アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

私はソーマを飲んだのか?

2019-12-03 05:40:44 | ソーマ・ヨーガ(冥想法5)
◎天上の神々なぞ私の爪の垢にも匹敵せぬ

ソーマ賛歌は、古代インドのヴェーダの中にも類似したものがあり、向精神性薬物であるソーマにより大悟徹底、神人合一、宇宙意識への突入を目指すものであるという立場が明らかにされているが、散佚したのか、最初からバラバラに採録されたのかは解らないが、通して読んでも盛り上がりを欠く。

そこで、ダンテス・ダイジが、それを翻案し、『ソーマ賛歌』を歌い上げた。

『ソーマ賛歌
果てしなく吹きあれる嵐のごとく
それが私の眼を目覚ましめた
私はソーマを飲んだのか?

たくましき軍馬が戦車を引いて天翔るように
それが私を限りなく成長させた
私はソーマを飲んだのか?

母なる牛が子牛を抱くように
激しい歓喜が私を包んだ
私はソーマを飲んだのか?

戦士が戦車のうちに魂をこめるように
私はこの歓喜にすべてを委ねた
私はソーマを飲んだのか?

世界のあらゆる国々なぞ
私の眼のちりほどにも価値はない
私はソーマを飲んだのか?

天上の神々なぞ私の爪の垢にも匹敵せぬ
私はソーマを飲んだのか?

輝かしい光明のうちに
私は天空と大地のかなたを越えた
私はソーマを飲んだのか?

私は地球やあらゆる星星をつまみあげ
ここに あるいはあそこに置いてみては戯れる
私はソーマを飲んだのか?
それともソーマが私を飲んだのだろうか?

ハリ・オーム・ソーマ
ソーマ・アムリタ・ソーマ』
(ダンテス・ダイジ/メディテーション・トラベルガイドから引用)

不思議なことに似たような情景を歌った出口王仁三郎の歌もある。
『日地月あはせて造る串団子星の胡麻かけ喰ふ王仁口

日地月星の団子も食ひあきて今は宇宙の天界を呑む』
(出口王仁三郎著作集 第2巻第2部社会批判の展開/吾人の現代観)

出口王仁三郎は、明らかにソーマ・ヨーギではないが、その境地は卓絶したソーマ・ヨーギ、例えばヤキ・インディアンのドン・ファン・マトゥスと同様のものであることがうかがい知れる。

ドン・ファン・マトゥスは、カルロス・カスタネダにより、1960年代、70年代アメリカのドラッグ・シーンに大きな衝撃を与え、その影響は未だに続いているし、悪影響も大きい。

ソーマ・ヨーガは廃人になったり日常生活ができなくなる危険性をはらむが、クンダリーニを勝手に上げたり、我流で気を回したり、ただ固定した姿勢で静坐し続けたりしても、妄想にとり殺される様なことがある。またセックス・ヨーガであるカーマ・ヨーガにも依存性とカルマをぐちゃぐちゃなものにされる危険性をはらむ。

どんなまともな行法であっても、人生のすべてを賭けねば大きなリターンはないという原則は共通しており、賭けたからといって必ずしも成功するとは限らないものである。

だが道教の魏伯陽の故事を見てもすべてを賭けられるものだけが、道に至る。

それでもソーマ・ヨーガは、古代インドでもゾロアスターのペルシャでもハオマと尊称され、重要な悟りに至るメソッドとして命脈を保ち続けている。

ダンテス・ダイジの別の詩にはソーマを水先案内人と見ているものもあり、もう少しで大悟しそうな人や、一度大悟した人がもう一度それをゲットしたり、維持したりするためにソーマを用いる場合もあることが唆めかされている。

酒をソーマとして使う人もいる。
北欧神話では、ミーミルの泉の水である。
インドラ神は、卑しい漁師の姿になって、不死の聖水アムリタを多量の尿として、ウッタンカ仙人に与えようとした。この尿もソーマである。
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美術館巡り、博物館巡り、寺社巡り

