目な求道者にとっては、パワースポットがなくなることの方が死活問題である。

従って人のパワースポットがなくなると、やむなく地のパワースポット巡りを開始するということは、どうもありそうなことである。人のパワースポットが生きていれば、そんなことをする必要はなかったのだろう。

今の時代はすべての人が、人のパワースポットとなることを期待されている時代とも言えるが、如何せん人のパワースポットは、あまり出ているとも思えない。
いずれにせよ修験は、地のパワースポットを巡るカリキュラムであると考えられる。役行者が37歳で奥駆けをスタートしたのも、師匠が亡くなったなど、そうした事情があったのかもしれない。


    1日1善。1日1クリ。

インドの聖者祭りKumbh Mela


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役行者が己の骸骨に出会う

2006-11-15 05:49:28 | 修験道
◎トラウマを超えて

修験のパイオニア役行者の出現以前も以後も、奥駆けを中心とした山岳での修練が盛んに行われた形跡はない。それほど当時の山の生活は厳しいものであって、まして何十日も山を縦走しながら修行するというのは命懸けであったに相違ない。

大峯山は古くは金峯山(きんぷせん)と呼ばれ、吉野川の川岸から山上ケ岳あたりまでの山系の総称である。役行者でさえ未踏の新参に踏み込むには慎重であり、初めて大峯山上ケ岳に登ったのは37歳の時(役行者本紀)。

667年役小角は大峯の奥駆けをスタートし、吉野から熊野へ旅立った。役行者が山上ケ岳山頂付近の洞窟で孔雀明王と不動明王を一心に祈念していると一体の骸骨を見つけた。

その骸骨は右手に利剣、左手に独鈷杵を持っていた。すると御告げがあり、「役行者は、この山で生を受け生を終わること7回で、この骸骨は3回目のものである。」そこで千手陀羅尼と般若心経を唱えると骸骨は利剣と独鈷杵を小角に渡した。また釈迦ケ岳には第五生、小笹にはすでに眼窩から若木が生えた第六生の骸骨が残っているとされる。

役行者は、この独鈷杵を鋳直して孔雀明王像を作り、また利剣は八経ケ岳に埋めたがこれが八剣山とも呼ばれる由縁。

役行者は大峯の洞窟で己の前世についてのアカシック・レコードを見たのだろう。

人は、前世やら過去やらで潜在意識に蓄積された傾向によって、その行動や思考を縛られている。それは、最後には必ず自分を振ってくれる人を恋人に選んだり、美少女ゲームにはまってしまうことや、オンライン・ゲーム中毒になったり、果ては、同性愛者であることや、下着フェチや性倒錯や色情狂であることの原因でもある。

人がこうしたことを繰り返すのは、基本的には自分の潜在意識の奥深くにあるトラウマ(外傷体験の記憶)により行動や思考の悪循環を起こしているためである。ところが本来の自分というものは、その悪循環を超えた本当の自由闊達さを生きることができるものなのだ。

役行者は過去世の骸骨を見たことをきっかけに、本当の自分に出会ったかも知れないが、平素からの真摯な冥想訓練により本来の自分に出会う練習がないと、きっかけがあったとしても、なかなかそうなるものではあるまい。

大峯と髑髏と言えば、陰陽師、安倍晴明が花山天皇の頭痛の原因を探ると、天皇の前世の髑髏が大峯の岩にはさまって、雨の日は膨張した岩でしめつけられるため、頭痛がするのだと奏上して快癒に導いた事件もある(古事談)。


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修験道フリー・ウェイ-11

2006-11-10 05:36:52 | 修験道
◎修験道小史

江戸幕府の二百六十年にも及ぶ太平の時代は、日本の伝統宗教の温存に大きく寄与した。

1613年江戸幕府は、修験道法度を定めて、全国の修験者を聖護院を本寺とする本山派と、醍醐三宝院を本寺に仰いだ当山大先達衆を中核とする当山派のいずれかに所属させた。ところが、羽黒山、吉野山、戸隠山などは、日光の輪王寺門跡に所属し、彦山は元禄時代に独立した。このように本山派と当山派の二大流派の体制は江戸時代に整えられた。

さて明治5年9月修験道廃止令によって修験道の独立が失われ、本山派は天台宗、当山派は真言宗に所属することになった。一方この二流派に属さなかった羽黒山、白山、立山、富士、熊野,石槌山、彦山などは神社になった。

しかしながら、第二次世界大戦後、本山派は本山修験宗、当山派は真言宗醍醐派、吉野一山は金峯山修験本宗として独立した。修験はこのように時代の荒波に翻弄されてきたのであるが、いずれの宗派にも共通しているのは、役小角を開祖としていることである。

最近では、山修験が里修験になり、修験道全体の衰退があるようであるが、日本全体の農村を中心とした社会構造の衰退が昭和40年以降顕著なものとなったことにより、修験各派をそれまで支えていた農村を中心とした支援も低調になっていったことによる影響があるのだろうと思われる。

