アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

シャルザ・タシ・ギャルツェン

2019-06-17 06:25:41 | 密教
◎ボン教の屍解

シャルザ・タシ・ギャルツェンは、19世紀半ばのボン教僧。出生は、東チベットのカムだから、今の四川省。四川でもいわゆる諸葛孔明が進軍したルートより、ずっと西側であり、清朝の西の版図がいかに大きかったかがわかる。

彼は12歳にして受戒し、まだ少年であった時に師であるテンジン・ワンギャルに、風を押しとどめるべく剣を持っているように言われて剣を持っていると、師はその剣を力づくで奪い取り、その剣で彼をしたたかに打ったところ、彼は意識不明に陥った。やがて彼が目覚めると、師と同レベルで心の本性(アートマン)が理解できるようになった。これは、禅でいう見性

34歳卍山に冥想小屋を建て、孤独に冥想に専念した。これは一時期であって、彼は基本は僧院にあって後進の指導をしたり著作をしたりして、75歳まで暮らした。

75歳になって漸く、重要な論題だけでなく、一般的な教えや助言を与えるようになり、どんな贈り物でも受け取るようになった。

76歳の時、隙間のないテントに入り、絶対に開けないように弟子たちに命じて、結跏趺坐でテントに座った。弟子の一人が聖遺物欲しさに何日か後にテントを開けると、その肉体は1歳の子供ほどの大きさに縮じまっていたという。

75歳まで、僧院の中に留まり、本当にカルマから自由になったのは、死の直前の一年くらいのものだったのだろう。

テンジン・ワンギャルは、205ある戒を守り通したと伝えられるが、戒はもともと覚者のライフ・スタイルなのだろうから、205戒にフィットした人間でもあったのだろう。
(参考:智恵のエッセンス/シャルザ・タシ・ギャルツェン/春秋社P29-36)

チベット密教系では、屍解で肉体を残す話が多いが、その残った肉体だって、基本は鳥葬なのだろうから、こだわってはいけないはず。いわんや聖遺物をや。屍解の話で縮んだ肉体が残った残らないにこだわってはいけないのだと思う。
コメント (1)

観想法専用ルーム サムデ・プク

2019-04-28 06:01:25 | 密教
◎タシルンボ寺郊外の洞窟修行

20世紀初め、スェーデン人スヴェン・ヘディンは、チベットのシガツェのタシルンボ寺に逗留した。タシルンボ寺は、巨刹ではあるが、中共成立時以降さんざんに破壊された。

ヘディンは、タシルンボ寺の郊外のサムデ・プクという絶壁の麓に作られた冥想用石小屋を見た。洞窟には戸も窓もなく、石で封じられている。

この洞窟の奥には泉が沸いており、一条の狭い溝が壁の下の地面に沿って通じていた。これは上下水完備し、環境的に恵まれている。この溝を通してツァンパとバターの食事が差し入れられる。6日連続で食事を受け取らないときは、死んだものとして洞窟の入り口が開けられる。

中には一人のチベット密教僧が修行していて、既に3年になるという。通例山の封鎖された洞窟での観想修行は数か月なのだと思うが、3年は長い。この洞窟の主は死ぬまでここに居ることを誓ったという。
3年前にこの洞窟で死んだ先住僧は12年ここで生きたという。

食事の差し入れが毎日あるだろうから、ヘディンが気にするように真っ暗闇だけの生活ではないと思う。

ただ社会性を一切断ち、一生洞窟で修行することを選んだ僧の覚悟には凄みを感じる。キリスト教でも一室から一生出ない修行もあった。補陀落渡海はこれに似ているが、数日で勝負がつくところは厳しい。

20世紀の感覚遮断実験の環境は似たような環境だが、ギブアップ・ボタンを押せば出れる。

さはさりながら、観想修行を邪魔されない環境は得難いものである。
(参考:チベット遠征/スヴェン・ヘディン/中公文庫p368-375)
コメント

映画『空海』1984

2019-03-25 05:38:22 | 密教
◎虚しく往きて実ちて帰る

映画『空海』は、弘法大師空海入定1150年を記念して1984年に制作された映画。この映画は、空海の一代記であって、時の真言宗の即身成仏観や曼荼羅観が出ていて面白い。