2019-12-02 05:38:07 | 究極というものの可能性
◎代替品を捨てる

真善美を見るため、宗教画、仏像、イコン、曼荼羅、伽藍を見に美術館や博物館や寺社巡りをする人はいる。

だが、そこに神仏の属性である真善美はない。それは、本来何か神聖なものであって、触れたり、見たり、描いたりできないものなのではないか。

冥想修業の窮極に身心脱落、神人合一、即身成仏などと称する状態が存在する。それは、第七身体ニルヴァーナに到達した状態で、そこに居ることをニルビカルパ・サマディーなどと呼び、坐っている個が存在しないような姿である。 

これぞ神聖な状態であるが、これを長く続けるのは、なかなか大変な技である。ラーマクリシュナは、しばしば太母カーリー女神と合体したが、トランス状態、三昧にあって、その間何もできない状態が続き、醒めては、虚弱体質で、日常家事などもなかなかできないほどであったらしい。

ニルビカルパ・サマディーは神聖な状態の現出だが、他人がラーマクリシュナを見るというのは、その神聖な状態を見るというよりも、恍惚にあって坐っている人を見ているだけということになろう。

ほとんどの人は自分の願いを叶えてくれる神仏を求めているが、神聖さそのものの実現を求めている人はそう多くないものだ。他人との会話の中で、「神人合一を目めざして修行しています」などと言えば引かれるのがオチだ。

本当の神聖さは、見物できたり、触れたり、願望を実現したいという功利性にはない。自分の内側に、本当の神聖さを発現させるしかないものだ。

その神仏は願いを叶えないと言った瞬間に大衆は集まって来なくなる。釈迦の開いた仏教は、日本に残っているが、インド、中国では滅亡済みとなり、イエスは、あまりにも本当のことを言い続けたために在世中に刑死するようなことになった。

いまや人類はその知性の発達により、エゴ・トリップの限界を見切り、自分の内側を覗き込む時節が到来した。いつまでも本物の代わりのおもちゃで遊んでいる場合ではない。
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人類は死にかけていると見る

2019-12-01 06:41:09 | マインド・コントロール
◎死の不安と意識の裂け目をふさぐ努力

死にかけている人は、例の死の受容のステップにあるように、初期段階では、死と葛藤する。その葛藤の中で、残された時間が少ない中で、何かをものすごくしたいという衝動に駆られることがある。

不安とは、凍りついた恐怖のこと。その恐怖を内部で押し殺すことで不安の内的圧力は増大し、動作はせかせか、緊張は高まり何か刺激があると極めて敏感に即時に反応しがちで、呼吸も心拍も上がる。

人類を何十回も全滅できる核兵器が世界じゅうにはりめぐらされ、それを知っていたり、管理したりする人たちの恐怖が、集合的無意識経由で大衆に感知されて漠然とした不安となる。人類は、予期せぬ誰かの核の一撃をきっかけにプログラムで定められたように核で全面反撃し、ある日突然自殺できるのだと内心知っている。

人類を洗脳する手法は、共産主義国において無辜の自国民を何十年も洗脳し続けたノウハウの蓄積に加え、資本主義国でもマスコミ、商業宣伝、薬物の発達でサブリミナルな洗脳が日常的に大規模に行われ続けている。

大衆の耳も目も開けさせたままで、24時間膨大な商業、政治、社会、宗教プロパガンダを流し続けることで、立ち止まって考える心理的余裕を与えないことにより、宣伝で期待される行動を取るようにしむけていく。

要するに意識の隙間を感知できないように人を無感覚にし続けることなのだが、この手法には大きな弊害がある。プロパガンダのないわずかな時間帯に不安のエネルギーは、ストレスとなって亢進するのだが、その症状が急速で激化しやすいということ。キレやすくなるのだ。

