アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

エジプト神話のトート

2018-05-27 05:37:59 | エクスタシス 夢の夢なる
◎地獄行きの人には輪廻転生がない

エジプト神話で伝えられるトートの伝承は以下のようなものである。

『オシリスについで崇められる神にトート(Thot)がある。トートは知恵の神で、下界の法廷では、オシリスの傍らに立って、人間の心の目方を計る秤を眺めながら、手に神と筆をもって控えている。

この理由からトートは神の書記と呼ばれている。この神の像は鶴の首をもった人間の姿に書かれている。

そしてその頭の周囲に新月の形をした後光がついているので、時を定める神とされていたことを示すものである。』
(エジプトの神話伝説/名著普及会から引用)

またトートは王の助言者であり、鶴の姿で世界中を矢のように飛び回る。

この記述では、トート閻魔大王であり、時を定める神であるから世界のトータル・コントロールを行っている神でもある。

エジプトのセトナ王子の見たところでは、死者がアメンチーというあの世の法廷に引き出されて、その法廷には大勢の神々が列席しているのだが、その死者の善悪を大きな秤で図って、その結果をアヌビスが報告する都度、トートがそれを紙に記録する。
(功過格おそるべし)

善の方が悪より多かった人は、その魂は天国に登り、悪の方が善より多かった人はアメンチーの王に仕える怪獣アメイト(amait)の前に投げられて、見る間に肉体も魂も一口に食われて、もう再び生き返ることはできない、とされる。

また善悪が同じくらいだった人は、護符を与えられてセケルオシリスに仕える人々の中に加えられる。

これによると、地獄行きの人は輪廻転生がない。

◎エクスタシス 夢の夢なる-36
◎現代文明あるいは現代人のウィークポイント-25
◎マンツーマン輪廻への疑義-4

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全生涯のパノラマ的回顧と輪廻

2018-05-26 03:52:09 | エクスタシス 夢の夢なる
◎死後の審判以後の謎

少なくとも中有まではマンツーマン輪廻でないと理解しがたい仔細もある。それが、全生涯のパノラマ的回顧である。

チベット死者の書は、死に行く人向けの書であるせいか、いかにもマンツーマン輪廻っぽく書いてある。

以下のチベット密教の高僧ソギャル・リンポチェの説明では、全生涯のパノラマ的回顧は、死後の中有における審判の場でも起きるし、生前にも臨死体験や、スカイダイビングなどの危機に際しても起きる。

ただし微妙な表現かも知れないが、連続した複数生涯のパノラマ的回顧のことは聞かないので、全生涯のパノラマ的回顧は、その乗り物たる単独ボディの記憶であって、マンツーマン輪廻転生の証拠ではないように思われる。

死後の審判では、生前の善業、悪業の結果により行く先が振り分けられるが、その先がどのようになってこの世に再誕されるのかは詳細な説明が、なぜか行われてはいない。それこそが、マンツーマン輪廻かどうかというキーポイントであるのだが。

乗り物たるボディというが、今般の肉体がそのまま輪廻の主体となるわけではないので、個性のあるコーザル体、メンタル体、アストラル体のいずれかがマンツーマン輪廻転生の主体と考えられる。(アートマンは全体であり、ニルヴァーナは無なので個性はない。)

それらの微細ボディでの輪廻というのはとても理解しやすいが、真相は微細ボディにおいては、一対一輪廻であるとは限らず、一が多になったり、多が一になったりするし、人の来世は必ずしも人間であるわけでもないのだろう。

その辺のヒントは、OSHOの説などの他に古代ギリシアの変身物語系に落とされている可能性があるように思われる。

『審判

バルドの記述のあるものは、「審判の場」を描写している。世界の数多くの文化のなかに見受けられる死後の裁きにも似た「全生涯のパノラマ的回顧」の一種である。

あなたの良心の象徴である白い善神があなたの弁護人となり、生前にあなたがなした善行の数々を数えあげる。逆にあなたのやましい心の象徴である黒い鬼が、あなたの罪の告発者となる。善行、悪行は白と黒の小石で数える。

審判を司る閻魔王は、カルマを映しだす鏡に諮って審判を下す(第二十章参照。またチベットの民族歌劇ラモにもこうした場面が見られる)。

この審判の場は、臨死体験の「全生涯のパノラマ的回顧」と興味深い相似があるように思える。究極的には、審判はすべからく自分の心のなかで行なわれるものなのだ。裁かれるのが自分なら、裁くのも自分自身である。

