アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

タロットwheel of fortune

2019-10-11 05:35:49 | 現代冥想の到達点
◎自分だけは大丈夫バイアス

運命の輪の上に首を回した鷲イーグルが超然と立つ。これは、nefertariタロットの運命の輪。マルセイユ版などの一般的タロットの図柄では、鷲ではなく2頭の動物がグルグル運命の輪を回している上に立つ黒い顔をした剣を持つ有翼の動物であり、青い肌でもあるから閻魔大王、ヘルメスが連想される。

回る運命の輪は有の世界。その上に超然とするのだからアートマン第六身体。有の世界は、常に善悪、正邪、美醜、貧富、長寿短命などの二元の変転を繰り返す。

この時代は神を知らない人間であることが当たり前な人たちばかりで成る火星の時代、臍のマニピュラ・チャクラの時代。
次の時代は神を知る人間であることが当たり前な人たちばかりで成る金星の時代、胸のマニピュラ・チャクラの時代。

人間の進化とは、実に「神を知らない」から「神を知る」に進むことであって、他のことではないが、マスコミに代表される文明思潮はそれを見失い、果てしなき混乱に翻弄されている。

そして今スーパー台風19号がある予感を伴って上陸しようとしている。大地震は、予告なく起きるが、予告されて起きるのはきつい。超弩級の異常気象よ。事前に人間の回心を試すかのようだ。

ネガティブ予言の共通ルールというのは、あまりひどいところはほのめかしも言わないということである。

人は気象衛星画像の台風の目に見いることで、自分の中をも覗き込む。

Nefertari 運命の輪


マルセイユ 運命の輪


台風19号
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タロットの戦車chariot

2019-10-10 05:35:53 | 現代冥想の到達点
◎急速に根源に回帰する

出口王仁三郎は常時雲に乗って移動すると言い、今や巨大な雲に乗って日本列島に急速に近づきつつあるのは台風19号であって、日本にスーパー台風が上陸するのはほとんど初めてということで、皆戦々恐々としている。

古い時代において急速に移動するものは、まず時間である。だが、急速に移動するということが真に重要な意味を持つのは、人間が根源に帰る時である。七つのボディを急速に移動していく場合、意識している場合と無意識の場合があるが、それはひたすら疾風迅雷の如くであるらしい。

パエトーンと天の車の如く失敗例もある。それは急激に上昇したが、自分が耐えられなかったのだ。

邯鄲の夢、黄粱一睡の夢も、それは夢ではなく、とあるのっぴきならない人生を経て、「夢」と感じて、ハイ・スピードで肉体に戻ってきたのだ。

タロット・カードに戦車chariotがある、これは聖音オームは「根源に戻って来ーい」と響いているというが、根源に急速に帰って行く乗り物のことである。

聖書エゼキエルの戦車は、自分とは全く縁のない他人である古代人エゼキエルのエピソードと思ってしまうが、さに非ず。みじめで情けない絶望の極みなる自分を、一瞬にして不死にして全能なる窮極に運び込んでくれる乗り物のことなのだ。

それが、タロット・カードの戦車。御者は、ヘルメス、猿田彦

絵はnefertariタロットの戦車。

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神なく孤独で鉄格子なき不自由な生活

2019-10-04 06:20:26 | 現代冥想の到達点
◎本来も無きいにしえの我なれば

20年かけて貧しい国家群をちょっと豊かな国にすると見せるや、その富をわが物にして以前以上の貧しい生活に落として、ネットと監視カメラで実質的に個人の自由を奪い、この世をいわば巨大な牢獄とした勢力。

人はそういう生活環境下では子供も作れず、恒産なければ、子供を育てられはしないからあきらめようと考える人が増える。その結果、非正規雇用4割で、離婚率3割、生涯独身者4割と、社会全体に孤独と不自由の影が差すようになった。日本はそういう意味での先進国。

日本では、右肩上がり経済が死語となって三十年。国民皆貧困みたいな時代になってしまった。上海の若いOLより生活水準は下と言われるほど。

それでも冥想をしようと思い立ち、特に1週間くらいの瞑想リトリートとか集中合宿みたいなものに参加する人の大半は、最近離婚した人だったり、最近失恋した人だったり、独身の人だったり、家族の反発のない人である。