いまや人は携帯、スマホを持ち、ますます目と耳を洗脳用AVに晒す時間を稠密にさせている。かくして隙間がわずかとなり、行き場を失った大衆の膨大な心的エネルギーは、スーパー台風などの異常気象を現出したり、映画ジョーカーのように、低所得であって失うものが何もなくて、何が正しいかどうかわからなくなって、殺人したり暴動したりすることに共感するようになり得る。

金もなく、心をほとんどハイジャックされれば、人は暴発するしかないだろう。

どつき漫才は、いまやパワハラ芸と名を変えたが、TVのお笑いの半数はパワハラ芸。芸人は笑いを取る商売だが、人に素行を嗤われるのもマスコミの商売ネタとなった感がある。このように他人を慈しまない心理は、「苦しむのもまんざらではない」という自虐的心理の延長ではあるが、それは倒錯的ではあると思う。

真の愛なき時代は、民主主義という名の下に大衆の心的成熟を醸成してきた。組織宗教の終わりの時代、この民主主義主力の時代はいつまでもつのだろうか。

日々冥想を。
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宗教と科学の齟齬、本当の切り口

2019-11-30 06:08:34 | キリスト者の秘蹟
◎肉体物質世界だけ見ている科学法則

ローマ教皇来日で、カトリック教会の言説に科学的でないものがあり、それを非科学的と批判する人もいる。曰く、聖母マリアは処女で子供を産んだ。曰く、イエスは死後三日目に洞窟の石扉を開けてどこかへ行ってしまった。曰く、キリスト教は、奇跡を聖者、聖人の認定証拠とする。

科学は、その世界においての科学法則であり、存在する世界が異なれば、ある世界では通じる法則が他の世界では通じない。言語で表現できる世界もあれば、言語で表現できない世界もある。

さて世界には、大別して七つの世界、七つの次元がある。七つの世界とは、肉体・ 物質の世界、エーテル体の世界、アストラル体の世界、メンタル体の世界、コーザル体の世界、アートマン、ニルヴァーナ。

現今の科学、科学法則は、七つの世界のうち肉体・物質の世界に限定した科学法則。その法則をもって七つの世界すべてをカバーする宗教の言説を指して科学法則と矛盾するなどと平気で主張するのは逆にすごいと思う。

七つの世界、七つの次元を平たく見れば、時間のある世界あり、時間のない世界がある。個別ボディが飛べる世界もあり、飛べない世界もある。夢の中では皆飛べる。個人である世界もあれば、世界全体である世界もあり、わたしは、アルファでありオメガであるなどと語る。

この世のように物質である世界もあれば、半物質の世界もある(エーテル体)。

肉体は有限であり、死を予定するボディであるが故に苦悩と絶望を常時随伴する。個人は厳密に言えば期限つきだが、個人と全体のダイナミズム、あるいは個人とニルヴァーナのメカニズムは、現代科学の想像もできないほどビビッドで圧倒的で、それを感知すること自体大いなる神秘なのだろうと思う。

だから軽々に宗教は科学と矛盾した点が多いなどとは言えないと思う。

奇跡と言えば、病気治しやら空中飛行などが代表的だが、誰でも人生の局面局面で神の手が作用した奇跡的なワンシーンがあったことは、一度や二度はあるものではないだろうか。それと他人が気づくことは稀だが。

またカトリックが聖者認定の要素に奇跡を入れているが、神はあまりそのようなことは好まれないのではないかと思う。
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世界を創造したのは誰か

2019-11-29 05:06:36 | 現代冥想の到達点
◎言葉、葦芽(あしかび)、一条の黒ずんだ焔

宗教的な気分が高まったり、哲学的にものを考え始めると、世界を創造したのは誰かなどと考えだす。聖書では始めに言葉ありき、古事記では世界の始めに葦芽があったとし、ユダヤ教のゾーハルでは一条の黒ずんだ焔だなどという。

