アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

冥想の4か条-2

2018-11-14 04:46:20 | 冥想アヴァンギャルド
◎全面的に自分の無知に気づいている

OSHOバグワンの冥想の4か条の続き。

『瞑想に関して私が言いたい第二のことは、あなたは全面的に自分の無知に気づいていなければならないということだ。蓄積してきた借り物の知識が本当の知識ではないと知られるときにのみ、自分の無知に気づくことができる。』(グレート・チャレンジ/和尚/市民出版社P13-14から引用)

『蓄積してきた借り物の知識が本当の知識ではないと知られるとき』とは、いつの時点のことを言うのだろうか。

全体なるもの、この一なるものを感得して初めて、自分の無知を知り得る。

一方ソクラテスの無知の知は、自分が無知であることを自覚していたということで、この第二の条件と等しいと思う。よってソクラテスの哲学は今でいう哲学ではなく、禅問答に近いジュニャーナ・ヨーガとさる冥想法を合わせたようなものであるように思う。

ソクラテスは、さらに汝自身を知れとやったが、汝自身とは、アートマンのこと。

ダンテス・ダイジは、あらゆるものが見知らない状態があることを語ったが、それが、全面的に自分の無知に気づいている状態かもしれない。
コメント

冥想の4か条-1

2018-11-13 05:28:39 | 冥想アヴァンギャルド
◎待つ心 如来

OSHOバグワンが冥想の4か条を語っている。

『瞑想とはまさに、何かが起こりうるような受容的な状況を創造することだ。そしてあなたにできる唯一のことは、待つことなのだ。

待つ心とは、知られざるものを待っている状態を指している。なぜなら、これから起こることは、前もって知ることはできないからだ。』
(グレート・チャレンジ/和尚/市民出版社P12から引用)

七つの身体、世界の逆転、時間・空間・物質と、それを理解する道具立てはそろっているが、学校の勉強とか資格試験みたいに一定の知識を覚えこめば合格できるというような「教学試験」のようなものではない。

それが起こるまで待つしかないというが、それまでの努力の積み重ねは必要なものだと、OSHOバグワンも言う。

十牛図でも第七図までが、努力のシーン。
コメント

リラックス技法

2018-11-12 07:04:14 | ハタ・ヨーガ(冥想法3)
◎死体のポーズ

冥想修行者は忙しい。仕事(勉強)をして家事をして、柔軟体操をして、呼吸法をして、坐る。これだけやるのでも、テレビやネットを見る時間が加われば、睡眠時間は減る。

OSHOバグワンは、健全な人間生活を営むには、適度な食事、適度な労働、そして睡眠と唱えたが、多くの人にとって過度な食事、過重な労働、不足な睡眠ではないのだろうか。

こうした分刻みのいわば殺人的スケジュールの中で、リラックスを挟む場所は、柔軟体操の中か、就寝前か。

そこでリラックス技法。死体のポーズ

仰向けに寝る。腕は身体の両側。掌は上に向け、足は少々開いて伸ばす。

目を閉じて全身の力を抜く。まぶたをゆっくり閉じ目の力を抜く。顔と頭の筋肉の力を抜く。

呼吸は自然に、だが呼く時は呼くことを意識し、吸う時は吸うことを意識して。だんだん呼吸が落ちていく。

すべての音を聞き守る。すると頭はだんだん静寂になっていく。


完全なリラックスなくして、完全な活力なし。
コメント

自分の内面に浮かぶことども

2018-11-11 05:52:13 | マインド・コントロール
◎冥想的ライフ・スタイルとミス・マッチ

自分の内面に浮かぶことを次々とメモし、後でそれを読み返すと、気ちがいじみている。それは他人に見せるようなものではなく、他人がそれを見たら、この人は狂っていると思うだろう。