1週間もまとめて休みのとれるのは、お盆の付近しかないので、それも年に一回だから、連続瞑想合宿に参加するというのは、海外旅行などのバカンスをあきらめるということではある。

そういうグループに参加などしなければ、孤独で不自由な日常に直面させられる。

独りでいることは、惨めな自分を感じることだ。音楽、動画、映画、テレビ、SNS、アルコール、セックスこうしたものは役にたつ。今のメジャーな文化は、こうした孤独を紛らすものばかりだ。

本気になれるもの、それは恋愛か?だが、私は愛される資格がなかったのだろうか、相手に出会わなかっただけなのではないだろうか、いや出会っていたがうまくやれなかっただけではなかったのではないか、などと堂々巡りを繰り返す。

本来も無きいにしえの我なれば
死に行く方も何もかもなし
 一休
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愛は生もの

2019-09-27 04:36:08 | 現代冥想の到達点
◎クリシュナムルティの愛の定義-2

クリシュナムルティの愛の定義とは、次のようなものだ。

恐怖や悲しみのある心に愛は存在しない。ところが、キリスト教では苦しむ人(義の教師)の姿を十字架につけ礼拝している。苦しみからの解放は苦しみ経由しかないと言わんばかりに。

恐怖は愛ではなく、他の人や宗教や神に依存する心が愛でもない。嫉妬も愛ではなく、金や動産・不動産・貴金属を所有したり、他人を権力や脅しで支配することも愛ではない。ましてや責任や義務も愛ではない。

自分を哀れに思うことが愛ではなく、愛されていない苦悩が愛ではなく、憎しみの反対語が愛でもない。

愛することを実践するためのメソッドやトレーニングやシステムやマシーンや環境で、愛みたいなパフォーマンスをすることも愛ではない。

その一方で、この世界では、快楽と欲望が物事の大半を占めているので、愛は存在しない。

それでは、どこに愛があるのか、どうすれば愛を発見できるのか。

クリシュナムルティは、まず『動機を持たない情熱』(自己変革の方法/クリシュナムーティ/著  霞ケ関書房P179)だとする。

それをてこにして、強制や思考、書物や指導者を手を借りずに愛に向き合えば、愛を発見できるとする。愛はそうした努力や経験の結果出会うものではないが、求める気持ちを持たなければ出会えるという。

こうした心の持ちようは、只管打坐をやっている人にとっては、極く当たり前のことであり、クリシュナムルティの著作のどこを読んでも只管打坐という言葉は出てこないが、クリシュナムルティが只管打坐で訓練されたという芳香を感じ取ることができる。

この辺がダンテス・ダイジが、クリシュナムルティは只管打坐と言った所以なのだろうと思う。

愛は、不争であり、昨日もなく明日もなく時間と関係ないものであり、清新で生き生きし、思考の混乱を超越している云々。こうした属性の数数を想像して出来上がったビジョンもまた愛ではない。

愛は生ものなのだ。
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「私は神を愛している」は無意味

2019-09-26 05:24:37 | 現代冥想の到達点
◎クリシュナムルティの愛の定義-1

文明論的には、この時代を救うのは愛だとされる。自己実現の火星であるマニピュラ・チャクラから、愛の金星であるアナハタ・チャクラへの文明移行をもって、この時代の目的が達成されると神秘学徒たちは見ている。

だが大半の人が、何が愛か全く見失った砂漠のような時代がこの時代であって、風水火の大三災に晒され、さらにボタンを押すだけで始まる世界戦争の危機に直面しているのもこの時代である。

冥想せよとしないクリシュナムルティが愛を定義づけている。

『「私は神を愛している」ということは、まったく無意味なことである。神を礼拝するのは、あなた自身を礼拝することであって、それは愛ではない。』
(自己変革の方法/クリシュナムーティ/著  霞ケ関書房P165から引用)

このようにクリシュナムルティは、いきなりこん棒で頭を殴りつける。

結婚生活、恋人関係、同棲、このような関係の中では、嫉妬、苦痛、不安、苦しみ、怒りが発生する。これについても、彼はそれは愛の別の側面などではないとする。

『このように他の人間に所属した状態、心理的な栄養物を相手からとっている状態、相手に依存している状態に常に存在するのは、不安、恐怖嫉妬、罪の意識である。

恐怖が存するところに、愛は存在しない。悲しみに支配された心には、愛が何であるかを知ることは絶対に不可能である。感傷とか情緒性といったものも、愛とはまったく無関係である。愛は快楽や欲望とは関係ないのだ。

