アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

上にある神、下にある神

2018-10-24 05:25:08 | 冥想アヴァンギャルド
◎西にある神、東にある神

ある宗教では神は上にあるという。その場合、神と人とはもともと別ではないが、神は優れ、人は劣ったものと思い込みがちになるので、自ずとその宗教での冥想手法は祈りの冥想となる。その場合、人と神がもとより一つだと語ると異端として排除されるようなことまで起きることがある。

ある宗教では神は下にあるという。下にある神は立ち昇り、だんだん上がっていくと体験する人がいる。その場合、神と人とはもともと別ではないが、祈りではなく冥想の宗教となる。

またある宗教では、西にどんどん行けば神がいるなどという。あらゆるゴミにもがらくたにも神が宿り、地獄の果てでも神がいるのならば、あるいはすべてのすべてが神であるのだから、西も東も関係はない。

またある宗教では、神は上でもなく下でもなく東でもなく西でもなく内でもなく外でもないという。そして今日只今ここで神を体験せよ、感得せよ、神になれと坐らせる。

この時代は神仏に対するあらゆるアプローチが出そろった。ネットで探しでもすれば、その手法はどこでやっているかはわかる。

だが師匠なくして、到達するのは困難であり、ネットでは本物の師匠は見つかりやしない。

悟りは情報の質とか真正さということではない。
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根の国に落行く霊魂を救はむと

2018-10-23 05:35:03 | 古神道の手振り
◎出口王仁三郎のいろは歌から

明治30年頃のこと。高熊山で、あまりにも悲惨なこの時代の終わりと希望あふれる新時代の始まりを幻視した出口王仁三郎は、同様の幻視から来たる時代への危機感を持っているのが出口ナオだと直感し、彼女とともに布教することに決めた。

出口王仁三郎のいろは歌から。

『○ねの国に落行く霊魂を救はむと、厳の御魂の大御神、瑞の御魂と諸共に、綾の高天に現はれて、竜宮館の渡し場に、救世の船を浮べつつ、

待たせ給へど烏羽玉の、暗に迷ヘる人草は、取り付嶋も荒塩の、塩の八百路の八塩路の、浪に漂よい迷ひつつ、沖の彼方ヘ走せ行くを、

救いの船に棹さして、呼ベど叫ベど不知火の、浪のまにまに隠れつつ、海の藻屑と鳴戸灘、危ふき渦に近寄りて、行衛も波の底の国、流れ行くこそ悲しけれ。』

厳の大御神、瑞の大御神が地獄に落ちていく御魂を救い上げようと、竜宮館にお出ましになった。よって竜宮館は、天の八街(やちまた)であり、中有、バルドのことであることがわかる。

厳瑞の二神は、大々的レスキュー・チームを組成したが、その結果は、どうだったかと言うと、

呼ベど叫ベど不知火の
浪のまにまに隠れつつ、
海の藻屑と鳴戸灘、
危ふき渦に近寄りて、
行衛も波の底の国、
流れ行くこそ
悲しけれ。

どうしてこんなことになってしまったのだろうか。

この予言のあった大正6年からは100年ほど経過。出口王仁三郎は、世界大戦はもう一度起こるとみて、そのためのご神業も行った。

だが21世紀の今、依然、時代も人も多くは、地獄的と言わざるを得ず、危機は去ってはいない。

出口王仁三郎の文語の文は、北村透谷などに比べればよほど読みやすいのだが、国会図書館デジタルアーカイブで無料で読めるけれども読む人は多くはいない。

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タントラの4段階

2018-10-22 05:25:07 | 究極というものの可能性
◎無から記憶・思考へ

OSHOバグワンは、タントラには4段階あるとする。

1.無
2.無心(非発生だが、発生する用意はある)
3.非記憶(世界は到来したが知識はない。出生後数年の記憶のない状態)
4.記憶・思考(アダムが知恵の木の実を食べた以降)

これに対応する姿勢が4つある。
1.カルマ・ムドラー(行為の姿勢)
行為は記憶だが、記憶を落とすことでエゴは消え、行う者がなくなることを究極とする。
※この段階では、思考・記憶がある。

2.ギャーナ・ムドラー(知る姿勢)
物事は起こるが、ただ観照者として観照する。これを「知る」とする。
※記憶は非記憶に溶けている。

3.サマヤ・ムドラー(純然たる時間の姿勢)
行為する欲望が消え、知る欲望が消え、時間が脇で流れ続ける。
万有万物は起こり続けるが、自分はただ座っている。
※マインドが落ちた。

