アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

天国よりも素晴らしいこと

2021-09-19 06:13:33 | 究極というものの可能性
◎人が神仏になることとの不連続

宗教体験の極みを、イエスを見た、釈迦を見たということに収斂すれば、却って真相がわからなくなるということがある。

イエスも釈迦も大悟する直前にこの世のすべてを与えるみたいな誘惑を受けたが、それを退けた。つまり天国に進むことでは納得しなかったのだ。

この点は結構重要なポイントで、世界が実体のない夢や幻のようなものであることを実体験する(色即是空)ということは、天国も夢や幻、地獄もかげろうのようなものであるとわかるということ。

その時点で、自己実現だ、願望成就だなどというこの世的な指向は意味を為さなくなるということは想像できる。

だからその次の段階だとされる、宇宙全体と自分の合一、神化、神人合一、入我我入を希望するなどの気持ちは論理的には発生するものではないと思う。

宗教的経験とは、実は天国と地獄の先こそ本当のゴールであって、この辺が義務教育と大学受験準備だけに費やした青少年では、わからないのではないか。

40年以上前の自分もわからなかったし、その解答、解法を聞いていたのだろうが、理解できたという感覚もなかった。

只管打坐、クンダリーニ・ヨーガ、観想法、マントラ禅、鎮魂帰神ソーマ・ヨーガカーマ・ヨーガなど様々な行法があり、そのすべてが天国指向でなく、天国を超えたものを狙っている。

当時高校の授業で、倫理社会というのがあり、僧籍のある先生が、道元の説明をするのに、「眼は横、鼻は縦についていた」と悟って中国から日本に帰国してきたとやった。

私は、当然何のことかわからなかったが、当時愛読していた岩波文庫の荘子内篇に照らしても想像もつかなかった。受験苦にあっては、その地獄から抜け出すので精一杯ではあったのではあるが・・・。

恵子(けいし)が、荘子に対して、無用の用を説くのだが、無用とは、世界全体のことであって、世界全体が夢幻、実体のないものであることを「無用」と説いているのであれば、自分が生きていることは、無用の用と言うしかないと気づいたのは最近のことだった。

小学校三年の頃、近所の浄土系檀家の家で、善光寺縁起か何かの地獄めぐりの漫画を見て非常に恐ろしい思いをした。かの禅中興の白隠も幼少時には似たような地獄に恐怖する体験があった。
キリスト教では最後の審判が明日にでもやって来るような講話をして聴衆を震え上がらせることがある。

そうしたものは、広義の現世利益であって、いつかはそれをも卒業していかなければならない。

現代人の信仰が、現世利益、勧善懲悪など広義の天国指向に留まるかぎり、至福千年は遠いのではないか。ただし人は善に生きねばならない、衆善奉行、諸悪莫作。

世にはびこるネガティブ予言に怖れおののくよりは、まず、人が神仏になるなどというおよそ学校で教えず、マスコミにも出ないことを大真面目に考えてみたほうが善いのではないかと思う。

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自然法爾、ある逆転

2021-09-18 06:16:39 | マントラ禅(冥想法7)
◎世界にあるものみな南無阿弥陀仏のご恩

個人が世界全体になることを、逆転という。浄土系の宗派で、南無阿弥陀仏と唱えれば、自力が他力に転換するなどというが、そんなことが起きるものかと疑問に思ったりする。

そこで親鸞86歳の書簡に自然法爾(じねんほうに)という言葉が出てくる。

『自然というのは、自ずからということで、人間の意思ではない。「然」というのは、そうさせられるということ。

そうさせられるということは、人間の意思ではなく、如来の御誓だから、法爾という。云々』

個人の意思が無くなり、全体である如来の誓いに転換する。世界は、狭い個人の筒から見ていたスモール・ヴィジョンから、すべてのすべてである巨視なるパノラマに変わってしまう。

