アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

尹喜が老子から道徳経を得る

2018-07-20 05:43:16 | 老子
◎聞き手のレベル

周の時代、尹喜は、眼光人を射る人物であった。

尹喜は、10月に函谷関を聖人が西に通過していくことを望見し、請うて函谷関の関守となった。

数か月後、老子は、果たして函谷関を通過しようとしたので、これを捉えて函谷関に何日か逗留させた。

さて老子が函谷関を去る日、老子は、尹喜の骨相を見るに、無為の妙道に合っていて、遠からず仙道の妙果を得るであろうから、一層冥想修行に励みなさいと言って、老子道徳経五千言を授けた。更に千日後に蜀の青羊に私を訪ねて来なさいと命じた。

尹喜は、言いつけ通り3年間冥想修行に打ち込み、千日目に蜀の青羊にて老子に再会し、印可された。


老子道徳経は、悟り寸前の高弟尹喜があって、文章に落ちてきたもの。音楽のコンサートですら、聴衆のレベルにより音楽は高まったり落ちたりするもの。

覚者は、マンツーマンか少数の弟子向けに説法はするが、不特定多数向けの講演などはまずしないもの。

OSHOバグワンでも、1970年代の講話には、聴衆のレベルが高いせいか出色のものがあるが、90年代に近づくにつれ、講話の中身のレベルは落ちている印象がある。晩年は聴衆に恵まれなかったのだろう。

不特定多数向けの説法は、クリシュナムルティも結構やっているが、平凡なものもある。

宗教、スピリチュアルものの文献資料は無数にあるが、的確に選ぶことも一つの縁であり、努力の結果とも思える。

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カルマ・ヨーガの老子-2

2018-03-29 05:21:11 | 老子
◎老子 第47章 不出戸知天下

『わざわざ家を出て見ないでも、この世の中というものはわかる。わざわざ窓を開けてみないでも、晴曇風雨はわかる。

反対に世の中を知ろうと思って、世の中に入って行き、晴曇を知ろうと思って、外に出れば出るほど迷いが多くなって、決定ができなくなる。

だから本当の賢い人は、すべてのことにおいて行わずして知り、見ずして名付け、為さずして成る。』
(老子 第47章 不出戸知天下)
※原文:不出戸、知天下、不闚牖、見天道。其出彌遠、其知彌少。是以聖人不行而知、不見而名、不爲而成。

最後の部分では、人には行うべきことがあり、名付けるべきことがあり、為すべきことがあるのを前提にしていることがわかる。

行うべきこと、為すべきこととは、平易だが、この名付けるべきことが、特徴的な用語になっている。

老子 第1章 道可道では、
「道の道たるべきは、常(かわ)らざるの道に非ず、名の名たるべきは、常(かわ)らざるの名に非ず」

名の変転する性質を示す。まず無があり、有があるが、名があって天地人など様々な現象に化す。
転々化々する現象そのものの総称をして、名という用語を用いているように思われる。つまり名とは、全体にあっては天機、あるいは天道の運行というべきものであるが、個々人にあっては、履むべき大道であって、それをカルマと見ることができる。

道を踏まえながら行動をとり行う。これぞカルマ・ヨーガである。

『本当の賢い人(聖人)は、すべてのことにおいて行わずして知り、見ずして名付け、為さずして成る』とは、この一なるものアートマンの体感であり、時間空間のない世界であって、これが今ここ。
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カルマ・ヨーガの老子-1

2018-03-28 05:34:16 | 老子
◎「名」とはカルマ・ヨーガ

ダンテス・ダイジは、老子の悟境は、只管打坐によるものだとみていたが、もう一つ柱があって、老子の「名」とはカルマ・ヨーガであるというもの。

至福千年での人間の生きざまが神を知りながら日常を生きるということであるが、それは禅の十牛図では、第十図入鄽垂手(にってんすいしゅ)となる。

老子第9章持而盈之

『一杯にしてこれを持つのはやめた方がいい。金属を鍛練してそれを鋭くすると必ず折れるから長く保つことはできない。

金銀珠玉というような宝物が家に一杯満ちていると、盗まれたりして能く守りきることはできない。

また富貴にして驕るというと自分で災難を自分の身に残すことになる。従って、功成り、名遂げた時に身を退くは天の道である。』

『功成り、名遂げた時に身を退く』とは、今なら共産党幹部になって何兆円もの資産を築くことなのだろうが、昔は科挙を通って大官になることが出世の典型であり、老境になったら引退して隠逸をやるというようなイメージでこの文章は捉えられていた。