マルセル・プルーストの小説『失われた時を求めて』は、そうした長大なメモ書きのようなものだが、ちゃんと読めるからとりあえず狂気ではないようには見える。だが、他人には何の価値もないことを延々と羅列されている。ほとんどの他人はそんなものを見たくはないし、本人も見られたくない。

人には、本音と建前がある。かつてのテレビドラマの渡る世間は鬼ばかりを一度だけ見たことがある。その遠慮のないあけすけで本音のみのストレートな会話のやりとりに驚いたら、そのドラマは思ったことをそのまま言葉にしているのが売りのドラマだそうだ。意識をストレートに言葉で表現というやつだ。そこには、諍いやショックはあるが美は少ない。

人は、こんなゴミためのような自分の意識を覗き込みたいなどとは思わないものだ。自分の意識を見たり、自分自身を思い出すのは不愉快なものだからだ。皆、本音では、自分自身から逃避したい。

この近代西欧文明は、自分自身から逃避する文明。ライフ・スタイル全体がそうなってしまった。テレビ、ドラッグ、動画、ゲーム、スポーツ、クラブでの激しいダンス、レイブ、集会、講演会、演劇鑑賞、音楽ライブ、神社仏閣の参詣、宗教行事参加、パワースポット巡り、グルメ、酒等々、自分の外側にある何かにいつでも巻き込まれていることで自分を忘れることを延々と繰り返すことができる。

自分自身から逃避したいのは、なぜか。自分の状態が自分でも目をそむけたいほど悪化しているからである。社会生活は建前全盛となり、内実は評価されない。

人は人前では流行のファッションをまとい美しいが、中身は目もあてられない。これが平均的現代人像。

素直になるというのは、そういう自分、みじめで情けない自分をさらけ出すことではなく(フランクさではそうなるのではあるが)、まずは自分で自分がみじめで情けないことを内心で認めること。

こういうところも今の社会通念、慣習が冥想的ライフ・スタイルとミス・マッチなところではある。

かくして、冥想への敷居は高い。
コメント

勇気とエネルギーと強さ

2018-11-10 04:21:53 | 究極というものの可能性
◎臍・マニピュラを強化する

以下は、インナー・ジャーニー/OSHO/市民出版社の読書メモ。

OSHOバグワンは、人間の根はへそだと云う。次にハートが育ち、次に頭が育つ。
これは肉体と微細身のつながりの観点からそう言っている。この体系では、根っこが臍で、花が頭。人間の肉体と魂は臍でつながっている。

自動車事故、バイク事故、自転車事故での恐怖は、真っ先に臍で感じられるものだとOSHOバグワンは云う。

神秘生理学系の文献では、根と言えば頭頂サハスラーラだが、それは別のステージでの表現。


マインド・頭がリラックスすればするほど感受性が鋭くなる。肉体をリラックスさせ、24時間稼働しているマインド・頭を沈黙させることで、エネルギーを頭から臍へと降ろす。

一定した調和的呼吸で思考はほとんどなくなる。

オームAUMの念唱。Aは頭を打ち、Uは胸を打ち、Mは臍を打つ。AUMを繰り返すのは、エネルギーが頭から臍へと流れることを促進し、臍強化となる。

臍は度胸のセンター。
瞑想家は度胸を重視。勇気なくして宗教なし。死に立ち向かっていく途方もない勇気なければ宗教なし。

世は、金があって家があって、治安が良くて、健康で、かくの如く安全に穏やかに暮らせれば良いと思っている人がほとんどだ。

OSHOバグワンは、こうした衣食住の準備や快適さに暮らすことで、自分の勇気、チャレンジ精神はほとんど失われるとする。なぜなら生の唯一の意味は危険に生きることだから。

西郷隆盛や大久保利通や勝海舟のやり方を見て、勇気、チャレンジ精神があり過ぎなことを感じる人も多いだろう。

今は出家しても、衣食住は安定供給されるので、そこのリスクはないが、昔は出家すれば、着るものも食べるものも住むところもなく修行した。白隠などの修行はそうしたものだった。