レイモンド・ムーディは『続・かいまみた死後の世界』(評論社)において以下のように述べている。「興味深いことに、わたしが調査したケースでは、審判はいずれにせよ人々を愛し、受けいれてくれる神によってなされるのではなく、個々人の内部で行なわれるということだ」

臨死体験をしたある女性はケネス・リングにこう告げている。「あなたの人生を見せつけられるのです。――――そして裁くのはあなた自身なのです・・・・・・あなたがあなた自身を裁くのです。これまであなたは自分が犯したすべての罪を許してきました。でも、すべきことをしなかったという罪、生前に行なったに違いないごく些細な不正行為をすべて許すことができますか?あなたは自分の罪を許せますか?これが審判です」(『霊界探訪』三笠書房)

この審判の場は、最終的には個々の行為の裏にある動機にいたるまで問われること、過去の行為、言葉、考えとそれらが刻みこんだ潜在力や習癖の力から逃れるすべはないことを示している。これはわたしたちが今世だけでなく来世や来々世にまでも逃れ得ない責任を有していることを意味する。』
(チベット生と死の書/ソギャル・リンポチェ/講談社P470-471から引用)

このように審判は今生の評価であって、その後の行く先の振り分けではない。

単純にそれだけを見ると、マンツーマン輪廻転生の材料ではない。
だが、いつからいつまでが、個人である一であって、いつからが多になるのかという座標を検討する重要な材料であると思う。


ここに何が輪廻の主体なのかという疑問と、同一個性による輪廻転生の始点と終点はどこかという二つの疑問が出てくる。

そこでまず何が輪廻の主体かを見ていく。

◎エクスタシス 夢の夢なる-38
◎現代文明あるいは現代人のウィークポイント-27
◎マンツーマン輪廻への疑義-6

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あらゆる生物・無生物の生と死の記憶

2018-05-25 03:44:07 | エクスタシス 夢の夢なる
◎縁起、シンクロニシティ

現代は、万人が悟りを得る時代、アクアリアン・エイジである。その万人が悟りを得るには、万人が既に精神の十分な成熟を終え、覚醒する準備ができていなければならない。

その準備について、マンツーマン輪廻で人数が間に合っているのかという素朴な疑問がある。

仏教で縁起というと、いかにもとっつきにくいが、それは今はやりのシンクロのことである。

どうすれば、悟りに到達できるかという条件を考えると最後に問題になるのは、如来、来るが如しというが、いつ来るのか、来てくれるのかということと、精神的成熟の問題である。

世界の一切は直接にも間接にも何らかのかたちでそれぞれ関わり合って生滅変化しているが、これを心理学者ユングはシンクロニシティと呼び、釈迦は縁起と見た。シンクロニシティでは、世界のわずかなパーツしか見ていないのに対し、縁起では世界全体の事象の連関を見ているという違いがあるだけである。

悟りに至るのも縁起という側面はあるのだろう。どうすれば、その瞬間が到達するのだろうかと言えば、準備ができた時である。何をもって準備ができたときとするのか。それはおそらく人間としてあらゆる実感を体験した時である。

万人が、無生物から生物まで、あらゆる実感を体験するにはどのくらい時間がかかるのだろうか。

例えば釈迦前生譚ジャータカで、釈迦が前世で経験した生物は、隊商、財官、バラモン、農夫、鹿、牛、鼠、猿、うさぎ、象、とかげ、ライオン、おうむ、樹神、海神などであるが、こうしたものすべての生の実感を得るには、マンツーマン輪廻したとして、何万年もかかるのではないか。

釈迦前生譚ジャータカは、基本的にマンツーマン輪廻が基本で流れる。一方、万人が悟る時代とは、文字通り万人があらゆる無生物から生物までの実感を得るということで、マンツーマン輪廻ベースでは、万年の単位では全然足らないかもしれない。億年レベルでもどうか。