だが、ダンテス・ダイジは、名遂げるとは、その人生で今生で与えられたカルマを果たすことだと読む。

死を迎えるにあたって、それまでに人生を投げていなければ、カルマを果たすのは当然である。人生には出世するあるいは世間的な自己実現という公的な側面と悟りを開いて悟りを生きるという私的な側面がある。

その両方をコンプリートして初めてカルマの充足となり、死を迎える時節が熟す。

公的な側面は悟り・道(タオ)とは何の関係もないが、人は生きている限り金を稼いだり洗濯したり家事をしたりという面も必ず伴う。

公私混淆してカルマという面はある。これを老子は『名』として語った。
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天門開闔して、能く雌たらんか

2017-11-12 06:28:06 | 老子
◎サハスラーラを開いてアートマン

「天門開闔(かいこう)して、能く雌たらんか。」は、老子第十章にある。

天門は、サハスラーラ・チャクラでこれを開いて、雌は、玄牝のイメージなので、アートマンたる第六身体。禅の十牛図なら牛にあたる。

老子第十章の原文は以下のようにとても短いが、政治社会次元で無理やり解釈しようとすると、王弼(易経の注釈での天才)以来の伝統的な注釈を見て、長々と解釈せざるをえなかったのだろう。これを神秘生理学風に解釈したほうがしっくりくる。

「原文
載營魄抱一、能無離乎。專氣致柔、能孾兒乎。滌除玄覽、能無疵乎。愛民治國、能無以智乎。天門開闔、能爲雌乎。明白四達、能無以爲乎。生之畜之、生而不有、爲而不恃、長而不宰。是謂玄徳。」

神秘生理学風な解釈はこんな感じ。

悟りを開きながらそれを気にしないで生きていけるか。気のコントロールで十全の柔軟性を得て赤ん坊みたいになれるか。

道という視点を消したままで傷なく生きられるか。民を愛し国を治めるにあたってその全智を出さずにやれるか。

サハスラーラ・チャクラを開いて玄牝たるか。あらゆることを明白に承知していながら、それを出さずにやっていけるか。

道を生き、道を畜(やしな)い、それを自分のものとせず生き、道を恃みとしないで行動し、道を成長させてもそれを主宰しようとしない。これを玄徳という』

よく禅家が、大悟した人にそれを忘れて生きていなさいとアドバイスするのだが、この文章の後半はそんな雰囲気である。

要するにサハスラーラを開いても、それにこだわらずに生きて行きなさいということで、禅でいう悟後の修行、聖胎長養をしなさい、というニュアンスがうかがえる。また大悟した者の超能力発現も当然のものみたいな前提もうかがえる。

こういうことからも老子の境地は只管打坐的、禅的と考えられる。

老子第十章は、このような解釈でよいと思うが、西洋人はインド人も含めともすれば漢文を、神秘生理学風、神秘主義的に解釈したがる悪い癖がある。

老子、荘子も、西洋人の訳したのを見ると、こんな解釈もあったのかと驚くところは、大概神秘主義的に解釈したところ。

OSHOバグワンは、老子、荘子は英訳で見ているから、そういうところの悪影響はある。
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天道に親無く常に善人に与す

2016-01-25 04:58:54 | 老子
◎道教の諸悪莫作衆善奉行

老子にも仏教の諸悪莫作 衆善奉行に相当する言葉がある。それが、道徳教第七十九章の『天道に親無く常に善人に与す』である。

世の中には善と悪があり、人間は善でも悪でも行為できるが、天道は常に善人の側しか推さない。

言霊の善用ということを考えると、一言一句おろそかにできるものではないが、言葉においても、「本当だから、正しいから」という理屈で激烈な言葉ばかりでは、成るべきものも成らないことがある。そこで善言美辞という発想になる。

