アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

ザ・ジャンプ・アウト完結について

2015-02-12 03:17:20 | ザ・ジャンプ・アウト
◎無用の用

世界樹から説き起こした七つの身体論である「ザ・ジャンプ・アウト」は、ニルヴァーナの章に少々の輪廻転生論を加えて完結した。

悟りを説明するのは、簡単ではないが、そのバックグラウンドであり、正体でもある七つの身体論の証跡を、古今東西の覚者の言説の欠片からジグソーパズルよろしく組み上げることになった。その全体の出来上がりから、神仏の似姿か人間の似姿が見えるようなら、うまくいったと言えるだろう。

ニルヴァーナを体験したことはないが、見た人や直観した人や感じとった人というのは居るものであって、そうした人の言説は貴重であるが、無知な人が勝手に想像したニルヴァーナを描写する場合がありそれは間違いとなる。

けれども私のような未悟の者が、厳密にそうした真贋を見抜くのは必ずしも正確を期しがたいものであるから、結果的に間違いを書いている場合もあるかも知れない。またその事柄の存在する次元が異なれば、同じ事柄を描写した文章でも、ある次元では真実だがある次元では間違いであるということがありえるし、OSHOバグワンが言うように、神秘に属する事柄には、そのままカミング・アウトすれば世の中の弊害になるものがあるので、そうしたものは故意に間違いを伝承するというようなこともあるらしい。

よって、ダンテス・ダイジの言ではないが、『ここに書いてあることは、嘘かもしれない』などと言わなければならない。

悟りそれ自体も、努力をすれば誰でも見神見性できるものでもないし、死後万人が必ず悟るということでもないらしい。

それでもこの大勢の狂人たちが闊歩している時代において、コスト・パフォーマンスの極めて怪しい冥想修行に取り組んで悟りを求めよう、ニルヴァーナへの努力をしようという人は、その行動が論理的帰結でないだけに奇特な人である。
それは無価値の価値を求めるものだが、老荘は、無用の用とことさらに呼んでみせた。


今は危機の時代である。その危機感を共有してまともに向き合おうとしている人だけがその嗅覚を持つに違いない。旧約聖書でソドムの町中の人に襲撃されかけた天使たちをかくまったロトのように。


『文明終末期において、
もろもろの悪をなさず
もろもろの善をなす人は、
正真正銘の救世主である。』
(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジ/森北出版P65から引用)

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ダンテス・ダイジの死と転生-2

2015-02-11 06:20:29 | ザ・ジャンプ・アウト
◎死と転生のメカニズム

ここで質問者は、一つの個なる霊魂が死ぬと霊界に渡り、再生して現世に戻り、また死ぬと霊界に戻るみたいな通俗的輪廻転生観を想定しているのだが、ダンテス・ダイジは、そんな社会的通念みたいなものすらおかまいなしに、そのものズバリで、人間の輪廻転生のメカニズムを明かしていく。だから一見質問と回答はかみ合っていないように見えるが、実はパーフェクトに回答は尽くされている。

それは、人は死ぬとまずこの万霊万象が一つながりになったもの、それはアートマン・第六身体のことだが、それに帰る。ダンテス・ダイジは、アートマン・第六身体のことを、アラヤ識、アカシック・レコード、愛、光、「今、ここ」などとも呼んでいる。

人は死ぬと、本人の自覚の有無にかかわらず、この一なるものに帰っていく。そして一枚の葉である人間は、前に出たところに近い枝から再生する。それをもって輪廻転生と称する。転生前後の二枚の葉は、大体似ているけど実は違う。それが実相。

この見方はとても機能的であって、いわゆる人間の側から見た見方ではない。この見方からは、一見、善悪や真善美などは引き出せないように見える。よって、このメカニズムだけをもってこの世の展開を考えると、ろくでもないことを真実だ真理だと吹聴し、そういうことを考えたり実行したりする手合い(カルト、拝金主義、利己主義など)が相当数出て来ることが想定される。それをダンテス・ダイジは、「ダンテスの悪影響」と呼んでいた。

ただし一なる者、一者、アートマンとは、神のことであり仏のことでありタオのことなのだが、それを冥想の中で確認できた人間の心にも行動にも、もはや悪はないことをあらゆる成道者が証明しているともいえる。それを今の社会常識、科学の論理性の枠内で証明することはできないので、それについては直観的に「あなたはどう感じているか」だけが鍵になってしまうのだが。

さて、このメカニズムこそチベット死者の書で死の冒頭に原初の光が出現するのと符合し、このメカニズムが正しい事を承知している人はその線に沿って輪廻転生の説明を行っているものだ。それが釈迦であり、ダライ・ラマだと思う。

また、このメカニズムのもとで、閻魔大王の死後審判、縁起、一生のパノラマ回顧などがあるので、この基本線の理解がなければ、こうしたディテールの見方も誤ってしまうのではないだろうか。

ダンテス・ダイジは、一者と合一する「体験とはいえない体験」のことを三昧と称し、それを冥想修行の目標のひとつとして掲げている。

ダンテス・ダイジと弟子の座談。
『ダンテス「ただし、今言ったように、ここに瓶がある、10分後もここに置いたままならあるだろう、そういう範囲で転生っていうのはあるよ。うん。」

弟子「そうすると、死ぬっていうのは本質的に、人間に生まれ変われる分においてはそれほど苦痛ではないとして、なんかこういろいろ転生するじゃない。その辺のカラクリっていうか、なんでそんなことをやってるのかとか、自分が選んでやってるのか、誰かに命令されてやってるのか、その辺のカラクリは一体どうなっているのかな。」

ダンテス「それはね、たとえば木を見ればいい。一本の木があるでしょ。その木から枝が出てるでしょ。それで枝に葉っぱが出るわけだ。すると、今年葉っぱが出て、冬になると落ちると。来年になるとまた同じ場所から葉っぱが出るわけだ。そのとき、その出る葉っぱは、去年出てた葉っぱとは違う葉っぱが出るわけだ。」