さらに彼は、彼らが家庭や社会性が束縛だから出家したというのは間違いで、あらゆる安定を捨て不安定・危険・リスクを生きる勇気があったからとみる。

勇気を育てる臍のセンター育成には、肉体的には呼吸、心理的には勇気が必要だ。

さらに彼は、が禅と武道をたしなんだ理由は、冥想修行者に勇気と強さがなければ、頭しか育たず、学者ができるだけだと当時の日本が気がついていたからだとする。

この点で徳川時代は、鎖国で退嬰化した傷はあるが、人間を育て続けたという点では成功した。ただ宗門内部では、大悟者を多数出せなかったのは、政治の庇護下にあったせいであり、すべてがうまく回るものでもない。

OSHOバグワンは、この一連の臍の強化の話を締めくくるに値する言葉を残している。ある人が日本から像を持ち帰り、その像は片手に剣、片手に燭台を持っていた(多聞天か?)。それについて、

『剣を手にしているからといって、彼がそれを使い、誰かを傷つけたり殺したりするだろうと思ってはいけない。人を殺すのは、殺されるのを恐れる人だけだ―――殺されるのを恐れない人は、決し
て人を殺さない。暴力的な人は、実のところ恐がりなだけだ。事実、暴力的でない人だけが、剣を手に携えることができる。実のところ、自分自身が剣になってはじめて、人は暴力的でなくなる。さもなければ無理だ。

その実存に剣のような勇気が生まれ、その実存に剣のようなエネルギーと強さが生まれた人―――安らぎの燭台は、そんな人だけが受ける恩恵だ。』(インナー・ジャーニー/OSHO/市民出版社P71から引用)
コメント

早期の乳離れとセックス文化

2018-11-09 05:45:35 | 究極というものの可能性
◎臍センターの強化へ

OSHOバグワンの用語の説明から。
マインドは頭、脳。アジナー、知性。
ハートは、胸、愛、アナハタ。
臍のセンターは、マニピュラ、勇気、自己実現。

OSHOバグワンの見立てでは、現代人は、まずマインド偏重。
人は、出生して乳房をくわえる時期があるが、乳離れは本人の乳離れしてもよいという時期まで待ってするのが本来の姿。これをそれより早く強制的に行うと、ハートのセンターが十分に育たないままとなる。

これが潜在的な乳房願望として、あらゆるポルノ、買春、痴漢、盗撮、女性への暴力などとして展開するのは、この早期の乳離れが、精神と身体の不十分なゆがんだ発育を促進しているからと見る。

バブル経済以降、日本人は貧しくなって専業主婦は、絶滅危惧種となり、乳児を預ける施設の不足が問題となった。精神と身体の不十分なゆがんだ発育な子供の方が大多数な時代になってしまったのだ。

かくしてハートのセンターが不十分な発育の人間は、代わりにマインドを使い始める。

本来のセックス・センターは臍のセンターで、人はで誕生し、臍で成長するのだが、臍が未発達なので臍の代わりにマインドでセックス・センターの代用をさせようとする(頭の中でセックスが巡る)。

OSHOバグワンは、セックスがマインドに入り込むと生全体が損なわれるとするが、いまや世界の人類全体が、そうなってしまって、IT、スマホの発達によりそれはさらに拡大強化されている。