善言美辞と申しても腹中が打算メリットばかりでは虚言美辞麗句であって実効はない。

人は常に善の側にあって想念・意識を保つべきであるが、外に出る時は善言美辞に努める。日本では明治以来、礼儀・挨拶と言われるが、ともすれば挨拶作法の正しさと美辞麗句を並べれば内実内心は問われないという形式主義が横行している。

人の目につかなければ悪いことをしてよいなどという考え方は、腐敗の最たるもの。
あの中国人ですら、最近はいざ知らず、昔から俯仰天地に恥じずと唱え、老子の時代から「天道に親無く常に善人に与す」ということを承知していたのだ。
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老子完結

2012-07-10 06:00:42 | 老子
◎万人が王たり得ることを求められる時代

昨日で老子が完結した。

第一章では、「道の道たるべきは、常(かわ)らざるの道に非ず、名の名たるべきは、常(かわ)らざるの名に非ず(本当の道は不変固定の道ではない。本当の名は、道の現れであり、不変固定ではなく、刻々と変じているものである。)」と常ということで、説き起こす。

これが、第十六章致虚極では、「常を知らざれば、妄作して凶なり。常を知れば容る。容るれば乃ち公なり。公なれば乃ち王たり、王なれば乃ち天なり。天なれば乃ち道なり、道なれば乃ち久し。
(人があるべき本来の姿を知らなければ、必ずみだりに物事に動作して、不幸な目に会う。本来の姿を知ったならば、すべてを無為として容れることができる。このようになる時すべてを無為として受容すれば、真に公平無私である。このように真に公平無私でありえたならば、それは王足り得るのである。王足り得たならば、それはまた天そのものである。天そのものであったならば、それはすなわち道である。道であったならばそれは永遠である。)」

まず老子の只管打坐のキーワードは、「常」であり、「久」であり、永遠なのだ。これでもって既に人間の限界を超えてしまう。

ここでは、世間には王たり得る人物はそう何人もいるはずはないのに、敢えて王足り得る条件としてタオを挙げている。

只管打坐冥想の覚者は、鬼神を使嗾しない。只管打坐冥想の覚者は生の世界、現実から入っていくから、現実の王をまず推すのである。

だから老子はその辺の呼吸がわからない人が見れば、老子は為政者のための参考書などというわけのわからない評価が出がちなのだと思う。

一方クンダリーニ・ヨーギは現実の王を押すことよりは、現実のありようを我が思いの方向に変えていく方に関心があるように見える。同じ道教の中にもクンダリーニ・ヨーガの正統はきちんと伝承されていて、呂洞賓から柳華陽への流れがきちんとあるくせに、なぜか老子も太上老君としてクンダリーニ・ヨーガ系神仙に祭り上げられているのは妙な感じがする。

それにしてもこの時代の文明を少しでも多く残して行こうと思う人ならば、まずは只管打坐して、自分の人間としての悲しみ、みじめさを越える工夫をせねばならないと、数千年前の老子がこの切羽詰った時代に向けて情報発信してくれたわけだ。
万人が王たり得ることを求められる時代なのだ。