その逆転の体験は、一般にはすんなり入っていけるものではないから、阿弥陀仏だと言い、そうさせられるといい、わかりやすく身近なもので想像がつく表現で説明をする。

散文的には人間の自我を消滅させるために、念仏を用いたみたいな表現にもなるが、それでは、世界の倒立に際しての感動も、以前とは全くの別世界にいる感覚も伝わらないので、自然法爾という美しい言葉で総括している。

エックハルトばりに「私は阿弥陀仏になった」というような事を言い出す人がいた可能性はあるが、教団からすれば、それは異端的発言だったのだろう。だが妙好人の歌には、そのくびき、すべてが南無阿弥陀仏である世界を超えた人が出ていることを知ることができる。

まことに不思議なことである。

島根県の妙好人 浅原才一
『この世界仏の世界でござります
仏の世界に生をうけさせ
ご恩うれしや南無阿弥陀仏
ありがたいな
ご恩を思えばみなご恩

これ才市なにがご恩か
へえご恩がありますよ
この才市もご恩でできました
着物もご恩でできました

食べ物もご恩でできました
足に履くものもご恩でできました
そのほか世界にあるものみなご恩でできました
茶碗や箸までもご恩でできました

敷き物までもご恩でできました
ことごとくみな南無阿弥陀仏でござります

ご恩うれしや南無阿弥陀仏』
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地上の欲望による堂々巡りのトリックを実感する度合い

2021-09-17 05:44:56 | ザ・ジャンプ・アウト
◎自分自身を想い出し始める-発心

『夢想することもできないだろうが、
君自身は、
すべてと、すべてのすべてとを知り尽くしている。
けれども、
それも又、どうということはない。

人は、完璧に、
地上にいて、地上にいないのがいい。
地上の欲望による堂々巡りのトリックを
実感する度合いに応じて、
君は、
君自身を想い出し始める。』
(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジ/森北出版P97-98から引用)

「すべてと、すべてのすべてとを知り尽くしていることも夢想すらできない」とは、禅僧道元の唱える修行も悟りも同じであるということ。すべては修行、すべてのすべてが悟り。夢想でもできていれば、こんな社会になってはいまい。

「すべてと、すべてのすべてとを知り尽くしていることも、どうってことはない」と語れるのは大悟覚醒を経た者のみであって、未悟者がそれを語っては妄言になる。覚者たちは、このことを平常心是道とか、日々是好日などと、てらいも気取りもなく語る。

地上にいるのは、肉体からコーザル体の個なる自分。地上にいないのは、アートマン第六身体の全なる自分や、ニルヴァーナ第七身体のなにもかもない自分。

自己実現、願望成就、金儲け、恋愛成就、結婚、離婚、健康など、この世にはいろいろな願望があるが、それが、実現しても成就しても次から次へと別の欲望が起こり、虚しいと感じることがある。これが、堂々巡りのトリックに気づくということ。

そこで自分自身を想い出し始めるのだが、だんだんと想い出し始めるというは、一気でないからやさしい。

自分自身を想い出し始めるのは、実は世界平和の道でもあるのだが、それを夢想する人すらまれである。
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彼女に勝利する者には処女を与え、敗北したら死を与える

2021-09-16 06:42:18 | 錬金術
◎マイアーの逃げるアタランタ-序言

逃げるアタランタとは、徒競走で彼女に勝利する者には、処女を与えるが、敗北した者には、死を与える話。彼女がアタランタ。何人もの男性アスリートが彼女にチャレンジしていったが、彼女の猛烈な逃げ足(フーガ:遁走曲。図版にフーガの譜面がつけてある)に何人もの益荒男が死の苦杯をなめた。

英明なチャレンジャー、ヒッポメネスは、重要な三回の山場で適切に黄金の林檎を投げ、これをアタランタに拾わせることでその都度リードを保ち、1位でゴールすることができた。このモチーフは、黄泉平坂で三度桃を投げた素戔嗚尊と同じ。ケルトにも似た伝承がある。