なお映画『空海-KU-KAI-美しき王妃の謎』は、長安を舞台に化け猫と空海が対決するというファンタジー映画であって、求道ものではない。

空海の入定が3月21日であって、この季節に映画『空海』を拝見するのは、高野山を参拝した時のことなど思い起こされて、非常に興味深いものであった。

平城天皇、藤原薬子の乱でがたがたしている時代に、最澄が一足先に時の仏教エスタブリッシュメント奈良を捨て、伽藍もなかった比叡山に入り、遅れて空海は、最初から修験で虚空蔵求聞持法にて唐留学の準備のため、山に入り、運よく唐上陸を成し遂げた。

野球のイチローは、一歩一歩積み重ねしかなかったが、空海は、晩年の恵果大師と出会い、805年5月から8月の3か月で伝法阿闍梨位の灌頂を受け、急速に密教の奥義伝授は完了、以後数か月かけて、恵果一門が空海帰国時に持ち帰る経典法具の制作に入る。

中国が外国企業に対し企業秘密の知的財産を中国企業に渡すことを強要していることをアメリカが批判しているこの時代。今なら無償で宗教の奥義秘密を伝授するなど、ありえない?(金で伝授できる?誰にでも伝授できる?)が、わずか35年後の840年には唐で仏教弾圧があり、禅も密教もダメになることを見越してのことだっただろう。

単に仏教東漸とか、気前の良い和尚の大盤振る舞いとは思えない。

密教には、稀に政権有力者が覚者と結びついて、その後の国家地域を安定させる動きをする場合があるのだが、チベット仏教王としてダライラマの成立や、元のフビライとパスパ師の関係などと比肩できるのが空海の件なのだろうと思う。
コメント

空海以前の虚空蔵菩薩求聞持法

2019-02-12 05:14:54 | 密教
◎法相宗の神叡

空海は、唐の仏教弾圧前夜に唐に入り、真言密教のエッセンスは受けるは、経典図画は大量に持ち帰るはで、そのタイミングと質と規模は驚天動地なものであった。

空海(774-835)は、虚空蔵菩薩求聞持法を奈良大安寺の高僧・勤操(ごんぞう754-827)に伝えられ成就できたとされる。

更に遡って、法相宗の神叡(しんえい。737年没。)という唐僧がいて、病を理由に日本に来朝。大和国吉野山の比蘇山寺(現在の世尊寺)に20年籠り、虚空蔵求聞持法を成就したという話がある。

そもそも生死を超えよう、輪廻を解脱しましょうという志で修業している中で、記憶力を増進しましょうなどという世俗がかったモチベーションが成立するはずもなく、虚空蔵求聞持法を記憶力増進のためにやるというのは、一つのキャッチコピーではないかと思う。

純粋に一切経を頭の中に収めようとすれば、西洋古来の記憶術でも十分いけるのではないかと思う。大雑把に言えば思春期以前から記憶術を訓練すれば、そういう類のことは可能なのではないかと想像する。

無文字の文明では必ず記憶術が発達する。かな漢字以前は日本は無文字だったという説が主流だが、本当にそうであれば、記憶技法がメジャーなものとして伝承されていてしかるべきだが、そうなってはいない。

むしろ古い神社に神代文字を見ることが珍しくなく、かな漢字以前は古神道で神代文字を用いていた可能性があるのではないかと思う。

記憶には、2種あり、アートマンレベルのひとつながりのものに直接アクセスする方法と個人のカルマ記憶から遡上するやり方。前者が虚空蔵求聞持法であって、それによって発生するトランスから入るのだろうと思う。

記憶力強化とは、即身成仏の副産物なのだと思う。

コメント

モンゴルとラマ教

2019-02-07 05:42:02 | 密教
◎パスパから大相撲

モンゴルと言えばパスパ文字。パスパ文字は、チベット語の飾り文字であって、パスパの時代のチベット人なら誰でも読めたらしい。

北京近郊の万里の長城観光に行くと途中で通る居庸関。この元代に築造された雲台には、漢字、ランジャナー文字、ウイグル文字、チベット文字、パスパ文字、西夏文字の6種類の文字で造塔功徳記が刻まれている。