弟子「まあ大体似てるけど違うっていう。」

ダンテス「そのときに、葉っぱを出させようとする形成力が、この枝自体にあるわけだろ。形成力が。その形成力の影響を受けて、前に落ちた葉っぱの後続としての葉っぱが出るわけでしょ。
同じ場所から出るとしたら、必ず何らかの形で、前に落ちた葉っぱの後続でしょ。全然関係ない葉っぱではないでしょ。その範囲で転生っていうのは起こるわけ。」

弟子「永遠の命っていうか、魂的なものが枝に値して・・・」

ダンテス「うん。転生っていうのはね、正確に言うと、魂が時間の上をこういう風に渡り歩くものではない。ではなくて、時間と空間と物質を全部ひっくるめたね、今っていうものがここにある。これをアラヤ識とかアカシック・レコードとかアカーシャとか空とか言うんだ。ここにある。すべてが。
で、ここにあるものの中に帰るわけ。帰った自覚がないけど、帰ってるわけ。それを自覚するために、冥想っていう経験がそれをはっきりさせるわけ。」


弟子「たとえば、三つの転生があるとするじゃない。これが今で、過去、未来だとするじゃない。
で今ここにいるとすると、帰るっていうのはどういうことになるの?」

ダンテス「ここに帰る。いつでも。これをあらしめている、元に帰るわけ。過去・現在・未来はすべてここにあるわけ。」

弟子「それは未来に対する原因がここに含まれているっていう意味においては分かるけれども、そういう意味で言ってるの?」

ダンテス「ううん、そうじゃない。すべてがここにある。つまり、ここから出ていくときに、どういう形で現象化するかっていうことなの。現象化するには、時間と空間と物質っていう枠の中に移さなくちゃいけない。もともとあるものは、時間も空間も現象もありはしないわけ。ところが人間の観念が、そういう枠から世界を見ようとしている、その枠を作り出している。その枠を取り払うために冥想しろって言ってるだけ。

その枠っていうのは人間の中にある枠なんであって、動物においては世界は全然違う世界なんだよ。人間の枠がたまたま、過去現在未来とか時間とか空間とか距離があるとか勝手に思い込んでるだけだ。一つながりの命がある。それは光といってもいい、愛といってもいい。そういう命がびっしり満ちわたって流動しているのさ。命自体が。」

弟子「その枠っていうのは、どっからできたもの? 発生として。」

ダンテス「発生っていうのは、全体の命自体が具象化して、個々のものになるときに起こるわけ。だから、その枠が物語の原因なんだ。だからその枠を消しちゃうと、もう一つながりの命の中に溶け込んじゃう。それを三昧っていうわけだ。その三昧っていうのが、今度、具象化して、Aという人間、Bという人間になるためには、必ず枠の形式の中でそれが行われる。」

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ダンテス・ダイジの死と転生-1

2015-02-10 03:51:49 | ザ・ジャンプ・アウト
◎霊が存続するメカニズム

以下はダンテス・ダイジが、死と転生のメカニズムを端的に語っているある座談。

一本の木とは世界樹のことで、あらゆる世界が一つながりになったアートマンである。この樹に葉っぱとしてAさんが生まれる。そして葉は秋になると死んで散るが、その時にその葉は宇宙意識なるアートマンに帰って行く。

チベット死者の書で、人は死ぬとすぐに原初の光を見るというがそれがこの部分に当たる。

次の春に枝の同じような部分から葉が出る。この葉がAさんの輪廻転生。このワン・ターンの転生を形成する宇宙の潜在的パワーをダンテス・ダイジは幽霊と呼び、いわゆる霊界メカニズムをいとも平易に解き明かしている。


ダンテス「霊っていうのが存続するっていうのはさ。こういうプールがあるわけ。無限のプール。
そのプールからいろんな人が出てるわけ。

一本の木を考えてもらってもいい。木があるでしょ。枝があるでしょ。ここから葉っぱが出るわけよ。これがたとえば君だとするよ。

冬になって葉っぱが落ちるわけ。でも次の春になるとまた葉っぱが出るわけ。そのときに葉っぱを出す部分ていうのはさ、似たような形を作り出す形成力が働いているわけでしょ、枝の中に。

その力のことを幽霊っていうんだ。たとえば、ある海があるとするでしょ。こっちにはいつも荒い波ばかり起こるとするでしょ。こっちには平穏な並みしか起こらない。こっちの海面下の潮流の動きは向こうと違うわけ。その潮流の動きが幽霊なんだ。

だけどそれを潮流の動きとしてとらえることが人間の普通の認識力ではできないから、しょうがなくて人格化されて表出するだけであって。

プールがあって、宇宙意識っていう無限の海原に人は死ぬと行く。その海原の中には無限のイメージが蓄積されているんだ。そのイメージが、時にイメージ自体で現れたとき、それを幽霊と呼ぶ。

イメージが仮に肉体として表現されたとき、それを生まれ変わりという。」

弟子「海に帰っていくっていうのは一人で?」
ダンテス「一人とか二人っていうのはまったく数えられない。」
弟子「容積とか体積とかそういう尺度じゃなくて?」

ダンテス「うん。そういう物理的概念っていうのはまったく適用できない。だから二人とか半人とか中人とかね、現世では男とか女とか、一人二人と数えられるでしょ。ところが、宇宙意識のプールの中ではね、1.5人とか1.8人だって実際には存在するんだ。だけど1.8人なんて現れてみろよ、確認できないだろ。一人二人と数えている意識のレベルで生きている人間にとっては。だからしょうがなく、一人の形を取るわけ。だから絶対に客観性っていうのを帰せないわけ。幽霊の言葉っていうのは。どっか、混ざってるわけ、無数のものが。

首尾一貫した物理学的な説なんて、絶対に幽霊の言葉にありえない。
なぜかっていうと、無数の意識のレベルでイメージがさ、錯綜しながらその中に一貫性を作ってメッセージが届くんだもの。