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玄のまた玄は衆妙の門なり(老子第1章 道可道)
聖人は無為の事(しわざ)に処す(老子第2章 天下皆知可道)
其の心を虚うし、其の腹を実にす(老子第3章 不尚賢)
道は淵として万物の宗に似たり(老子第4章 道冲)
天の心は石ころの心(老子第5章 天地不仁 )
白髪を黒く、抜けた歯を再生(老子第6章 谷神不死 )
自分のことは後にして他人を先に(老子第7章 天地長久)
不争の徳は水の如し(老子第8章 上善若水)
功遂げ身退くは、天の道なり(老子第9章 持而盈之)
玄徳-道そのものの徳(老子第10章 載営魄)
自転車のハブにも人にも空の部分が要る (老子第11章 三十輻)
生命が本来実質的に要求しているもの (老子第12章 五色)
我が身に己なし (老子第13章 寵辱若驚)
あるが如くにしてなく、なきが如くにしてある (老子第14章 視之不見)
古(いにしえ)の立派な人物 (老子第15章 古之善為士者)
冥想体験としての老子 (老子第16章 致虚極)
信足らざれば、ここに信ぜられざる有り (老子第17章 大上下知有之)
大道を経験しない人が多い (老子第18章 大道廃有仁義有)
聖、智は、枝葉末節的(老子第19章 絶聖棄智 )
我は愚人の心なる哉、沌沌(とんとん)たり (老子第20章 絶学無憂)
物質と現象を超えた純粋無雑 (老子第21章 孔徳之容)
二元的にものを見ない (老子第22章 曲則全)
道と一体となってこれを楽しむ (老子第23章 希言自然)
功を誇らず (老子第24章 企者不立)
タオとは何か (老子第25章 有物混成)
バランスを取る (老子第26章 重為軽根)
其の師を愛せざれば大迷なり (老子第27章 善行無轍迹)
其の雄を知って其の雌を守れば (老子第28章 知其雄)
かたよらないもの (老子第29章 将欲取天下)
絶対に戦争をしない (老子第30章 以道佐人主)
戦争は大がかりな葬礼 (老子第31章 夫佳兵者)
道の常は名づくる無し(老子第32章 道常無名)
自らあるべきところに安んずる (老子第33章 知人者智)
言わずして大道に帰する (老子第34章 大道汎兮)
淡乎(たんこ)として味無し (老子第35章 執大象)
陰極まって陽生ず (老子第36章 将欲歙之)
自ずからその徳に化す (老子第37章 道常無為)
徳であろうとすれば徳ならず (老子第38章 上徳不徳)
あらゆるものに神性を見る (老子第39章 昔之得一者)
老子の世界観 (老子第40章反者道之動)
生存競争を問題にしない (老子第41章上士開道)
万物は陰陽を抱いて和す (老子第42章 道生一)
之に及ぶもの希(まれ)なり (老子第43章 天下之至柔)
もらい過ぎない (老子第44章 名與身)
正しいけれど理想主義的 (老子第45章 大成若缺)
足るを知る (老子第46章 天下有道)
行わずして知る (老子第47章 不出戸知天下)
為すことがない (老子第48章 為学日益)
民衆の自我の発達とタオ (老子第49章 聖人無常心)
生の側を窮めて死の側を知る (老子第50章 出生入死)
わがものとして所有しない (老子第51章 道生之)
心意の妄動を制する(老子第52章 天下有始)
人為的なはからいをしない (老子第53章 使我介然)
子孫の繁栄 (老子第54章 善建者不抜)
和を知るを常と曰う (老子第55章 含徳之厚)
道を比喩で語る (老子第56章 知者不言)
無為と只管打坐 (老子第57章 以正治国)
正しいことをしても却って正から遠ざかる (老子第58章 其政悶悶)
召使のように控えめに(老子第59章 治人事天 )
傷つけられない自分 (老子第60章 治大国)
大国が小国に下る姿勢をとる (老子第61章 大国者下流)
罪を真に免れる (老子第62章 道者万物之奥)
身近なことから (老子第63章 為無為)
生の側から極める (老子第64章 其安易持)
大衆に智など必要ない (老子第65章 古之善為道者)
ある意識の極限状態 (老子第66章 江海為百谷王)
観念的なイメージ (老子第67章 天下皆謂)
相手の下に立つ (老子第68章 善為士者)
慈悲のセンターと殺生 (老子第69章 用兵有言)
知りやすく行いやすい (老子第70章 吾言甚易知)
なりきる(老子第71章 知不知上 )
ひれ伏しておろおろと拝む (老子第72章 民不畏威)
重い刑罰の是非 (老子第73章 勇於敢)
天の道を犯さない (老子第74章 民不畏死)
自己の生の為に作為しない (老子第75章 民之饑)
肉体は下、アストラル体は上 (老子第76章 人之生)
無為なる合理的判断 (老子第77章 天之道)
国の垢を甘んじて受ける (老子第78章 天下柔弱)
権利を所持しても使わない (老子第79章 和大怨)
我が生活に満足する (老子第80章 小国寡民)
無為の体験を経た言葉 (老子第81章 信言不美)