逃げるアタランタ-序言によれば、アタランタの処女とは賢者のメルクリウスであって、これをゲットするとは、彼と彼女の愛の交歓の結果、獅子に変身することで、赤色を得るという。

獅子とは男女両性具有であって、人間の極み。両性具有といえば、古神道では伊都能売だが、出口王仁三郎は、神直日は神様の直霊、大直日は人間の直霊(新月の光上巻313)、伊都能売は、大直日と神直日の間(大本史料集成3巻/池田昭編/三一書房P393)。大直日と神直日の間とは微妙だが、あまり多くの説明がなされていないコーザル体とはそういうものなのではないかと思う。

処女アタランタとの愛の交歓は、古事記では、スサノオ男神とアマテラス女神が天の安の川原で仲直り誓約するシーン。

この手のものは、演繹的でも帰納的でもなく、順序良く並べられているものではなく、単線な意味を持つわけでもないが、それが一般的なのだ。無論コーザル体の先がある。
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宗教がタブーな日本から

2021-09-15 05:38:44 | 冥想アヴァンギャルド
◎善悪の基準が混乱し、むしろ悪に傾く日本

宗教産業は盛んだが、宗教そのものを外で語ることはタブーとされる日本。アメリカのTVドラマを見ると日曜日に教会に行くかなどという会話が何気なく入る。一方日本では、ソウシャルな場面では、政治と宗教の話はしないのがマナー。おまけにブログやSNSでもわかるが、神仏に係わる本当のところをわきまえた人はほとんどいない。宗教産業の従事者や管理者であっても、本当のところをわきまえた人はほとんどいないのが実情。

こんな塩梅で、本当に万人が神仏を知っている千年王国、みろくの世はどこに来るのかと訝しく思う。これは、日本人全体の通念が拝金主義、物質主義、利己主義に傾き過ぎた結果であり、OSHOバグワン、クリシュナムルティはこれを嫌って、一度も来日しなかった。

利己の反対は、滅私の自己犠牲だが、戦中の国民の滅私奉公を反面教師として自己犠牲そのものが忌避される社会となっている(靖国神社、護国神社などへの扱いもその一例)。自己犠牲はキリスト教でも立派な徳目の一つであり、道教の善書の善を勧め悪を忌む功過格でも自己犠牲、自分が外面的に損をするのは善行を行う基本である。この点は、いびつな社会通念となって久しい。仏教でも然り。

何が善で何が悪かの基本は、洋の東西を問わず、古今を問わず、自分をなくする方向が善で、自分を強化拡大する方向が悪。

善悪の基準が混乱し、むしろ悪に傾いていると見られる日本だから、世界に先駆けて立替立直しが為されるなどというネガティブ予言が栄える。

そうは言っても人が宗教に最初に向かう発心は、大方天国的なもの安楽、平和なもの、穏やかなものなど、愛の顕れではあるが、厳しく見れば功利的なものへの希求から始まる。それでも神仏に至ることができるのも不思議なところ。

日本人は、こうしたものを自分に都合よく考え過ぎた。
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人間の自我を消滅させる方法

2021-09-14 05:41:47 | 究極というものの可能性
◎人間自我が消滅した結果

この世を生きていると最初はまあまあで、徐々に老いや病気が忍び寄る。宗教はそうしたままならぬ事への解決であるはずだが、経典を読み進めると、意外や、世間知でガチガチになった頭には理解できない言葉が並んでいるもの。

『人間自我は、全面的な絶望の、
その極限においても消滅する。
だが、
これは努力して到達するような、
シロモノではないし、
努力しないで到達するようなシロモノでもない

人間自我が消滅すれば、
何もかもが消滅する。
そしたら、
君はどうすりゃいいんだ?
どうする必要もなく、
至福は、ただ、生きている。』
(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジ/森北出版P126-127から引用)