現在地球人口は70億であって、2千年前も70億だったら、覚醒の準備ができあがる年数は短いが、2千年前の地球人口が2億人だったら、その所要時間は更に長い。

アクアリアン・エイジ、みずがめ座の時代とは、万人が悟る時代のことであるけれど、そのためには万人があらゆる実感を経ることが条件ということになっていく。

よって、あらゆる実感を経るとは、物理的時間で言えば、人間の時間感覚を超える。天女が一辺40里の岩を百年に一度、天女が舞い降りて羽衣で撫で、 岩がすり切れてなくなってしまうまで を一劫とするが、そういう時間感覚のこと。したがって、この21世紀初頭までに、万人、いや70億人があらゆる実感を経るための生を繰り返し終えると言うのは、事実上不可能なのだと思う。

要するに70億人が覚醒の準備を完了するためには、マンツーマン輪廻転生では、あまりにも時間がかかりすぎるのではないかということ。

70億人が覚醒するというのは、自明の前提ではなく、預言者達の幻想なのかもしれないが、敢えてそこをゴール地点として、逆算するとマンツーマン輪廻転生説の限界が見えるということ。

そうしてみるとあらゆる実感を経るとは、文字通りあらゆる生物無生物の生を生きるということでなく、「あらゆる生物・無生物の生と死の記憶」を味わうというというようなことを言っているのではないかと思う。味わい方には勿論深浅高低があるだろう。

それを促進していくのが冥想なのだと思う。

さて、ほとんどの人間が悟るということを前提にすると以上のようなことになるが、その前提を前提と見れるかどうかは、個々人の感性による。

だが、それを前提としなくとも、人口が2千年かけて2億から70億に増加したということだけでも十分にマンツーマン輪廻転生説の疑義たりえる。マンツーマン輪廻転生の場合、人口の増加に対し、魂の供給が追いつかないからである。

◎エクスタシス 夢の夢なる-37
◎現代文明あるいは現代人のウィークポイント-26
◎マンツーマン輪廻への疑義-5
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ゾロアスター教の最後の審判

2018-05-24 03:01:06 | エクスタシス 夢の夢なる
◎フラシェギルド

最後の審判はキリスト教だけでなく、似たようなのがゾロアスター教にある。

ゾロアスター教では、歴史は3区分であり、第一期創造、第二期混合(善悪が混じり合っている意)、第三期分離(善悪が分離する意)。

第三期の始めに善と悪は分離し、悪は永遠に撲滅される。このイベントがフラシェギルドと呼ばれ、最後の審判に該当し、この時歴史は終結する(北欧神話でも歴史の終わりは似たようなものだ)。

チベット密教では、中有(メーノーグ)の中で個人の審判が為されるが、中有とは善と悪が混じっている状態。善と悪が混じっている状態は、ゾロアスター教では、最後の審判フラシェギルドまで続き、この時天国に行った者も、地獄に落ちた者も一旦大復活を遂げる(大地は死者の骨を引き渡す)。

そこで復活したものも、生きている者も、まとめて善と悪とが立て分けられる。邪悪な者は第二の死を迎えて地上から消滅するであろう。その後人間は不死者となって地上の神の王国を満喫する。
(参考:ゾロアスター教 3500年の歴史/メアリー・ボイス/筑摩書房P37-42)

またこの最後の審判説は、不死のスタートなのでマンツーマン輪廻を否定している話でもある。

◎エクスタシス 夢の夢-35
◎現代文明あるいは現代人のウィークポイント-24
◎マンツーマン輪廻への疑義-3
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キリスト教の最後の審判

2018-05-23 03:49:26 | エクスタシス 夢の夢なる
◎かつて死んだ者も生きている者も

最後の審判(公審判)というのは、人間が死後中有において、閻魔大王の前で個人的に生涯の善悪の軽重を確定させられて、天国や地獄に行くイベントではなく、この世の生きている人のみならず死んでしまった人すべてが再度呼び出されて、みんなまとめて裁きを受けるもので、キリスト教にある。

『よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう。それは、父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである。

そして子は人の子であるから、子にさばきを行う権威をお与えになった。このことを驚くには及ばない。墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう。』
(ヨハネによる福音書5章25~29節。)

『また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。

かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。

それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。』
(ヨハネの黙示録20章11~15節)

第二の死とは、自我の死であるとすると上の説は理解できる。我々と全然関係なさそうな過去の死者が呼び出されるというのが注目ポイントである。

自我の死と同時である「あらゆる宇宙の死」において、あらゆる宇宙とは当然地獄も含むのだが、過去地獄に行ったものが再び裁きを受けるとは、過去も未来も含む宇宙が終わるということだろうと思う。