4.マハー・ムドラー(偉大な姿勢)
行為も落ち、知ることも落ち、時間も落ち、自分もなくなる。
(以上参考:「タントラの変容/ OSHOバグワン/市民出版社」P200-215)

この四段階の特徴は、行為と知識を軸にしているところ。

だが理屈と形式と技法を承知していても窮極には到達することはできない。

だからOSHOバグワンは宗教は「こつ」だなどとつぶやく。


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上林竹庵がぼろぼろのお点前を披露

2018-10-21 05:58:37 | 丹田禅(冥想法8)
◎茶の湯の極意

上林竹庵は、宇治茶の元締めの一人であったようで、利休からも良い茶葉を送ってくれなど依頼されていた。

ある日利休一行が上林竹庵の茶のもてなしを受けることになった。

ところが、茶の大宗匠を迎えたプレッシャーで、竹庵の手は震え、茶杓は滑り落ち、茶筅は倒れるなどさんざんなものに終わった。

これを見て招待客達は、目を見かわし笑っていたが、茶会が終わるやいなや、利休は「本日のお点前は天下一である」として賞賛した。

帰り道で、利休の門弟たちは、この賞賛をなじった。利休はそれに答えるに、竹庵は点前を見せるために招待したわけでなく、ただ一服の茶を振る舞いたいと思って招いたわけである。ただ湯が沸いているうちに一服の茶を点てようと、怪我、あやまちを顧みず、一心に茶を点て、おもてなしの心を見せてくれたことに感じいったのだと。


南方録で、茶の湯の極意を問われた利休は、「夏はいかにも涼しいように、冬はいかにも暖かいように、炭は湯が沸くように置き、茶は飲み加減のよいように点てる」と答えた。

質問者は、「そんなことは誰でも承知している」と憤然とすると、利休は、「それならそのようにやって見せてください」と返した。

善いことをする、悪いことをしない、それが仏教の極意であることは皆知っているが、そのとおりできる人は稀である。

諸悪莫作
衆善奉行
自浄其意
是諸仏教


二人の美人弟子が別々の時刻に全く同じお点前で、茶を点てたが、一人はよしとされ、一人はダメ出しされた。
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人間の性根には限りがある

2018-10-20 06:03:29 | 冥想アヴァンギャルド
◎人間の総決算

人間の性根には限りがあるから、あまり読書や学問に力を入れると、その結果実務には疎くなるとして、学者の論に至らぬところをかばったのは、勝海舟(氷川清話)。

人間の性根というか気力には限りがある。人間には、公生活の面と私生活の面があるが、両方がちゃんとできるのが望ましい。21世紀の人にあっては、神仏を知りつつ、公生活と私生活を両立させるのがベスト。

だが、気力は肉体が若い時が極盛であり、老いるに従って落ちる。

公私両立させ、さらに冥想もやり続けるには、かなりの気力・性根の維持が必要となる。

ダンテス・ダイジも、若い時には忙しいことを理由に冥想をしないで老境になってからしようと思っている人もいるが、いざ老人になると、冥想に打ち込もうとする気力は既に失われているというようなニュアンスのことを言っている。

老人は、ある日老人になるのでなく、少年、青年、中年の無数の日々の積み重ねの結果そうなる。

その点でも3分間坐禅の継続もばかにならないものであり、背骨を真っすぐに立てる時間を毎日設けるというのも、効果効果と言わずに行うことが大切だと思う。

人の一日の性根には限りがあり、性根こそ行動エネルギーの源泉なのだが、その限られたエネルギーを老人になるまで日々何に振り向けてきたかが、人間の総決算ということになろう。

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空海の死

2018-10-19 03:28:45 | エクスタシス 夢の夢なる
◎肉体を残す

空海は、亡くなる三年前から、五穀断ちをしている。832年12月12日に「深く世味を厭ひて、常に坐禅を務む」となり、五穀を食べないで、メディシーションだけをやる状態となって、残り2年ほどを過ごすのである。

こうして冥想三昧の2年が経過し、835年の正月に水や飲み物も受け付けなくなった。困惑した弟子たちは、なおも水や飲み物を勧めるが、空海は、「やめなさい、やめなさい、人間の味を使わないで下さい」と峻拒する。

十万枚大護摩供でも、断水七日が限度であるが、空海は3月21日に亡くなるまで、凡そ2か月、これを続けるのである。

熟達したクンダリーニ・ヨーギは、肉体を変成して「霞を食べて」も生きられるものだというが、水分をとらなくなる正月の時期には、既にそういう肉体に変成し終えていたのだろう。