だから真の霊眼ていうのは、霊媒に起こる霊眼ではないの。霊媒に起こる霊眼ていうのは、今言ったように、その人に合わせた形で、その人の枠の中に現れるわけ、イメージが。だから足りない部分を勝手に補ってしまうわけ。潜在意識が。その人の個人的潜在意識が。勝手にでっち上げてしまう部分が出てくる。

釈迦が言う神通力っていうのはね、宇宙意識のプール、宇宙意識の海そのものを見渡すわけ。だから一度なんだ。分けられやしないんだ。念力とかテレパシーとか色々あるだろ? 前世通とか宿命通とか、過去生を見たり幽霊を見たりとか。そんなもの全部、一つながりの宇宙意識から起こったものだ。」』

この座談では、アートマン全体の中の様々な具象を形成する元型的イメージたちを幽霊と呼んで、話題の中心は幽霊の側になってしまっている。

これより更に輪廻転生の核心に近い部分を語っている座談が続く以下のものである。
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OSHOバグワンの輪廻転生-2

2015-02-09 03:44:45 | ザ・ジャンプ・アウト
◎あなたはどこかで死んでから今生に出現した

OSHOバグワンの輪廻転生説の続き。
以下の引用文は、自我の死をもって、ブラフマンたる第六身体が誕生することを云う。個である肉体の自分が死ぬことは、アストラル体などの個的媒体が死ぬことでもあり、第五身体たる個が死ぬことでもあるとする。

第五身体たる個が死ぬこととは全体が目覚めることであり、悟りでもある。肉体が死ねば誰でも悟れるのだと言っているようでもある。

OSHOバグワンの説明のとおり、あなたの肉体は第三者である両親によってもたらされ、肉体死に際して、第三者である両親とは係り合いのない別の次元の第三者に戻っていく。


『違いはこうだ。まず、私はある子宮から現れ、次に他の子宮へ入っていく――――しかし、私は気づいていない。私がこの誕生を受けた時、それは明らかだった。しかし今、私が去っていくのは、はっきりしない。死は誕生につながる。あなたがどこかで生まれる前、あなたはどこかで死んでいたのだ。誕生は明らかだ。しかし死について、あなたは意識していない。

今あなたは、母親と父親から生まれた。あなたは体、すなわち七十年から百年間、機能するような器官を得た。百年経つと、この装置は働かなくなる。働きを止める日は、誕生の瞬間にあらかじめ定められている。体がいつ果てるのかは、さほど重要ではない。重要なのは、体は果てるものだという点だ。誕生と共に、あなたが死ぬことについては決められている。誕生をもたらした子宮はまた、あなたに死をももたらす。あなたはそれらを、一緒に携えてきた。実際、死は誕生を与える子宮の中に潜んでいる。百年の合間があったにすぎない。

この百年のうちに、あなたは一方の端からもう一方の端への旅を完結させ、まさに正確に、あなたがやって来た次元に戻るだろう。あなたの体の死は、誕生の際に他者から受け取られる。だから死もまた、他者からやってくる。だから生まれるのもあなたではなく、死ぬのもあなたではない。

誕生の際には媒体があったが、死に際しても、同じ状況があてはまるだろう。第五のスピリチュアル体から、第六のコズミック体に入って、初めてあなたは生まれる。あなたは自ら生まれる。あなたの誕生は、子宮なしのものだ。しかし同時に、次は自らの死があなたを待っている。

子宮なしの死が、あなたを待っている。この誕生が、あなたをどこへ連れていくにしろ、そこからは死が、遥か遠くへとあなたを連れていくだろう。誕生はブラフマンに、死はニルヴァーナへとあなたを導く。』
(奇跡の探究2/和尚/市民出版社P362-363から引用)

更にOSHOバグワンの死のプロセスの説明に、『死ぬときは、まず肉体だけが落ち、残りの六つの身体は自分と共にとどまる。第五の身体に到達すると第二身体から第四身体の3身体が落ちる。ここで第五、第六、第七身体が残る。

更に第七身体に入るとそれまでの六つの身体はすべて滅びる』(出所:奇跡の探究2/和尚/市民出版社P470-471)


以上のOSHOバグワンの説明によれば、
第五身体から第六身体へのところで個が死ぬ。ここで全体として再誕する。全体とは他者のことである。

人は、父母という他人から肉体を得て今生を始め、MAX120年くらいの肉体を喪失する時に、他人の総体であるアートマン第六身体に戻っていく。

このメカニズムを前提にして、OSHOバグワンは、死の世界における個の次元であるエーテル体、アストラル体、メンタル体、コーザル体をすっとばして、人はいきなり『子宮なしの死』である第六身体ブラフマンに誕生し、死なるニルヴァーナに進むという説明とする。

ところが、第六身体からは時間のない今ここだけの世界で、個もない世界。だから第五身体から第六身体への移行は、個なる魂がそのまま第六身体に入るというイメージは間違っている。とてもシンボリックな表現だが、第五身体から第六身体への移行は自分という個のすべてを捨てさせられるからである。

そういう意味において、
この描写はチベット死者の書で死のプロセス冒頭で原初の光を見る体験に連動するものだと考えられる。死の最初のステージには個のステージはなく、全体たるアートマンのステージが優先して出てくるというチベット死者の書の描写は、肉体や個別性を残したボディと全く異なる次元のことを述べていることに注意して読むべきだろう。
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OSHOバグワンの輪廻転生-1

2015-02-08 05:58:26 | ザ・ジャンプ・アウト
◎マンツーマン輪廻説の否定

輪廻転生の見方について、ここでは、OSHOバグワンのそれと、ダンテス・ダイジのそれを挙げる。両者の説は非常に似通っており、私の見るところ、その説明こそが現代人にとって妥当と思われる。

いわゆる神秘生理学あるいは、神秘的世界観を広汎に説き起こすには、例えば古神道の四分類である、幽の幽、幽の顕、顕の幽、顕の顕というのがある。これは、極めて論理的でスッと頭に入ってきやすいが、その実何も理解できていないことになりがちである。

七つの身体と云うダイナミックな世界観が我々人間の生きている現実であることを確証するには、中心太陽に突入するしかないが、それは通例常人の叶うことではないので、まずはその生還者である、OSHOバグワンとダンテス・ダイジの高説を拝聴するしかないだろうと思う。