全国の山岳の景勝ポイントが、昔の修験道場として紹介されるのは結構なことだが、果たして役行者以降1300年以上連綿と継承されてきた冥想技法は今も残っているのだろうか。


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修験道フリー・ウェイ-10

2006-11-08 05:35:41 | 修験道
◎修験三十三通記-9
(深秘分第一、宝冠論)

宝冠とは、山伏がちょこんと頭に載っける頭襟のこと。

質問:山伏(修験者)の先達は既に修行が進んでおり、大日如来の次の位である金剛薩多のレベルにまで修行が達していようから、大日如来の五智の宝冠のシンボルである宝冠を頭に載せることは変ではない。
ところが山伏になったばかりで、峯入り修行もしていないような初心者でも宝冠を付けるのは、何かもっともな理由があるのでしょうか。

回答:修験の修行では凡夫の身がそのまま仏であるという「凡身即仏」という理論と迷いも悟りも同じであるという「迷悟不二」の理論が基本である。どうして峯入り修行をしたかどうかなどという経験の有無を問題にするのか。

大日如来はすべての人の心の中にあって、外にはない。両界曼陀羅に表象される不壊のイデア(両部密壇)はもともと自分の中にあるものである。自性が欠けているものではないこと(円徳)は、まだ悟っていない凡夫の身がそのままであっても、そのことが顕われているものだ。仏の属性すべて(法爾曼荼)は、修行をするしないによらず備わっている。

実にこの身は、もともと天然にしてもともと具しているという不思議な身体であり、五智が明らかであることを知る状態である。既に父母から預かった肉体の上に、本より悟った大日如来の属性(本覚毘盧)を持っている。

だから修行をまだしていない輩であって、入峯修行もせず、灌頂していなくとも宝冠をつけることは問題ない。これを本覚山伏という。

薄命の者は、これを知ることはできない。心に垢が多い者は入ることはできない。牛や羊の目でもって、四角い大地の隅を論ずることはできない。このように小乗の間違った見方でもって大乗の見方をはかり知ることはできない。

五字陀羅尼経には、凡夫の身でもって仏身が成就すると説く、龍樹は父母から生れたが、速やかに大悟(大覚位)したことを確認したと述べた。これらのことをもって、推し知るべきである。

質問: 五智宝冠は金色で五角だが、どうして頭襟は、黒色12段か。

回答:修験の修行が深まって、仏道の本質を知ることができた時、自分自身が凡夫で迷いだらけであっても、還ってそのことが仏の属性(五智の本徳)を現していることに気がつく。

表面に現れたことにこだわって、理性を捨ててはいけない。これは生きていることそのままが仏であるという窮極の説明だが、この説明を初心の修行者が聞けば、修行の必要性を感じなくなるだけだから、初心者にはこのことを語ってはならない。

深秘分の冒頭は、この身が本来仏であるという理論の危険性を懇切丁寧に解説している。この身がこのまま仏ならば、好き勝手な行動をしても良いし、修行する必要もないと思うのが人情というもの。けれども、それは仏=大日如来と一体化するという秘儀を経て、自らそのことを確認した後でなければ、嘘・妄言を信じているのと同じことである。


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役行者が伊豆大島へ島流し

2006-11-06 05:32:23 | 修験道
◎超能力者は邪険にされる

一言主神は、葛城山の神であったが、役行者に頼まれた吉野金峯山-葛木山間に石橋を作る仕事が怠慢であったため、役行者から早く工事を進めるようにと責めたてられた。役行者のこの厳しい責めに思い余って、一言主神の信奉者たちは、「役行者は朝廷に対し謀叛の計画がある」と密告した。

捕手が葛城に向かって、役行者に強引に縄をかけようとすると感電したように動けなくなり、金縛りとなるためどうしても逮捕できなかった。また捕手の役人が大勢で向かうと役行者は空に飛び上がるので逮捕できなかった。

最後に役人は、卑怯にも役行者の母である白専女が道場茅原寺にいるところをつかまえ、人質にしてしまった。弟子の義覚、義元らは怒って奪い返しに役所を襲うと息巻いてもいたが、役行者は自ら役所に出頭して、母を釈放させたのであった。

文武天皇3年5月24日(699年)、役小角は、伊豆大島に島流しにされた。役行者の過ごした岩屋は、東海岸の泉津村にあり、高さ6メートル幅6メートル奥行き15メートルだが、満潮の時は、潮にさえぎられて人が近づけないところにあるという。

役行者の島にいた当時、毎夜三原山に怪しいあかり=龍灯がともったという。昼は大島にいたが、夜は、富士山頂、天城、走湯、箱根、雨降、日向、江ノ島などを飛び回った。

役行者は、後に許されるとはいうものの、政府が、在野にいて民間に人気のある超能力者を危険であるとみなして刑務所に送るのは歴史上よくあること。役行者の罪状はともかくとして、捕手から逃れることを繰り返しているので、冤罪であったことは間違い有るまい。

超大物の超能力者を粗略に扱う悪しき日本の伝統は、これほどの昔からあった訳である。


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