愛は過去である思考の産物ではない。思考は愛を育てることができない。愛は嫉妬によって左右されたり捕らえられたりしない。それは、嫉妬が過去に属するものだからである。愛は常に現在に生きている。」(上掲書P171-172から引用)

最後のところで過去と現在が出て来ているがこれは冥想体験、体験とは言えない体験と密接だが、彼はそういう説明の仕方をしないので、真意は坐った者にしかわからないように組み上げている。(やり方の絶対性)

(続く)
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ダンテス・ダイジ 高弟へのアドバイス-2

2019-09-18 03:46:30 | 現代冥想の到達点
◎クンダリーニ・ヨーガは表

ダンテス・ダイジのさる高弟へのアドバイスから(続)。

『摩可般若心経 表版 (クンダリーニ ヨーガ)

苦あるが故に不可知あり、不可知あるが故に 多様多元の全体者 ここに目覚めている。 中心が多様多元として 現れているが故に 中心自身の目覚めは 大いなる 空の戯れとして戯れている。 』

ここでは、不可知は苦の対極ではなく、苦でも楽でもない別次元として到来していると見る。苦も有の世界。有の世界から眼を背けないまま、死をも生をも包含して、見た場合、そこに不可知があるということなのだろう。
その不可知こそ、多様多元の多様多元の全体者が目覚めていることだとする。

ここで既に個の視点はないが、宇宙の中心自身の目覚めこそが、大いなる空の戯れという、世界遊戯、リーラという、時間も空間も物質も含めた転変化々する現象世界の夢幻性を自証している。

はて、どうしてこれが表版なのだろうか。
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ダンテス・ダイジ 高弟へのアドバイス-1

2019-09-07 06:57:13 | 現代冥想の到達点
◎只管打坐は裏

ダンテス・ダイジは、現代における最高の冥想法として、只管打坐とクンダリーニ・ヨーガを推した。只管打坐では、一気にそれに至り、クンダリーニ・ヨーガは一歩一歩かけてそれに至るが、その実りは大きく豊かなものとなる。

只管打坐は、生を極めることにより死をも極める。クンダリーニ・ヨーガでは、死を窮めることで生をも窮める。

ダンテス・ダイジの文明論的視座では、只管打坐により人類は救済されることができるが、クンダリーニ・ヨーガのデリカシーがないと豊かにはなるまいというようなことを言っている。

なぜ、只管打坐とクンダリーニ・ヨーガなのかは、そのアプローチが逆方向であることだが、その2坐法の絶対性の評価は、自分でやってみる他はないが、一生だけで評価プロセスが足りるかどうかは保証の限りではない。

ダンテス・ダイジは、なぜだか只管打坐は裏で、クンダリーニ・ヨーガは表だという。錬金術や密教文献で、(湿った道に対して)乾いた道とか近道と言われる「道」がある文章にでくわすことがあるが、それが只管打坐なのだろうと思う。

ダンテス・ダイジのさる高弟へのアドバイスから。

『摩可般若心経 裏版 (只管打坐)

苦 消える事 なきが故に 永遠に悲しみあり。 永遠の悲しみあるが故に 無限にして永遠なる愛あり。 愛あるが故に無行為生じ、空は空自身に目覚める。』

この短文を長い文章で裏付けて読みたいと思う人は、クリシュナムルティの自己変革の方法(霞ケ関書房)か老子を読むのが良いかと思う。

さて本文、
『苦 消える事 なきが故に 永遠に悲しみあり。』
これについてはそのものズバリ。釈迦厭世の原点でもある。

『永遠の悲しみあるが故に 無限にして永遠なる愛あり。』
大慈大悲。ダンテス・ダイジは、「悟りとは命の悲しみのことだ。」「本当に悲しめよ」と指し示す一方で、その体験とは言えない体験にあって、「本当に悲しいんだ」とも漏らす。悲しみの極みが愛である。