それぞれが全く異なる七つの次元を人はどのように通行しているのか、それが七つの身体を前提にした輪廻転生ということである。それにすらも自由が与えられていることを釈迦は四禅から涅槃に入ることで示してもいる。


さてOSHOバグワンの輪廻転生論を語るには、その七つの身体論について簡単に振り返る必要がある。

第一身体の肉体から第四身体のメンタル体までは共通。第五と第六が異なる。OSHOバグワンは第五身体をコーザル体とせず、スピリチュアル体と呼び、ブラフマンが第六身体であるとする。なお第五身体については、ダンテス・ダイジも、OSHOバグワンも、個の側としている。七つの身体トータルとしては、個は第五身体までであり、個がとある時点で喪失し全体に切り替わという流れは同じ。

OSHOバグワン説の第五から第六への誕生とは、第五の「われ在る」が第六の「在る」に進むことを云う。個の喪失である。

以下の引用文を素直に読んでいくと、いわゆるマンツーマン輪廻説が否定されていることに気がつく。

『第五から第六へは誕生があり、第六から第七へは死がある。だから後者を体験した人は、二度生まれた者とは呼ばれない。それには意味がない。わかるかね?もう簡単に理解できるだろう。

第五から第六へは、自分自身からの誕生があった。第六から第七へは、自分自身を通しての死がある。私たちは他者から―――――他者の体から生まれた。そして、それに続く死も、他者と関わるものだ。この点を説明しよう。

あなたが他者から生まれたのなら、どうして死も、あなただけのものであり得るだろうか?どうして、そんなことがあり得よう?ふたつの端は、関連がなくなってしまう。他者が私に誕生を与えてくれたのなら、死は私のものではあり得ない。他者から誕生がもたらされる時、死もまた、他者からもたらされる。』
(奇跡の探究2/和尚/市民出版社P362-363から引用)
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ダンテス・ダイジによるニルヴァーナ解説-2

2015-01-26 06:41:29 | ザ・ジャンプ・アウト
◎死ぬものとて何一つない未知なる国をわれは歩きぬ

ダンテス・ダイジは、アトランティス大陸沈没後の紀元前九千年頃、彼は呪術師にして賢者ということで、当時のエジプトの年若き王子ネメシス四世の家庭教師であった。その日、ダンテス・ダイジは、ギリシア地方を、ネメシス四世とともに旅に出ていた。そしてアトランティス滅亡直前に流行した次の歌を口ずさむ。

『死ぬものとて
 何一つない
 未知なる国を
 われは歩きぬ----

 確かに私は、この国に生まれた。しかも私は、この国のものすべてが、何もかもが凍りついた見知らぬ獄舎となるのを見た。
 私が地獄なのだ
 それに間ちがいない。
 宇宙が地獄なのだ
 それに間ちがいない。

 私は宇宙の
 トラワレ人で
 頼るものなぞ
 何一つとてない。 』
【戯れに冥想を/ダンテス・ダイジから引用】


更にこの光景は現代日本とシンクロする。

『死ぬものとて
 何一つない
 未知なる国を
 われは歩きぬ---

 確かに私は、今、この日本という国に住んでいる。そして、このアトランティス文明が崩壊する直前に若者達の間ではやった歌をくちづさむ。

 そして、この国が一つの獄舎になろうとする光景を見た。
 そして、アトランティス大陸が沈没したあとのダンティスのギリシアでの一場面を回想している。

 確かに私はニルヴァーナに安息した存在として日々を生きている。
 ダンティスもソムルス酒(エジプト・ギリシヤ方面では、ソーマラスはソムルスと呼ばれていた。)の酔いの中で同じ歌を歌った。

  われ神自身
  時々おもえり
  ニルヴァーナこそ
  サクラン
  ではないのかと---』
【戯れに冥想を/ダンテス・ダイジから引用】


サクランとは錯乱の音である。しかしサクランとは、ヤキ・インディアンのドン・ファン・マトゥスの呪術におけるこの世の戯れの始まりである煙であるウミトであり、古事記に見えるこの世の始まりの煙みたいな葦牙であり、霊界物語の最も重要とされる天祥地瑞巻での神々の不倫のことである。

死ぬものとて何一つない未知なる国こそ覚者の日常であり、そういう日常ではない自称覚者は偽ものである。




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ダンテス・ダイジによるニルヴァーナ解説-1

2015-01-25 07:02:04 | ザ・ジャンプ・アウト
◎超人ダンテス(又はダンティス)の伝説

ダンテス・ダイジ自身の手による未公刊の断簡「超人ダンテス(又はダンティス)の伝説」に彼のニルヴァーナの見方が書かれてある。

超人ダンテス(又はダンティス)の伝説

一般的な歴史の中でダンテスの名を発見する事はむずかしい。もしあなたがあらゆる宗教神秘主義的伝説への妄従者であり、その表に現れた密教的規律に従う事をもって、満足する人であるならば、ダンティスのアトランティス以来、現代に至るまでの間にいたる所にちりばめられたダンティスの暗示を読み取る事はできないであろう。

なぜなら、ダンティスのアトランティス密教の高度な道術は、アトランティスの黄金時代を別にすれば、ダンティスの教育的使命にはならなかったからである。

例えば、ヘルメス・トートメの秘教的奥義に決定的影響を与えたアトランティスの聖王トオスは、明らかに導師(グル)としてその立場を規定できるものであったがダンティスは常にその様な規定の枠外にあった。

ダンティスはそのニルバーナの究極的解放において全体性の観照者でありえた事はもちろんであるが、彼は、そこにとどまる者としてではなく、むしろ、ニルバーナの化身であり、全体性の至上の天国と極悪の地獄を自由自在に戯れるものとして生きた。

無限生命の絶頂を完全な解放を意味するニルヴァーナというサンスクリット語はアトランティス当時の正確な発音ではニーバーナとしたほうが良いであろう。
ニーバーナとは、ニーが無、バーナが有を表し、これはアメンと同じ意味の真言(言霊)であった。