輪廻転生のない宗教で大悟覚醒を展望すると、最後の審判というあらゆる宇宙が死ぬイベントを当然に設定するのだと思う。

◎エクスタシス 夢の夢-34
◎現代文明あるいは現代人のウィークポイント-23
◎マンツーマン輪廻への疑義-2
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輪廻転生を否定する宗教

2018-05-22 03:44:54 | エクスタシス 夢の夢なる
◎キリスト教とユダヤ教

キリスト教にもユダヤ教にも転生はなく、人は、死後、天国か地獄か煉獄に進み再生しない。これは、まさにマンツーマン輪廻を否定する宗教である。

あらゆる人種、あらゆる宗教信者が結婚しているこの時代に、それは本当なのだろうか。結婚の組み合わせによっては、片方が輪廻転生し、もう片方が輪廻転生しないなんてことがあるのだろうか。

こうした輪廻転生を否定する宗教があることそのものが、マンツーマン輪廻への大きな疑義となる。

煉獄は、天国には行けなかったが地獄にも墜ちなかった人の行く中間的なところ。

輪廻転生のない世界観は、世の終わり、最後の審判とワンセットになる。

この輪廻転生がないことと最後の審判がワンセットであるというのは、大悟覚醒の際の自我の死において、あらゆる宇宙が死ぬということを世の終わり、最後の審判と表現したと見れる。

つまり、実際に起きることは同じだが、表現の仕方が、「世の終わり」か「あらゆる宇宙の死」と異なるだけとも考えられないこともない。

◎エクスタシス 夢の夢-33
◎現代文明あるいは現代人のウィークポイント-22
◎マンツーマン輪廻への疑義-1
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転生活仏制度の今昔

2018-05-21 03:14:38 | エクスタシス 夢の夢なる
◎マンツーマン輪廻転生や密教の窮極など

チベット仏教には、今の日本仏教みたいに、在家で妻帯して修行を継続するカギュー派というのがあって、もともと教義の体系化よりは、密教修行の方に重きを置いた宗派だった。妻帯する在家仏教では、戒律を守れないので、政教一致の体制の中で、氏族の中から選抜した男性だけの修行グループを構成し、密教修行に専念させることにした。

この舞台となった寺院のトップは修行者から選抜されたが、後継トップは、現リーダーの甥(リーダーは妻帯していないいので、子はいないので)とされる体制で発足した(叔父、甥相続)。ところがこうした氏族教団は、甥に政教の実権が集中するので甥のできが悪いと教団全体が衰退、滅亡することになる。

これでは都合が悪いので案出されたのが、転生活仏制度。カギュー派の支派の一つであるカルマ派は、最初にこの制度を導入した。

カルマ派のトップがカルマパであり、先年ヒマラヤを越えてチベット脱出を敢行した。

転生活仏制度の理論的裏付けは、涅槃に入ると人は終わりなので、涅槃に入る直前で衆生済度に当たるために、涅槃に入らず、何度でも転生して衆生済度を行うということ。

この考え方の前提の一つは、密教冥想は、涅槃(ニルヴァーナ)に入れば終わりでその後は転生しないというのが大前提になっている。これはインド風の発想であって、悟った後は転生はないという考え方。禅の十牛図の第九図、十図はないということ。

こうした議論があるせいかどうか、仏教他宗派では、転生活仏制度は採用されていない。

またチベット密教ものを読むとけっこういい加減な転生活仏もあるようだ。

人は、教育と環境を整えれば、神を見る、涅槃を見るというところまでは、おおむね行くだろうという発想がある。そうした環境作りというのも活仏制度の発想の由来かもしれない。

ただ組織護持のために、まるでマンツーマン輪廻があるかのようにそれを利用するのは、どういうものか。

◎エクスタシス 夢の夢-32
◎現代文明あるいは現代人のウィークポイント-21
◎マンツーマン輪廻説-8
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転生活仏の選び方

2018-05-20 03:06:58 | エクスタシス 夢の夢なる
◎公平と公開

一人の人が一人の人として輪廻するマンツーマン輪廻。これを社会制度として位置づけようとしたのがチベット密教における転生活仏。これはマンツーマン輪廻を自明とする典型であるから、見てみる。