パスパは5歳にして父と死別。叔父のサキャ・パンディタが彼を仏門に入れたが、7歳にして経文数万語をそらんじるなど天才の誉れ高かった。

パスパの叔父は、かのチベット密教サキャ派の総帥サキャ・パンディタ。サキャ・パンディタの叔父が以前に彼の北方での布教を予言しており、予言どおり63歳にしてサキャ・パンディタは、甥のパスパ10歳を連れて、モンゴルの第二代ウゲデイ汗の第二子涼州のゴダン王子のもとに向かった。

1246年、サキャ・パンディタはハンセン病だったらしいゴダン王子に灌頂を授けるとその病はたちまち快癒した。これによりサキャ・パンディタは、モンゴル人の尊崇を受けた。

パスパ17歳の時に、サキャ・パンディタが逝去。だがゴダン王子のパスパへの評価が高く、それを伝え聞いた、まだ王子だったクビライは、19歳のパスパに百騎の騎兵隊を差し向けパスパを迎えた。

クビライは、最初パスパのような小童に、下座にいて灌頂を受けることに抵抗していたが、クビルガ妃の口添えにより金剛灌頂を受け、以後クビライは、パスパが亡くなるまで心服していた。

パスパは北京からクビライの再三の引き留めにもかかわらず、チベットに2回帰国。サキャ派総帥であったパスパは、1280年11月チベットで46歳で亡くなった。

モンゴルはいまだにラマ教だが、その起こりがこのパスパとクビライの関係。
(参考:パスパ文字の話/中野美代子)


出口王仁三郎が、未決中にモンゴル遠征を果たし日本人が将来モンゴルに走る型を出し、大本教のご神体を笹目秀和に預けるとき次の時代の世界の中心がモンゴルであることを予言している。

それが成るには、モンゴル側にも受け入れる人物の出現が要る。大相撲のモンゴル人の活躍も漫然と見るべきではないのだろう。
コメント

死にゆく時に意識をはっきりさせておく

2019-01-08 05:27:39 | 密教
◎元気な時に最終解脱する努力

チベット死者の書の技術は、自分の死の瞬間に、意識をはっきりさせておいて、何が起きるか見てやろうという技術。

死んでいく人がそんなことをしても、火葬されるだけなのに何になるのかと、メリデメ、儲けに凝り固まった頭は疑問を呈すだろう。

チベット死者の書では、瀕死となった人の耳元で、眠りこまないで意識をはっきりさせるように話しかけるし、さらにこれから見えることどもを簡単に説明する。

日本でも念仏では、臨終正念という死にさいして(意識をはっきり持ち)極楽往生を願うという作法がある。意識がはっきりしていなければ、極楽往生の思いは混濁する。

死の闇が瀕死となった人間をひしひしと取り囲む時に、一瞬生の光が燦然と輝く瞬間が訪れる。これをチベット死者の書では原初の光と呼ぶのだが、体力がどんどん落ちて、五感も衰退していく中で、意識だけをはっきり清明に残しておけるのは、生前にそのような訓練をした者だけである。

そのような非常事態において人は通常は、無意識に落ち込んで何が起きているのか知らないままに、パノラマ現象とか、別のボディに遷移して、三途の川あたりで意識が戻る。輪廻転生から逃れられなかったのだ。

人生、輪廻転生を苦悩と絶望の繰り返しと観ずる人にとって、そこから抜け出すチャンス、明確なチャンスは数少ないものだ。

この時代は、核戦争の他に、風水火の大三災いなどにより大量死のビジョンもないわけではなく、「私は死にそうだから、意識を清明に持とう」という時間的余裕もないままに死を迎えることもあるかもしれない。

それを思えば、わざわざ人生の終わりの臨終時のみを待つ冥想修行などより、平生の元気な時に最終解脱する努力をする方がベターだと思うのが自然である。

臨終は誰にでも起こるクリティカルな人生上の出来事だが、それ以外にも日常の覚めた意識の連続は実は不連続であり、連続と連続の間に隙間があるという。これを認識するには、相当に精妙な感性を必要とする。