 無          有    (タオイズム、禅仏教)
 ニー         バーナ   (主にインド・ウィグル)
 メン         ア     (主に古代エジプト・アトランティス)
 メン         アー    (キリスト教)
 ム          オー    (サンスクリットのマントラ・オーム)
 ウン         ア     (真言密教)
 カ          ミ     (日本古神道

ダンティスの生涯には、超越界を、自分の住所とし続けているいわゆる、聖者的な姿というものを、見いだす事は、できない。

彼は時に、多くのアトランティス並びにエジプトの人々にとって、そして、とりわけ、選ばれたごく少数の者に対しては、まぎれもなく、絶対無の内に宇宙を手玉に取って見せる事もできる人物であった。確かに彼は、人間という者が宇宙の内でどの様に戯れたら良いかを、ごく少数の弟子に伝えている。

もしあなたが独自の観察眼を、神秘学の歴史にむける事のできる密教学徒あるいは、完全にあたりまえな人間であれば、古代エジプトのヘルメス秘教の中に、エメラルド・タブレット、沈黙の声の中に、古神道の野立彦の神示の中に、ヴェーダやウパニシャッド文献の中に、さらには、オカルティックな奇説、例えば、悪名高き魔術師、アリエスタ・クローリーの若く純粋であった当時の著作の中に、さらには、ファンタジー作家のインスピレーションによる書物の中にさえ、ダンテスの名前やその足跡を発見できるかも知れない。

なぜなら、ダンテスとは、あなたの魂の暗闇の中に秘められている完璧な愛自身のことにほかならないからである。』

ニルヴァーナは、善も悪も超えた、有も無も超えた絶対であるが、そのニルヴァーナなる言葉自体がそもそも二面性を含むことを多くの正統的宗教の主たる用語において解き明かしている。古神道のカミという言葉すらも。

天国や極楽、浄土に入るということは間違いなく人間にとってまともな方向性であり必要なことである。しかしそれだけでは、ダンテス・ダイジの語る「天国と地獄を超えて」や「天国と地獄の結婚」については知的理解すらもできない。
また「人の個的自我は、固定概念や抑圧を受けることにより発達していく」というのも紛れもない事実であるから、一足飛びに「あらゆるくびきからの解放」を主張することが万人に受け入れられるものでもない。

個的自我を持って天国に入ることと、個的自我を棄てて天国も地獄も超えることは、全く違うことである。ところが、その後者の方は、現代社会の一般人にとって想像もつかないことかもしれないが、いまやそれがほとんどの日本人の人生にとっての最終課題になっている。

このように何の前提条件も詳細説明もなく、「個的自我を棄てて天国も地獄も超える」ことが自明とされる文章は、様々な誤解が生まれやすいことに注意して読むべきだろう。
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クンダリーニ・ヨーガも只管打坐も-2

2015-01-20 03:46:53 | ザ・ジャンプ・アウト
◎ダンテス・ダイジのケース-2
◎ディメンション・トラベラー

(2)クンダリーニ・ヨーガ

クンダリーニ覚醒について、冥想法と実際を解き明かしたのは空前絶後と言ってよいだろう。特徴的なのは、チベット密教や日本密教にみられる諸尊格、諸神霊についての観想がほとんど出てこないこと。つまり霊がかり、神がかりのバイアスをほとんど排したクンダリーニ・ヨーガとして画期的なものであると思われる。

そして技法はマハー・ムドラー、ヨニ・ムドラー、クンダリーニ冥想と進行し、七つのボディと七つのクャクラでクンダリーニ上昇の過程を説明していくのだが、七つのボディについても七つのチャクラについても定説がない現代社会では、そのメカニズムを誤解せずに、知的に理解することすら、頭でイメージすることですら簡単なことではないように思う。

ヘルメス文書もかなりきわどいところまで書いている、慧命経も核心に迫ったところまで書いているとは言っても、「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」でもって、ここまでさらけ出さなければわからないほど、現代人類の闇は深まったことを感じざるを得ない。

そしてクライマックスは、中心太陽への突入と帰還であるが、それが安手の脚本による大型シネマと違うところはあらゆる宇宙、あらゆる次元を超えるというところである。ここにタイム・トラベラーでも、スペース・トラベラーでもない、ディメンション・トラベラーの面目躍如たるものがある。

しかしそれは、宇宙のロケットの座席で一人のパイロットが体験する数日間のツアーというようなものではなく、「すべてはすべてであった」という全く個々の人間の想像を絶したものであることに注意が必要である。旅行会社任せで何とかなるようなしろものではないのである。

全身全霊をもって、その誠実さ、素直さ、敬虔さ、それまでに経てきたあらゆる実感をもって取り組まねば、重い扉のノブにも手もかからないし、最終ステージ近くでは、その自分も棄て去るというとてつもない恐怖のシーンにあわてふためくことにもなる。

最後に残された謎として、冥想十字マップがある。これは、時間的進化を縦軸に空間的進化を横軸に排し、その交点に「愛」が位置するものである。

縦軸については、7チャクラであり、この文明全体のテーマが「愛」なので、このマップが、社会における自己実現たるマニピュラ・チャクラから愛のアナハタ・チャクラに移行するというこの文明のテーマを意味しているので、この構図がこの文明全体のあり方を示唆するのものであることはわかる。

しかし有想定から無相三昧にいたる横軸が、なぜ空間的進化なのか、謎として残っている。

【チャクラと七つの身体-396】
◎ニルヴァーナ-24
5.ニューエイジ-4 ◎クンダリーニ・ヨーガも只管打坐も-2
(ザ・ジャンプ・アウト450)


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クンダリーニ・ヨーガも只管打坐も-1

2015-01-19 03:42:46 | ザ・ジャンプ・アウト
◎ダンテス・ダイジのケース-1

ダンテス・ダイジは、生前経典を残しており、そのものズバリで、ニルヴァーナへの王道とされるクンダリーニ・ヨーガも只管打坐も極めたことを自ら明かしている。なお両方極めた人物には他に釈迦がいる。

