アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

ビシュダ・チャクラ-メモ

2022-08-12 06:59:53 | チャクラと七つの身体
◎上昇するウダーナ気と浄化機能

ビシュダ・チャクラは、のどのチャクラ。チャクラは、肉体には検出されず、エーテル体、アストラル体、メンタル体にある。現代文明のテーマは、臍のマニピュラ・チャクラ段階から胸のアナハタ・チャクラ段階に進むことなので、ビシュダ・チャクラにはこれまであまり言及することはなかった。

本山博のビシュダ・チャクラの説明のあらましは以下のようなものである。
1.ビシュダ・チャクラの覚醒法は、いくつかのアーサナやマントラ。マントラの例として虚空蔵菩薩求聞持法を挙げているが、百万遍と言われるものであり、生半可なものではない。虚空蔵菩薩求聞持法に成功したのは空海、覚鑁、日蓮など。マントラの種類では、虚空蔵菩薩求聞持法のマントラとオームを挙げている。
2.ウダーナ気は、のどより上と手足で働いている気だが、上昇しやすい性質がある。ウダーナ気が動きやすい人は身体外に出やすいがのぼせやすい。だからそのような人は、最初下方のチャクラに集中しなければいけない。
3.サハスラーラ・チャクラから落ちる水(ネクター)があるが、この水がよく浄化されないままマニピュラ・チャクラが活動している憑依型、巫女型の霊能者が、日本には多い。これを続けると40代50代で亡くなる女性霊能者が多い。
4.本山博は、このネクターを水と感じたり、蒸気と感じたり、黒とか赤とか色を感じたりするのは、アストラル以下の低い次元。ビシュダ・チャクラが本当に目覚めてくると、このネクターを浄化するだけでなく、身体の外から来た物質的な次元の毒を浄化する働きが出てくる。彼はこれを甲状腺の働きの強化であるとも言う。
5.本山博は、道教気功の内経図を引いて、体外に出る時にビシュダ・チャクラが一つの門になる。この門を通過するためには、物理的な次元、気の次元アストラルの次元を破らないと出られないとする。内経図では、のどの付近に塔が描かれており、その門を示している。
(以上出典:チャクラの覚醒と解脱/本山 博/宗教心理出版P179-196)
 
人間にとって禅でいう『関』とは、脳のことかと思っていたが、のどの門ビシュダ・チャクラのことだったかもしれない。
またウダーナ気は、UFOなどの浮上機能の原理であって、現代ではなく次の時代に応用されるものだが、ウダーナ気が実用化されるには、万人が神を知る愛の時代にならねばならない。
また世界全面核戦争後の時代には人体からの放射性物質の排出促進が大きな人類的課題となるが、それは、ビシュダ・チャクラの浄化機能によるのだろうと思う。
その浄化機能を万人が使うには、万人が大悟覚醒しなくてはならないとは、物質文明だけが跛行的に進歩できるものではないという皮肉な仕組みである。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カルマとの向き合い方とカルマを超える方向

2022-08-11 06:30:31 | 現代冥想の到達点
◎行の実践によりカルマを速く消化

人は、行住坐臥の一つ一つごとにカルマを消化するが、その際カルマの中に落ち込む方向か、カルマを超える方向かどちらかを向いている。

前者のカルマの中に落ち込む方向には、2種類あって、カルマがよくわからない人と、カルマがわかっているがよいところだけとって悪いところは避けて通る現世利益的な信仰の人がいる。

この2種の人は結局カルマの通りに落ちがちである。世の中に現世利益を唱える宗教は多く、スピリチュアルでも引き寄せを唱えるものも多い。表面的にはうまい話に見えるかもしれないが、どちらもカルマの通りに落ちがちである。

後者のカルマを超える方向に進むためには、クンダリーニ・ヨーギ本山博は、毎日集中して坐る行を勧める。行の実践によりカルマ消化速度が一生で解消する速度の何十倍速にもなるというようなニュアンスのことも言っている。

その際、自分に起きていることは誰のせいでもなく、自分のカルマのせいで起きているのだということをまず受け入れることが大切だと説く。要するに現世利益も引き寄せの法則もやめなさいということ。

大難を小難にするということは、起きてくるカルマの多寡は変わらないが、それを受け入れる自分の側を大きくすることで、影響が百あったものを一にすることができる。

すなわち受け入れる自分の側を大きくするとは、自分を超えて自分から自由になるということ。つまりは大悟覚醒のことである。
まるで、津波は狭い湾に入ると波高がとんでもないことになるが、同じ津波が開けた海岸では波高は高くならないようなもの。

行の中で悪カルマを解消するというのは、行者の無意識の世界(霊界)で行われ完了してしまうことも相当あるのだろうと思う。だから悪カルマを解消することが現実の世界で起きることは、解消されるカルマ全体の極く一部分なのではないかと思う。

それを前提にある程度自分を超えて自分から自由になった人のカルマ解消具合は、普通の人の何百倍ではないかと思わせる事例がある。

例えばそれは、笹目秀和氏であって、彼の大著『神仙の寵児』を読むと彼の人生は、普通の人なら一生に数回しか起きないような重大で困難な事件が何百回も起きていることを知ることができる。

彼に限らず、凡そ覚者の人生というのは、通常人に比較すれば、何百倍速でカルマの解消をやっているのだろうと思う。時にパドマサンバヴァや役行者のように、やった事績が明らかでないにもかかわらず、他の大物覚者に高く評価されている人は、そのカルマの解消規模や速度が常人の想像を超えたものなのではないかと思う。

生活が苦しかったり、恋がうまく行かなかったり、ペットに死なれたり、孤独だったり、孤立していたり、カルマを感じざるを得ないシーンは少なくないと思うが、方向性だけは誤りたくないものである。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

生きていてもカルマ、死んだ後もカルマ

2022-08-10 06:30:09 | 現代冥想の到達点
◎rich or poor 浅いカルマ、深いカルマ

クンダリーニ・ヨーギ本山博のカルマ論は、「生きていてもカルマ、死んだ後もカルマ」だからまずカルマを受け入れるところから冥想修行を始めなさいということで、目から鱗が落ちる思いがする。

カルマと言えば、野菜を何円安く買えたとか、スマホを何円安く買えたとか、値段度外視で自分へのご褒美スウィーツを買ったとか、とかく損した得したでカルマを考える場合が多い。
さらに結婚できたできない、離婚したしない、不倫したしない、就職できたできなかい、病気になったならないなど、もっとのっぴきならないものもカルマのうち。
最近だと、自分があまりリッチでない家庭に生まれ、大学に奨学金で通うことになったけれど、大学卒業時点で〇百万円の借金を背負って社会人スタート。これでは恋愛も結婚も制限され、カルマが悪かったせいかなどと考える・・・・というパターンも多いのではないか。