あれだけ超能力を使いこなせる空海のことだから、肉体の変成などはお茶の子だったのだろう。最後の数年を冥想に生きたのは、一流の神秘家として当然の生き方だったのだろう。列仙伝などの仙人を思わせる行状ではある。既に肉体に執着なく、アストラルな生き方が中心になっていたのだろうか。

3月21日に右を下にして亡くなるのだが、空海としては、肉体を残す死に方を選んだということになろう。水分も取らずに生きられるのだから、やろうと思えば屍解もできただろうが、殊更に肉体を残して死んで見せたところに、空海の意図を感じる。
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空海の死亡予告

2018-10-18 00:11:23 | エクスタシス 夢の夢なる
◎スピリチュアリストの作法

超能力を使えるイエスがその予見された磔刑を回避しなかったり、他人の病気治しは結構やる出口王仁三郎が、自分の持病は治さなくて、卒中か何かで死んだり、親鸞の死には奇瑞は起こらず、超能力者や有名宗教家の死は時に物議をかもす。

空海の死もそうしたものの一つ。
宗教に何かあるとか、超能力に何かあるとか期待してはいけない部分がここにある。


空海が亡くなる6日前に書かれた空海御遺告によれば、

1.真言の法は、大日如来、金剛薩タ菩薩、龍猛菩薩(三祖)と伝えられ、唐の不空で6代目、恵果が七代目で、空海は8代目で、いずれも師匠から弟子へ師資相伝されてきた教えである。
2.高野山は、自分の冥想(入定)の地として、朝廷よりもらい受けた。
3.832年11月12日より穀類を摂るのをやめた。私はもともと100歳まで生きて仏法を護持しようとも考えていたが、835年の3月21日の午前4時に逝去することにした。62歳である。

師匠から弟子へ師資相伝は、クンダリーニ・ヨーガでは当然の作法。クンダリーニ・ヨーガでは、一対多のいわゆる大衆仏教的な伝法はあってはならない。秘密にされないと危険だからである。

冥想の場所として高野山を選定したこと、逝去日に春分付近を使っていること、そして穀断ちをして肉体改造(あるいはエーテル体改造)を数年前から行っているのは、まさしくスピリチュアリストの作法である。

高野山では、バスに乗るといきなり観光案内アナウンスが流れて他との違いを感じさせられるものだが、高野山は観光地ではなく、もともと冥想の適地として選ばれたのだから、一本坐って空海の臨在を感じるのが本当は望ましいのだと思う。
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死と現代文明のウィークポイント

2018-10-17 05:15:38 | エクスタシス 夢の夢なる
◎既定路線からのズレ

これまで、死を受容し、マンツーマン輪廻説の妥当性を検証し、輪廻の主体と死のプロセス、死からの復活、そして肉体乗り換えから屍解まで語ってきた。

現代文明のウィークポイントとは、死と向き合わず、死を無視し、死がまるでないかの如く振る舞っていることである。

現代文明とは、いわば人間はほとんど肉体のことであり、金や地位や名誉や恋愛が最優先である通念のもとに組み上げられているもの。

この文明において、神仏という体験とは言えない体験をする人は、極小となり、神仏を肌感覚として知る人は稀になり、特に日本では、深まって神仏を見たり、感得したりしようとする話題すら恥ずかしいことのように思われる、ほぼ無神論者の社会になっている。

こうした社会、こうした世界は、神仏と人とが共に生きる既定路線からすれば大きく針路をはずしたズレたルートに入っている。

これでは、個々人が日々冥想を習慣とすることで、矯正を始めないと、地球滅亡は遠くないということになる。

米中貿易戦争の勃発で、第三次世界大戦は既に開始された。戦争とは物理戦だけでなく、経済戦、情報戦も立派な戦争である。

異常な猛暑の連続や、スーパー台風の来襲、大規模な水害発生、地震の多発も現代社会のウィークポイントに対する反作用と見ることができる。

現代で客観的真理とされていることは、多くの場合、多数決によるもの。自分たちが人間の姿、自分のあり方と考えているものすらほとんどそうだ。

冥想の窮極にある自我の死の先に全体あるいは神仏との合一があり、すべてがひっくり返ると言われる。その時多数決による通念は崩壊し、人が神とともに生きる、人が一個の神として生きると言われる。