そこでは、世界は自分と分離していて、世界の変遷を見ている自分がいて、世界の創造と終わりを「目撃」する。

だが、それは本当なのだろうか。

世界には始めもなく終わりもなく、今ここが展開しているだけなのではなかったのか。

誰も世界を創造せず、世界はいつでもあり続けている。世界は時間のない世界で変転しつつ最初からあった。

世界が体験ではなく、自分と世界が融合一致するシチュエイションを自証するところで、世界は最初からあったのだ。道元のいう修証一如とは、この辺だろう。

それが体験であるうちは大したことはない。体験とはいえない体験とはそういうことなのだろう。
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ゲーム依存、ゲーム障害

2019-11-28 05:29:44 | マインド・コントロール
◎一日のわずかな余暇を冥想に

ゲーム依存の全国調査結果が発表されて、マスコミで大きく取り上げられている。

電車に乗れば、老若男女がスマホ・携帯で、ゲームに興じるか、漫画を読んでいる時代。勤労世代、勉学世代の一日の余暇時間は数時間に過ぎないが、その貴重な1時間以上2時間未満をゲームに充てている人が半数を超え、人間の白痴化、子羊化を促進している。

さらに「学業に悪影響がでたり、仕事を失ったりしてもゲームを続けた人」は、この1時間以上2時間未満をゲームに充てている人の中では7.5%、さらに同一カテゴリーで「睡眠障害や憂うつなど心の問題が起きてもゲームを続けた人」は8.2%。これらは廃人予備軍と言えないこともない。

他方好決算のIT企業の主たる収益源がゲームの課金によるものであったりする例は多く、社会全体で取り組むと言っても一朝一夕ではできまい。

だが、こういった状況が地滑り的な世紀末、最後の審判、大峠へのなだれ込みを招く。

禁煙が進んだ今、ゲームはストレス解消の主たる手段になっている部分はある。

現代人の頭(マインド)にとって、何が影響を与えているかと言えば、まずマスコミ、モバゲー。そして金と便利

人は一日のうちに自分に立ち返る時間を持たなければ、ますます情報、観念の膨らんだ頭人間、知の極端に勝って、情と意の弱いロボットみたいに、どんどん洗脳されやすいタイプの人間になってしまう。

このようなゲーム頭人間は、カルトの勧誘、大規模な情報操作、マルチ商法、セミナー商法、特殊詐欺にかかりやすいということがあるのではないか。

そういうのを避けるには、知識や経験も必要だが勘も要るのではないか。自分の内部の大自然を感じ取る勘。

正気で生き続けるには、一日のわずかな余暇をテレビやゲームをやめて、冥想に充てるしかない。

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ウイグル、邪境な生活

2019-11-27 05:40:17 | 時代のおわり
◎以って他山の石となす

世界で一斉に中国が百万人規模のウイグル人専用収容所で人権抑圧を進めていることが報道され始めた。

これは、ウイグル人がイスラム教を捨てさせるようにする共産主義化洗脳である。中国だって、1940年頃は、共産主義的頭脳になっている人はごくわずかであったし、国民党を倒して政権を獲得してからは、国民全体の頭(マインド)を共産主義化することが政策の重要な柱となった。

国内で、マインドが共産主義化しない代表例は、チベット密教のチベット族であり、モンゴル族、そして清朝から紛争のあったイスラム教のウイグル族。

チベットはチベットの文化破壊、寺社破壊、共産主義洗脳は勿論のこと漢族との強制結婚まで行って民族断絶を図っているとまで言われている。

チベットを成功体験として今ウイグルにその毒牙が襲い掛かっているのだろう。24時間強制収容所に押し込めてウィグル語を話させないようにし、中国語を強制学習。24時間監視カメラで行動監視し、反抗させないように拷問、見せしめも行う。