そこでいきなり、引き寄せとか非二元と言っても聞く耳は持ちにくいかもしれない。そうした状況は日本も昭和40年代以前の高度成長期の皆貧しかった時代には普通にあったが、今は貧富の差があるので余計に気になるところ。戸建てやマンション価格から老人ホームまで、高めの価格設定は、当たり前だが公務員を中心としたリッチ側に合わせて設定されているシーンに何度も出くわす。そこで人は、カルマというものを考えざるを得ない。

だが、本山博はもっと大きな目でカルマを考えている。

『さっきも言ったように、人間は何生も生まれかわり死にかわって、種々のカルマの種子をアストラルやカラーナの心身の七つのチャクラの内に、その種類にしたがって貯えていますが、そのうちのどのカルマが一番原因になって今度生まれたかというのは、その人の経絡の機能を調べるとよくわかるわけです。

そういう、自分が今度生まれてくる最大の原因になっているようなカルマ、それを解いて、そういうものを超えるために人間は生まれてきているわけです。宇宙の進化のいろいろな過程をみてそう思うのです。そして、そのカルマは、生まれて死ぬまで続くのです。つまり、そのカルマがあるから生まれてきたし、それがあるから女になったり男になったり、あるいは頭のいい人になったり、社交的になったり、ノイローゼで一生ぐずぐず過ごすようになったり、病気になったり、あるいは健康で過ごしたり、死ぬ時は苦しんで死ぬか、それとも大往生で死ぬか、老衰でボケて死ぬか、――――これはある意味で決まっていて、ともかくそのカルマは死ぬまで続くのです。

そういうカルマが、一週間や二週間、あるいは一年や二年行をして、解けますように、というのは大間違いなのです。要するにそれがあるから生まれてきて、それがあるから死ぬまで続くので、それがカルマなのです。ただ、例えばある人が非常に憑依されやすいマニプラタイプの人で、その人は自分が行ったところところで、よく頭痛がしたり吐き気がしたりするというようなのは、 憑依している霊をのけるとすぐ治る。一寸憑くのもカルマがあって憑いたといえばそういう意味ではカルマだけれども、非常に表面的なカルマなのです。

しかし自分がそれが原因で生まれて、それが原因でいろいろなことが起きて、そして死ぬようなカルマは、死ぬまで続く。こういうカルマからは逃れられるわけはない。

というのは、この世の中はカルマの世界だし、死んだ世界、霊界だってカルマの世界で、そのカルマによって死んだり生きたり、あっちへ行ったりこっちへ行ったりしているのだから、そのカルマが原因で生まれてきたということは、それからは逃れられない。だから、受け入れなければだめなのです。

受け入れると、今度は超えられるようになる。逃げていると、いつまでたってもそれを先に延ばすだけで、決して解決はできない。』
(チャクラの覚醒と解脱/本山 博/宗教心理出版P358-360から引用)

こういう見方は、ともすれば袁了凡風の積善陰徳・カルマヨーガ至上で考えがちだが、そうではなく、自分が大悟覚醒する道もある。禅では、カルマ(因果)を昧(くら)ますことはできないと唱えるが、修行はカルマ・ヨーガの道ではなく頓悟の道である。本山博もここまでカルマの全容を説明しながら修行はクンダリーニ・ヨーガである。

ダンテス・ダイジが、『人生にきっちり始末のつくような事があるのか?』と問うのもその消息である。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

早朝冥想の高い効果

2022-08-09 07:02:44 | 密教
◎ダライ・ラマの心に集中する冥想

ダライ・ラマは、冥想修行には四段階あるとする。

曰く、
1.最初は戒律を守って、心が次第に落ち着き、穏やかになって行く。これでがさつで気分が散乱するようなことがなくなっていく。
2.心に深く集中する冥想。これを禅定とも呼ぶ。これは、次の智慧を確固とする冥想の前段として必要。
3.智慧を確固とする冥想。
4.最後は、死の瞬間における明澄な光からなる心を出現させる。

2段階目の禅定の達成のための冥想時間としてダライ・ラマは、特に早朝、目覚めたばかりの時間帯の冥想がよいとする。

『自分の心そのものに集中する瞑想の準備のために、善い功徳を積み重ねるということによって感情的な障碍を克服する必要があります。
次の段階は、自分の心の本性がわかるようになることです。そのための最高の時間は早朝です。起床直後、すべての感覚器官が始動する前が最適です。まぶたはまだ閉じられているとき、意識それ自体を見る、もしくは意識それ自体の中で見るのです。

これは心の本性である明澄な光を経験するとてもよい機会です。そのとき過去に起きたことについて考えないようにします。未来に起きるかもしれないことについても思いを巡らさないようにします。それどころか、心の中に何かを形成するということを一切なくして、あるがままに心を鮮やかに保ちます。そして古い妄想と新しい妄想の間に、まだ妄想に汚されていない自然のままの無分別の知性と光明という心の本性を見出すのです。

この状態を保つことができれば、心はいかなる対象も、いかなる想念も映し出す鏡のようなものだということ、そして心は純粋経験からなり、知性と光明のみを本性としてもつものだということがわかるでしょう。』
(ダライ・ラマ実践の書/ダライ・ラマ14世テンジン・ギャツォ/春秋社P129-130から引用)

早朝、すぐ起き出さないで、『意識それ自体を見る、もしくは意識それ自体の中で見る』(上掲書から引用)ということだが、これは実際には寝入る前に意識しないとできないと思う。また時間にすれば数分なのだろうと思う。

そして、『古い妄想と新しい妄想の間に、まだ妄想に汚されていない自然のままの無分別の知性と光明という心の本性』(上掲書から引用)とは、OSHOバグワンの言うところの隙間のことである。

いつも思うのだが、この手の文章は数行の文章の中に無量の蘊蓄が収まっていて、気がつかないで読み過ごすことはままあるものだ。

ダライ・ラマの本は沢山出ているが、修行関連本については、明らかに体験していないとわからない部分の話やチベット密教での究極の見方などが普通に登場し、参考になるところが大体あるものである。

リンポチェというのは高僧だが、覚醒体験を有している者が多いようだ。その多数のリンポチェの上に君臨するダライ・ラマであれば、学識も「体験とは言えない体験」もあるのは当然と言えば当然なのだろう。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ダライ・ラマ、中国共産党の未来をほのめかす

2022-08-08 06:52:47 | 密教
◎誰がどう見ても強盛大国と見える時期こそ危うさが見える

2022年8月4日から7日にわたり、中国は台湾を包囲する大規模軍事訓練を行い、いつでも台湾に上陸、併呑する軍事能力があることを見せつけた。その中で8月4日中国の弾道弾が日本のEEZ(排他的経済水域)内に着弾し、中国は在北京日本大使を呼びつけて抗議したのに対し、日本外務省は、在日中国大使を呼び出さずに電話で中国大使に抗議したのは、腰抜けと批判されている。