今日も空海と同行するお遍路さんは行く。「現代文明あるいは現代人のウィークポイント」のパートの最後に空海の死を上げたい。

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砕霊について

2018-10-16 05:22:20 | エクスタシス 夢の夢なる
◎肉親の親愛と死のプロセス

大本教のご神体を崑崙に返還した道人笹目秀和によれば、水難火難の死者は、砕霊になると言われる。
砕霊とは、精霊がばらばらに粉砕され、蚊、蜂、虻、蝿のような地表の昆虫や、海にあっては砂虫とか蟹のようなものに転生することだそうだ(ストップ ザ 富士山大爆発/笹目秀和P75)。

さる妄念執念を持ち続けて死んだ動物が蟻の集団になって生前狙っていた動物を襲うなど、人間の譬えではないが、類似の話は、霊異譚を探せば出てくるものである。

さて笹目秀和は、砕霊となると死後、生前のような一個の人間としての精霊で存続するのが難しいというようなことを言っている。よってバラバラになった砕霊を再結集して一個の精霊に戻す修法もあるなどと説明している。

キリスト教、ユダヤ教に輪廻転生はないので、そもそもこうした議論は成り立たない。

チベット死者の書の死のプロセスの流れでは、人は必ず原初の光に戻って行くのだから、砕霊となろうがなかろうが、問題などないと考えることもできる。

肉親への親愛という点で砕霊は問題となるのだろうが、このように死のプロセスを見れば、そんなに慌てる話でもないような気がする。

砕霊を忌む人がいる一方で、海洋散骨や空葬もある時代となった。
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FacebookなどSNS 個々人を不幸にする絆

2018-10-15 05:49:41 | マインド・コントロール
◎地獄的意識の強化・増幅

Facebookは、人の関心を憎悪、嫌悪、嫉妬であおり、炎上させやすくするという面がある。

個々人の意見を主張する癖はつけるが、他人の意見は聞かないですます、つまり対話のない風潮を醸成する。

自己実現の前段で自己の信念を具体的なものに固めていくプロセスがあるが、そうした部分に限って肥大させるので、信仰とか、神への関心は出てこない。

よってFacebookなどSNSは、水平飛行ではあっても垂直を目指すものではない。

以前バーチャル・リアリティーは下層霊界であると述べたが、FacebookなどSNSは、「神への意思なき」人と人とを結びつける道具であるが故に、却って人と人との分断を強化する。

大は、政府など大きな権力の仕掛けた邪魔な勢力の排除にSNSは利用され、ロヒンギャ弾圧やチュニジアのジャスミン革命、民衆革命、政権転覆という形で展開し、小は、学校や職場やネット上で少数意見を叩くという名目で「いじめ」の道具として用いられる。

こういう状況は、バベルの塔の下で勝手な言語をしゃべり会話が成立しなくなった人々を思い起こさせる。

こうして、やがてバベルの塔は崩壊した。無謀な天まで届こうという試みは、各人の半ば地獄的な自意識の強化に終わり、誰をも幸福には導かなかったのだ。

反転するべきターニング・ポイントへより近づけるという意義はあるかもしれないが、反転しないままで人類滅亡の危険性を増加させている可能性の方が高いのではないか。

その表れが、最近の超強力台風や連続的な猛暑であると、感じさせられる。
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苦行、タンギーからダヴィンチ・コード

2018-10-14 07:22:38 | 究極というものの可能性
◎ゾイゼの徹底した苦行ぶり

東南アジアでは、タンギー(童乩)とよばれる自分の肉体を針や釘などで刺す苦行者に出くわすことがある。そういうのが祭礼など行われ、わざわざ人込みでやらなければいけないものなのかと奇妙に思う。

そういう映像が、グロ画像としてネットに出回り検閲者の目に止まり削除されることがある。テレビでフィリピンのキリスト教の祭礼で、十字架に生きた男性を載せ、両掌のひらを釘で打ち付け、苦痛に顔をゆがめながら十字架が立てられるシーンをやっていたが、その番組ではネットから削除されるグロ画像の一つとしての扱いだったが、その残酷さは最初はタンギーかと思ったくらいだった。東南アジアにはなぜか苦行の伝統がある。

映画「ダヴィンチ・コード」で、カトリック系の一会派オップス・デイの暗殺僧が苦行を繰り返すシーン(鞭で背中を打ち、釘付き鎖で太ももを締め付け続ける)が出てきて衝撃を受けた人もいたかも知れないが、かのドイツのゾイゼは、あの苦行の10倍以上と言っても差し支えないほどのものだった。