(1)只管打坐
 その著書ニルヴァーナのプロセスとテクニックでは、只管打坐の体験記が二種盛られており、一つは絶対愛の目覚めであり、もう一つはニルヴァーナの目覚めである。

絶対愛とは、大慈大悲でありmercyのことであり、神の七つの属性の一つという位置づけであろうことがわかるので、ニルヴァーナの前段に置かれているようだ。

そして、ニルヴァーナの目覚めの方は「身心脱落(ニルヴァーナ)の目覚め」と章が立てられており、その違いを明示している。要するに「愛」だけ悟っても、それは全体ではないことを強調している。

また、ニルヴァーナの目覚めで覚知した境地を「空」であると見て、空とは時空の超越状態であって、坐禅をしている自分もなく、絶対的静寂というか、絶対的充実というか、その空があるという表現を用いている。

そして只管打坐とは宇宙と一体になることでもないという。

『只管打坐とは、即座に、自己が肉体でも、意識でも、魂でもなく、時間にも、空間にも、物質にも、現象にも束縛されず、まして宇宙と一体になることでもない。

もちろん初期の頃は、宇宙と一体という経験が起こるであろうが、只管打坐とは、それのみにとどまらず、全く何の限定も受けない、空であるところの、唯一存在するところであるところの、あるいは唯一非在であるところの自分自身に目覚める道であり、かつて道元はそれを「身心脱落」と言ったのである。』
(ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジ/森北出版p112-113から引用)

これだけ具体的で親切な只管打坐での覚醒のプロセスを書いてくれているものは、この他には、バグワン(OSHO)のそれくらいではないかと思う。

【チャクラと七つの身体-395】
◎ニルヴァーナ-23
5.ニューエイジ-3 ◎クンダリーニ・ヨーガも只管打坐も-1
(ザ・ジャンプ・アウト449)

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コミューン-一定数の覚者

2015-01-18 03:39:39 | ザ・ジャンプ・アウト
◎ニルヴァーナの臨在に人は集まる

これは、OSHOバグワンが、コミューンを舞台にした伝道を始めた頃の世界の行く末展望。覚者らしく、金がどう、生活レベルがどうなどということは言わない。ただ、彼がいるだけで世界中から人を呼び寄せ、コミューンが巨大化するという呪術みたいな語りでもある。

『ブッタは創造するのではなく触発する
「彼は触発する」と言うことさえ適確ではない
彼の臨在のもとで、物事が起こる
彼の臨在のもとで、物事が触発される、さまざまなプロセスが始まる
まさに彼の臨在がひとつの炎、ひとつの火花だ
そして物事が動き出し、それが次から次へとつながってひとつの偉大な連鎖ができる

そうやって私たちはこれまで進んできた
私は、何もしないでただ自分の部屋に坐っているだけだ
そうすると、世界中から探求者たちが流れこみはじめた
私は一通の手紙すら書かない・・・・・ただの臨在だ
一人が来て、もう一人が来て、やがて連鎖ができる

いまや、ブッダフィールドが必要とされるときがきた
母体(マトリックス)が必要とされるときがきた

なぜなら、あなたは知らないが、何千人以上もの人たちが道の途上にいるからだ
彼らはすでに動きはじめた
彼らはすでにここへ来ることを考えている

そして人々の数が多ければ多いほど、ますます大きなブッダフィールドがそこにできる
そしてますますそれは強力なものになる
私たちは、かつてこの世に創造されたなかで
最大、最強のブッダフィールドのひとつを創造することができる可能性がある
なぜなら、いまだかつてこのような探求はなかったからだ
いまだかつて、人間がこのような危機の状態にあることはなかったからだ

私たちは、人類に起ころうとしている新しい何かの瀬戸際にいる
人類は死んで消えるか、あるいは跳躍、飛躍して、新しい存在が形成されるか――――

私たちは、何年か前に猿が樹から降りて
人類が始まり、新しい存在が誕生したのとまさに同じ時点にいる
再びその瞬間が迫っている
それは非常に危険な瞬間だ
なぜなら、あらゆる可能性があるからだ・・・・・


その猿は地上で生き延びられなかったかもしれないということはありえた
その猿は地上で死んでいたかもしれない
しかし少数の猿たちは危険を冒した
彼らはほかの猿たちからばかだと思われたにちがいない
ん?ほかの猿たちはずっと樹の上で暮らしてきて、まったく幸せだった

彼らは思ったにちがいない
「この連中は頭がおかしくなっている、狂っている
第一、なぜ地上で生きていこうとするのか?
なぜ自分でむだな骨折りをつくり出すのか?
われわれの父親もその父親も、そしてその父親もみんな樹の上で暮らしてきたのだ」

再び同じ状況が起ころうとしている
人間は長いあいだ、昔ながらの暮らし方をしてきた
今世紀末までに、重大な量子的飛躍が可能だ
人間は、第三次世界大戦で死滅するか
それとも、人間は飛躍をとげて新しい人間になるか、そのいずれかだ

それが起こる前に大きなブッダフィールドが必要だ
私たちが未来を創り出すことのできるフィールドが』
(ダイヤモンド・スートラ/OSHOバグワン/めるくまーる社p562-565から引用)

この時点では、コミューンが失敗することを彼は予期はしていない。

これから20年、OSHOバグワンは既に古典となった。その教訓の一つは、悟りに至るメソッドの基本は、一つの流派を押し極めていくのが基本だということで、あまりファッション冥想などの脇道にそれたりしてはいけないということだろう。

まずは、めいめいがめいめいのスタイルで坐り、悟りという体験とは言えない体験を目指す。それでも、悟った人がある一定数に達しないと、生活レベルを落とす動きも政治を正す動きも新時代モデルにはならないだろう。この一定数というのをOSHOバグワンはコミューンで達成しようとしたわけだ。

【チャクラと七つの身体-394】
◎ニルヴァーナ-22
5.ニューエイジ-2 ◎コミューン-一定数の覚者
(ザ・ジャンプ・アウト448)
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悟りが夢であるように