1792年、ダライ・ラマ8世は、政敵の赤帽ラマの意向を受けたネパール軍がシガツェのタシルンポ寺を寇掠したため、清軍に反攻を要請。清軍は、ネパールのカトマンズに進攻し、ネパール軍を降伏せしめた。

清朝は、この事件を教訓として、この赤帽ラマのような不徳の人物が転生ラマ(活仏)に選ばれたのは、その認定方式が神おろしや情実人事によるものであったためとして、金瓶掣定と呼ばれる転生ラマを決める方式を定めた。

金瓶掣定とは、黄金の瓶の中に複数の候補者の名前を入れて、抽選によって転生ラマを選ぶ方法である。金瓶掣定は、ダライ・ラマ10世から12世までの選定において採用され、清朝末期のダライ・ラマ13世の選定からこの方法はとりやめとなった。

中華人民共和国になってからは、中国は活仏の認定権を清朝から継承していると主張し、中国共産党がその認定に口出ししてくるようになっている。

ダライ・ラマ13世がチベットの独立を宣言して以降は、転生ラマの選任は、ダライ・ラマの専担事項となった。

道元が授記に異常な関心をもっていたのも、こうしたチベットの活仏の選定の正当性が問題となるのも、いずれも宗教組織内外の政治の上での必要性であって、活仏個人、教祖個人の聖性とは何の関係もないことのように思う。

その覚醒の正統性については、古来証明書や奇跡でもって証明することはできなかったのであり、第三者に証明できるようなものであれば、それはたちまち化けの皮がはがれるようなしろものであるように思う。

宗教を基本とした政治的組織を編成する時に、初めて誰にでもわかる(悟っていない大多数の信者にもわかる)証明方法の必要があったのではないだろうか。

けれども真正の悟りには、外からの証明などどうして必要とされることがあろうか。

転生活仏の認定とは、GPS追跡よろしく、その転生をフォローできる霊眼のある人物がやれば疑義など本来起こるはずはない。だが、そういう人物がいないから金瓶掣定などということになったのだろう。

また活仏の転生をフォローできることの前提条件は、まず亡くなった活仏がまもなく転生するということ。高徳の活仏であればあるほど輪廻を解脱しやすいので、転生しにくいのではないかと思うのだが。

◎エクスタシス 夢の夢なる-32
◎現代文明あるいは現代人のウィークポイント-21
◎マンツーマン輪廻説-7
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エジプト死者の書「アニの霊の告白」-2

2018-05-19 03:22:21 | エクスタシス 夢の夢なる
◎人体出現の術

元人間であったアニの霊の告白の続き。

アニの霊は、あの世で迷っているわけではないので、いわゆる高級神霊に分類される。

人間が高級神霊に出会うのは、高級神霊の憑依またはアストラル体などとして人間にコンタクトするのが代表的なものである。

ここで語られる憑依は、霊の側からすれば、人体出現の術と呼ばれるが、人間の側からすれば憑依である。憑依には3種あるが、高級神霊が懸るものについてはあまり高く評価してはならないのが基本。

アニはここでは直前の生のみを思い出して、閻魔大王のもとで、その人生すべてを回顧したのに加え、別途な人生記憶術があり、それが2種類あることまで示している。

こういう点は後世に西洋で記憶術が発達した源流かもしれない。

『人間だった頃の記憶でもっとも鮮やかに思い出せる記憶は石造りの豪華な王宮内の部屋、部屋の様子、それと自分の葬儀の時の模様などの記憶である。私はどうやらエジプト王朝の中で書記職か何かをしていたらしい。

私は今いったようにこっちの世界に来てどのくらいになるのかは自分でもよくわからない。しかし今の私は霊界のことについて多くのことを知るようになった。霊界と人間の世界がけっして別々の世界ではないこともよくわかっている。一見別に見えるこの二つの世界はそれぞれがより大きな一つの世界の一部なのだ。

私はこっちに来て“肉体にあった時の記憶を想起する話”の他にももう一つの記憶想起術みたいなものを学んだ。それは“人体出現の技術”と呼ばれ、霊はこの技術によって人体に出現し、人間と話をすることもできる。

そしてこんな時には人間だった時の記憶が前の記憶想起法以上に鮮やかに甦ることもある。私たち霊はふだんバー(霊)の状態で霊としての生活をしているが、人体出現の時にはバーよりかなり人間に近い力(精霊)の状態に自分を変え、人間と話をする。