ゾイゼは、イエスの苦しみをわが身の体験とし、自らの罪をあがなうためにあらゆる苦行を24時間やった。

釘30本付きの小さな木の十字架で背中を叩く(8年間)、150本の釘付き腹ベルトを巻く(16年間)。寒中の暖房のある部屋に入らず、暖房に近づきもしない(25年間)。沐浴をしない(25年間)。食事は日に一度だけ。布施ではお金は受け取らない。
このようにゾイゼは身体にくつろぎを与えるあらゆることを避けてきた。

こうしたある日、ゾイゼは、さらに食事の飲み物さえ少量しかとらないようにした。するとある夜、天の婦人から天の飲み物を心行くまでたっぷり与えられ、口の中に小さな柔らかいマナのようなものが残った。


苦行をやるというのは、能動的に痛みを受けるということで、相当な自覚がないと何年も継続できることではない。

生きていること自体が公案である現成公案の現代とは、生きていること自体が苦行に近いというべきか。ただ食うために生きるだけでも全力を傾注せざるを得ない上に、それだけでは魂のかわきは癒されないので、寸暇を惜しんで冥想をしないと正気で生き抜けない時代となって久しく、大物覚者は世を去って久しい。

自分がある限りこの苦行は続く。
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勝海舟の剣と禅

2018-10-13 07:34:50 | 丹田禅(冥想法8)
◎明治維新と剣禅一如

勝海舟といえば、早口の江戸っ子で、人間的な重厚さを感じさせない軽く調子の良い人物としてドラマや映画で描かれがちなのでつい軽く見がちである。だが最近氷川清話を読み返してみて、山岡鉄舟にも劣らぬ傑人であったことを感じさせられた。

山岡鉄舟も男女の仲を超えるというある悟りに到達している。西郷隆盛も見性シーンが伝わっているが、彼にとってはそれよりも二度の流刑地での、特に行動の自由のなかった沖永良部島での狭い独房では、雨風に打たれながらも冥想するしかなく、その間相当に冥想は深まったのだろうと想像する。

一方勝海舟は、常に丸腰でもって刺客に対応し、何度も危ない目にあっているが、一度も斬られていない。逃げで有名な桂小五郎と違うのは一度も逃げなかったこと。坂本龍馬のように、逃げても斬られるときは斬られる。

勝海舟は19、20歳からの若年の4年間剣と禅を真剣に修行した。牛島の弘福寺で禅僧と一緒に警策で打たれながら坐り、最後は雑念もなくなり、警策で打たれてもわずかに目を開いて視る程度まで進んだという。

剣では島田虎之助師の道場に寄宿し、寒中になると、日中の稽古が済むと、王子権現に行って、夜稽古。まず拝殿の礎石で冥想し、立って木剣を振り回し、冥想というサイクルを5~6回夜明けまでやった。そして朝稽古。こうした生活を一日も欠かさなかった。

時には同門の弟子たちが夜稽古につきあうこともあったが、徹夜できずに近所の百姓家をたたき起こして眠らせてもらう者ばかりだったという。

この頃勝海舟は、暑さ寒さも知らず、寒中足袋も履かず年中袷(あわせ)一枚だったという。勝海舟はこれを身体も丈夫根気も丈夫と呼ぶ。

勝海舟の悟境はわからないが、西郷隆盛と肝胆相照らす仲であったところを見ると相当なものであったことが窺い知れる。

明治維新は、出口王仁三郎の見立てでは20人ほどでやったのだが、勝海舟もその一人なのだろうと思う。

全員が坐っていたわけではないだろうが、少なくとも西郷隆盛、勝海舟、山岡鉄舟は相当に坐れていた。当時は剣禅一如は常識だったのだろう。
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出口王仁三郎の尸解論

2018-10-12 03:13:51 | エクスタシス 夢の夢なる
◎自然の法に従う尸解など

出口王仁三郎が尸解を論じている。

『虎、狼、猪、熊、狐、狸など野山に住む獣類、さては鳩、鳶、烏、雀の鳥類に至るまで、死骸と云ふものを此土にのこさぬ。

人に殺された場合は別だが、自然に死んだこれ等の屍と云ふものを誰も見た事があるまい、此等の動物は一定の時が来ると、尸解の法によつて体をもつて霊界に入つて仕舞ふのである。

これ皆神様の御恵によるもので彼等が死して醜骸を此地上に残す時、誰も葬式をして埋めてやるものが無いからの事である。それに彼等には欲と云ふものがないし、執着心も何もないので、実際綺麗なものである。』(出口王仁三郎随筆集水鏡の尸解から引用)