『愛あるが故に無行為生じ、』の部分。
愛は老子の云う「道」の一つの相である。老子道徳経34章において「彼(道)はすべてものを「愛」育する。けれども決してそれの主人顔をしない。実に常に何の要求も持っていないのだ。まことに小というべしではないか。」とあるが、ここで、無為、無行為が出てくる。

『空は空自身に目覚める。』
これは、老子第16章の致虚極に見ることができる。
『万物が並び作(おこ)っているこの現象の姿がしかも同時にまた無へ帰っているそれであることを観ることができる。』

苦から、悲しみ、愛そして無為、変転極まりない空へと説ききった。
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ポスチャー姿勢、やり方の絶対性

2019-08-30 05:20:00 | 現代冥想の到達点
◎只管打坐、普勧坐禅儀

只管打坐とは、背骨を真っ直ぐに立てて、半跏または結跏趺坐にて、呼吸を落としながら、意識をはっきりさせたままにいることである。

これで決まれば、その功徳により身心脱落が起こる。身心脱落が起こらないことを以って只管打坐の絶対性を疑う人もいるが、身心脱落が起こった道元や天童如浄などは、只管打坐の絶対性に対しては微塵も疑念を持っていない。

普勧坐禅儀には、事細かにやり方が書かれてある。

白隠軟酥の観。これは、夜船閑話という書にやり方が少々書かれているだけだ。クリームのような癒しの光が頭頂にあると想像し、その光を丁寧に全身にしみわたらせるというもの。

私は、あまり病気をしない方だったが、絶不調時にはこれを行うことがあった。この観想法の前に音楽をかけてうつうつとした気分を晴れやかにするというのも立派な療法であると知り、驚きつつも効果を確認したこともある。

ここでは、只管打坐と白隠軟酥の観の効果について述べたが、真に効果のあるやり方というものは、それこそせいぜい1、2行しか書かれていないものであり、効能書きが短いせいか、しばしば見落としがちなものであると思う。

挿絵、イラストも、気功・導引などで出てくることがあるが、説明がなかったり少なかったりするのは、却って顕著な効果を隠しているのではないかと疑ってかかることも必要なのかもしれない。
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友人との出会い、愛人との出会い

2019-08-27 05:42:54 | 現代冥想の到達点
◎メディテーション・トラベル・ガイドから

未悟者から見れば、覚者の透徹した絶対的な孤独あらゆるものが未知である現実感は、大きな違いである。そこを見過ごすと、次のダンテス・ダイジの救世主入門の一節は、単なる感想や戯言になってしまう。

『友人は君について
君の知人が
千年かかって知るより
はるかに多くのことを
出会いの一刹那で知るだろう

君が愛人と出会う時
そこには
どのような意味での
必要も偶然もない
時を忘れた時の中で
君は思い出すだろう
愛人との
いくたびもの戯れのすべてを』


さらに、次のような謎の一節も置かれている。
『さようならの時に
うろたえてはいけない
別れは
再びめぐり逢う前に
なくてはならないものだから
そして
再会の時は必ずやってくる
君とその友人のために
ある時間を経て
いくつかの人生を巡った後に
必ずやってくるものだ』

輪廻転生を語る場合、AさんがA‘さんになるなどという無機質な議論をしがちだが、それはそれ。

人は、気の合った愛人や友人にいつでも接して過ごしたいものだ。愛はその流れであり、それも自由の一つの現れである。

ほとんど何もしなくて済む人生もあれば、争闘や試練の連続的な繰り返しの人生もあり、幸運な人生だから長命であるとは限らず、不運な人生だから短命であるとも限らない老少不定。そこを問題にしない見方、生き方があることを、救世主入門は時間のない世界からナビゲートしてくれる。

耳障りな部分も味わってみよう。
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トオス系とダンテス系

2019-08-26 05:15:51 | 現代冥想の到達点
◎この一万二千年と聖者の二潮流

トオス系は一言で言えば祭政一致であり組織宗教(組織者、指導者、司政者)。ダンテス系は、外形的には一人宗教で宇宙遊戯(生活者、冥想者、遊戯者)。

ダンテス・ダイジは、メディテーション・トラベル・ガイドにおいて、トオス系とダンテス系については本質的な相違はないが、その系流の違いを仮に弁別している。

1.聖王トオスの系統
エジプトのトス並びにヘルメス(これはトオスという名の変化継承されたもの)、モーゼ、イエス・キリスト、マホメット、聖徳太子、空海、出口王仁三郎など。