ままならぬ事情、環境に囲まれて、ともすれば生きて行くだけでも精一杯な、国民総貧困化の日本。

人間自我が消滅すれば、自分も死に、恋人も死に、家族も死に、社会も死に、地球も死に、宇宙も死ぬ

それが色即是空。色即是空の先を大逆転と言うもおろかな至福と示す。ここには、何らの論理も止揚もない。

ここで、ダンテス・ダイジは、宗教修行、冥想修行の努力と効果を否定してみせ、肯定してみせる。

さてわれらの日常はどこに向いているのだろうか。
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マイアーの逃げるアタランタ-メモ

2021-09-13 05:40:01 | 錬金術
◎師の存在と師の名前を明かさない

マイアーの逃げるアタランタのエンブレムは全部で50枚。これは、25の倍数であるところが正統っぽいところである。

チベット密教と同じく錬金術も観想につぐ観想の冥想修行と思われるのだが、この本の注解者デ・ヨングもこれらの図版が「神秘的観照」の材料であったろうと見ている。特徴的なのが、観想と並行して、物理的錬金作業が事上磨錬という修行として存在していたらしいこと。これは、禅であれば、作務が該当する。

中国に入国してまもない道元が、寺の食材買い付け係を、修行ができなくて残念だと考えていたのを、後にその考えを改めるのだが、洋の東西を問わず実作業も重要な修行の一部である。

それと西洋錬金術では、あまり師の存在と師の名前を明かさない点は特徴である。キリスト教の蔭に隠れた秘教だったのだ。
真理を語る者は敵が多いものだ。

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薔薇十字団が表に出る時

2021-09-12 06:36:22 | ザ・ジャンプ・アウト
◎人類を死のあやまちから救い出そうとする

正統派キリスト教は、太母なしの実質二位一体だが、それでも過去2千年ユーラシアの西側と米大陸の篤信者達の期待を裏切ることはなかった。神に至るべき者は、神に至り得たのだ。

薔薇十字団は、17世紀ドイツでその存在を知られることになった。文豪ゲーテは、十字架に薔薇をかけたのは誰かといぶかった。薔薇は窮極のシンボルだが、十字架の交点にも元々窮極の意味はある。

Wikipediaの「薔薇十字団」によれば、『1623年には、フランスはパリの街中に、「我ら薔薇十字団の筆頭協会の代表は、賢者が帰依する、いと高き者の恩寵により、目に見える姿と目に見えない姿で、当市内に滞在している。われらは、本も記号も用いることなく滞在しようとする国々の言葉を自在に操る方法を教え導き、我々の同胞である人類を死のあやまちから救い出そうとするものである。──薔薇十字団長老会議長」という意味不明な文章が書かれた貼紙が一夜にして貼られる』という事件があった由。

この文は禅問答のようなものだが、人類絶滅を回避する方法を人間の大悟覚醒に求めますという宣言のようなものであるが、パリの街中の多くの建物に貼り出し、かつ文書の作成者を明示しなかったというのは、匿名のSNS書き込みのようなもの。

わかる人にはわかるが、わからない人は質問しに来てもらっても困るという姿勢が見える。

OSHOバグワンの見るところ、薔薇十字団こそはイエス・キリストのエソテリック・グル-プである。

最近錬金術書『逃げるアタランタ/大橋喜之訳/八坂書房』を見たが、中身はクンダリーニ・ヨーガ的であり、すべてを描出してはいけないという暗黙のルールに加え、キリスト教からは異端として弾圧されないように記述するという配慮が見える。

さらには、文字で同様のことを記述すれば、一発アウトで弾圧されるのだが、図版をメインとすることにより、それを避けたふしがある。そこでいまだに秘教カバラや秘密結社フリーメーソンとの関係が議論され続けている。

そういう視点でいえば、中国道教の内丹書などは、道教自体がほとんどの時代において体制側であったこともあり、より自由に著述されている印象を受ける。

内丹も西洋錬金術もクンダリーニ・ヨーガも皆秘儀を明かせる限界は、神が許し給うところまでであって、いわば百万人に一人しかそれをしらない現代であっても、その事情は変わらない。
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わからずやさん達