2015-01-17 03:35:33 | ザ・ジャンプ・アウト
◎神よ、「何もかもなし」それ自身よ、私自身よ

ダンテス・ダイジ遺稿の一つ老子狂言から『悟りが夢であるように


『悟りが夢であるように
迷いが一場の夢であるように
悟りもまた場を持たぬ一場の夢

悟りが夢であるように
迷いが夢であるように
7つのスペースから
熱と光は去り
私は未知以外の未知を知らぬ

かつての情熱は今や消え去り
私の夢は
私自身である「何もかもなし」それ自身を夢見る

一つの夢が終わり
新しい夢は始まっているはずだが
悟りが夢であるように
私には何一つ
つかまえるものが見えない

私の眼がくもってしまったのか
新鮮な何かを私は
なおかつ、待ち続ける

神よ、
「何もかもなし」それ自身よ
悟りが夢であったように
私という夢をことごとく
あなたの中に消し去りたまえ

神よ、
「何もかもなし」それ自身よ、
私自身よ』

あらゆる情熱はあたかも終わったかに見え、そこに七つの次元を縦横無尽に駆け回った欲望の激しい動きはもはや消え失せた。
そこにはニルヴァーナなる「なにもかもなし」とわたし自身が残っている。

迷いが夢であるというのは、第五身体コーザル体以前で起こるが、悟りが夢であるというのは、我なる第六身体が第七身体に消え果てるところで、起こる表現である。

我なる第六身体が第七身体に移行するという形跡もなく言語表現を峻拒する「なにもかもなし」がある。それがすべてのものが未知である風光であるという。これぞ神秘の中の神秘。

悟りが夢であるように悟る、これが只管打坐型の悟りなのか。生の側から窮めるという悟りなのか。

【チャクラと七つの身体-393】
◎ニルヴァーナ-21
5.ニューエイジ-1 ◎悟りが夢であるように
(ザ・ジャンプ・アウト447)

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一厘の仕組

2015-01-16 03:32:02 | ザ・ジャンプ・アウト
◎天津祝詞

古神道には、窮極も悟りもないだろうと思っていたが、それは身近なものにあった。天津祝詞にあったのである。一厘の仕組は、結局のところニルヴァーナと悟りである。

○出口王仁三郎の天津祝詞
【高天原に神留坐す、神魯岐神魯美の命以て、皇御祖神伊邪那岐命、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に、御禊祓ひ給ふ時に生坐せる祓戸の大神達、諸々の枉事罪穢を払ひ賜へ清め賜へと申す事の由を、天津神国津神八百万の神達共に、天の斑駒の耳振立て聞食せと恐み恐みも申す。】

字義どおり読めば、伊邪那岐命が九州の阿波岐原で禊ぎをなさったときにできた祓戸の神たちにまが事や罪穢れを祓い清めて下さいと奏上したという、個人の都合のいいようにはからって下さいという、とりたてて特筆すべき内容のないものに見える。

これが、出口王仁三郎の解釈では、全く異なるものに仕上がる。

「全宇宙(高天原)に陰陽二元がたっぷりと充実している。

陰陽二系を司る神々の言霊(神魯岐神魯美の命)によって、連綿として継承さるべき万世一系の大主宰者の神伊邪那岐命が、窮極(筑紫)の光明遍照(日向)の五大父音の言霊(橘の小戸)によってできた大宇宙(阿波岐原)にあって、身体の大修祓をなさった時に発生した祓戸四柱神よ(瀬織津比売、速秋津比売、気吹戸主、速佐須良比売)、

諸々のまが事や罪穢(つみけがれ)を払ひ賜へ清め賜へと申す事の由を、天津神国津神八百万の神達共に、霊力体すべて(天の斑駒の)、活動を開始したまえ(耳振立て聞食せ)、と恐み恐みも申す。」

まず窮極・ニルヴァーナとは、「筑紫の日向」。「筑紫の日向」は、福岡県、宮崎県のことではなかった。ましてや昨日今日しでかしたチョンボを祓い清めてもらうことを願うというご都合主義の願文でもなかった。全体として個人の願望成就サポートではなく、宇宙全体の矯正を諸神ともに祈るというもの。

下の大意でわかるように、大体がアオウエイの五大父音が鳴り響く阿波岐原にいるということ自体、相当に修業を積まないとなかなかそこまではいかないレベル。そこでもって、言霊を駆使して、天地全体の禊祓を行いましょうというものであるから、これぞ古神道の窮極であって、その他のものではない。

また、ほとんど説明がないが、注目ポイントは、(大)伊邪那岐命に対して、小伊邪那岐命。小伊邪那岐命は、我々人間を差しているのであるが、伊邪那岐命に大小あるを示しているところは、神人和合を暗示すると見える。
ただし、帰神自体が、神に対して自分をなかなか捨てにくい技であるようなので、全体として神と自分は別であるという考え方を余り逸脱しない筆致であるところには注意が必要だと思う。

『大意
 宇宙天地万有一切の大修祓は、霊系の御祖神の御分担に属する。現在『地の世界』に於て執行されつつある国祖の神の大掃除大洗濯も詰まり宇宙全体としては伊邪那岐命の御仕事である。幾千万年来山積した罪穢があるので、今度『地の世界』では非常な荒療治が必要であるが、これが済んだ暁には刻々小掃除小洗濯を行へば宜しいので、大体に於ては嬉し嬉しの善一ツの世の中に成るのである。即ち伊邪那岐命の御禊祓は何時の世如何なる場合にも必要あるものである。これがなければ後の大立直し、大建設は到底出来ない訳である。

 さて此修祓は何によりて執行さるるかと云ふに、外でもない宇宙根本の大原動力なる霊体二系の言霊である。天地の間(即ち阿波岐原)は至善至美、光明遍照、根本の五大言霊(アイウエオ)が鳴り亘つて居るが、いざ罪穢が発生したと成ると、言霊でそれを訂正除去して行かねばならぬ。人は宇宙経綸の重大任務を帯びたるものであるから、先頭第一に身霊を磨き、そして正しき言霊を駆使すれば、天地も之に呼応し、宇宙の大修祓も決行される。