2.ダンテスの系統
クリシュナ、釈迦、老子、達磨、臨済、普化、ドン・ファン・マトゥスなど。

この二つについて違いのないことに関してダンテス・ダイジは、相互に依存交流しかつ現れた神という本質において一つである、と念を押す。

アトランティス末期にアトランティス密教最奥殿のアメンティの13人の超人は、12人のトオス系超人と一人のダンテスに分離したが、これはアトランティス大陸沈没とそれに引き続く『花』である商工業中心の近代西欧文明1万2千年が、組織宗教主体で進むことをシンボライズしていた。
アトランティス大陸沈没前後に、北欧神話、旧約聖書の原型、古事記、その他各地の古層の神話が作成されたのは、現代の危機とその超越の準備を意識していたからに他ならない。

次のネオ・アトランティス文明ではトオスとダンテスは合体して出てくるという言い伝えもある。

ネオ・アトランティス文明とは一人一人、万人が神知る文明、愛を知る文明のこと。

我ら個々人には、そのどちらに向いているかの適性はあるが、それは大した問題ではない。各人が正師に出会えるかどうかが最初の課題である。

出口王仁三郎は、自分は偽ものだと謙遜しているが、それは組織宗教の元締めであるトオスを意識してのことではなかったか。出口王仁三郎教徒にとって、出口王仁三郎が偽ものであるなどとはあってはならないことであり、偽ものであっては、あのような迫害を乗り越えてはこれない。だが出口王仁三郎は敢えてそう言って見せた。

聖徳太子も、その実在を疑う説があるほどにその事績は歴史の闇に葬られている。当時17条憲法を出さねばならないほどに支配層の腐敗は目に余るものだったのだろう。そうした爛熟の時代に決まってトオス系列の聖者は出てくる。

だが今は、そういう点では著名有力聖者はすべて消え、いわば天の岩戸が閉じて真っ暗な時代なのだろう。各人が自分でその扉を引き開けるのだ。

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ノン・デュアリティの実感とは何か

2019-08-05 03:21:03 | 現代冥想の到達点
◎異郷の客の悲しみ

ノン・デュアリティの実感が、今ホットなトピックらしい。

生死一如と口で唱えることは恐ろしく簡単だが、生死一如を生きるのは、悲しみの極みであり、孤独の極みであるとする。それはなぜだろうか。

ダンテス・ダイジの詩集「絶対無の戯れから」
『私は私という心身の
異郷の客であり
何一つとして
私のかつて見知った事柄はない
この悲しみが
人間に理解できるだろうか

私達はこの世では孤独であり続ける
私達の眼は
私達の故郷を見知らぬものとして眺め
私達の家族を初めて見る

これは私達の眼がかすんだゆえではない
私達の眼がより透明になったせいだ
何もかもが常に未知なものとしてあり
何もかもが常に新しい

何もかもが未知な新しさであれば
私達の脳髄は
尽虚空中に砕破する

死はなんと私達の身近にあったことだろう
最も身近な死だけが
人類の唯一最大の教師だ
手足を放ち去ろう未知の虚空に
もともとありもしない手と足を』
(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジ/森北出版p118-119から引用)

変幻極まりない今ここという時間のない刹那と刹那の間に隙間があるらしい。
先の刹那を見知っても次の刹那は全く見知らぬ世界として広がる。そして自分という心身すら、家族すら、その透徹した孤独感の中で、初めて見る。

明らかに個人はあるが、それには常に死がつきまとう。それであって初めて、何もかも新しく、何もかも見知らぬ、孤独な世界が真実の世界であることに気づく。

この実感は、葉隠など武士道者の言でも拾うことができる。

武士(もののふ)の学ぶ教へは 押しなべて
そのきはめには 死の一つなり
(塚原 卜伝)

極楽も地獄も先ずは
有明の月の
心にかかる雲もなし
(上杉謙信/謙信家記)

毎朝毎夕、改めて死に死に、常住死身になりて居る時は、武道に自由を得、一生涯落度なく、家業を仕果たすべきなり
(葉隠)