戦後中国は、中国国民の奴隷根性を払拭するのに一生懸命だったが、中国が強盛大国になるに至り、いつの間にか日本の方が腰抜け国家になっていたのだ。実質丸腰国家は、危ういものだ。

今の時点で、中国は世界第二の経済大国であり、軍事的にも米国に追いつこうとしており、民生の工業製品生産国としては世界一となった。

また中国は南シナ海に軍事拠点を増強し、実質的に南シナ海を中国内海とし、今般東アジアでは、台湾併呑が短時日に可能であり、バシー海峡の封鎖すら可能であることを示した。今まさに中国は昇龍の勢いであり、一つの国家の盛衰のピークにあると言える。

さて昨今の国家の弱点として言われるのは、150年来食料と石油の自給の問題。最近は核保有と半導体のことも追加されたに見えるが、中国のアキレス腱は、食料と石油と半導体であることに変わりはない。欧州でドイツが英仏より一段下に見られるのはエネルギー自給率が低いことと核を持っていないせい。日本は、4ファクターとも弱い。

東日本大震災直後の2011年4月28日ダライ・ラマが来日して、中国共産党のことを述べている。
『「この国は、今、自然災害のただ中にあるが、それを絶つにはヤマーンタカの十忿怒尊の 瞑想が有効である。しかし、私が瞑想したからといって、これから何も起きないという保証はない。1950年代、チベットの高僧たちが国を挙げて祈ったが、中国軍は侵略してきたからね。でも、やるだけのことはやった。

・・・・私は占星術は信じない(星の運行が人の運命を決めることはない)。全ては人の心のありように拠るものだから。だが、私は長生きするという夢を見た。300年前の予言書を見たら、自分のことを指しているような人が出てきて、それがちょうど夢で見た年齢まで生きると書いてあった。自分は中国共産党の体制よりは長生きするよ、ハッハッハッ・・・・.」』
(ダライ・ラマと転生/石濱裕美子/扶桑社P182から引用)

中国共産党体制が彼の言うように意外に長くないとしても、その後残された人々の心が相変わらず、目先のメリット・デメリットと便利さ優先であれば、この半ば地獄的な現代社会の混乱は変わらず、むしろ悪化していく趨勢は変わらない。

それを変えるのは、ダライ・ラマの言うように人の心のありよう。損得、メリット・デメリット優先から、一見無益無用である覚醒優先に切り替わらないと何も変わらない。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クリシュナムルティの始まりの時代から

2022-08-07 06:41:40 | 現代冥想の到達点
◎世界宗教でも信者全員の悟りを求められる時代。

最近は本屋でクリシュナムルティ本を見かけることも少なくなった。クリシュナムルティを囲む一団を神智学徒と呼ぶが、かの今東光の父親が、日本で最初期の神智学徒であったことは知らなかった。

クリシュナムルティは、リードビーターなどによってインドで発見され、マイトレーヤ=ミロク菩薩の乗り物として自分の肉体を明け渡すということを予定されていた。つまりクリシュナムルティには彼固有の微細身がありながら、ミロク菩薩の微細身を同居させるという実験台にさせられようとした。

一つの肉体に複数の霊(微細身)というのは、その後いろいろな話を読んできた中であり得るとは思っている。だが一つの肉体に複数の霊という形式で弥勒出生、弥勒再誕を現実化させようというのは、大胆ではあるがいささか強引に過ぎ、神様のお気に召さなかったのだろう。

クリシュナムルティは、神智学教団であった星の教団の世界教師という位置づけだったのだが、「真理は道なき領域であり、諸君はいかなる道、いかなる宗教、いかなる宗派によってもそれに至ることはできない。」という宣言を出して、勝手に世界教師を降りてしまった。

これによって星の教団という組織宗教の教祖が主導して20世紀における組織宗教の最終形を作り出すという狙いと並行して弥勒を再臨させるという構想も烏有に帰した。

結局、この時代には、このような霊がかり排除の流れが吹き荒れ、同時代の出口王仁三郎も神の憑依による帰神タイプの悟りへのメソッドは教団として放棄した。

クリシュナムルティは、このような宣言を出して後も、自身は只管打坐型の悟り(身心脱落)を説いているにもかかわらず、冥想手法としての只管打坐を説かなかったために、メインの布教対象であった西洋人にあまり理解されることはなかった。

それを失敗とみて、ダンテス・ダイジが「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」を世に問うて、真理にいたる手法として様々な冥想法があることを示した。

クリシュナムルティは、境地を示し、霊がかりを排し、ダンテス・ダイジは冥想手法を示した。後は各人が坐るだけである。

クリシュナムルティは、1986年没。ダンテス・ダイジは、1987年没。今年で没後35年以上にもなる。彼らと面識のあった人ももう70代、60代。

時代はようやく、国家意識のない宗教の問題を浮かび上がらせようとしている。人は肉体と精神でできているが、肉体とは国家に照応し、精神は宗教に照応する。世界宗教とは、仏教、キリスト教、ユダヤ教や国際カルトなどということになるが、国家そのものが戦場になったり、放射能汚染や疫病などで人口が激減したり、生まれ育った国で生活できなくなるのはまずいという考え方が出てこないと国家意識のない宗教は問題だという風には考えないのだろうと思う。

それこそ世界が核戦争や大三災に見舞われた後の反省として出てくる見方なのだろうと思う。

つまり世界宗教そのものは悟りに到るメソッドを有しているのではあるが、現代はあまりにも悟りに到る人が少なすぎる。つまり世界宗教の信者になるのはよいがそれでは十分でなく、信者全員が悟りを開けないのでは、時代に追いついていないところが問題なのである。また一方で万人が悟るには万人が安定して生活ができることも、実は重要な要素なのである。明日のことを思い煩わないのは、修行者の基本姿勢ではあるが、それは、何十万人に一人覚者を出せばよい時代の話。
万人が悟るためには、万人が食べられる環境が必要なのである。その辺、歴史的に食うや食わずの人が大勢だった中国には、結局宗教がほとんど根付かなかったことが典型例としてあるように思う。
その辺が国家意識のない宗教が問題とされていく所以。

万人が悟ることが時代に要請されているが、その切迫感を感じている人はあまりにも少ないのが問題である。

そこで時代は、神なき方向にさらにどんどん振れて行っている。
コロナの世界的蔓延、
ウクライナへのロシア侵攻と核使用の恫喝
安倍元首相暗殺
中国の香港取り込みと台湾包囲侵攻訓練

大変動は先に各人の無意識に起こって、やがて現実として実現していく。無意識とは霊界とも呼ばれる。だが精確に無意識の未来の世界を見れる人はそう多いものではない。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

病気のない身体とは

2022-08-06 07:12:44 | 冥想の準備
◎禅修行の方向性

ロハス、ヘルシー志向だからこそ、ヨーガなどをやっていて、食べ物にも気をつける。

中国唐代の禅僧趙州が弟子に質問された。
弟子「病気のない身体とは、何ですか?」
趙州「四大、五蘊という肉体を構成する元素だ。」
※四大:地水火風
※五蘊:色(物質)、受想行識(精神要素)