2021-09-11 07:21:04 | 究極というものの可能性
◎批判も誤解も敵意も恐れないが弁明もせず

一休が、釈迦をいたづら君と称する時、釈迦の虚偽性を批判している。いわゆる宗教、いわゆる国家などというものは、狡猾なる人間が構築したもので、真理の欠片もないからである。

だから真に宗教的な人は、いかなる宗教にも属さない。だからこの仏教国家日本で、釈迦をまがいものだと評した途端に、一休はほとんどすべての日本人を敵に回すことになった。

それが極端に出ると、日蓮の真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊というような過激な表現となる。

何にせよ、いつの時代でも真理を語った瞬間に世界中に敵を生み出すことになる。

例えば、人はカルマを作るが、カルマが人を作るのではない。カルマを作らない者だけが覚醒するのだが、カルマを作らなければ、その人は輪廻転生することなく死んでいく。カルマを作れば、人はそのカルマとともに輪廻転生していく。

このような聖人の見方に、凡人が従えば、凡人も聖人となる。だが、凡人の大半は、聖人の見方を絵空事や非現実や他人事などと考え、自分の平素日常のことと思わない。

聖者は嘘を言わないとは、彼の見ている日常世界が凡人の見ているそれと真逆なのだが、それによって起こる誤解や、異端であるという批判や迫害、科学的ではないという謗(そし)りを甘んじて受けるが、一切弁明はしないということ。

そうした立ち位置から、人類の方が狂っているなどというダンテス・ダイジの評言が出てくる。

古来、釈迦、イエス、聖徳太子、菩提達磨、親鸞、道元、白隠など多数の覚者聖人が、正しい教えを説き続けてきたが、真意を理解しているのは、いわば百万人に一人であって、その他の人は無関心か誤解するかのどちらかであることを承知していた。

よって覚者聖人であっても、釈迦のように五百人もの光明を得た弟子を打ち出すのは困難だったとわかる。せいぜい一人かそこらが通り相場。

それでも、見る目のある人は、こうした沙漠的な状況の先に、覚者と聖人しかいない至福千年を見ているのだ。それは、果たして現代と連続しているのだろうか。
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仏像好みの日本人と経典好みのチベット人

2021-09-10 05:44:44 | 密教
◎仏像と大蔵経

日本では、仏教を一発で感覚的に理解するためには、仏像を思い仏像を拝礼する傾向がある。これに対し、チベット人は、仏像よりは、経典を拝礼する傾向がある。なぜならチベット人は、書物は仏像よりも神聖であると考えているから。

それは、大蔵経の開版の頻度において顕著であって、人口も多く物資も乏しくない日本では、大蔵経の開版は、そう何度も行われているわけでないが、人口も少なく物資も乏しいチベットでは、ほぼ全人口の半分を動員する労力の必要な大蔵経の開版を頻繁に行っている由。

仏教学者中村元は、その理由を大蔵経は、チベットではチベット語で書かれ、チベット人なら読めばわかる文書であるのに対し、日本では漢文なので、日本人は読んでも直にはわからないという理由であるとする。加えてチベット人は、経典に呪力を認めているとする。(以上参照:中村元選集第四巻 チベット人韓国人の思惟方法/春秋社P160-170)

チベット密教は漸悟であって、徐々に悟る。禅は頓悟、一発で覚る。漸悟では、論理性、合理性を積み重ね最後は飛ぶ。禅は、一回で窮極にジャンプするので、論理性をあまり問題にしない。ジャンプ・アウトだけが問題だと考えているからである。

8世紀に唐からチベットに禅僧摩訶衍が招聘され、中国禅の布教に努めたが、結局禅はチベットでは滅んだ。禅はチベットの風土に合わなかったのである。

チベット人は、合理性、論理性、抽象性を好む。荒れた風土では、出来の良い創作物語、演劇が出来上がるものだが、同じく荒れた風土のイギリスとの内的親縁性を感じさせられる。チベットでは、チベット密教を“創作”したのだ。
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テンチェン・レーマの解脱