クンダリーニ・ヨーギ出口王仁三郎は六度死に、ダンテス・ダイジは、クンダリーニ上昇の秘儀に肉体死ありとし、OSHOバグワンも『瞑想とは、いかにゆるやかで自発的な死にいたるかという試みだ。』(死・終わりなき生 オショー・ラジニーシ/著 講談社P64から引用)とする。

この文では肉体死を強調しているが、実は眼目は自我の死の方であることは言うまでもない。

自発的肉体死を強調するのは、世間的、皮相的マスコミにとっては物議をかもすところだが、密教の伝統、古神道の伝統テクニックというのはそういうものであると思う。
コメント

スワミ・ラーマと左道タントラ

2018-09-27 05:36:42 | 密教
◎俗気を卒業した後

スワミ・ラーマの自伝に自分自身がタントリズムの手ほどきを受けたことが書かれている。

なぜだか訳文は「性行」などと訳しており、そのままでは見落としやすい。要するにスワミ・ラーマはセクシュアル・ヨーガを学ぶ機会があったのだ。

タントラには3種あり、右派?は普通のクリヤ・ヨーガみたいなので、その他には左道タントラと、右と左を混ぜたような真ん中の道の3種ある由。

スワミ・ラーマは、なんと左道タントラのイシニシエーションまで受けたと書いている。

スワミ・ラーマは、若年のうちは、高級車に乗り高級服マニアだったのだが、そんな状態では、左道タントラのイシニシエーションを受けることなど及びもつかないので、これは相当に修行が進んだ後のことだったのだろうと思う。

イケメンのセクシュアル・メディテーションの修行者だった時期もあると書けば、聞こえは良いが、冥想修行は、修行者から見れば、もとよりいろいろな妨害や障害の連続であり、セクシュアル・メディテーションにあっては、パートナーもあり、セックス自体の持つ魅惑に耽溺しやすいという大きな問題点もあり、修行を窮めるというのは、生半可なことではない。

結局、彼もそれを窮めたわけではなかったようだが、イニシエーションを受けただけでもすごい覚悟であると思う。

セクシュアル・メディテーションという言葉は、真言立川流を引くまでもなく、現代のカルトでも盛んに語られるのだが、乱倫乱交のことと誤解されがちな事件があまりにも多いことは、ふつうの人々が左道タントラの概要すら想像できない原因になっているのだろうと思う。
コメント

密教の四転

2018-08-26 06:48:18 | 密教
◎石ころから人間愛へ

密教では修行のステップを四転とする。
曰く
1.発心
2.修行
3.証菩提(悟りだが、証するものがあるので、自分が残っているので、一瞥、見仏)
4.入涅槃(これも悟りだが、モクシャ、ニルヴァーナ、即身成仏)

時にモクシャから出て、人々に親切なことを行う利他行を行うことを方便究竟と呼び五転とすることもある。

この分類の特徴は、自分が残っている境地と自分が既にない境地をきちっと区分していること。

また密教は、人間という視点を離れることはないが、それがゆえに利他行を行う五転が、禅の十牛図の第十「入鄽垂手(にってんすいしゅ)」と同様の位置づけで表れている。

インドでは、もともと四転であり、最後は人間という視点がなくてもよかったのだろうが、中国、日本と渡ってきて、五転という考え方が出てきたのではないかと思う。

モクシャ、ニルヴァーナは、そのままでは「石ころ」なのだが、そこから人間が流れ出す「人間愛」が唐宋の中国、日本ではまだあったということなのだろうと思う。
コメント

虚空蔵求聞持法 行者日誌

2018-07-27 05:38:05 | 密教
◎トランスの50日と現世利益

これは、50日間でマントラ百万遍を唱える行、虚空蔵求聞持法を、満行された方の話。

睡眠3時間で50日を通すのだが、正気を維持できるかというのも一つのポイント。

行中は、まとまった体裁の文章など書けなくてメモの山しかできなかったのを後に整理して本の形にされたとのことで、さもありなむ。

しばしば発生するトランスの中で、もちろん様々な魔にも遭遇するのだが、魔であると認識し、進む。

沐浴の時に鏡もないのに行を行う自分の姿を見て、非常に驚いた。この時肉体から出たようだが、そうだとは書いてはいないが、そういうところだろう。

虚空蔵求聞持法のキャッチコピーのように、満行した瞬間に超聡明になってスーパー記憶力をゲットしたなどとは書いていない。

そういう現世利益最優先でトランスの50日を正気で過ごせるものではないということなのだろうと思った。
コメント (1)