悟りとは何か
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玄のまた玄は衆妙の門なり

2012-07-09 05:09:33 | 老子
◎老子 第1章 道可道

『本当の道は不変固定の道ではない。本当の名は、道の現れであり、不変固定ではなく、刻々と変じているものである。
無は天地剖判以前のものを無と言い、有は物質、時間、空間の現象界である。ゆえに無はその造化の妙を見せるし、有はその現象界の終わりを現わそうとする。
無と有は一見して違ったもののように見えるが、実は同じであり、その働きにより呼び名が異なっているだけである。この働きは同じく玄という。この玄なる無有の働きは、すべての働きの出て来る門である。』
【訓読
道の道たるべきは、常(かわ)らざるの道に非ず、名の名たるべきは、常(かわ)らざるの名に非ず、
無は天地の始めに名付け、有は万物の母に名付く。ゆえに常に無は以てその妙を見んと欲し、常に有はその徼を観んと欲す。
この両者同じ、出でて而かして名を異にす、同じくこれを玄と謂う。玄のまた玄は衆妙の門なり。】

モクシャ(解脱)を体験した者の言なり。無も有も高みから眺める立場はニルヴァーナ以外にはない。無も有も玄妙であり、そのはたらきという名だけが違っているというのは、生の世界も死の世界も、そのからくりを見切って初めて言えることである。

老子はついに完結です。


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悟りとは何か
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聖人は無為の事(しわざ)に処す

2012-06-11 04:06:45 | 老子
◎老子 第2章 天下皆知可道

『世の中の人が皆美しいものが美しいものであることを知るのは、それは醜いもののおかげである。また善の善であることを知るのは不善のあるおかげである。
だから有があるから無があるのであり、難しいことがあるからやさしいことがあり、長いという形があるから、短いという形ができるのであり、高いものがあるから、低いものがあるのであり、音声も八音があって初めて和があるのであり、また前があるから後があるのであり、相対によって始めてものが生じ、価値がある。
これをもって聖人は、無為の言わざる教えを実行する。
いろいろな事件が起こっても嫌な心を持たないで引き受ける。自分の力でこしらえた物でもそれを自分のものと考えない、また自分の努力で物事を成しても、自分の高名を思いもしない。次にそれで成功しても早く身を引く。

このようにすべきことはやって結果を要求しない人は、人がなつき離れようとしない。』

遥かなこの世を越えた高みから、現象世界をどのように調和的に過ごすべきかという視点に移っている。このあたりが老子は「俗物」というか山っ気が消えないとか言われる所以か。無為という響きには衆善奉行、諸悪莫作という悟りに到達した人たちの生きる姿をまさに「無為」と見ている様子がうかがえる。


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悟りとは何か
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其の心を虚うし、其の腹を実にす

2012-04-06 06:07:39 | 老子
◎老子 第3章不尚賢

『賢人を尊敬して登用しなければ、民が争うことはない。
また得難い金銀珠玉のようなものを貴ばなければ、人民をして盗をなさしめるようなことはない。欲心の起こるようなものをわざわざ見せなければ、民心を混乱させることはない。

だからして聖人の世の治め方は、人民の心を虚心にさせ、その無意識的本能の欲するところのものを身体に吸収させる。人民の人為的欲求心を弱くして、その道に生きる生活の根本を強固にすることができるのである。(この部分の読下し:是を以て聖人の治は、其の心を虚うし、其の腹を実にす、其の志を弱くし、其の骨を強くす。)

聖人は、民をこのようにして、無為以外の不必要なことを知ることなく、無為以外のことを欲することを無くさせて、かの人為的文化主義者等をして乗ずる隙がないようにさせるのである。
このように為政者が、無為を為すときは、天下は治まらないということはないのである。』

為政者側からするあらゆる情報操作、マインドコントロールを行わずに、それぞれの本性に向き合えるように民を仕向けて行くのだと言う方向性。

その方向性にあっては、現代のような功利主義的な価値観、信条は排される。

『其の心を虚うし、其の腹を実にす』とは、人民全体が冥想により、先ずは道を知ること、それによって、相互の願望実現による衝突を自然に回避できるだろうという展望が前提にあるように思う。腹とは、腹を作るの腹であり、臍下丹田、スワジスターナ・チャクラ