肉体のいろいろな状態も、人間にとって様々な抑圧、プレッシャー、障害がある中のひとつで、ある程度の改善はした方がベターであることは間違いない。だがそのベストな状態は長くは続くものではないし、必ずいつかは終わる。

よって、「健康とはどうだ」とぎりぎりのところを質問してきた場合は、趙州もこのように答えざるをえない。
この木で鼻を括ったようなそっけない回答は、質問者が真剣に質問に来ていることの反作用でもある。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

切なる心、菩提心

2022-08-05 06:41:20 | 究極というものの可能性
◎日常性ではない何かを感じる

菩提心は悟りに向かおうとする心。菩提心とは、般若心経の阿耨多羅三藐三菩提心の略。仏道修行の最初の出発点。

だが、これは、寺や宗教教団に生まれ育ったからそもそもあるというものでもなく、寺や宗教教団に生まれ育っていないならばないというものでもない。

アシュタンガやピラティスやホットやパワー、アイアンガー、陰、ヴィンヤサなどのハタ・ヨーガをやっている人で、静座・瞑想・リラックス・タイムがあるから菩提心があるというものでもない。

浄土門で、なむあみだぶつ、日蓮宗系でなむみょうほうれんげきょうというマントラだけの人でも菩提心がある場合がある。

釈迦ですら縁なき衆生は度し難しと、菩提心がない人には布教しがたいとする。

天目の高峰原妙禅師は、求道の道は、最初から当人に「切なる心」がなければいけないと言う(禅関策進/天目高峰妙禅師示衆)。この「切なる心」が菩提心のこと。

般若心経の阿耨多羅三藐三菩提心は窮極の智慧のことだから、禅では修行の最初の発心に際して悟っていなければならないと無茶に見えることを言っているわけだ。

現代人にとっては、金銭的メリット・デメリットや便利さを離れ、人間として本質的な何か「切なる心」を感じることが菩提心なのではないか。

それを持って自発的に坐る修行を進めていく。この自発性を維持するものも「切なる心」。師匠のパワハラ気味の指導だけでは、最後まではたどりつけない。

だから「教えてくれなくてありがとう」という言葉も出る。

悟りが心理ではないように、「切なる心」は心理ではないように思う。日常性ではない何かを感じている部分かと思う。だがこれなくしては、正しく生きられない。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

無聞思聡の冥想の深まり

2022-08-04 06:28:30 | 丹田禅(冥想法8)
◎小悟何回、大悟何回

無聞思聡は、最初に独翁和尚の下で「不是心、不是仏、不是仏」という公案で参禅した。その後、六人のグループでお互いに深めていった。

次に淮西の教無能禅師から「無字」の公案をもらった。
その後淮上の敬兄に「あなたは6、7年参禅しているようだが、どんな境地か。」と質問されて、無聞はしどろもどろになり、悟っていないことがバレた。

無聞は、敬兄に「それでは、どうすればよいのでしょうか」と問うた。敬兄は、「端的な意を知ろうと思うなら、北斗を南に向かって看(み)よ」と教えてくれ去って行った。※南を向けば北斗星は見えない。が、北斗を南に向かって看(み)よ。

以後35日間、無字の公案はやらずに、「端的な意を知ろうと思うなら、北斗を南に向かって看(み)よ」の公案に取り組んだ。その間、歩いて歩いていることを忘れ、坐って坐っていることを忘れるという状態だが、どうしてもこの公案が解けなかった。ある時皆と坐禅している際、食事時にふっと心がゆったり清らかになった。この時感情も想念も破裂し、一枚一枚皮を剥いでいく(シュンニャ)ようになった。目の前の人も物も一切見ないこと虚空のようであった。

半時ばかりして我に返って、全身から汗が流れた。そこで「端的な意を知ろうと思うなら、北斗を南に向かって看(み)よ」の公案を悟り得た。敬兄に伺ってその見解が正しいことを確認してもらえた。

だが、自分では、境地が自由自在(洒落)ではないことを自覚していたので、その後香巌山に入って一夏を修行した。そこは坐禅中に蚊がひどく、痛さに両手を組んでいれなかったが、痛みの肉体感覚から離れ、歯を食いしばってこぶしを握りしめ、ただひたすら無字の公案に取り組んで、忍びに忍んでいた。

すると、思わず身心が寂静となり一軒家の四方の壁が崩れたようになり、身体は虚空のようになり一つとして心にかかるものはなくなった。午前8時に坐り始め午後二時に定から出た。自分でわかった、仏法が人を裏切るものではなく、ただ自分の努力や工夫が足らないだけであることを。

だがこれでも小さな隠れて見えない妄想が滅し尽くされていなかったので、さらに光州の山中に坐ること六年、陸安山中でも六年、また光州の山中に三年にしてようやく大悟(頴脱)した。
(以上禅関策進/汝州香山無聞聡禅師から)

よく禅では小悟何回、大悟何回などと言う。だが、いわゆる大悟ですら不完全だったり戻ったりする。あるいは、真正の大悟ですら彼にとって一片の素敵な思い出になってしまう(ダンテス・ダイジ)。

この話のように大悟した後、悟後の修行(聖胎長養)をするケースや、もう一度大悟にチャレンジするケースもあるだろう。また大悟の後に生存しないケースもある。大悟の後に酒徳利を抱えて街をうろうろするのもよい。どれが善い悪いなどは言えない。

それでも今日も冥想を。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

振魂の掌の左右について

2022-08-03 06:04:41 | 古神道の手振り
◎右手を下に、左手を上に

脚の組み方の左右もクンダリーニ・ヨーガと只管打坐では違う。また心理状態が坐相を決めるという側面もある
振魂の掌の左右は、右が上か左が上か迷っていたが、左が上ということがわかった。これは神秘生理学だが、おろそかにはできない。

植芝盛平の直弟子の菅沼守人のインタビュー。
『菅沼 あれは高名な画家の方が描いたのですが、スケッチではなく、想像して描いたもので、大先生が力を入れた時をイメージした、一種の象徴画だそうですね。お風呂で身体に触れた時も筋肉はかなり柔らかくて、稽古の前の柔軟運動でも大先生も門人と一緒に三十分位かけて丁寧に身体を伸ばしていましたね。とても八十過ぎの老人とは思えないほど身体が柔らかくて、俗に言う船漕ぎ運動、本来は“天之鳥船”と言うのですが、これなども大変柔軟な動きでした。

――船漕ぎ運動は合気道独特の運動ですね。実際にはどういった意味合いなのでしょう。

菅沼 船を漕ぐのは、目的地に向かって船を進めるためですが、大先生はその目的をよく和と統 一の世界、つまり争いの無い世界と言われてました。当時も今も暴力や戦争が絶えませんが「合気道の修行を通して、世界中の人々が手を結び合える世界が来るように、皆さんで手伝って下さい。その目的を目指して、皆で船を漕ぎましょう」という意味だろうと私は思います。

――同時に準備体操でもあるのでしょうか。

菅沼 そうですね。合気道で求められる統一体、つまり手、腰、脚を連動させることができる身体を作るのにも優れた技法だと思います。

――開祖から具体的な説明などはあったのでしょうか。

菅沼 手を開いた状態から、しっかりと握って後ろへ引く。それと反対に、握って突いて開いて引く動きもあるんです。それと必ず行ったのが振魂といって、両手を臍の前で握り合わせ振るもので、 この時は右手を下に、左手を上にするのですが、右手は言霊で身体、左手は霊を表すとされていま す。「土台(身体)の上に霊を載せる」と言われてましたね。

――船漕ぎ運動と振魂はセットになっていたのでしょうか?