さらにこれを前提に、
『加藤『尸解(しけ)の法についてお伺い致したいのですが』

出口氏『ガット虫が蝉になるのもみな尸解の法である。

ガット虫に羽が生えて変わるだろう。麦の中から虫が発生(わ)いて蝶になる。これもみな尸解の法だ。天狗になったとかいうのは人間のうち尸解の法によってなったのだ。

鳥などは自然に従っているから何でも出来る』

加藤『尸解の法によって霊界に入る以外に霊界に入ればそれらの血液はどうなるのですか』

出口氏『鶏なんかは大抵食うようになっているから、殺された時に霊が抜ける。それが霊身を作って、鶏なら鶏になっている。

人間の体は死ぬと血が黒うなってしまう。霊のある間は霊が流通させているけれども、霊が抜けてしまうと肉体の中に入ってしまう。

滓(かす)が残っているが血が血管の中を廻っているのは霊が動いているからで、人間の血は霊なのだ。

霊が入っているから赤い。霊がなくなってしまったら、水分が体内へ吸収されてわからんようになる。

静脈血は初めから黒いが、本当に良いやつは融和してしまう。水気が屍体と一緒になってしまうのだ。血液は元通りあるのだけれども、屍体の中に一緒になってしまうので分からなくなってしまうのだ。霊というものは形のないものだから、形のないものが血液の中を廻っているから赤いのだ』』
(『出口王仁三郎全集第二巻第四篇P370-371から引用(国会図書館デジタルアーカイブにあり))

以上は、動物も含めて普通に屍解があることを指摘している。血液は霊だとは言っているが、七つの身体論でいえば、血液といえども物質レベルだから、血液についてはOSHOバグワンはほとんど気にしていない。チベット死者の書でも血液については、体液の流出として描かれてはいるが、その程度の言及だったように思う。
出口王仁三郎も霊は形がないとして物質レベルではないことを前提にしている。

覚醒から尸解に至るロジックは、通常の社会通念の外側にある。そして尸解も輪廻転生の一シーンである。

動物は、自然において屍解しようとして屍解するわけでなく、自ずと屍解する。人間はさる境地にあるものだけが、屍解が可能となる。
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尸解仙

2018-10-11 03:11:42 | エクスタシス 夢の夢なる
◎アストラルでの交流・修行
◎微細身だが、悟りをテーマにはしていない

中国の古典、真誥では、修行者が尸解仙と交流のあることが記されている。尸解仙は仙人の中でも下位の者とされているが、四平山の洞窟に集まる五人の得道者中四人が尸解仙である。

つまり尸解仙とは亡くなって肉体を持たない者であるが、そういう人と憑依の形ではなく、平気で交流しているわけである。つまり、アストラル体オンリーの存在と平然と交流して修行の助けを受けているのである。

この雰囲気は、カルロス・カスタネダ風でもある。

ここでいう尸解仙とは、完全に虚空中に雲散霧消しているのではなく、化して剣となる者、化して杖となる者、火災によって焼死した者、水によって溺死した者などがあり、また人が死んで生きている人みたいな者は皆尸解であるとする。

つまりある程度クンダリーニ・ヨーガ技で微細身のコントロールを得た人が、死してその技術を死体の処理に際して露顕させたのが屍解ということになろうか。



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縮身

2018-10-10 03:06:18 | エクスタシス 夢の夢なる
◎宗教のお国ぶり

かのチベット密教で呪殺を繰り返したドルジェタク。彼は午年の4月10日の太陽が昇ったときに、身体が縮み、天界に上ったという。

正木晃氏はボン教屈指の学問寺院であるツァンのユンドゥルリン寺に調査のため滞在していた時に、ボン教ゾクチェンの権威として高名なシェーラブ・テンジン師が真顔で、縮身は、大の大人が赤ん坊くらいの大きさに縮むものであって、実際に起こる、と語るのを聞いたそうだ。

臨終時の屍解と縮身は、チベット密教では、頻出の話題である。屍解は他宗派でも見られる。どちらも死後の肉体の姿のことであり、本筋とはあまり関係のない話ではあるが、見なければ信じない人々が多い場合には、そういうことも起こして見せるということなのだろう。

現代科学は、再現させ、第三者に見せなければ、信じない手法である。誰もが知覚がアストラル体まで感得できるようになれば、そして神知ることができるようになれば、この粗い感性を大前提とした肉体レベル、物質レベルだけを相手にした片手落ちな科学は、その権威を身の丈に合ったものに変えていくだろう。
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