ダライ・ラマの大ストレスと解消

2018-01-30 05:21:26 | 密教
◎覚者にも俗人にもストレスがある

ダライ・ラマは、自分自身亡国の流浪の民でありながら、中国に政治・軍事の自主権を奪われた故国チベットで、日夜チベット民族が圧制や拷問に苦しむ様子を自分のストレスとして甘受する。

これに対してダライ・ラマは、この困難な状況は自分の未熟な行いが原因であると見て、楽観的な見方と希望をもって、絶望的な問題を受け入れるならば、ひどいこともいつしか徐々になくなっていく、とする。

ダライ・ラマは、このような苦を受け入れるという心構えで、こうした問題に苦しむすべての人々の重荷を軽減していると観想する。
彼は、この観想を毎朝早くに行っている。

それでも中国によるチベット人に対する拷問や殺害は繰り返され、その都度彼は、その報告を聞かざるを得ない。そこで、いらつきや怒りや憎しみが起こるのだが、『それは無意味なことなのだという思いにおさまる』(ダライ・ラマ実践の書/ダライ・ラマ14世/春秋社P42から引用)

中国共産党政権は、相手がチベットのような少数民族の場合は、民族絶滅政策、僧尼僧の殺害、伽藍の破却など宗教破壊をも全然容赦しない。

ところが自国民に対してもそれ以上に無慈悲だったりする。1950年代の大躍進時代に餓死した者2千万人とか1966-76年の文化大革命時代に亡くなった者数千万人とか。最近天安門事件で亡くなった者は実は1万人という報道があったが、その意義は別にして、人数としては、1万人は中国の現政権にとっては、大したことでもないのかもしれない。

観想に習熟していない人でも、湧き上がる不如意、理不尽のストレスをオームなどのマントラを繰り返すことで、そのストレスにすべてを投げ込みつつ唱えるというやり方もある。

短い時間ではなかなか、ストレスの根源が何も出てこないところまではならないが、それでもやることは大切。

ダライ・ラマのストレスほどではないが、皆大きなストレスとともに生きている。ストレスは生きている以上日々生まれるので、その都度なんとかしないといけない。

祓い清め言い直し聞き直し
コメント

ダライ・ラマのマンツーマン輪廻否定

2017-12-27 05:28:45 | 密教
◎一つの輪廻から十の輪廻

ダライ・ラマ「死の謎」を説く」から。

『一つの輪廻から十の輪廻を実現する形態がある

飛び抜けて深く、強い精神的な経験、実践を重ねて来た魂、そのような存在にとっては、一つの生命がついえたからといって、また新たな一つの肉体が必要というわけではない。むしろ、そんなものは不必要である。

そうした存在は、一つの輪廻から十の輪廻を実現するだろうし、ときに数百の輪廻、数千の輪廻をも、それも同時進行的に行なうものなのだ。深く深く精神の最深部にまで到達した存在にとっては、こうした輪廻転生の形態もありうる。もちろん、これは言葉で表現できないほどに困難な道ではあるのだが。

複数の輪廻が同時に可能になるという思想の形を信じることは容易なことではない。こうした考えを受け容れることは誰にとってもむずかしい。学び、経験し、相当の水準に達した者にとってさえ、これを思い描くことは困難であり、大きな苦労を伴うものだろう。そう言う私自身も、ときにむずかしいと感じることがある。輪廻思想は奥深いものだ。』
(ダライ・ラマ「死の謎」を説く 輪廻転生-生命の不可思議 14世ダライ・ラマ/著 クレスト社P72から引用)