一般にこうした収容所とか刑務所生活では、トイレが数少ない息抜きだが、トイレも気ままに行くことを認めないとする。こういう状態では、脱走するか発狂するかしかないのだが、そういうことをウィグル人に大規模に行っているとのことである。

大本教のご神体を崑崙山に返還した笹目秀和もソ連の刑務所に拘束されたが、立ったままで座れないという環境でも冥想を怠らなかった。睡眠も食事も日光も足らない中で、さる神助の術で切り抜けたのだ。

このような強制収容所環境で冥想初心者が冥想を継続するのは大変困難なことである。ある程度、心得があれば、看守の目を盗んで冥想修業もできるのだろうが、心の自由を奪うのが目的の施設だから、それもままならないだろう。

こういう環境を冥想修業的には邪境と呼ぶ。自ら邪境に入らないように心がけ、心がまともな自然に遊ぶ時間帯を毎日作らないと、初心者の冥想修業は進まないものだ。

多忙なビジネスマン、ビジネスウーマンでも、寝る前と朝起き抜けは、自由になる時間がある。ここで冥想するのが手っ取り早い。24時間監視されている環境では、ここで大音量の共産主義スローガンを流したり、集団学習で引き締めたりと、そこを奪うように動いてくる。

人間の生存環境、どこに住んでどこで生活するかは自分で決めているところがあるものだ。

まだ自由のあるうちに冥想を。

目前には、ITを使用した戦中を上回る国民の思想監視、行動監視の時代が来るのだろうと思う。それが来たらあっという間だろう。それが有事戦時では当然の国民引き締め策となる。

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神仏を科学的に証明する

2019-11-26 05:37:11 | 現代冥想の到達点
◎私はソーマを飲んだのか

あらゆるオカルト現象を弟子に説明してみせたのは、ダンテス・ダイジ
それは、説明を聞く方に準備ができていたということはある。

オカルティズムは、エーテル体レベル、アストラル体レベルなど、霊的事象を相手にするものであって、幽霊、UFO、念力、テレパシーなどあらゆる不思議系現象を対象にするものである。一念三千世界というようにそうした不思議現象を相手にするのはきりがなく、どこかで見切るタイミングが必要になる。

つまりオカルト現象の原理の科学的説明ができたとしても、本質の部分とは何も関係がなく、いわば初心者向け客引き口上のようなもの。

だが、聖者たちの宗教修行は、只管打坐を除き、オカルト的な世界を通過していくものであり、オカルト的世界は微細身のレベルではあるが、だんだん深まっていく姿は見られるものである。

シエナの聖女カタリナの例でも、最初はカタレプシーにおける脱魂とイエスとのコンタクトに始まり、だんだん深まり、イエスとの心臓交換にまで至る。全体としては、オカルト現象そのものだが、スティグマタを残すことで、科学的証明ができるようにし、さらに名状できない神の秘密を見たということで、彼女は、見神した。

一連のオカルト現象は、正統的な発達ルートでは、見神見仏に至る。それは序の口に過ぎず、見神者、見仏者は、最終的に神との合体、仏との合体を目指す。

神人合一、禅の十牛図第八人牛倶忘は合体だが、それは組織宗教においては、しばしば教祖の上を行く体験となるので、物議をかもし、異端とされたり排撃されたりする。それは社会的側面であって、本人にとっては、世界全体が自分であって、自分が世界となるという体験である。

これは見ている自分を喪失するという状態であり、古代インドでは「私はソーマを飲んだのか」という言葉にその実感を見ることができる。これは、自分と世界の逆転であり、タロットでは、吊るされた男である。

この逆転、体験とは言えない体験を自分で証明するのが、今の時代に課せられた人類のテーマである。
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シエナの聖女カタリナの脱魂

2019-11-25 03:12:10 | キリスト者の秘蹟
◎カタレプシーとイエスとの心臓交換

14世紀、シエナの聖女カタリナは、しばしば脱魂し、その腕と手は強く収縮し、目は閉じ耳は聞こえなかった。
彼女は、脱魂時に空中浮揚していたが、衆人の面前で上昇したこともある。