私たち霊も時には人体出現の術によって人間と話したくなることがあるものなのだ。なぜ、そうなるのかは私たち自身にもよくはわからない。しかしともかくそんな気持になることがあると多くの霊たちはいっている。

私も今、なぜとはわからぬながらそんな気になっている。人体出現の技術によって人間と接触し、霊界のさまざまな話をしたくなっている。私の話を人間がどこまでわかってくれるかは私自身も知らない。だが、ともかく私は話さずにはいられない気持なのだ。』
(世界最古の原典・エジプト死者の書/ウオリス・バッジ編纂/たま出版P10-11より引用)

この告白で重要なポイントは、霊界と人間の世界がけっして別々の世界ではないという点。宇宙卵であり、アートマンである「有」の世界に生も死もあることをアニは知っている。

アニには直前生のみでなく、釈迦前生譚ジャータカのように、前々生も前々々生も語っていただければ、一人の人間がマンツーマンで様々な転生を繰り返すことがわかったのだが、そうはなっていない。

アニの霊の話はマンツーマン輪廻を語っているかに見えるが、死が生をも含む方に力点があるのかもしれないと思う。

◎エクスタシス 夢の夢なる-30
◎現代文明あるいは現代人のウィークポイント-19
◎マンツーマン輪廻説-6
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エジプト死者の書「アニの霊の告白」-1

2018-05-18 04:58:53 | エクスタシス 夢の夢なる
◎自分が人間だったことがあるということすら本当には思えなくなったり

霊媒が死者を呼び出して死後を語ったり、生者がアストラル体で死後世界巡りをしてその体験を語ったりする例は、スウェデンボルグなどいくらでもあるのだが、ここでは、マンツーマン輪廻と思われる古い例をエジプト死者の書から一本だけ挙げる。

『私はもうどれくらい長い間、こっちの世界(霊の世界)に住んでいるのか自分でもわからない。

人間の世に住んでいたのはつい昨日のことのような気がすることもあるし、もう何万年も前のような気がすることもある。

人間でいた頃の記憶が鮮かに甦る時にはそれはつい昨日のように思われる。しかしいっぽう、その記憶ははるか彼方にかすんで自分の記憶とも感じられなくなることも多い。

そんな時には私は自分が人間だったことがあるということすら本当には思えなくなったりもする。

だが、私がかつては人間であったこと、そして人間として死んだこと、さらに今は霊として生きていることの三つは絶対に間違いのない事実である。

なぜなら私は今でも自分が人間だった頃の記憶を一種の記憶の術(霊としての一種の記憶術、『エジプトの死者の書』で“肉体にあった時の記憶を想起する法”と呼ばれているもの)によってはっきりと思い出すこともできる。

そしてそんな記憶を思い出している今の自分が霊だということもまたまぎれもない事実だからである。』
(世界最古の原典・エジプト死者の書/ウオリス・バッジ編纂/たま出版P9-10より引用)

霊界における元人間が、時間感覚を喪失する例はよく目にするところである。

このアニの霊は、既に三途の川を渡りきって、エジプト版閻魔大王の前に引き出されて生前の罪の軽重を計りおわって、元人間の霊として引き続きやっていられることになった“高級霊”である。誰もがこうなるわけではない。

世の中に宗派も教祖もあまたあれど、死者の書レベルになると宗派を超えてむしろ共通の要素が多い。

曰くお迎えがあること、三途の川を渡ること、閻魔大王の前で生前の行為の審判があること、その結果再誕しないケースや、再誕するケースでは天国から地獄までいろいろとバリエーションがある。

ここでは、そのアニの霊がシャーマンに憑依して語ったのだろう。

◎エクスタシス 夢の夢なる-29
◎現代文明あるいは現代人のウィークポイント-18
◎マンツーマン輪廻説-5
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霊界物語の死後ルート