2021-09-09 05:40:52 | 密教
◎食物がなくても水だけでしのぐ冥想修行

テンチェン・レーマは、チベットのツァンのギュルモ地方の僧院で生まれた。両親も揃い5人いた子供のうちの一人の娘がレーマ。道教の仙人譚と同様に伝承されている話の半分以上は超能力奇譚なのだが、それを取り除いて彼女の求道の足取りを見ると次のようになる。

13歳から読み書きを習った。
14歳で残りの人生を山奥の祈祷所に籠って生活しようとしたが、両親が女の身ゆえこれを心配し、依然として知識を学ぶ生活を続けた。レーマが般若八千頌を読んで、輪廻も涅槃もあらゆる現象も夢のようで実体を欠いていることを理解し、おびただしい数の詩頌を作り始めたところ、師でもあった父は、多くの修行法の他、心を静止させる冥想法を授けた。

彼女は、18歳から冥想中心の修行生活に入り、最初は故郷の街が見下ろせる洞窟に1年いたが、真の静寂が望めないことから、食物がなくても水だけでしのぐという覚悟で、シャンというパドマサンバヴァの聖地に移った。

ここで、レーマの弟子になりたいという女がいたので、すべてを棄て去り水だけで生きて行く覚悟があるかどうか試したら、これを受け容れたので弟子にした。

レーマと弟子はサププに移り、様々な場所を遍歴して冥想修行を続けるうちに、眠っている時も目覚めている時も本尊の顔が拝めるようになった。

レーマが小さな空気穴しかない封印された洞窟の中で冥想している時、月食の晩に、レーマは小さなデンデン太鼓と金剛鈴を持ってその空気穴からするりと抜け出し、手も使わずに近くの家の屋根に、さらには家の裏手の崖に登っていった。そして肉体を縮めることも穴を広げることもなく、するりと洞窟の中に戻り入りこんだ。弟子の多くがそれを実際に目撃したが、他の人々には語らぬようレーマ自身に口止めされた。アストラル・トリップである。

レーマがヤクに乗って高山を旅した時、ヤクが足を滑らせ彼女は断崖から転落し、彼女の上には岩石が降り注いだが、彼女は岩の上で端座していた。身には傷ひとつなく、弟子たちに向こう一年そのことを秘密にするように命じた。

このようにレーマは、18歳から80歳まで出家者として冥想修行を継続した。レーマは病気治しなどの神通力、超能力の発揮で知られるが、それは余技であり、本質は外面的には見えにくい。彼女と同等以上の境涯の者の評価によって彼女の真価を知るというのは、未悟者にとっては已むをえないことだと思う。
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チョモ・メンモ埋蔵経を発掘する

2021-09-08 05:46:44 | 密教
◎あらゆる智恵を得て後も23年修行する

チベットでは、埋蔵経を発掘するとよくいうのだが、それは、古い経典の復刻であって、その古い経典のオリジナルは、発見者の内面から出て来たもの。出口王仁三郎も万葉集も今の古事記ではないオリジナル古事記、原古事記の存在を指摘するが、出口王仁三郎は霊界物語こそ原古事記の復刻だと称する。

チョモ・メンモは、13世紀の女性であって、108人いる埋蔵経発掘者の中の2人しかいない女性発掘者。

チョモ・メンモは実父と継母の下で厳しく育てられていたが、13歳のある日、家畜を追っていた時に、近所のサルモ・ルン洞窟に足を滑らせてそのまま転落した。

彼女が気がつくと洞窟の中には扉があり、入って見ると中には天の火葬場があり、中央には、金剛猪女(ヴァジュラ・ヴァーラーヒー)がいた。

ヴァジュラ・ヴァーラーヒーは彼女の来訪を歓迎し、『ダーキニー秘密集会』という一巻の巻物をチョモ・メンモの頭上に起き、これを授け、「この教えによってあなたは解脱に達することができるでしょう」と宣言した。