シエナの聖女カタリナは、その頃自分の心臓がないことを自覚していた。ある日祈りの後にイエスが降臨し、光り輝く真っ赤な心臓を持って、彼女の左の脇腹を開き、それを彼女の胸に差し入れた。

イエスは彼女の胸を閉じ、その奇跡の印にスティグマタを残した。

彼女は、この心臓の愛熱が激しく、それにより清浄と謙遜を新たにするので、4歳の子供に戻ったような気がする。また隣人への愛も増大するので誰かのために死ぬことを最大の喜びと思うほどですと述べている。

彼女はまた自分の元の心臓がイエスの心臓に合体したとも語っている。


彼女はまた「私は神の秘密を見ました」とも語り、もっと詳しく説明して欲しいと言われ、「言葉で言い表すことのできないものを見た」と語った。

これは、身心脱落でもなく、クンダリーニ・ヨーガのモクシャでもなく、光を回す大周天でもなく、ラーマクリシュナのような神人合一でもない。そういうのもあるのだろう。
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肉体と心は物質の二つの側面だ

2019-11-24 06:22:49 | 道教
◎極端に奔らず中庸に居れば

『肉体と心は物質の二つの側面だ。』(黄金の華の秘密・和尚P424から引用)と言ったのは、OSHOバグワン。

物質に実体がないことは当たり前だが、心理現象ですら実体がないという立場において、このことを言っている。

これは、釈迦が四禅という冥想状態から涅槃に入ったのだが、原始仏教の遊行経に四禅の説明があり、それが心理現象ですら実体がないという説明となっている。

四禅とは、念を守ることが浄らかであり、純粋そのものという説明である。OSHOバグワンは、この前段で人間は中庸に居て極端を避けねばならないなどと説明しているのだが、その中庸の意味は四禅に居るということではないかと思う。

OSHOバグワンは、太乙金華宗旨のこのパートで、肉体、マインド(頭)、魂と人間を三層構造であるとし、肉体とマインドが極端に奔らず中庸に居れば、時間も止まりマインド(頭)も止まる。その時に太陽はまばゆい光を放つ、と。

極端に奔らず中庸に居れば、と言ってもその中庸は、未発の中のことであり、右と左の真ん中の中という意味ではない。

誠に道教内丹の文書を解釈するのはひどく複雑なもので、簡単なことではない。ここでは中庸が二つの意味で使われているのだが、そんなことは神秘学系の文章では普通。
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フランシスコ教皇の来日

2019-11-23 06:56:56 | キリスト者の秘蹟
◎延び延びになっている時代の終わり

ローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇が、2019年11月23日、38年ぶりに来日。これは、微妙な時期であって、10月は日本全国で水害が荒れ狂い、昨夜、韓国がGSOMIA(日韓の軍事情報包括保護協定)を急転直下継続することが決まったばかりのタイミング。東アジア大乱の前にやって来た。

天皇は、古神道のトップであり、「神事がまず先」とされ、立場的には、ローマ教皇と似ている。
カトリックも中世にはボルジア家など涜神の教皇もいたのかもしれないが、原則として見神(禅でいえば十牛図第三図)を体験した人物が教皇だったのだろうと思う。そうでなければ教皇となって大勢の聖職者、信者のトップにはなれないだろう。そして、天皇陛下ですら防弾装甲の特殊リムジンで移動されるのに対し、教皇は、防弾ガラスもない祭りの山車みたいな車で皆が見れるよう移動するのは、自爆テロも狙撃も恐れないという姿勢の表れ。

自らを守らないというのは、覚者の証明である。この個人の私権保護が強烈でプライバシー不可侵のうるさい時代に、「自分を守らない」宗教組織トップはそれだけで一つの驚異である。