2018-05-17 03:22:12 | エクスタシス 夢の夢なる
◎死有から中有に、中有から生有へ

出口王仁三郎の霊界物語第一巻第一四章には、死後のルートも以下のように具体的に言及されている。

1.すべて人は死ぬと、死有から中有に、中有から生有といふ順序になるので、現界で息を引取るとともに死有になり、死有から中有になるのは殆ど同時である。

2.それから大抵七七四十九日の間を中有といい、五十日目から生有と言って、親が定まり兄弟が定まるのである。

3.ただし元来そこには山河、草木、人類、家屋のごとき万有はあれども、眼には触れず単に親兄弟がわかるのみで、そのときの、幽体は、あたかも三才の童子のごとく縮小されて、中有になると同時に親子兄弟の情が、霊覚的に湧いてくるのである。

4.そうして中有の四十九日間は幽界で迷つているから、この間に近親者が十分の追善供養をしてやらねばならぬ。又これが親子兄弟の務めである。この中有にある間の追善供養は、生有に多大の関係がある。

5.すなはち大善と大悪には中有なく、大善は死有から直ちに生有となり、大悪はただちに地獄すなわち根底の国に墜ちる。ゆえに真に極善のものは眠るがごとく美しい顔をしたまま国替して、ただちに天国に生まれ変るのである。また大極悪のものは前記のごとき径路をとつて、悶え苦しみつつ死んで、ただちに地獄に墜ちて行くのである。

このように出口王仁三郎の霊界物語では、とりあえず一人の肉身が一人の霊魂として霊界に入るが如き描写がされてはいる。

◎エクスタシス 夢の夢なる-28
◎現代文明あるいは現代人のウィークポイント-17
◎輪廻転生の実態-4
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霊界物語の死後マップ

2018-05-16 03:13:54 | エクスタシス 夢の夢なる
◎天界、地獄界、中有界

明治から昭和にかけて活躍した古神道家出口王仁三郎の著した霊界物語の死後の霊界マップは以下のようなものである(霊界物語第一巻第五章による)。

1.霊界には天界と、地獄界と、中有界との三大境域があって、天界は正しき神々や正しき人々の霊魂の安住する国であり、地獄界は邪神の集まる国であり、罪悪者の堕ちてゆく国である。

2.そして天界は至善、至美、至明、至楽の神境で、天の神界、地の神界に別れていて、天の神界にも地の神界にも、それぞれ三段の区画が定まり、上中下の三段の御魂が、それぞれに鎮まる楽園である。

3.地獄界も根の国、底の国にわかれ、それぞれ三段に区画され、罪の軽重、大小によって、それぞれに堕ちてゆく至悪、至醜、至寒、至苦の刑域である。

この中有、天界、地獄界が死後マップの3区分となる。霊界物語第一巻には、出口王仁三郎自身が芙蓉仙人に先導されながら、この三つの世界を案内してもらったことが詳細に語られている貴重なものである。

◎エクスタシス 夢の夢なる-27
◎現代文明あるいは現代人のウィークポイント-16
◎輪廻転生の実態-3
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死後の世界を語る技法

2018-05-15 06:46:54 | エクスタシス 夢の夢なる
◎神を見るし人も見る

人間の輪廻転生を語るには、まずそれを語る技法について触れなければならない。

それは、大別して3種あり、臨死体験者の生還後の談話、チャネリング、そしてリモート・ヴューイングである。

臨死体験は、神との遭遇を「当たり」と定義すると、「当たり」の臨死体験はさほどあるものではないことが知られている。なにより、彼は疑似死の体験者であり、ひもから離れた真正の死そのものとその後の転生を体験したわけではないのだ。ただし呼吸停止、脈拍停止の体験者ではある。

チャネリング。
これは、神霊を意図的に憑依させるものであって、洋の東西を問わず昔から行われていたものである。北は恐山のイタコ、沖縄のユタ、ノロ、ギリシア・デルフォイの神託などの有名かつ職業的憑依者から、「町の神様」、シベリアや南洋の未開部族のシャーマンまで憑依を生業にする人はいるものである。

ちょっとした宗教教団が発生すると、信者をトランスに誘導するのだが、ややもすると低級なのが憑依して正座膝曲げのままジャンプする「膝ジャンプ」が多発したり、低級霊スピーチをしたりなど、収拾がつかなくなるのは、最近の新興宗教でも見られるところである。

大本教は、帰神修行とし、憑依を大衆的に修行させてみたが、既述のようなことになり大正10年頃には教団として憑依修行を禁止させた。それほどにチャネリングというのは、大神の声を聴く重要な技法であったし、古来あり続けてきたのだが、大衆化できるほどには、大衆の側の透明度が高くはなかったのだろう。