生死を離るべき事、武士たるものは、生死を離れねば何事も役に立たず、万能一心と云ふも、有心のやうに聞ゆれども、実は生死を離れたることなり。その上にて、如何様の手柄もさるるものなり。芸能などは道に引入るる縁迄なり
(葉隠)


全体については、このパートの遥かに前方に『神の絶対無の中に夢見続ける宇宙』という表現を置いてある。個もあって全体もあるというのは、自らは神として夢の宇宙を戯れながら、人間として孤独の極み、悲しみの極みを背負いながら、何もかも見知らぬ世界を社会的不適応者として生きるということなのだろう。

社会的不適応者が社会を生きるのを異類中行と呼び、聖胎長養とも呼ぶ。

七つの身体の基礎はこの辺にある。
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冥想は説明するのがとても難しい

2019-07-31 05:07:44 | 現代冥想の到達点
◎本当の自分でない自分を生きようとする間違い

今更ながら、冥想は説明するのがとても難しい。いわんや冥想の先にある七つの身体をや。アヴァンギャルド精神世界の自序を書いてみたが、初見の人でもよくわからないだろうし、『ザ・ジャンプ・アウト』でも論理的体系的に描いたつもりだが、わからない人にはわからないし、わかる人にはわかる代物を出ないのだろう。

だが、ダンテス・ダイジでさえ、冥想は説明するのがとても難しいとしているのを聞いて、ほっとした部分はある。

何が自分にとって大事なのか、なにがフェイクなのを見分けるのか、その技術、時間が冥想であることは当時も今も変わらない。

七つの身体論を論理的科学的に証明することは必要だが、証明を聞く聴衆が悟ってもいないのではその証明が正しいかどうかの判断はできない。審神者をタダの人が真偽の評価をすることはできないのだ。

それでも冥想する。

1970年代の早稲田の学生街の飲み屋の2階でのダンテス・ダイジの発言。
『冥想っていうのはね、とても曖昧だ。説明するのがとても難しい。だけどね、まず、最初に冥想っていうのを忠実にやっていれば、自分が何を本当に必要とするか、何が自分にとって植え付けられたものか、人が多く間違えるのはね、本当の自分でない自分を生きようとするからだ。無理して別のものになろうとするからだ。で、冥想してると、だんだん自分の一番肝心なことと、肝心じゃないことが分かってくる。自分にとって一番必要なものと必要じゃないものが分かってくる。』
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現実的行動派は実は余りに夢想的なのだ

2019-07-30 05:30:45 | 現代冥想の到達点
◎ダンテス・ダイジの老子狂言から

ダンテス・ダイジの未公刊の遺稿『老子狂言』から

『格言1

人間は 
確固とした何者かであろうとする
人間とは 
欲望を自覚した分裂的な個生命体のことだ

人間的な一体感は安心感を仮作するが
その安心感ゆえに不安でもあることになる
人間は確かなものを求めざるを得ない
確かなものが人間自体にないことを知ってしまったからだ

人間的安定は、絶対者の戯れと正反対の立場にある
産みの苦しみは本当に産みの苦しみだ

人間性は、完全な束縛を願い、
そしてまた、あらゆる束縛からの解放を願う

観念的であるということは 
現実的であることだ 
現実的行動派は実は余りに夢想的なのだ

確実なものが何一つないここでは 
あらゆる方向性が意味を持ち 
あらゆる価値付けが無意味だ

只管打坐の坐禅修行に励んでいるある婦人が、こう言った。
「今日の坐禅中はひたすらタタミの目の数を数えていました」
コリャア一体何者ぞ?』
(ダンテス・ダイジ/老子狂言から引用)

七つの身体でいけば、アートマン、ニルヴァーナ以外に絶対的なもの、永遠不壊はないが、そこは既にすべてのすべて、アルファでありオメガであり、なにもかもなしである。

人間は神による完全な束縛、完全な保護、完全な安全を願っている。そこで定職につこうとしたり、永久就職をしようとしたり、財産を増やそうとしたり、家族を持とうとしたり、その分野でトップになろうとしたり、魂の伴侶を求めたり、パワースポット巡りしたりする。