要するに幼少期に発したハートの不満が世界全体の性倒錯文化を下支えしてしまっているのだ。

OSHOバグワンは、この対策として臍センターの強化瞑想を提示している。
コメント

頭と胸のバランス

2018-11-08 05:29:53 | 冥想アヴァンギャルド
◎頭でっかちな現代人=マインド人

冥想は、バランサーである。

OSHOバグワンは、マインドという言葉を頭(脳)の側の心という意味で使っているようで、ハートという言葉を胸の側の心という意味で使っているようだ。

知性とはマインドの属性の一つであり、昨今の人類は、マインドの側ばかり強化してきたから、全人類が狂気に落ちる寸前であると見立てる。事実狂人は増えている。

そこでOSHOバグワン流に言えば、人間のハートの弦が緩み過ぎていると怒り、敵意、妬み、憎しみしか出てこない。マインドの弦が張りすぎていると狂気が生じる。

ハートの弦が緩み過ぎていれば、少し締め、愛が生まれるように。マインドの弦が張りすぎていれば、少し緩め、鋭敏な知性が生まれるように

そして多くの現代人は、ハートの弦が緩み過ぎて怒りっぽく、マインドの弦が張りすぎて生きづらく、その結果は胃をやられる結果になりやすい。

このハートの弦とマインドの弦のバランスをとるのが冥想である。
コメント

人類の運命と陰謀論そして大型自然災害

2018-11-07 05:26:53 | 時代のおわり
◎疑団と自覚、反逆へ

トランプ大統領は、陰謀論を信奉しているらしいと言われる。また「QAnon」(キューアノン)という陰謀論を信じる集団が、「トランプ大統領は、世界の政財界、メディアに巣くう邪悪なディープステート(影の政府)と闘う救世主」という主張をネット上で展開し、トランプ大統領を支持する動きをしているという。

自分がフリーメイソンで陰謀論者であると自称する権力者はまずいない。
昔から様々なものに出てくるのだが、いわゆる陰謀論の核心は、人類の再誕の方法論を2とおりに分けるとすると、ラディカルなやり方と穏便なやり方の2種があって、ラディカルなやり方が陰謀論の方であると考えている。

ラディカルなやり方とは、人類をいったん全滅せしめ、地球上あるいは他の天体で、選りすぐりの人類の種から人類の再生をスタートさせようという考え方。この考え方の典型はイザヤ書第六章。この思想はどこかに隠された秘密の暗号文書だけにあるわけではない。

穏便なやり方とは、今の政治や社会の枠組みをある程度残しつつ、人の手による核兵器などの大量殺戮は起こさず、話し合いで新人類を多数育成させようというもの。

これは東洋的な発想であり、神と人とが生来親和的である社会に生きるインド、中国、日本などの発想。
人類の再生は、殺戮によらず、説諭などで改心させるとは、言向け和(やわ)すということである。

厳密に人類の迷惑を顧みずに言えば、どちらも神の掌中にある選択肢であるとは思う。


人は、「覚醒というものがある、十牛図の牛と人間というものがある」と気がつけば、世の中のあらゆるものに疑念を抱くようになる。

この社会はどちらかというと神のルールでできている社会なのか、どちらかというと悪魔のルールでできている社会なのかとまず疑問を持ち、世の中にあらゆる悲惨があり、栄耀栄華を極めるのは、極く一握りの人間だと気がつく。

そして神のルールから見ると逸脱した社会慣習や法規制、取引慣行まであることがわかってくる。

瞑想修行が広まっていくとこうした人がだんだん増えていくのだが、政治や社会はどうしてもこうした現行の管理そのものに疑念を抱く人の存在は不都合であり、排除しようと動く。

よって心ある冥想修行者は、隠れて世に潜行して動かざるを得ない。

OSHOバグワンがアメリカ官憲に瀕死の目に合わされたのは、このようなわけであって偶然ではないと思う。OSHOバグワンは冥想修行者達の現代社会秩序を無視しようという動きを調子に乗って「反逆」などと呼んだ。1970年代は、若者のそういう激しい動きが残っていた時代だからそういうもの言いでも通用したかもしれないが、今は言葉狩りの時代。