さて全ローマ教皇を網羅し予言したという聖マラキー予言は、最後の「オリーブの栄光」が先代のベネディクト16世 (2005–2013)に照応し、今のフランシスコ教皇は、預言が尽きる最後の教皇である。ダライ・ラマも最後のダライ・ラマと宣言。

時代の終わりは、20世紀の覚者たちが見るところ1999年頃だったのが、もう20年近く繰り延べられている。

そうした延び延びな状況の産物がマラキー預言の終わりの教皇となったみたいなところはあるのであって、彼だけが特別ということではない。相変わらず私たちは、神知らぬ人間が大多数であるといういわば罰当たりな社会と人生を生きているのだから。
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アメリカは日本の飯の種

2019-11-22 06:35:46 | 究極というものの可能性
◎マネー、黄金、物欲を払拭し

マスコミの論調は、半分くらい左寄りであって反米的なものがある。日本の国益を考えれば、敗戦、GHQでの占領統治そして日本独立という経緯も踏まえ、反米という立場もあり得るとは思う。

だが、日本は米国の核の傘に守られているのであって、その庇護下で膨大な軍事支出を避けることで経済に注力した国家運営を行い経済的には世界の大国となった。

「日の出の日の字は朝日の日の字
 米国の米の字は米と書く
 やがて日の出の【まま】となる。」
(霊界物語第57巻) 第一〇章 転香から引用。

戦前の日本は、鉄鋼、石油などを米国に依存しており、戦前も米国は、日本の飯櫃(まま)であって、日米戦争開戦の主たる理由の一つは米国が石油の日本向け輸出を止めたこと。

戦後も米国は日本製品の主力輸出先として日本の飯櫃(まま)であり続けてきた。日本は防衛の主軸を米国に依存している以上は、貿易、金融などで米国からの無理難題を呑まねばならない。それは平和憲法と表裏一体の関係。

その上アメリカは、日本の「まま」となって、至福千年、弥勒の世の国家形態である実質武装解除国家を世界に先んじて実現し、戦後維持し続けたのだ。

さて霊界物語57巻の第10章は、物質欲とマネー、黄金、糞尿の言葉が連発し、浄穢不二なクンダリーニ・ヨーガ的世界観が展開する。浄穢不二とは、汚いのと清潔なのという意味でなく、価値あるものと価値のないものが同じであるという人間社会では困った世界観。それが実は魔術、超能力、神通力の世界のルールであるということ。それをまともに論じれるのは人間を卒業したか、ほとんど卒業しかけている人だけであって、俗人の関与できるところではない。

出口王仁三郎は、死後に中有(バルド)で、物質・マネー優先思想を払拭できなければ、地獄に行くし、あるいは中有で時間をかけて払拭し天国に行く人もいれば、最初から払拭できていれば即天国に上がるとも説明している。

払拭のイメージは、理智を捨て、意識レベルを意志と想念に落として払拭。
『暫らく理智を捨て、意志を専らとして研究すれば神の愛、仏の善、及び信と真との光明がさして来るのだ。
(中略)
現世に於て心にもない事を云つたり、阿諛を使つたり、体を窶(やつ)したり、
種々とやつて来た其外念をスツカリ取り外し、第二の内部状態に入り、内的生涯の関門を越えるのだ。』
(霊界物語57巻第12章から引用)
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シュトーレン、パネトーニ

2019-11-21 05:41:47 | 時代のおわり
◎自分も貧しくなった日本人

収穫の時期が終わり、クリスマス前の今の時期には、シュトーレンや、パネトーニなどのクルミやドライフルーツ入りの菓子パンが、店頭に並ぶ。キリスト教国では、庶民には決して安くはない値段だが、店頭に天井まで積み上げて置いてあったりする。

シュトーレンは、長くコッペパン型だが、パネトーニ(パネトーネ)はお鍋型と形は違うが菓子パンに変わりはない。

18世紀以前の篤信の時代は、主の降臨を願う人たちが、実際にイエスの降臨は叶わずとも、飢えと困窮に苦しむ人々もシュトーレン、パネトーニを口にすることでひと時のこの世の憂さを晴らしたに違いない。