これぞ鼓腹撃壌社会の原則である。人民の平安と幸福のための超時代的な原則とも言える。

これは、イザヤ書のような民を暗愚に陥れ皆殺しみたいな方向性(クンダリーニ・ヨーガ的)とは全く逆の只管打坐的方向性の言である。


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道は淵として万物の宗に似たり

2012-03-23 06:03:47 | 老子
◎老子 第4章道冲

『道はちょうど中の冲になっている器のようなもので、見たところ何もあるようには見えないが、しかもその無形のところが、用を為しているのである。
そして道はこれを用いても盈(み)ちるということがない。それはちょうどあの淵のようなものであり、万物の本源に似ている。
道は静かに、存在しているようにも似ている。誰の子であるかもわからない。天地の主宰者たる上帝よりなお先からあるようである。』

これは、道の印象。道をして、その属性に永遠を感得している。
また満たないが、何か入っている淵のようなものとして万物の宗(根源)に似ていると表現している。万物の根源といえば、古事記では葦牙(あしかび)、ユダヤ教なら一条の黒い焔だが、老子は淵と比喩する。

老子は後世になって仙道の祖師の一人に祭り上げられたりするがそれは本意ではあるまい。仙道の熟達者であれば、古事記やユダヤ教みたいな、見たとおりを表現するにちがいないが、ここは、只管打坐の熟達者として、語りえぬ道の属性を、比喩として淵と表現したのだと思う。
盈ちることがなければ、ある時は盈ちるように動き、ある時は減るように動き、易の最終卦の火水未済の未済を誘発し、永遠の戯れの動因となる。



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自分のことは後にして他人を先に

2011-10-07 03:11:19 | 老子
◎老子第7章 天地長久

天地は長久である。何故に天地がこのように長久であり得るかというと、それは天地がその存在にあたって、自分の為に生きようとしないからである。だからよく永遠に生きていることができるのである。

だからこの天地の道を体した聖人もまた、すべてのことにおいて、先ず自分のことは後にして他人を先立たせる。(だから却って他人から先だたされる。)またその身を外にして、即ち自分のことは考えないで、他人のために尽くす(だからその身を保つことができるのである)。
結局聖人というものには私心がない。それで結局その本来の自分、自己の本来を完全に生かすことができるのである。』

自分がいて他人がいるということを前提にした段。既に利己的でなく、自分というものが無い生き方にあって、これらをいう。
ここでは私というのが、通俗的意味での私という意味と全く逆の意味で使われている。つまり利己的な人々という姿が普通のあり方である人々に対して、正しい姿がコントラストとして浮き出るように述べている。


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不争の徳は水の如し

2011-06-18 05:32:15 | 老子
◎老子第8章上善若水

『最上の善は例えば水の如しである。即ち水というものは、善く万物のためになって、それと争うことがない。そしてすべてのものの嫌うところに居る。だからこの水の精神はほとんど道の性質に近いと言って良い。

我等がこのの精神を体得するならば、われらが居る場所は必ず、その地を幸福なものにするであろう。またそのような状態の心は、淵の水のように波立たず、すべてを受け入れて奥深い。また他と与(とも)に不争の徳を守れば、その仁を善くすることになる。

またその言において不争の徳を守るならば、その信を善くすることができる。

また政治において不争の徳を守るならば、その治を善くすることができる。また物事を為すにおいて真に不争を守るならば、どのような難事にあっても、これを能くすることができる。

行動において不争の徳を守る時は、自然に出処進退することができる。』


この世の根源的要素としてのイデアとしての水の話であり、ギリシャの哲人ターレスが「万物の根源は水である」と述べたが、その『水』に近い。
ここは、心の状態や、政治のあり方、行動の仕方に敷衍して述べているが、昨今の他人を蹴落としてでも自らの利益を確保しようとするを是とする風潮とは、正反対の説である。

現代人は、金をもらうこと(金の見返りに何かを期待されること)、自分がメリットを受けることの弊害について、より敏感にならねば、この消息について直観するのも難しいのかもしれない。
そうしたものを受け取った瞬間に「争」の世界に入り、不争の徳を失うからである。