西日本大水害、胆振北海道の大地震と大停電、最近だとイタリアの風水害、フロリダを襲った超強力ハリケーンなど、核兵器並みの大災害が世界中で頻発する時期に入ってきた。

そういうタイミングで、アンチ陰謀論な大統領が出現してきたのは偶然ではないと思う。

日々冥想を。
コメント

洞窟修行 肉体と酸素

2018-11-06 05:40:58 | 究極というものの可能性
◎微細身と三昧に酸素は不要

人は、人間のことを肉体だと思い込んでいるから。酸素の少ない所では、人間は生きられないなどとすぐに思う。

しかし、冥想にあっては、メイン・イベントは、肉体がほぼ休止する場面で起こってくることは知られている。悟りと酸素はあまり関係がないようではある。

2018年6月~7月のタイ洞窟に閉じ込められた少年たちについては、世界中のレスキュー・チームが救出のタイミングを計っていたが、判断する主要なファクターは、洞窟内の酸素の濃度だった。

換気が十分でない洞窟内では、酸素の濃度は人が滞在期間を延ばすにつれて低下していく。

ところが冥想修行にあっては、小さな空気穴を開けただけの山の洞窟で何か月も修行することがある。スワミ・ラーマもそうだったし、チベット密教ではごく普通に見られるし、空海すらも洞窟修行し、笹目道人が出会った崑崙山の5百歳の仙人も洞窟に住んでいた。

十字架から降ろされたイエスの瀕死の肉体は洞窟に安置された。

単にロハスで健康志向なら空気の少ない換気の悪い場所は選ばない。冥想が深まれば深まるほど呼吸は落ちていく。

OSHOバグワンに言わせると呼吸により肉体とクンダリーニはつながっている。それから起こる微細身以上のステージは、肉体機能が停止しないと起きない。よってそれ以降の三昧(サマディー)等のステージでは呼吸が不要となるので酸素の有無は問題にならない。

そこで肉体死が起こり、再生がある。これが覚醒。

OSHOバグワンは、洞窟の機能として大理石などは、ある種の波動を遮断するので、その効果を承知している人物がその洞窟を選定することはあるとする。ピラミッドはその代表であって、アジャンターの石窟は、もともと酸素の少ない造りであり冥想修行用だったが、その理論は失われていると云う。

・・・・マンションは形状だけで言えば、換気はちゃんとしているが洞窟みたいなものではある。

かくして北インドの求道者たちは、寒冷なヒマラヤ南斜面を修行場に選び、時に洞窟も用いる。

人の生命は地球よりも重いのかもしれないが、人が苦悩と艱難の連続を脱することができないままに、地上に暮らすのは地獄が現実化しているだけのことであって最悪の運命である。

そこを脱出するルートは、文字通り生死を超克する道なのである。
コメント

クンダ自体の中に没入する

2018-11-05 05:19:39 | クンダリーニ・ヨーガ
◎トールが、角杯で一気飲みにトライ

クンダリーニのクンダとは、池全体のことだが、クンダリーニ・ヨーガで一般的に見られるクンダリーニ覚醒、上昇のプロセスの他に、クンダ自体の中に没入する道があるという。

OSHOバグワンによれば、その場合、超感覚的体験もなく魂の体験さえも完全に逸する。そのケースでは人は直接神に遭遇し体験する

この道はごくごく少数の人だけが辿る道であって、彼らは神のみがあって、一なるものだけが存在すると語る。

そのクンダのエネルギーは汲めども汲めども尽きることのない無限である。
(出所:奇跡の探求Ⅰ/和尚/市出版社P353-354)

この体験の仕方は、身心脱落のようだが、相違があるのだろうか。

北欧神話で、英雄神トールが、角杯で一気に酒を飲み干すことができるかどうか試されるシーンがあるが、その角杯の底は海につながっていて、少々しか飲み干せなかったという逸話がある。