人の誕生において、ダライ・ラマは、このように一つの輪廻から複数の輪廻があり得ることを語る。反対にダンテス・ダイジは座談の中で、一つの肉体に複数の輪廻が共存することもあり得ることも語る。

今読んでいる、「ヒマラヤ聖者 最後の教え」では、老ヨーギが自分の老いさらばえた肉体から自発的に脱出し、以前から目をつけていた若者の肉体に乗り移るという話が出てくる。
このケースでは、一つの肉体に先住輪廻者と後発輪廻者が共存する。

これは、ダライ・ラマともあろう方が常識はずれなことを語るものだと読み飛ばさないで、現代社会が一つの精神に一つの肉体という固定観念に毒されすぎであることに対して、ことさらにこのような話を出してきていると読むのだろう。

神の心は石ころの心。神は、時に人間の都合などまったく顧みないが、そこから流れ出すのも愛なのである。その流れの中に生と死がある。

この時代は、基本的人権の尊重で個人の権利がアプリオリに保護されるせいか、無意識にマンツーマン輪廻が当たり前と思い込んでいる人が多いが、生命の実態はこのように予想に反するものである。

まともな感性の人ほど、心配しすぎとか、気にしすぎとか、どうでもよいことにこだわるとか見られがちなものではある。

また真剣な求道者ほど、俗人にわからない細かく微妙なルールでもって生きているものである。
コメント

空海の病気治療と人間観

2017-09-10 06:18:45 | 密教
◎地水火風の不調と悪霊のたたりと悪いカルマ

空海の秘密曼荼羅十住心論序に病気治療観が書いてある。

曰く、
病気の原因は、地水火風の不調と悪霊のたたりと悪いカルマにしぼられる。

そこで身体の病気を治す方法に8あり。温泉、散薬、丸薬、酒、針、灸、まじないといましめ(呪禁)。さらに薬ではたたりや悪い報いを退けることはできないが、呪法は、一切の病を治すことができるとまで言っている。

一方心の病は五蔵(修多羅(しゅたら)、毗奈耶(びなや)、阿毗達磨(あびたつま)、般若、総持)で治すと言う。この五つは、経と律と論と般若(知恵)と陀羅尼(マントラ)などの教えである。

要するにオカルティックかつホリスティックな人間観にもとづく治療であり、このまま現代で治療すれば、医師法違反で捕まってしまうが。

この人間観の特徴は、
1.人間は肉体だけでなく微細身を有し、肉体の健康は微細身レベルからも影響を受けている。

2.人間は今生だけでなく、前世のカルマも引きずりながら生きており、今生で善行を積んでばかりいる人がひどいめに遭うこともままある。(ヨブ記をヨブの前生があったと見ればそういうことも出て来よう)

3.人間は、肉体と微細身複合体であり、肉体に対しては微細身が大きく影響を与えるのだが、微細身へのコントロール手法として、まじないといましめ(呪禁)を挙げる。
針、灸は、経絡刺激なので対エーテル体療法と見られる。

4.心の病は、経と律と論と般若(知恵)と陀羅尼(マントラ)と、潜在意識も含めた知情意のコントロールで治す。

このような空海の人間観は、今の人間には肉体しかないという現代医学からは馬鹿にされるが、空海は宮中祭祀には、今も隠然たる威儀を有しており、後七日御修法はその一例である。

翻って、現代科学の人間観は、ノーマルでもトータルでもなく偏狭であると言える。
コメント

般若智灌頂

2017-08-23 05:40:49 | 密教
◎本人の修行の核心

灌頂といえば、なんだ儀礼かと思いがちであるが、後期インド密教の影響の強いチベット密教では、灌頂に行の核心が見られる。

チベット密教では、一般に四つの灌頂を立て、
1.瓶灌頂
(行者に目隠しさせて曼荼羅上に華を投げさせて、本尊を決める云々)
2.秘密灌頂
(行者がマスターに若い女性をプレゼントし、マスターは彼女とセックスし、金剛杵(男性器)の中に蓄えられていた菩提心(精液)を取り出し、弟子の口中に投入する。これによって弟子に菩提心を植え付けると観想する)
3.般若智灌頂
(行者がマスターから与えられた女性とセックスし、射精せぬままで、菩提心の上昇と下降により四歓喜を得る(四歓喜については快感の段階的高まりとみる説と、死における意識の解体の4段階とみる2説がある))
4.第四灌頂
(マスターが行者に特別なサジェスチョンを与える)