これにより、彼女はあらゆる智恵を得た。彼女は14歳から36歳まで定住することなく旅をして回ったが、36歳の8月10日、チョモ・メンモは、中央チベットのタクラリ山の頂上で、随行する二人の女弟子とともに遺体を残すことなく光の身を得た。
(以上参照:智慧の女たち チベット女性覚者の評伝 ヒーリング・ライブラリー/ツルティム・アリオーネ/ 春秋社)

チベット密教では、臨終時の虹の身体とか、屍解に非常にこだわる。それは、一般信者にはわかりやすいということを重視しているのだろう。

釈迦のケースでは、初めて説法する直前の成道と臨終時の大涅槃の境地を比較すると大涅槃の方が深いなどという。誰が、どんな人がその違いを問題にするのだろうか。

生道人にはわからないのだろうが、釈迦のその二つのシーンを目撃できる人間だけが、その違いを認識できるだろうことはわかる。

チョモ・メンモは、13歳で一切智を得たが、完成までは36歳までを要したということなのだろう。
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禅の六祖恵能の死亡予告

2021-09-07 05:18:24 | 丹田禅(冥想法8)
◎個から全へ、心理から現実へ

六祖恵能は、無学文盲で、寺の米搗(つ)き男から出た人物。

先天二年7月8日、六祖恵能が弟子を集めて、
『8月になったらこの世を去る。ついては、質問があるなら、すぐに尋ねるがよい。君たちのために疑いを晴らして、すっかり迷いをなくさせ、安楽にさせてあげよう。私か逝ってしまったなら、誰も君たちを教える人はないであろう。』と語ったところ、神会以外の弟子は全員泣き出した。

六祖恵能は、『君たちが悲しみ泣くのは、私の行く先が分からないからであろう。もし私の行く先が分かれば、悲しみ泣くべきではない。

一切万物の自性には、生減するとか去ったり来たりすることは本来ないのだ。』と説明した。

人は死んだら、粗い四元素がまず崩壊し、最終的に肉体とエーテル体はなくなる。そしてアストラル体で中有(バルド)経由で、地獄へ行ったり天国へ進んだりする。

ところが、死をきっかけに自性に行くには、へそからアストラル体で出たりせず、メンタル体で頭頂から脱身しなければならない云々などという説明はしない。

いきなり、第六身体アートマンには、生減するとか去ったり来たりすることはないとして、個など問題にせず、全体、すべてのすべての説明をする。禅的アプローチとは、いきなり全体を狙うものだからそういうものだ。

自己の本性は、生死の世界に踏み迷うことはないのだ。

このような考え方は世俗の功利優先の発想からすれば、それを証明するものは何もないが、現代科学では証明できないものを、ともすればなかったことにしがちなものだが、その姿勢こそ本来科学的とは言えまい。

個の意識も深浅あって、個と全の境目もある。そこを探っていけば、意識は心理のみでなく、現実そのものであることに気づく。そういうアプローチが現代風科学なのではないか。
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悟った後は、真理が人を追いかける

2021-09-06 06:29:17 | 只管打坐
◎達磨の二入四行論

達磨二入四行論から。
『まだ悟っていない時、人が真理(法)を追いかけるが、悟った後は、真理が人を追いかける。
悟れば、心が現象を支配し、迷いにあれば、現象が心を支配する。』

この言い方だと、悟った後も個人と真理(法)が別物であることを前提にしているように読める。だが、『真理が人を追いかける』とは、達磨大師の生活実感のようなものだから、詳述しなくともわかるだろうぐらいの気持ちが見えている。

『悟れば、心が現象を支配』とは、超能力、神通力のことも言っているが、それ以前に彼らは、天意天命を生きるのであって、恣意を現実化するわけではない。

七つの身体論で言えば、第六身体アートマン以降が悟り。第五身体コーザル体以前が迷い。
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ダンテス・ダイジの人類史観-6