このシーンはクンダの池のことであって、そうした場面に自分が立ち至って初めて何のことかわかるということなのだろうと思う。
コメント

組織宗教と聖者

2018-11-04 06:41:21 | 究極というものの可能性
◎水平と垂直

聖者は、組織宗教の中心にいたり、あるいは創設者だったりするので、聖者は組織宗教の大多数の信者側だと思われることがある。これは大きな誤解を生む原因となっている。

神・仏は、狭苦しく、みじめで情けない自分から脱却した先にあるのであって、おおむね自分たち教団の入信者の側にはいない。

入信するとその組織宗教には、神話、逸話、説話、儀式、死と再生の物語を通して、人を意識レベルの変化による変容を準備する気分にさせてくれるものだ。
だが、ほとんどの人は変容そのものには至らない。また無力で悲惨な現実から解放をもたらすこともない。

だが、組織宗教は、そうした中間段階に居続ける迷える信者たちの自我に、「これでもとりあえずはいいのだ」みたいに、自分を慰め、無力な自分を防御し、自分の甘えを助長し、やがては自分は救済されるという確信を植え付けてくれるものだ。

だが、本当の救済は、従順な大勢の信徒の側にはない。(実際には彼ら彼女らの中にも光明を得る人が出てくるものではあるが・・・)

このように組織宗教は、一般的に信者の自己を強化し、育成する方向に働く。水平飛行の場なのである。

ところが組織宗教は、しばしば修道院や専門道場を抱えている。僧堂の中には選仏場などという扁額を据えて、人間を仏にするのだと公言しているところまである。

修道院や専門道場は、少数派のためのトレーニング施設である。心のトレーニングは、肉体や微細身の状態とも密接に関連しており、身口意、さらに行動や言葉にも戒律をかけて規制し、個人をトータルに24時間コントロールすることで、人を自己から超越せしめんとする。

リアリティ=真理=神仏は、自己を強化する方向にはなく、自己をなくする方向であって、教団の大多数向けの自己を強化拡大する機能とは逆である。

少数派のトレーニングは、常に自分の死と再生を狙う。つまり垂直飛行である。

ケン・ウィルバー
は、少数であることを既定事実としてとらえていたが、ダンテス・ダイジは、何百年・何千年の伝統を持ちながら少数の覚者しか打ち出せない伝統宗教を組織の堕落と捉えていた。

この先の、至福千年、アクアリアン・エイジ、みろくの世は、全員が覚者である時代。そんな時代に少数しか出せないでは間に合わないのだが。
コメント

普通のOLが、世界中の魔法使いに弟子入りして、リアルに魔法が使えるようになった話

2018-11-03 06:03:20 | 超能力・霊能力
◎軽めに見せるスピリチュアル

『普通のOLが、世界中の魔法使いに弟子入りして、リアルに魔法が使えるようになった話/カワセ ケイコ/ヒカルランド』は、軽めに見せるスピリチュアル.

ペルーに行って10日間連続でアヤワスカするのに躊躇がなかったのは、本人の思い切りもさることながら、そこまで吹っ切れる何か推進力があったのだろうと思う。

アヤワスカ体験者の本もわずかながら過去出されており、そういうのも役に立っている形跡があった。

昔テディ・エンジェルのスピリチュアル・リンクみたいなのがあって、その主催者の方がカワセさんの師匠だったのですね。陰陽師だそうで。

その主催者の方は最近亡くなられたというのを、別の本とネットで知っていたのだが、この本にも書かれてあった。
その方は、スピコンにも関係されていたという。

いわゆるファッション瞑想とか霊能力好きとか、超能力フリークというのは本筋ではないのだが、そういうのをやっている時代ではないのだと思う。

それでなくとも生活を維持することですら厳しく、悪しきライフ・スタイルへの罠は巧妙であり、接する情報のかなりの部分が宣伝やマインド・コントロールが引っかけてあるこの頃。