其際にありて吾々五尺の肉体は小伊邪那岐命の御活用となるのである。雨を呼べば土砂降りの大雨が降り、地震を呼べば振天動地の大地震が揺り始まる。これが即ち『御禊祓給ふ時に生坐せる祓戸の大神達』である。

かくして一切の枉事罪穢は払ひ清めらるる事になるが、かかる際に活動すべき責務を帯びたるは、八百万の天津神、国津神達でこれ以上の晴れの仕事はない。何卒確り御活動を願ひますといふのが、大要の意義である。何人も日夕之を奏上して先づ一身一家の修祓を完全にし、そして一大事の場合には、天下を祓清むるの覚悟がなくてはならぬのであります。』
(霊界物語30巻海洋万里巳 附記天津祝詞解から引用)

【チャクラと七つの身体-392】
◎ニルヴァーナ-20
4.古神道-3 ◎一厘の仕組
(ザ・ジャンプ・アウト446)
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天の数歌

2015-01-15 03:28:30 | ザ・ジャンプ・アウト
◎四段構えの世界

古神道の神の構造は四段構えで、幽の幽、幽の顕、顕の幽、顕の顕。

幽の幽は、天御中主神であり、ニルヴァーナであり、無のサイド。かたや幽の顕、顕の幽、顕の顕は有のサイド。

幽の顕とは、イザナギ、イザナミの二神や天照大御神、素盞鳴神など、天上の霊界を主宰する神。

顕の幽とは、国祖国常立尊、豊雲野尊など、一度現世にその肉体を表現された神であって、地上の幽界を主宰する神。

顕の顕とは、人間のこと。


さて、ここに天の数歌というのがあって、
「一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 百 千 万」(読み:ひと ふた み よ いつ むゆ なな や ここの たり もも ち よろづ )

出口王仁三郎は、この四段構えの世界構造を天の数歌に当てている。

幽の幽(一 二 三 ひふみ)

幽の顕(四 五 六 よいむ)

顕の幽(七 八 九 ななやこ)

顕の顕(九 十 百 千 万 こともちよろず)

つまり一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 百 千 万と唱えれば、あの世もこの世もまとめて修祓できるということであって、聖音オームと同様の効果であることがわかる。
(参考:雑誌神霊界/出口王仁三郎)

なぜか九がかぶっているが、それも考えてみるべきだろう。

【チャクラと七つの身体-391】
◎ニルヴァーナ-19
4.古神道-2 ◎天の数歌
(ザ・ジャンプ・アウト445)

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天照大御神のジェンダーの変容

2015-01-14 03:24:54 | ザ・ジャンプ・アウト
◎もともとは、神霊界の完成者

最初の頃の斎王は、未婚の皇女から選ばれ天照大御神に仕えるのだが、斎王を中核とする宮司組織斎宮寮は天皇の後宮に酷似していることから、斎王は天照大御神の后であると想定されていたことがうかがえる。よって、斎王制度が始まった頃、天照大御神は男神であり、古事記でも天照大御神は男神と描かれていることと照応する。
(岩波 天皇・皇室辞典による)

これが日本書紀では、素戔嗚神の姉が天照大御神ということになっており、天照大御神は女性とされた。しかしながら、正統神典はあくまで古事記なのだから、本来天照大御神は男神の扱いが正統なのだろう。

古神道家出口王仁三郎の見方では、天御之中主神であるニルヴァーナは、その働きによって名前を変えていくのだが、その一つが天照大御神であり、天照大御神の役どころは、理想世界である神霊界を完成したという役割である。

そうした世界では、ジェンダーはそもそも意識されていないはずなのだが、天照大御神の役割が日本を知行する最高神というように世俗に落ちてくれば、祭祀の都合でジェンダーをどちらかに寄せたりする必要が出てきたのだろうと思う。つまりは崇拝する側の人の都合で、ジェンダーは変えられて行ったのだろうと思う。

【チャクラと七つの身体-390】
◎ニルヴァーナ-18
4.古神道-1 ◎天照大御神のジェンダーの変容
(ザ・ジャンプ・アウト444)
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達磨(ダルマ)の説明の仕方

2015-01-13 03:22:01 | ザ・ジャンプ・アウト
◎ちょっと変わった思いつきに非ず

達磨(ダルマ)は、世間には、2つの真理があるとする。

まだ真理=ニルヴァーナを悟っていない人にとっては、「たとえば悟っている人と悟っていない人がいる、または自我があって別に神があるが、なぜか神は自我もすべて含んでしまうとか、人には生があり、死がある」などということが現実そのもの、真理そのものである。

一方真理を悟った人にとっては、ニルヴァーナだとかニルヴァーナでないとかいう区別は超えてしまって、何もかもない、一物もないというのが現実である世界に生きている。その世界では、自我も神も、貧乏人も金持ちも、すべて実体のない幻であるとしか表現することはできない。これが彼らの真理。

だから肉体を持ったままで、ニルヴァーナの世界に入ることは、悟りでしょうかという弟子の質問に対して、ダルマは、そんなものは、夢の悟りであると一蹴してしまう。

そこで悟っていない人が、悟った人と議論をすると、自分の譲れない現実認識=真理の中で議論をするものだから、いつまでたっても悟った人の現実認識に理解を示すことはなく、永久に議論に決着が訪れることはない。

悟っていない人にとっては、悟った人の「何もない現実」というのは,一つの考え方や哲学の一種だろうと決めてかかるところがあるから、悟った人の現実認識を理解することはできない。何もないというのは、悟った人の生活実感であって、ちょっと変わった思いつき程度のものではないのだ。

このところがわからないと、じゃぁちょっと坐禅冥想とかリラックスのポーズでもとってみようということにはなるまい。

【チャクラと七つの身体-389】
◎ニルヴァーナ-17
3.仏教-7 ◎達磨(ダルマ)の説明の仕方
(ザ・ジャンプ・アウト443)

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