菅沼 そうですね。大先生は船漕ぎ運動三回と振魂を1セットとして3セット行うのが常でした。』
(開祖の横顔 14人の直弟子が語る合気道創始者・植芝盛平の言葉と姿 月刊秘伝編集部/編P27-28から引用)

これによると、まず柔軟体操が30分。そして船漕ぎ運動(天之鳥船)三回と振魂を1セットとして3セットが通常メニューだろう。天の鳥船と振魂をどの位の時間やったのかはわからない。だが、二つの禊だけに絞っていることで、いかにこの二つが精選された運動なのかわかる。

出口王仁三郎も言っているように初心者は、天の鳥船だけ何時間、振魂だけ何時間もやってみることが必要なのだろう。それだけできる体力が一朝一夕にはつかないのだろうが。それにしても人間は、肉体あってなんぼである。肉体は土台、霊で活動。霊主体従
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

各種柔軟系運動と振魂

2022-08-02 06:57:32 | 冥想の準備
◎冷感グッズと顔汗

今年は、6月下旬頃の10日ほどの最高気温35度以上の異常高温に続き、今まさに連日の異常高温期に入った。
朝のウォーキング時間帯も早朝を選んでいるにもかかわらず外気温29度となり、頭と首に冷感グッズを巻いても顔汗が止まらないというあきれた猛暑になっている。何もしていなくともホット・ヨーガ。

ヨーガには、涼しくなる呼吸法もあるが、そればかりやっているわけにもいかない。学生時代に冷房のないアパートに居て涼しくなる呼吸法を試してみたこともあるが、限度も波もあった。

冥想修行者は、禅でもクンダリーニ・ヨーガでも観想法でもマントラでも準備として必ず柔軟体操を入れる。さらに全身の血行対策として経行や作務・家事も入ってくる。

柔軟体操としてハタ・ヨーガを入れることがあるが、アクロバット・ヨーギを目指さないかぎり、アーサナの数はそこそこでよい。だが、ポーズを作る際に呼吸法が伴うもの。

気功系の柔軟体操として八段錦や太極拳を行う場合もあるが、各ポーズには必ず呼吸が入る。

また日本には、夏のしるしでもある禊の神事がある。これは、太極拳とかハタ・ヨーガと違ってポーズの種類は極端に少ない。

1.振魂の行事
※渾身の力を籠めて《あめのみなかぬしのおほかみ》の神名を称えながら、
 自己の根本精神を自覚して、
 盛んに猛烈に数十分乃至数時間連続して全身を振い動かす。
『振魂の禊に水底の真砂まで
  揺ぎ出だせり神のまに』

2.天の鳥船
3.雄健(をたけび)の禊
4.雄詰(をころび)の禊
5.伊吹の神事

これらには、身体運動と神名マントラの念唱、気合術もあって、神我一体の観想法もありながら、いずれも腹(肚・丹田)を作る狙いがあるもので、いろいろなポーズをやるのがよいという先入観を持っている人にとっては驚きだろう。

振魂については、ネット上で合気道植芝盛平が、外人となごやかにやっている動画を見られる。だが、振魂だけで一時間半~2時間(川面凡児)とか、出口王仁三郎も数十分から数時間と言っており、一種目でこれだけ時間を取るのは、相当に洗練された行事なのだと思う。

振魂の効果については、わずか2分やっただけで感じるところがあった。まだ全然長時間はできないが、次第に時間延長にチャレンジしてみたい。

誠に人は、効能効果について一通り表面をなでるが、そのやり方の絶対性には気がつかないものである。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

22段の生の側の道、死の側の道

2022-08-01 03:56:04 | 真剣から無駄へ-世界の戯れ
◎悟りへの22段のパス⇒タロット・カード-15

ユダヤのセフィロト(生命の木)は10球から成り、それを結ぶ22の線はパス(小径)と呼ばれている。ただしこれは、一つの球から8本パスが出たり4本パスが出たりということがあり、22人図としての一本道の悟りへの道の説明にはならない。

おそらくタロットの大アルカナを最初に作った人物は、セフィロトの22パスは意識せず、人が悟りへの道をたどる場合のモデルとして一気通貫のイメージで並べたのだと思う。
〔lovers tarot〕

前半の1魔術師から10運命の輪までは、単に迷いの世界ということでなく顕教的な求道の道、すなわち生の世界から道を究めるということがイメージされている。9隠者一人は例外的に密教的だが、現代社会でも辺縁部にそうした人物は存在するものではある。

生の側を窮めると死の側を窮めることにもなるというのは、狭義では、キリスト教での観想法主体の求道の究極であり、只管打坐メディテーションの窮極である。

淮南子の原道訓に『生を出て死に入るとは無より有にゆき、有より無にゆき、そして衰賤す。この故に清静は徳の至りにして、柔弱は道の要なり』とある。

この文では、生と死の区別は問題にせず、生の世界・死の世界共通に流れている基底なる一なるものは清静であり、その性質をいうならば、柔弱であるということか。
これが生の側から死の側をも極めるのイメージ。
〔Gilded tarot〕

一方11力から0愚者までは、クンダリーニ・ヨーガ型、つまりユダヤ教的、キリスト教秘教的、西洋錬金術的な求道径路が示される。
11力では、全体の流れとして聖音オームのパワーがあって、12吊るされた男で自分が死(13死神)に、神仏を見るという体験が起こる。

この体験を定着安定化させる時期が14節制だが、自分のオープン度がフルオープンになったところで15悪魔が出現。それをクリヤすると16塔で神人合一のステップとなる。
以下は神に対して不退転となったレベルであって、17星で星を望見。18月、19太陽で最終的な両性具有を達成。20審判では、神への最終ストレートである梯子を登り始め、21世界で神人合一を達成する。

しかしそれで終わりではなく、言葉では表現できない主、神、ニルヴァーナを0愚者に置いている。
〔spiral tarot〕

タロット・カードは今では絵柄も相当に自由になってしまっているが、神を半ば忘れた中有的なこの500年において、見る目のある人は、神に至る一本道として大アルカナ22枚を見ることを期待して作成されたものと思う。