寒い季節は暖かいもの甘いものが身に沁みる。

ここ5年くらいでケーキの大きさは同じ値段で三分の二くらいの大きさになった。日本人の困窮の度合いも深まり、国民の半数近くで非正規雇用を主因とする「子供の貧困」という名で貧困の深化が進んでいる。

夏は、薄着なので、服装で貧困を見分けることはできないが、冬はサンダル履きだったり、安くなったダウンすらも着ていないことで貧者であることがわかって愕然とする。

生活が苦しいのは年金老人だけでなく、勤労世代も相当に苦しい。こうした時代が続くと、出口を求めて青年が動き出すものだが、青少年含めて団塊の世代より下は、あまりにも外的に対して無防備、脳天気に過ぎる。気がつけば、中国の乱獲などで、サンマもイカもスーパーに並ばないようになり、うなぎなどは、その価格はフグ料理に接近しつつある。

日本は貧しく、周辺諸外国に貪られているという方向へ現実認識への切り替えが必要なのだろう。
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蓮如六歳にして生母と生別

2019-11-20 05:39:38 | 冥想アヴァンギャルド
◎つくづくと思いくらして

蓮如の父存如は、親鸞の嫡流の七代目であった。存如の時代は、本願寺といっても天台宗青蓮院の末寺に過ぎず、豊かな財産、盛名があったわけではない。

一説に存如は身の回りの世話をしていたメイドの女性蓮の前と関係ができ、そこで生まれたのが蓮如。

蓮如が六歳になったある日、蓮如の生母蓮の前は、絵師を呼び、蓮如の姿を描かせた。これが鹿子(かのこ)御影と呼ばれる蓮如の尊像。

まもなく蓮の前は、行き方知れずとなって、蓮如は生母と生別した。存如は後妻に五月の前を迎え一子を儲けたが、蓮如がいては本願寺八世を我が子が継げないと思ったのか、後妻から蓮如は盛んにいじめを受けた。

第三者の目からはいじめの方を注目しがちだが、生母との生別の喪失感、無常感は、その後の一生に影響を与える。

つくづくと思いくらして 入りあいの鐘のひびきに 弥陀ぞ恋しき
  (蓮如)

この弥陀は、蓮如の目には生母と見えていたのかもしれない。
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生まれ変わり死に変わり

2019-11-19 05:45:17 | 道教
◎進士陳堯咨が前世のヒントをもらう

唐末から宋にかけて陳搏(ちんはく)という仙人がいた。
その弟子に陳堯咨という者がいて、進士の試験に合格して、陳搏に挨拶にきたところ、その座に一人の道人がいて、彼を見て「南庵、南庵」と呼んだ。道人が去ってから、陳堯咨は、師に南庵というのはどういう意味かと問うと、陳搏はいずれ自分でわかるとし、答えなかった。その道人は鍾離権であった。

後に陳堯咨が閔中に行き、ふとある村を通りかかると、そこの婦人が一人の子供に「南庵に行って父を迎えに行ってきなさい」と言いつけているところに出くわした。その婦人に南庵とは何かと問うと、一つの廃れた伽藍に案内され墓を見ると南庵主人という人物の逝去日が書いてあった。その日は、陳堯咨の出生月であり、自分は南庵の生まれ変わりであると悟ったという。

それにしても鍾離権はほのめかししか言ってくれないのは、前世を知るということの軽重は、自分自身で能動的に知るべきことなのだろうと思う。

易占というものがあるが、現状の自分の周辺の事物はすべてほのめかしであり、将来のサインであり得る。筮竹を用いなくても。

あるものをきっかけに自分をのぞき込むとはそういうことなのだろうと思う。他人に言われるのでなく、自分で覗き込むのだ。
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