めいめいが、自分で真剣に敬虔に坐る時代である。
コメント

かなうは善し、かないたがるは悪し

2018-11-02 06:16:19 | 丹田禅(冥想法8)
◎をのずからこころよきもの也

利休(宗易)が客と亭主の心の持ちようについて、『かなうは善し、かないたがるは悪し』と語っている。

ただこれには前提があって、客も亭主も大悟を経ていることが前提である。金銭欲も物欲(茶器の名物など)も淫欲もそのままの俗人同士が茶会を催しても、お互いにかないたがるばかりで一向に整うことはない。

ただ、かないたがることは相互への愛の兆しであり、いつかかなうことがあり得る。

また、かないたがることは、かなうことへの前段であり、かなえばまたかなわぬことにいつか変わっていく。

茶事に限らず、恋愛、魂の伴侶なども、かなおうとせず、すでにかなっているのがよろしい。

南坊録覚書から
『客亭主、互の心もち、いかやうに得心してしかるべきやと問。

易の云、いかにも互の心にかなふがよし。しかれどもかないたがるはあしし。

得道の客亭主なれば、をのずからこころよきもの也。

未煉の人互に心にかなはうとのみすれば、一方、道にちがへばともどもにあやまちする也。

さればこそ、かなふはよし、かないたがるはあしし。』
コメント

知らないものを考え抜く

2018-11-01 05:07:04 | 究極というものの可能性
◎自分で自分を何重にも欺いている

現実にある様々の事象を分類し、分析し、理論に再構成し、それについて考えて思索する。これは材料となる情報があればいくらでもきりがなくやり続けることができる。

だが、その結果において、未知なるものを思いつくことはない。

『そいつ』は未知なのだ。だから彼らは、その日常が日々未知なるものに満ち満ちており、かつ絶対の孤独であることとともに語っているシーンに出くわすことがある。

未知だから言葉では語り得ない。未知だから思考、思索を繰り返してもそこにたどり着くことはない。既知のものをヒントに提案しても正解にはならない。既知のものを組み合わせても『そいつ』にはならない。

時にこれこそ真実だという話が出てくると、好奇心から飛びついては騙される。

かくの如く知は、水平に働けば限界を露呈する。既知のものをアウフヘーベンしても既知のものにしかならない。

ITは、既知のものでできている。だからヴァーチャル・リアリティは低次霊界になってしまう。

人間の知能・知性はそのように人を広大な迷いの森に誘い込み、出られなくしてしまう。

その堂々めぐりからの脱出口がジュニャーナ・ヨーガ。それは古代ギリシアではソクラテスが用いた素朴な問答形式での「哲学」という名の冥想であり、禅の公案である。

人は、自分で自分を何重にも欺いているので、そのだましの皮を一枚一枚剥いでいくのだ。
コメント

達磨が芦の葉に乗り洛陽に入る

2018-10-31 04:53:42 | 丹田禅(冥想法8)
◎達磨の軽さを見る

論語で孔子が高弟顔回清貧を賞賛する。

『子曰く、
「賢なるかな回や。一箪の食、一瓢の飲、陋巷に在り。
人は其(そ)の憂ひに堪へず。回や其の楽しみを改めず。賢なるかな回や」。』

顔回は、瓢箪で済ませるワン・ドリンク、ワン・フードで下町に住んでいるが、そんな粗末な生活に普通の人は堪えられない。顔回のことを賢だと褒めるが、そういう孔子はどうか。

一日、利休が巡礼が腰につけている瓢箪をもらいうけ花入れを作ったことがあるが、孫の宗旦にも瓢箪花入れがあって、その背面に狂歌が書き付けてある。

瓢箪の達磨になるは道理なり 芦の葉にのるかろき身なれば


これは、瓢箪の軽さを達磨の軽さにかけてあるだけだが、誰が達磨を軽いと観じたのだろうか。

達磨は中国入りし、まず梁の武帝に説法し、さらに洛陽を目ざし揚子江をのぼったが、その時、一葉の蘆の葉に乗って魏に渡った。

その軽さは、エル・グレコの見た昇天のイエスの軽さでもあろう

コメント