◎冥想の効用のない部分、ある部分-41
◎冥想の効用のない部分-40
◎第六身体アートマンと第七身体ニルヴァーナの関係性-39
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

0 愚者(無番号)

2022-07-31 03:18:06 | 真剣から無駄へ-世界の戯れ
◎悟りへの22段のパス⇒タロット・カード-14

21世界は第六身体であって、終着点の第七身体ニルヴァーナではない。そこで0 愚者がニルヴァーナとなる。
〔カモワン〕

人間から見れば、21世界も0 愚者も神仏に相違ないが、有である21世界と無である0 愚者との関係性は、「真剣から無駄へ-世界の戯れ」カテゴリーで述べて来たとおりである。

いわゆる神、仏、タオには2つの顔があり、有の側と無の側である。どちらが奥かと言えば、無の側である。有の側はアートマンであるのに対し、無の側はニルヴァーナである。古代インドなら、アートマン、ニルヴァーナだが、古神道では、有の側が天照大御神と素盞嗚神の事であり、無の側が、天御中主神。出口王仁三郎はニルヴァーナである天御中主神の特性を無形、無声。無限絶対、無始無終の宇宙の大元霊と評す。いわゆる大神とは、無の側の方である。

キリスト教の旧約聖書では、天地を創造する以前の神が無の側であり、最初の天地は有の側である。禅の十牛図では、有の側は我であり牛であり、無の側は一円相。このように伝統ある世界宗教には、大概神について、有の側の呼び名と無の側の呼び名があるものだ。

ニルヴァーナは、七つの身体でいえば、第七身体であるが、アートマン同様に個別性はなく、人間の側のものでもない。

何より言葉で表現できないものであるので、暗喩たるシンボルで指し示すことしかできない。それは禅の十牛図第八図の一円相だったり、大日如来だったりする。また仮に名をつけて、仏教では涅槃であり、禅では無、老子では道、古神道では天御中主神、キリスト教では神、インドではニルヴァーナなどとして、呼び名は異なる。
〔lovers tarot〕

愚者は、トリック・スターである。あるいは、老いたる赤子。図柄では、会陰を犬に刺激されているので、会陰のムラダーラ・チャクラから上昇するクンダリーニを意識させる。

トリックスターの特徴は、人間にとって深刻な結果を招くいたずらをすること、世界全体を窮地に陥れる悪意のない嘘をつくことなど。
トリックスターと言われる者は、ギリシア神話のヘルメスであり、北欧神話のロキであり、日本の素戔嗚尊(スサノオノミコト)であり、イエスを裏切ったユダなど。

最初は浅智恵からくる悪行に見えるが、その結果は世界全体の悪弊、因習を根底から破壊して、結果として全く新たな新秩序をもたらしていく。

この地獄的世界が至福千年に変換していくプロセスを後になって順を追って見てみれば、何人かの悪意なき偉大なトリックスターの行動を検出することができるだろう。

あの絶対平和のみろくの世を標榜する出口王仁三郎が、昭和神聖会を組織し白馬に乗って軍事教練みたいなことをやったり、強弓を引いたり。ヘルメスは、人類の未来へのパイロット(水先案内人)にして、人類の帰趨を決めるいたずらを行うトリックスターであるが、クリシュナと現れ、ダンテス・ダイジと現れ、インドの大聖ババジのように人類が危険な時期に差し掛かると先行して登場する。

素戔嗚尊は、八岐大蛇に酒を飲ませてへべれけにして討ち取るという品のないやり方をしている。

ユダが銀貨30枚でイエスの居場所を教えたのは冗談では済まなかったが、それなくしてキリスト教の栄光の2千年はなかったし、北欧神話のロキが盲目のヘズにヤドリギの矢で、最高にハンサムなバルドルを殺させなければ、世の終りであるラグナロークはスタートしなかった。

その一手は小さいが、人類にとって偉大な一手であったことを知るのは、事が成就してからだろう。その毒は小さく見えるが癒しは大きい。
〔Gilded tarot〕


そして、なぜ愚者か。次の出口王仁三郎の歌の世界観を正気と見れば、この現代社会で通念とされている法規制、メリット・デメリットなどは、非常識どころか、狂気・妄想のようなものだからである。クンダリーニ・ヨーガ系の西洋錬金術、密教、道教、古神道などの世界観は、一定の深度に達すると非公開になっていたり、難易度の高い暗号文書みたいになっていたりする。

耳で見て目できき鼻でものくうて 口で嗅がねば神は判らず
耳も目も口鼻もきき手足きき 頭も腹もきくぞ八ツ耳
(出口王仁三郎)

愚者は、第七身体、ニルヴァーナに相当する。だから無番号である。
〔Byzantine Tarot〕

ニルヴァーナの「何もかもなし」の側面について、ここでは聖書と釈迦と一休を挙げる。

『今から後、主の中に死ぬ死人はさいわいである』(ヨハネの黙示録14:13)
主の中に死ねば何もかもなし。
『わたしは父から出てこの世にきたが、またこの世を去って、父のみもとに行くのである』(ヨハネによる福音書16:28)
生まれる前も死んだ後もなにもかもなし。

釈迦は、感興の言葉(ウダーナヴァルガ)の第二十六章安らぎ(ニルヴァーナ)で何もかもなしを敷衍する。
『二三
それの出離であって、思考の及ばない静かな境地は、苦しみのことがらの止滅であり、つくるはたらきの静まった安楽である。

二四
そこには、すでに有ったものが存在せず、虚空もなく、識別作用もなく、太陽も存在せず、月も存在しないところのその境地を、わたしはよく知っている。

二五
来ることも無く、行くことも無く、生ずることも無く、没することも無い。住してとどまることも無く、依拠することも無い。―――それが苦しみの終滅であると説かれる。

二六
水も無く、地も無く、火も風も侵入しないところ―――、そこには白い光も輝かず、暗黒も存在しない。

二七
そこでは月も照らさず、太陽も輝かない。聖者はその境地についての自己の沈黙をみずから知るがままに、かたちからも、かたち無きものからも、一切の苦しみから全く解脱する。

二八
さとりの究極に達し、恐れること無く、疑いが無く、後悔のわずらいの無い人は生存の矢を断ち切った人である。これがかれの最後の身体である。

二九
これは最上の究極であり、無上の静けさの境地である。一切の相が滅びてなくなり没することなき解脱の境地である。』
(ブッダの真理のことば・感興のことば/岩波文庫P243-244から引用)
〔pagan cats〕


一休水鏡から、
本来も無き古(いにし)えの我なれば
死行方(しにゆくかた)も何もかもなし
※本来と言うもおろかな太古の我が屹立している。そこは既に自分という個性が死んだ世界であるから、「死に行く方」ももちろんないし、何もかもない.