そうしたあらゆる人間的努力は、実は人生時間切れになったり、自分の才能や因縁にふさわしいものでなかったり、離婚したり、失恋したり、首尾よく実現できたとしても、本当はそれを望んでいなかったことに気づいたりする。

そうした総体の展開に若くして気がつく人もいれば、死ぬ間際まで気がつかない人もいる。

自分の死を現実的なものと感じれば、一生タタミの目の数を数え続けることなどない。

だからこそ、現実的行動派は実は余りに夢想的であるということになる。そして、確実なものが何一つないとわかれば、そこで絶望に陥ったり、動顛しなければ、あらゆる方向性が意味を持ち、あらゆる価値付けが無意味となる。この立場は神人合一であり、モクシャ、大涅槃である。
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狂人の宇宙、イエスの宇宙

2019-06-20 03:22:53 | 現代冥想の到達点
◎石になる人、発狂する人、悟る人

狂人イエスの共通点は、一般大衆と全く違った宇宙に生きていることである。

それに対して狂人とイエスの異なっている点は、狂人は、他の誰ともコミュニケートしない世界を生きているのに対し、イエスは、他人とコミュニケートできる点である。

一般人は、一般人として独特の宇宙を生き、狂人は狂人の宇宙を生きている。イエスはイエスの宇宙を生きている。それらの宇宙は、一つ一つユニークなものであり、全く異質な宇宙である。

一般人は、その一つの宇宙にいることに安住しており、およそ狂人や釈迦、イエスが全く異質な世界に住んでいるなどとは、思い及びもしないものだ。

ところが一般人にも全く異質な世界を見るタイミングがある。例えば死であり、近親者との生別であり、離婚であり、「裂け目」を見るというのがそれである。

それに直面すると、人は、石になって聞くまい、見るまいとする人、発狂する人、悟る人の3種に分かれる。

そうした多種多様の宇宙を自由自在に出入りすることができるのが、悟りであるとダンテス・ダイジは言っている。

大震災でもない平常時に、冥想による意識の深まりを積むことは貴重である。これをメリット・デメリットで論証することはできないが、心ある人はやり続けるのだろう。
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ジャイナ教の呼吸覚醒

2019-04-23 05:36:48 | 現代冥想の到達点
◎シュヴァーサ・プレークシャー

ジャイナ教でも呼吸覚醒を用いる。「ジャイナ教の瞑想法/坂本知忠/ノンブル」では、呼吸覚醒法として3段階設けており、最初はリラックス、次はルン・気息を意識し動かす。
三段階目にシュヴァーサ・プレークシャーという呼吸覚醒が入っている。

シュヴァーサ・プレークシャーにも3段あり、最初は、腹の筋肉の動きや、鼻腔内の空気の知覚、吐く息、吸う息すべてを見逃さないで全部知覚。

2段目は、吐く息と吸う息が途切れないで一つの輪になったように観じ、そのつなぎ目を強く意識する。そして呼吸がチェンジするその瞬間を観じる。次に膨らんだりへこんだりする腹に意識を向ける。

3段目は、マントラも用いず、イメージも用いず、自然に出たり入ったりする呼吸を一つも見逃すことなく観じる。呼吸と一つになる。

2段目の息の途切れない観想はきついかもしれない。

OSHOバグワンは、実家がジャイナ教。彼は、教祖聖者が全裸など奇矯なエピソードを披露したがるのだが、呼吸覚醒は、釈迦もこれで悟ったといわれる正統的なもの。小乗で、盛んにヴィパッサナーを言うので、呼吸覚醒は小乗のものと思いがちだが、その歴史は釈迦以前からあるもの。

呼吸覚醒や、様々な宗教修行に限らず、モバゲーなどでも、ある姿勢を固定化し、ある肉体動作を伴う精神作業を3時間もやれば、人は特殊な精神状態に入りがちなものだ。

それは、依存症の入り口でもあるが、指導よろしきを得て、本人の向かう方向性が正しければ、人は天国にも向かうことができる。

ミャンマーやインドの叢林で、呼吸覚醒修行を行うのは、日本でやるより修行環境は快適だったかもしれないが、修行が成就するかどうかは別物。

呼吸覚醒では、師匠による変性意識コントロールが、狂わないために重要と思うが、それすらもあまり問題にしなかったのだろうか。
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