2021-09-05 06:32:51 | クンダリーニ・ヨーガ
◎人類史としてのまとめ

ダンテス・ダイジの断簡の一つ「戯れに冥想を」では、彼は7万年前に地球へやってきたとある。それは21世紀の人類にとって、あまり重要ではなく、肝心なところは、今から1万2千年前のアトランティス滅亡によって、当時の支配的宗教だったアトランティス密教が世界に散っていったこと。

そのアトランティス密教伝道チームは、エジプト、ギリシア、中米、北欧、日本などでそれぞれに神話、古伝承など、つまり旧約聖書、ゾーハル北欧神話、エメラルド・タブレット、あるいはプラトンがアレクサンドリアの神官ソロンから聞いた伝承、古事記などを形成していった。

このことは、1万2千年後の現代において、アトランティス黄金期を上回る至福千年が始まることを予定して、かの時代から布石を打っていたということ。

アトランティス人は、感情・想像・記憶パワー全開の感情人であって、アトランティス時代は3期あって、初期、神を人が生きる黄金期、我欲に混乱する末期があった。現代人は知性人だが、まだ1万2千年前に予定されていた万人が神知る時代となってはいない。

アトランティスという比較的小さな大陸が沈没しただけで、感情人が知性人に切り替わるのか。そこは、アトランティス以外は、文明的にも劣っていたし、都市発展の規模も小規模だったのだろう。アトランティス滅亡後は、アトランティス密教の神髄も、アトランティス物質文明の精華も徐々に失われ、精神も物質も下降の一途をたどった。

ユクテスワの説く地球人類の2万4千年周期説では、前回の頂点の時期は紀元前11500年。(それから13500年後が現代。)これから1万2千年間、人間精神は下降を続けた。現代は最も神から遠ざかった時代からわずか1200年ほどを経過したポジションにある。前回の頂点の時期は、微妙にアトランティスの黄金期を示唆する。

かくして、人間精神が感情人の残滓を払拭し、知性人としてこの21世紀に神が人とともに生きる新たな千年王国建設の方向性が定まったのが、紀元前3120年。

紀元前3120年は、古代エジプトの第一王朝で上エジプトのナルメル王が下エジプトを征服しエジプトを統一した頃。ここから、神の現存を確認しきれぬもやもやした中有的な5千年が始まった。

人類は、最終的にその知性で物質文明、火力エネルギー主体の文明を極め、知性人としての成熟を20世紀末までに図る。

知性の成熟の先には、自我の死の自覚、それは自分だけでなく、家族も死に、街も死に、海も死に、空も死に、地球も死に、宇宙が死ぬということだが、それが起こって初めて本当の愛に出会う。

肉体が死んでもまず自我は死なない。だからチベット死者の書のようなものがある。

『知性ゆえに誰もかれも死の安らぎを願っている』とは、死なくして本当の愛を知ることはできないということ。本当の愛とは、大慈大悲。本当に悲しいこと、悲しみの極みが愛の極み。

人間は、欲望をエンジンとして、文明という回し車を回転させている。その回転により、感情人は、知性人に進化し、21世紀にアトランティス文明をはるかに上回る規模の地上天国を実現させようとしている。

欲望のゲーム、喜怒哀楽のゲームは常に満足と苦悩の間を往復し、決して終わることがないがゆえにそのゲームは既に終わっている。

『現在の地球ロゴスは、まだ人間に固定観念と抑圧と
を必要とする階梯にあるからである。』
(戯れに冥想を/ダンテス・ダイジから引用)

ほとんどの現代人は、固定観念と抑圧をなくすることから冥想修行を始めなければならない。現代社会というのは、固定観念と抑圧そのものだが、そういう環境、出生直前にそういう子宮を選んできたのが自分自身だということも、死ぬものとて何一つない未知なる国に生きるには重要なファクターだと思う。
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