心とてげには心の無き物を
悟るは何の悟りなるらん
※心といっても本当のところ心はないのだから、悟るというのは、一体何の悟りなのだろうか。

何事も空しき夢と聞く物を
醒めぬ心を歎きつるかな
※何事も空しい夢だと聞いているが、それにも係わらず醒めない心を嘆いていることだ。

「人は死ぬと空空としてあるのだろうか。また茫々としてないのだろうか」という言葉を導入に置いて、死をテーマにした一首。

掘らぬ井に溜まらぬ水の波立ちて
影も形も無き物ぞ汲む
※掘ってもいない井戸に、溜まっていない水が波立って、影も形も無い者が汲んでいる。

◎冥想の効用のない部分、ある部分-40
◎冥想の効用のない部分-39
◎第六身体アートマンと第七身体ニルヴァーナの関係性-38
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

21 世界

2022-07-30 03:59:04 | 真剣から無駄へ-世界の戯れ
◎悟りへの22段のパス⇒タロット・カード-13

既に12吊るされた男で見神、見仏を経て、15悪魔の誘惑も退け、16塔からは、善の側に不退転となった。生きる姿そのものが、善だけを行い悪を行わない姿(諸悪莫作衆善奉行)となった。
〔カモワン〕

17星では、悟りの確証の体験として星を得て、18月、19太陽で、太陽と月の合体により完全無欠の両性具有を達成した。20審判では、個なる自分は、世界全体、宇宙全体、すなわち神に向かって最後の一歩を踏み出すが、まだそこには届かない。

21世界で届いたが、そこは七つの身体論で言えば第六身体アートマン
神には、有の側と無の側があって、有の側がアートマン。アートマンは既に人間の側のものではない。現象全体をまとめたすべて一つながりの一なるもの。
アートマンとは本来の自分であり、本来の自己であり、本尊であり、聖杯であり、月であり、月輪であり、鏡である。そして、不死であり、永遠であり、腐敗しない、不壊であり、滅想定である。

アートマンは、物質と精神、時間や空間を含めた現象の側の全体としての呼称であり、シンボルとしては女性や太母や大地や牛や猪などが当てられる。

図柄は、茅の輪くぐりのような宇宙卵天上天下唯我独尊の彼女の腰布は両性具有を隠している。有の側だから四方守護の高級神霊が見えている。

人間は、悟りを求めて苦闘するのだが、神なしでは人間ドラマは起こらず。神だけでも人間ドラマは始まらない。
21世界とは、自分は個人であって、かつ過去現在未来の宇宙の万人万物、生物無生物のすべてである実感に生きる。

その辺の感覚が現代語で端的にわかる詩がある。ダンテス・ダイジの詩2篇。
『【何と人間らしいことか】

人間を越えようとする
意味づけることのできぬ永劫の情熱
それがいつ人間性の極限をもつき破って
無時間の神秘を実在せしめたのかは
誰も知ることがない

死を初めから超えていた情熱が
すべてを忘れた炎となって燃える
一つぶの雨滴にもかじりついて号泣し
そしてまた泥沼の中に浸り切る
もう時間も現象も神秘さえもいらない
いのちが いのちの中に完結している完結をも忘れて
何と人間らしいことか
何と人間らしいことか 』
(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジP13から引用)
〔Röhrig tarot〕

さらに
『【おれは神】

おれは神
あらゆる人間達が片時も忘れず
おれを求め続け そして生きている
おれの眼の前の灰皿を
おれは
あらゆる政治や文化や思想よりも
何兆倍も魂をこめて
産み出した
おれの指の動きの一つ一つが
銀河系宇宙や
その他のあらゆる宇宙を
粉微塵にしては又こねあげる
でもそんなことより
おれはあの小学生の女の子の自殺を
もっともっと愛している

百姓のおおらかな生活に憧れた青年が
幾年もの作物づくりに疲れ果て
希望も生気も失なった中に
おれは限りない希望と生気となって実在する

おれは神だから
何ものにも頼ることがないなどと
変な意地をはって
パン屋からヌードスタジオへと
勤め変えをしながら
おれを愛し続けてくれた女房を
だいなしにして自殺させてしまった
そしておれは神だから
女房がどんなに神だったかを
死なれたあとに気がついて
おろおろするばかりだ
おれの胸には大きな風穴があいて
その風穴から
無限宇宙をいつでも眺めることができるのに
神なるおれは神が嫌いで
胸の風穴を
酒と薬とでうめようとする

おれは神
いまだかつて一度たりとも
面と向って正々堂々と
人間の顔を見たことがなく
すずめの鳴き声を聞いたことがなく
太陽も月も星も見たことがなく
アイスクリームを本当に食べたこともない

おれは神だから
冷汗をかきながらすべての人々と話し合い おれは神だから
終わりのない愛ですべての人々を包む
おれは神だから

酔っぱらいが大声で叫び
おれは神だから
あるいは高笑いあるいは泣きくずれ
道のどまんなかでヘドとクソをたれ流す
おれは神
欲望にかられて女のすべてを欲しがるもの 神を求めて求めてやまないもの
ヒマラヤの洞くつなんぞ
一軒のマージャン屋にも
価しないにもかかわらず
坐禅冥想のあらゆる終りを
洞くつの中で楽しみ続けるもの
おれは神

おれの女房が中絶した胎児を
神なる看護婦が
アルコールづけにしたビンを持ってきた時
あほうづらをして眺めることしかできぬもの
冷たい雪山の中でストーブのぬくもりを求め
砂漠の只中ではションベンをさえ飲むもの
おれは神だから

求道生活を馬鹿にしてあざけり笑い
おれは神だから
湖に映った月の影のように
何よりも求道生活に精進する
聖者という俗人が
迷いと悟りを分けたばかりに
悟り好きの求道者は
悟りに到る様々な道を
もの狂おしくたどり続ける
そのあげくにおれが神であるばかりに
悟りという迷いを開いて喜ぶ

おれは売春婦という神だから
あの十七才の少女のように
一日として男がいなくちゃいられない
一切万物の幸福好きもこまったものだ
これもあれもみんな神なるおれの責任だ
おれは神

〔(Hieronymus) Bosch Tarot〕


一ぱいのお茶をやさしく友人に出す
釈迦やキリストやクリシュナや老子などと いう
ニセ者が出たばかりに
世も末だ
おまえは神だからおまえを生きろ
おれは神だからおれを生きる
ヒマを持て余したおれは
やれ文明の没落だの
やれ宗教だ哲学だなぞと言い張り
ヒマを持て余したおれは
神だ神だと言い張る
ヒマを持て余したおれは
のどかな田園風景や
輝く陽光と銀色の海を愛し