四つならんでいるが、行者自身による行は、般若智灌頂だけであり、悟りは、他人によって惹起できぬことが知られている以上は、1,2,4のマスターによる行者への働きかけをことさらに灌頂儀礼として残しているのは、後に思い当たる人物が出ることを想定しているからだろうか。

よって、チベット密教の本人の修行の核心は、般若智灌頂と考えられるように思う。

性器とか、精液という文字が使われているが文字通りにとることはできない。秘密集会タントラなどでは、文章中に糞尿のオンパレードであり、明らかに世俗世界のことではないことを強く印象付ける書きぶりだからである。20世紀のオカルティストが、金星だ、土星だ、異星人だと、そういう言葉で異次元のことを語るように。



コメント

縮身

2017-07-07 05:34:32 | 密教
◎宗教のお国ぶり

かのチベット密教で呪殺を繰り返したドルジェタク。彼は午年の4月10日の太陽が昇ったときに、身体が縮み、天界に上ったという。

正木晃氏はボン教屈指の学問寺院であるツァンのユンドゥルリン寺に調査のため滞在していた時に、ボン教ゾクチェンの権威として高名なシェーラブ・テンジン師が真顔で、縮身は、大の大人が赤ん坊くらいの大きさに縮むものであって、実際に起こる、と語るのを聞いたそうだ。

臨終時の屍解と縮身は、チベット密教では、頻出の話題である。屍解は他宗派でも見られる。どちらも死後の肉体の姿のことであり、本筋とはあまり関係のない話ではあるが、見なければ信じない人々が多い場合には、そういうことも起こして見せるということなのだろう。

現代科学は、再現させ、第三者に見せなければ、信じない手法である。誰もが知覚がアストラル体まで感得できるようになれば、そして神知ることができるようになれば、この粗い感性を大前提とした肉体レベル、物質レベルだけを相手にした片手落ちな科学は、その権威を身の丈に合ったものに変えていくだろう。
コメント

チベット密教初心者向けの8つの心得-2

2017-04-01 05:53:32 | 密教
◎引き寄せの法則の逆

ダライ・ラマの初心者向けの8つの心得の続き。

『(5)他者が嫉妬から私を罵り
嘲るなどしても
敗北は私が引き受け
勝利を相手に捧げることができますように

(6)大きな望みをもって奉仕した相手が
理不尽にも私をひどく傷つけたとしても
修行の上の最高の師と
みなすことができますように

(7)要約すれば、自らのすべての幸せや利益は
母なる衆生に捧げ
衆生のすべての害や苦しみは
ひそかに私が引き受けられますように

(8)それらすべてが、世間八法(※)の
思惟の垢に汚されることなく
一切の事象は幻のごときものと悟った心が
執着なく、(輪廻の)伽より解き放たれますように

※世間八法
人間の心をかき乱す八つのことがら。
(1)利得、(2)損失、(3)称讃、(4)非難、(5)誉、(6)誹謗、(7)楽、(8)苦』
(ダライ・ラマ日々の暝想 ダライ・ラマ十四世 講談社P88-93から引用)』

あらゆるものは、自分も、自分に対してつらく当たる者も、ひどい仕打ちをする師匠でさえ、ひとつながりである。自分を罵る他人も、私を傷つける他人も、一つながりなのだから。

さらに自分の受ける幸せや利益は自分が受けず皆に与え、皆の受ける苦しみや悲しみは自分が引き受けようというが、すべてのものが一つながりなのだから、それに何の痛痒があろうか。これは、今はやりの引き寄せの法則とは逆方向なのだが、真理というのは、そういうもの。

修行は観想法中心になるので、完成形を目指して、自分の想念や思考法を正して生活することにより、一歩一歩真理に近づいていく。

初心であればこそ、心がまえは大切なものだ。
コメント