優秀なチャネラーを挙げるとすれば、出口ナオだが、それ以前にもそれ以後にも無名で純粋なチャネラーはいたのだろうと思う。

ただ古神道では、チャネラーには審神者がつきものであるように、ギャラリーあるいはオーディエンスがいないチャネラーの神託は社会的には独り言にすぎないという側面はある。

リモート・ヴューイング。これは、死者の行方をGPS追跡するように見える人間が語るということ。

最高のリモート・ビューイングの実例としては、釈迦が入寂時に四禅からスタートし涅槃に入ったとされるが、それを見た人物こそ最高のリモート・ビューアーである。

それとイエスの磔刑の時に、イエスから遠巻きにしていた観衆からは体力も呼吸も弱った彼のつぶやきが聞こえたはずはないが、「わが神、わが神、なんぞ我を見捨てたまいしか」と聞いて、イエスがその後大悟を果たしたと見た人物も優秀なリモート・ビューアーであると思う。

こうしたリモート・ビューアーなくしてはチベット・死者の書もエジプト死者の書「アニの霊の告白」も書かれえない。

人間は自分の知らない部分は想像で補うものであるが、最高のリモート・ビューアーはそういうことのない人物であり、想像による誤りを犯すことのないリモート・ビューイングなのだろうと思う。

輪廻転生を見る技術は、当然ながら時間軸を遡行したり下ったりすることになる。優秀なリモート・ビューアーは、その見たものの真偽については教団組織の権威によって護持されてきた側面があるのだろうと思うが、そこは率直に見た人物を評価すべきは評価したい。

◎エクスタシス 夢の夢なる-26
◎現代文明あるいは現代人のウィークポイント-15
◎輪廻転生の実態-2
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マンツーマン輪廻転生という幻想

2018-05-14 03:54:02 | エクスタシス 夢の夢なる
◎一対一と一対多

釈迦前生譚ジャータカを読むと、釈迦はライオンだったり鹿だったり、人間でもない人生を含め、一つの魂が限りなく何回も何回も輪廻転生を繰り返すもののように描かれている。

子供向けの地獄絵、地獄探訪漫画は、あたかも来世でも個々の魂は個々の魂として存在することを前提に描いているようだ。

事ほどさように、日本人は漠然と一人の魂というのがあって、それが自分の死後、何千年も何万回も転生するのだと考えているところがある。さらに仏教では、この世は苦だから、転生を繰り返すのは苦の繰り返しだから良いことではないなどということも頭の片隅では聞き知っている。

ところが輪廻転生については、このような漠然とした、一つの魂が一つの魂で転生を繰り返すというのは、実態とは異なる見解である可能性が高いと考えるようになった。

つまりマンツーマン輪廻転生はなく、一つの魂は複数の魂に生まれ変わるのかもしれないなど。またその魂とは何かという問題もある。

◎エクスタシス 夢の夢なる-25
◎現代文明あるいは現代人のウィークポイント-14
◎輪廻転生の実態-1
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死と諸行無常

2018-05-13 03:27:14 | エクスタシス 夢の夢なる
◎はかなく消えるもの

死、滅びとは何か。

基本的人権が保障され、私権も認められているこの法治社会では、あたかも永遠にそうした権利を持ち続けるかのように錯覚している人の多いことよ。

金剛般若経では、あらゆる生きとし生けるもの・現象を星や目の翳(かげ)や灯し火やや露や水泡(うたかた)や夢や電光や雲のようなものだと見なさいとする。

自分の生命も、もちろんそのようなはかなく消えるものだと見なさいと教えている。

これを外から来る新知識として与えたとして、自分の死を従容として受け入れることはそう簡単なことではないだろう。

あらゆる生物も無生物もあらゆる現象も滅んでしまう、死んでしまう仮りそめのものである。

だが自分の死んだ後でも、沖縄の海には相変わらず波が打ち寄せ、太陽は毎日中天に上がる。

沖縄の海も太陽も自分と一緒に死んだはず。
それでは、死んだ自分とは何だろう。

死の受容には、滅びの自覚、喪失の自覚以上のものが含まれている。

◎エクスタシス 夢の夢なる-24
◎現代文明あるいは現代人のウィークポイント-13
◎死の受容-11
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