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功遂げ身退くは、天の道なり

2011-03-09 06:04:33 | 老子
◎老子第9章持而盈之

『一杯にしてこれを持つのはやめた方がいい。金属を鍛練してそれを鋭くすると必ず折れるから長く保つことはできない。
金銀珠玉というような宝物が家に一杯満ちていると、盗まれたりして能く守りきることはできない。
また富貴にして驕るというと自分で災難を自分の身に残すことになる。従って、功成り、名遂げた時に身を退くは天の道である。』

錬金術的な法則である、「上のものはやがて下になり、下のものはやがて上になる」を語る。トップでその地位を失いたくないと頑張れば、易経乾為天の第六爻にある亢龍悔いありの嘆きのもととなる。

この視点から、ひたすらこの世的、人間的な幸福を求めることを否定している。即ち、巨大な財産とか高い地位とかである。この書きぶりでは、成り行きで功なり名遂げることはあっても、それにこだわりを持たず、間髪を入れずに身を退くことを勧めている。成功した人への警告ではあるが、その根底の法則についての洞察は深いし、論証しにくい。






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玄徳-道そのものの徳

2010-11-13 05:11:42 | 老子
◎老子第10章 載営魄

『私たちはよく、その身体の上にその精神的欲望を司る魂と感覚的欲望を司る魄との二つともを、たちまち守りながら、しかも道の発動現成にあたって、道から離れずに生きてゆけるか。

この自分の中にある生々の原動力、無意識的生本能そのものの発動のままに生きることを専らにし、自分の欲望的意識は、極力これを抑えて発動せしめず、ちょうどあの赤ん坊のように生きることができるか。

民を愛し、国を治めるにあたって能く無為たることができるか。天門の治乱興亡の諸事件、諸現象にあたって、自分の力で自由にすることができることを知りながら、よくそれをしないで、人為的発動をしないで、無為を守っていることができるか。あらゆる方面において聡明でありながら、しかも能く知なきが如くしていることができるか。

道は万物を生じ、万物を畜っているが、しかもこれを生じさせても自分のものとしない。またすべてのそれらのことを自分が為したからといってそれらのものに対して何の期待も持たず、要求も持たない。又それらを長じさせ、養うたからとって、自分がそれを主宰しようとしない。これを玄徳(道そのものの体現であるところの聖人の持つところの徳)という。』

道を発動現成するという立場にあっては、自分と道の区別は、もはやない。ともすれば、肉体側、物質側であるところの「魄」寄りに動きたがるところを、能動的にコントロールする必要があるとする。

その必要があるのは、少なくとも一度は道を見た人間であって、仏教でいうならば菩薩のことである。つまり菩薩として生きる場合のテーマがここにある。

仏教では諸悪莫作 衆善奉行を道(真理)を知る人の生きる姿であるというが、老子ではその生き方を一言で玄徳(道そのものの体現であるところの聖人の持つところの徳)と称す。

今更ながらであるが、道を一瞥しても、道を体現した生き方が簡単ではないことが知られる。






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自転車のハブにも人にも空の部分が要る

2010-10-08 06:07:58 | 老子
◎老子第11章 三十輻

『三十の車の輻(や=スポーク)は、一つの轂(こしき=車軸)に集まっているが、しかし車が車としての用を為すのは、その轂の木の部分ではなくて、心棒を入れる穴の部分がその轂にあるから、車輪が回って車としての用を為すように。


粘土を挺(こ)ねて以て器を為(つく)るが、その空の部分があって器としての用を為す。また戸や窓をくり抜いて部屋を作るが、空白部分があって部屋の用を為す。(この現象界たる有の持つところの意義は、有だけでそれをなしているのではなく、有の奥にある又は有の始めにある無の働きの為である。)』

ここに人間という視点はない。有の奥に無があることを見る為には生というものを究め尽くした境地に至らなければ、そのことを語れまい。

老子の比喩は素朴だが、この比喩に反応してチェックを入れる人はさほど多くはないだろう。





悟りとは何か
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