よせばいいのにあそこのキャバレーで
女の子を口説き出す
そして神なるおれは
ヒマを持て余しているから
よせばいいのに神そのものであり続ける

おまえにはおまえの惚れているものがあり
おれには、 おれの惚れているものがある
おれは人間として必死に
今死にゆく癌患者の手を握り
処世の達人なぞ遠い妄想にすぎない
今までにおまえは
一瞬でも本気になったことがあるか
ありはしまい
なにしろおまえは神なんだから
おれはいつもいつも正真正銘の本気だ
なぜならおれは神なんだから

おれは四六時中ウソばかりついている
神だからだ
おまえは四六時中真実でいる
おまえが神だからだ
おれは神
おれの孤独を何とかしてくれと
叫び続けるもの
おれは神

さびしさなんぞどこ吹く風
絶対なる幸福なんぞにひっかかるなよ
おれ達は神なんだから
絶対なるこの幸福を戯れよう
おれ達は神なんだから
おれは神
蜜よりも甘い甘えで甘えるもの
おれは神
一沫の甘えも弱さも持たぬもの
おれは神
弱くて軟弱なめめしい生きもの』
(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジP25-33から引用)
〔lovers tarot〕


人が神を生きる場合、他人もあなたも神である。彼が人間を生きる場合、みじめで情けない人間の弱さも知っていて、一沫の甘えも弱さも持たないが、同時にすべてを許す愛も持っている。さらには恒星惑星の運行も支配し、天候の操作などお手のもの。またヒマを持て余して悪さをする人のことも知っているし、あらゆる不幸に見舞われつつも真摯に生きたヨブのことも知っている。
有の側を生きるということはそういうことなのだろうと思う。

◎冥想の効用のない部分、ある部分-39
◎冥想の効用のない部分-38
◎第六身体アートマンと第七身体ニルヴァーナの関係性-37
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

20 審判(永劫)

2022-07-29 03:34:28 | 真剣から無駄へ-世界の戯れ
悟りへの22段のパス⇒タロット・カード-12

20審判は、次の21世界なる神との一体化直前のステイタス。21世界は、七つの身体で言えば、第六身体であるアートマン。

最後の審判は、現界で起こるわけではなく、霊界で起こる。世の中のあらゆる物事は、まず先に霊界で発生して、その後現界で起こる。
※世の終わりの大筋は、何十年も前に霊界で起きており、ディテールの一部が決まっていないだけという見方はある。
〔カモワン〕

さて個なる自分と世界全体が合一することを想像すると、世界の側にはあらゆる他人が居て、生きている人は勿論死んだ人もいる。そこで、最後の審判ではあらゆる死んだ者も生き返り、チャンスを与えられるという話になる。
〔Lichodziejewski Tarot〕

図柄の十字の旗は、過去も未来も現在も、現界も霊界も含む世界全体を示す。ダンテス・ダイジも冥想十字マップで十字を用い、出口王仁三郎も十曜の神紋という十字を使う。

最後の審判の実際の雰囲気は、霊界裁判所で閻魔大王を前に被告人として裁判が行われるというようなものではなく、各人が自ら進んで天国行きか地獄行きかを判断していくものであると、出口王仁三郎が以下のように説明している。
『キリストは、最後の審判を為す為めに再臨すると云つたが、彼の最後の審判と云ふのは、火洗礼を施す事の謂ひである。彼は火洗礼を施さんとして、其偉業が中途にして挫折したため、再び来つて火の洗礼を、完成せんと欲したのである。
 火洗礼とは、人間を霊的に救済する事であると云ふ事は、既に我弟子達の周知の事である。最後の審判は、閻魔大王が罪人を審くと同様なる形式に於て行はるると、考へて居る人が多いやうだが、それは違ふ。天国に入り得るものと、地獄に陥落するものとの標準を示される事である。此標準を示されて後、各自はその自由意志によつて、自ら選んで天国に入り、或は自ら進んで地獄におつる、そは各自の意志想念の如何によるのである。』
(出口王仁三郎随筆集「水鏡」【霊界物語は最後の審判書なり】から引用)

出口王仁三郎は、この標準とは、大正時代に公開された霊界物語だから、最後の審判は、とっくにスタートしているのだと述べる。同様にバイブルに「又天国の、此福音を万民に、證せん為めに、普く天下に宣べ伝へられん。然る後末期いたるべし」とあることを示し、既に世に標準が示されたから最後の審判が来ることも聖書に出ているとする。
〔Celestial Tarot〕

キリスト者にとって、最後の審判についてわかりやすいイメージと言えば、天国に至る梯子のイメージ。

1.ローマ時代の22歳の女性殉教者ペルペトゥアは、闘技場で牛の角で突かれた後に剣で命を落としたのだが、彼女の最初の幻視は、人一人が通れるだけの巾の狭い青銅製のはしごが天まで達しており、梯子の下には巨大な龍がいたというもの。

また、「アイオーン/CGユング/人文書院」の挿絵によれば、ローマのカタコンベの中のカルビナ墓所の壁画には、梯子を登る人(僧?)の絵があり、梯子の下には蛇がいる。

この2つの例をみると、龍ないし、蛇はムラダーラ・チャクラに鎮座するクンダリーニであって、梯子はその上昇ルートであるエネルギー・コードであることが容易に見て取れよう。

2.創世記第28章12節で、ヤコブが天の梯子を見た。「そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。 その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。」
地上から梯子が伸びるのではなく、神の側から地に向かって梯子が伸びているというのが、いかにも自我未発達な時代の古代秘教的精神の特徴をうかがわせる。ヤコブは上から見ている。
〔Byzantine Tarot〕

3.エドワード・メートランドの神の幻視『私は最初、一つの体系の周辺部から中心点に向かって長い梯子を昇っているような感じをもったが、その体系というのは、私自身の、太陽系の、そして同時に宇宙の体系でもあった。
この三つの体系は異なっていながらしかも同一であった。・・・・やがて私は最後の努力をふりしぼった。
・・・・・私は私の意識が放射する光線を、望みどおりの焦点に合わせることができた。その瞬間、突然点火によってすべての光が一つに融合したかのように、すばらしい、形容しがたい輝きを帯びた白い光が私の前に立った。』
(黄金の華の秘密/ユングとウィルヘルム/人文書院から引用)
メートランドは、この後で白い光の正体を見ようと試みた。

世界全体を天国あるいは天と表現するのは、教義体系に添わせるためにはあり得ることである。また中国にも天に至る柱として、建木や扶桑がある。

この20審判は、まだ21世界には届いていないのだ。

ここで、自分が死ぬことはかまびすしく言われるが、自分のいた宇宙や世界も同時に死ぬということを忘れてはならない。一方で、世界と合一するということは、生きているあらゆる人々の実感およびこれまで死んだあらゆる人々の実感を体験するということなので、地獄の釜の蓋が開いて彼らにも最後のチャンスがあるのだということが言われる。

◎冥想の効用のない部分、ある部分-38
◎冥想の効用のない部分-37
◎第六身体アートマンと第七身体ニルヴァーナの関係性-36
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする