アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

瞑想-祝祭のアート

2020-07-06 06:49:39 | 究極というものの可能性
◎この社会と日常では見知らぬ部分の危険性

ラジニーシ曰く、
『サマーディはひとつの隙間として始まる。だが、それは決して終わらない』(瞑想-祝祭のアート/メルクマール社P290から引用)

OSHOバグワンのロジックの柱は、七つの身体論と隙間である。

『瞑想-祝祭のアート』は、我が本棚中でも珍しい思い切り茶色くなった本だ。今大書店の精神世界コーナーを覗くと、新装版が販売されるようになり、長く読み継がれていることがわかる。

この引用文では、隙間という言葉は読み流されることが多いだろう。この本を最初に読んだOSHOバグワンファンでも、この隙間の真に意味するところは想像することだに難かったのではないかと思う。隙間の説明は後に出版された本の方に多数出ているからである。

サマーディにはニルビカルパとサビカルパがあり、サマーディのことはなんとなく想像がつく。

だが、OSHOバグワンは、読み手が悟っているか見神見仏見性体験をしているか否かなどおかまいなしに、フレッシュな真理を語り続ける。

真正な覚者は、こんな風に独白っぽく語るのが一般的だと思う。それは体系的に語った瞬間それは嘘になるからだ。釈迦だってそうだ。

また彼らの言葉は、一般に隔靴掻痒でまだるっこしい表現をとることの方が多いのだが、直截に表現されている場合は、危険でもある。

そして世の中には、人間の社会性や人格の統合という点において危険なものもある。ヤキ・インディアンのソーマ・ヨーガのマスターであるドン・ファン・マトゥスは、メキシコのピラミッドのことを例に挙げ『極端に入念に作られたものは、どんなものでも潜在的な危険性をはらんでいるものものだからだ。』(呪術と夢見―イーグルの贈り物/カルロス・カスタネダP27)などと言っている。

その危険性とは、この社会と日常では見知らぬ部分のメカニズムに引き込む可能性のことを言うのだろう。

マイアミの東81kmのビミニ沖にアトランティスの集中エネルギー装置が沈んでいるが、時々悪さをして船や飛行機を沈めたりするが、そんな類のこと。マイアミは遠いが、そんなことはどこでも起きる可能性がある。
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平時の経済、有事の経済

2020-07-05 06:05:32 | 時代のおわり
◎武漢金凰珠宝の錬金術

2020年7月1日、仏RFIの中国語版サイトは、米ナスダック上場の中国の宝飾品メーカー・武漢金凰珠宝が、多くの金融機関から偽の金地金を担保に160億元(約2433億円)の融資を受けていたと伝えた。

金地金は約83トンで、タングステンに金メッキだそうだ。これが本物の金なら、時価約5500億円相当。この報道を受け、同社株価は急落。世界的バブルの末期には、なぜか必ず偽担保事件が起こるものだ。

日本にもただの紙切れを価値のあるものとして売り出して、1回や2回ならともかく、何回もやり過ぎて巨額の金は手にしたが、刑務所に入ることになった似非実業家はいる。今でもマスコミにも登場する。

時代がこれだけきな臭くなってくると平時の経済、有事の経済というものを考えざるを得ないが、海外の商店街を見て、日本人が違和感を感じるのは、金や貴金属商店が非常に目立つことである。

要するに海外では平時にあっても、常に有事に貴金属を身に着けて逃げることを想定せざるを得ないシチュエイションがあるということである。

その延長線上に水と安全は只という日本の脳天気ぶりがあって、中国から見れば日本人の国防音痴ぶりは、滅亡前のチベットよりもひどいかもしれない。

平時の経済と言えば、住宅ローンと株式中心の年金運用だが、アメリカの過去90年を見れば、1929年の世界大恐慌だけがほぼ唯一の災厄であった。一方日本はドッジラインとか新円切り替えとかバブルの崩壊下の株価暴落とか無辜の民がほぼ資産を失うようなことが何回もあった。
要するにアメリカにとっては過去90年平時経済だったが、日本はそうは言えないということ。外征国家アメリカにとっては戦場は常に国外だったが、日本は戦場が自国になって経済が壊滅した時期があったということ。

そんな貴重な金で飾り立てた部屋が、ドイツのケルンの聖ウルズラ教会にある。この金の小部屋は、背の高さまでは金枠の中に殉教した乙女像が多数置かれ、上方の高い壁には人骨がずーっと壁に塗りこめられている。

そこで西洋人も少しは、人間は立って半畳寝て一畳などと思ったのだろうかと思う。

東洋では、脱衣婆が似た役割。聖ウルズラの胸像が老婆だったら、西洋人は脱衣婆の役割を連想するのだろうかなどと不謹慎なことを思う。

【聖ウルズラ教会の金の小部屋】wikipediaから
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言葉の意味の三重性と意味の統合

2020-07-04 06:21:51 | 現代冥想の到達点
◎文字は人を殺し、霊は人を生かす

キリスト教でも聖書の読み方に三重性があるという。

パウロの『文字は人を殺し、霊は人を生かす。』(コリント人への第二の手紙3-6)。
これは、文字通りの意味はよこしまだが、道徳的な意味にも解釈でき、更に真の深い意味(霊は生かす)もあるということ。

凡そ密教経典や、神秘主義文献、錬金術書、祝詞、内丹書の語彙には、三重の意味があるのは当たり前。占断、占文にも三重の意味がある。

同じ語彙をどの意味に配して解釈するのか。とりわけ同じ語彙が連続2回出て来て全く別の意味に読ませるケースなどは、明らかに誤解釈を誘っている。

アウグスティヌスは最初マニ教徒であって、聖書の創世記を荒唐無稽と見ていた。後に三重の意味のヒントを得てまともに取り組むようになった。

16歳の白隠も、法華経を最初ばかげたおとぎ話として捨てたが、42歳の時に気がついて再度読むようになった。

天津祝詞出口王仁三郎の解釈を読めば、全く別次元の世界が広がっている。

密教経典は最奥に近づけば近づくほど、糞尿エログロ言葉が並ぶものに捕まる。

だが、ウパニシャッドで不死のドリンクであるアムリタをおしっことして与える話があるが、三重の意味の極みとはそいうものだと思う。

そして、言葉は人間の共通に見ている世界の秩序に沿って解釈されるのだが、それが統合ということ。かつてダンテス・ダイジは、クンダリーニとムラダーラ・チャクラは、決して万人がすべて接している訳でなく、外れた場合、その共通の解釈が失われるというようなニュアンスのことを仄めかしている。

三重の意味のどれを採るかは、とかく頭の体操レベルのことに思われがちだが、そうでない次元に突っ込んだ話だと思う。
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日蓮が不動明王を見る

2020-07-03 05:34:08 | 現代冥想の到達点
◎不動愛染感見記

日蓮は安房小湊に近い天台宗清澄寺に入り、この寺の虚空蔵菩薩に願をかけ、「日本第一の智者となし給え」と祈っていた。その修行の延長で、不動明王、愛染明王を見た。

その実体験を弟子向けに、挿絵入りで1254年6月25日に、不動明王一幅https://darumamuseumgallery.blogspot.com/2007/07/fudo-kankenki.html、愛染明王一幅https://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/bunkazai/n171-004.htmlに、それぞれ望見しましたと描き残している。

同年正月の日蝕時に愛染明王を、正月15日から17日の満月以降の3日に不動明王を見た。

これにより日蓮は、大日如来から数えて23代目の嫡流であると確認したと書いている。授記ですね。

また不動明王のビジョンを見たのと不動明王の段階を体験したのとは異なる。天台の筒井叡観師もビジョンを見た。本山博は、不動明王段階を通過したが、日蓮はそれについては触れていない。また望見であるので、合体ではない。

人が神に成るあるいは即身成仏までの段階には、本山博が自証したように不動明王段階があり、西洋錬金術では、サラマンダー段階と表現した。

日蓮は、大衆宗教を目指したので、いわゆる隠遁者として密教家の道を歩むことはなかったのだろう。

だが、その望見の体験が日蓮の宗教体験全体に深みと広がりを与えているように思う。

愛染は煩悩即菩提、悟りと迷いは幻影であり現実である。
不動は生死即涅槃、ニルヴァーナ=第七身体の前に生死の違いも何もかもなし。
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マインド(頭)と将棋

2020-07-02 05:30:32 | マインド・コントロール
◎将棋王位戦七番勝負

将棋の17歳高校生プロ棋士・藤井聡太七段のタイトル挑戦となる王位戦七番勝負の第1局が2020年7月1日午前、愛知県豊橋市で始まった。

一人持ち時間8時間、二人で16時間を費やして、一泊二日で将棋一局だけに向かう。勝てば賞金〇千万円(非公表)がかかっているので必死。

プロ棋士は、一手のために普通に200手位は読むと言われるが、それを一泊二日続けるわけだ。マインド(頭)の極みである。

最近の生活環境には、あらゆるシチュエーションで、先の1手しか読まない「考えない人」になるべくマインド・コントロールが仕掛けられている。

先の読めない人間にならせることが、マインド・コントロールの狙いである。ところが将棋指しは、最低でも三手五手を読む訓練をしているので、その点でマインド・コントロールにはひっかかりにくいものだ。

俗にテレビを見ると白痴化すると言われるのは、考えるプロセスのないままに視聴者が情報を入れられっぱなしになること。そこでは、三手五手を考える余裕なく、何時間もマインドオープンにさせられるところ。

戦国武将は、この読み合いの力を鍛えるために盛んに将棋を指した。

このマインド・コントロールを避ける点で、幼少時に将棋を指すのは効用があると思う。スマホ、モバゲーを幼少時に与えるのは刹那的人生を送らせがちになる可能性すらあると言える。

冥想シーンでは、マインド(頭)を鍛えよではなく、マインドを捨てよという方向なのだが、この生存競争激しい時代を生き抜くためには、マインドの力は必要である。

道教の仙人は二人で囲碁を指し、北欧神話でラグナロークを生き延びた神々は昔用いられた黄金製の将棋盤を発見し往時を懐かしむ。

この世に生まれるとは、誠にマインド(頭)でもって遊びをするために生まれてきたということがある。かのラーマクリシュナが、毎回の食事に異常に関心を示し妻にたしなめられて、「生まれるということは、そうした部分があるから生まれるのだ」というような説明をする。勤労ができないほどの虚弱体質だったラーマクリシュナにとっては、食事が遊びだったのだ。

愉快に楽しく遊ぶには、マインドの力も必要であって、一方人としてまともに生きるには、マインドを捨てる方向の冥想修行も必要という難しい時代である。

※2020年7月2日、02:32、東京上空に非常に大きな火球。
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ルノルマン、オラクル、タロット、易、御神籤、ホロスコープ、四柱推命、紫薇斗数

2020-07-01 05:30:31 | 占星術  (冥想法6)
◎何を鏡とするか

織田信長が、自分と同年同月同日出生の男を召し出して、ぜんぜん大した男でなかったことに、がっかりするやらほっとするやらした記録がある。

四柱推命、紫薇斗数、ホロスコープなどは、そういうものだ。年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからずとは、星の相は似ていても各人は全く異なるということでもある。

一方で星を相手にしない一発タイプ、『今ここ』型の占い群がある。ルノルマン、オラクル、タロット、易、御神籤、天津金木などがそれ。

権勢家がこれをやると吉が出るまで繰り返すのはよく聞くところである。しかし、そもそも出てきたカードや象意を鏡として、自分の現象を見る手法であるから、何回もやるのは邪道である。

例えばタロットで悪魔や死や塔のカードが出ると凶の解釈を迫られ、困惑することがあるだろう。

『今ここ』型の占い群は、どんなカードが出てもそれをきっかけに自分をのぞき込む手法。占う最初の動機は将来の吉凶という外的事象を見ることかもしれないが、そのカードによって、外から内に入っていく。

悪魔や死や塔の崩落カードは、表面的には凶だが、内面に入ると価値は逆転し吉となり得る。逆転させるものは、見ている自分なる鏡。

神社の拝殿には鏡がまします。あるいは伊勢神宮内宮の幔幕が翻って奥が見えても何もない。

つまり占断時には、カードや筮竹や星を見て考えているわけでなく、自分を鏡に潜在意識、集合的無意識、アストラル体世界、メンタル体世界を見に行っているわけである。

潜在意識、集合的無意識、アストラル体世界、メンタル体世界を総称してアカシック・レコードと呼べば、それへのアプローチ法は、個人的無意識から入る方法と全体から入る法の二種。

出口王仁三郎は、昭和10年頃大新聞に日米開戦の予想記事が出たが、そのお蔭で日米開戦の未来はちょこっと変わるということを言っている。つまりその時点で100%当たりの予言は、100%当たりであるが故に、その事件の将来は変わってしまい、占い、予想としては、はずれの方向に動くということ。

つまり、結果的にバッチリ当たった予言というのは、予言した時点ではハズレ予言であったが、何か偶然が重なり結果的に当たり予言となったものにすぎないと思う。

だが、そもそも世の中の流れには、メイン・ストリームの予言と、サブ・ストーリーの予言があり、メイン・ストリームの予言はまず変わらないというのも千古不易の事実である。

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呉道元

2020-06-30 05:33:36 | 道教
◎宮中の洞窟に消える

呉道元は、最初書を学んだが何の得るところがなく、絵画に転じ、その名声は朝廷にまで聞こえた。

宮中に高さ数尋の墻壁があり、彼はそこに山水画を描くことを命じられた。その山水画では、木も草も人も鳥も一々生きて動いているように思われた。

呉道元は、皇帝を前にいちいち山水画の各箇所を説明したのだが、ある岩を指さして「この岩の下に一つの洞窟があって、一人の仙人が住んでいる。」と言いながら件の岩の上を指で軽く叩いた。

すると忽然として一つの門が現れ、中から一人の童子が出てきた。呉道元は、「洞窟の中の景色をご案内しましょう。」と、自ら洞窟に入り、皇帝を洞窟の中へ手招きした。

その時皇帝が、しばらく入ることを躊躇しているうちに、その門はパタリと閉められ、今まであったはずの山水画も消え、元の白壁に戻った。

中国では、壺中天とか、洞天とか、狭い入り口を強調しつつ、その入り口は身近にあることを示す。これがOSHOバグワンだと意識の連続中の隙間となる。

洞窟の中から童子なる仙人が出てきたが、笹目秀和が崑崙山中で出会ったのも童子の如き五百歳の仙人だった。童子の外貌はその食するものと密接な関係があるものと思う。
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器としての教団と法統

2020-06-29 03:59:19 | 現代冥想の到達点
◎悟っている師は一代限りだが

真理を知るとか、本当の自分に出会うとか、神人合一とか、即身成仏とか、カイバリヤなどということは、内部で起こるものだ。

そしてそれは、他人に伝える手段がないので、一代限り。その人が死んだら、それは一代限りで終わる。よく口述で伝授という話もあるが、師の死期が迫って来ても弟子がダメなら何も口述では伝授できない。

臨済が、死の床で高弟三聖のことを罵ったように、どんな立派な師でも、それが伝授できる弟子を持てるかどうかは定かでないものだ。

一方で、禅で授記という覚者の系図があるということは、その点で奇跡的なことである。古仏は頑張ってきたのだ。

チベット密教で、リンポチェという尊称がつけば、まず覚者。だがダライラマの選定方法は、神おろしや情実人事や抽選による等時代によって変わったが、一人の人物を間違いなく15年後には覚醒させるというのは、環境の整ったチベット密教でも容易でなかったと思う。

カトリックの列聖認定は、奇蹟偏重でどうかと思うが、ローマ教皇はそれなりに見神体験のある人を選出し続けているのだろう。

伝承されている真理あるいは悟りは、師が死んだ都度消え、別の人物が発見する都度現れる。それがある教団内で、切れ目なく起これば、真理は伝承されていると呼び、覚者が再び現れなければ、真理は伝承されない。

それは大きな伽藍や教会や集会所を建てることとは別のことである。

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大金を見返りにノウハウや位、称号をもらう

2020-06-28 07:23:29 | マインド・コントロール
◎精神のステージ・ランクや洗脳深化

精神状態にもとよりステージもランクの高低もない。それは、覚者の側から見た場合であって、真理や悟りの何たるかがわかっていない人々にとっては、このあらゆる洗脳手法が横行する世界では参考になるのも事実である。

映画ランボーの最初の作品では、ベトナム帰還兵のシルヴェスター・スタローンが、最後のシーンで、コンバットのエリートでありながら、『駐車場の番人としても自分を雇ってくれない』と、その社会的不適応ぶりを嘆く。

こうしたベトナム帰還兵向けに開発された心理手法が、
① カール・ロジャースのエンカウンター・グループ療法(メンバーがそれぞれ本音を言い合うことにより、自分自身の受容と成長、対人関係の改善などを目指す)や、
② エリック・バーンの交流分析(エゴグラム分析で、対人関係の改善を図る)、
③ フリッツ・パウルズのゲシュタルト・セラピー(今・ここで、いかに何を話しているかを通じ、自分に気づき、体験すること)
など。

これらを基盤にセラピーが行われていった一方で、マインド・コントロール手法だけが切り取られ、セミナー商法、ネットワーク・ビジネスの勧誘に広汎に応用されていった。

ねずみ講で見られるように、セミナー商法などで多額の金を払ったのだから元を取り戻すために他の被害者を勧誘するというのは、代表的な現象である。

だからよくHPで自分の取ったそれ系の資格を沢山並べているのは、それだけ大金を投下したということで回収モチベーションの高さが拝察されるところもある。

さて感情の抑圧と解放、高揚を繰り返し、金を出させるまでやるというのは、こうした手法の悪しき応用ではあるが、商業、宗教団体、政治団体、エンタメと多くの生活シーンで見られるようになっているのは遺憾である。

またセミナーや伝授などで段階をつけ段々高額にするのは、習い事でも一般に見られるから、そうしたことに抵抗がないのかもしれない。

だが、托鉢するような修行者の師匠は、ただで食べさせてもらっているのだから、ただで与えるのは当たり前だと言うものだ。

生きることを教えてくれる師に布施・寄付をするのは善いが、大金を見返りにノウハウや位、称号をもらうというのは、どうみても邪道である。それは厳しい見方かもしれないが、そこを長年許してきたからこの汚辱、爛熟の時代ができあがっているのだ。
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小学生のコメントも有識者のコメントも見分けられない

2020-06-27 06:28:28 | マインド・コントロール
◎SNS今昔

ネット通販で物を買うのは、運送業界の人は大変だったが、コロナ禍の中で大いに人々を助けた。

ネット通販で物を買う際にまず注目するのは、効能、機能で、その次は五段階評価のどれに当たるかである。私も最低評価と最高評価のコメントは見るようにしている。

だが、販売者側や生産者側がIT業者を雇って、好意的なコメントばかり書きこませたり、ライバル企業の製品を貶めたりするコメントを書き込ませていることは世の中に知られるようになった。

これは企業活動とか商業活動という面であって、当然にそんなことはあるものだと思う。

だが、無辜の書き手が書く内容だって問題はある。その商品の評価の良し悪しを人生経験の少ない小学生が書く場合もあり、専門家やマニアや有識者が書く場合があるが、字面だけではその書き手を判別することはできないということ。

よって評価コメントを5割引きくらいで見なければいけないというのは、生活の知恵である。

購入者、ユーザーによる商品評価が、購入者、ユーザーによって為されるのはまともなことである。だが、書き手を想像すれば、その結果を信用すればよいかどうかはまた別の話なのだ。

このブログも2005年から続けているが、初期の頃は、コメント承認機能がなくて、コメントによっては困惑させられるものがあった。要するに当初はblogとは名ばかりで、書き手が開いた掲示板と大差なかった。いまだにそういう気分でコメントを入れてくる人もいるが、ブログはtwitterとはそもそも異なるもの。

インターネットで自分の意見を公開するというのは、交差点で自分の意見を語っているようなものだから、多種多様な人がそれを目にすることによるリスクはある。

だが、商品評価の書き手が小学生だから評価するに値しないだろうということでなく、小学生の意見も専門家の意見も同列に扱われているという危険性は十分に承知の上で使わなければいけないだろうということである。

そして中国、朝鮮系のツール、zoom、TikTok、Line、Wechatなどは、政治的な意味で個人情報を奪われたり乗っ取られたりする危険があるということで別の意味で要注意。あちらは反日有理であって、日本人には何をしてもよいという暗黙の了解はあるものだろうから。

要するにSNSの本質とは、老いも若きも男も女も外人も、普通に通りかかるほとんど無法の広場であるということ。

米中対立は日々のっぴきならない方向に深化し、いずれ日本勝ち組に付くか負け組に付くか決めなければならない。

その際に戦意高揚、国民意識の統一ということでSNSの規制は必ずあるもの。戦前を上回る言論統制、思想統制の時代は目の前に迫っている。
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聖者という他人、教祖という他人

2020-06-26 06:19:50 | 冥想アヴァンギャルド
◎実は無神論砂漠のJAPAN

キリスト教には、万を超す聖者がいて、毎日の暦には、必ず複数の聖者が該当するものだ。

日本でも言霊の幸はふ国として八百万もの天津神国津神が津々浦々におはします。更に仏教と習合したものだから、ありとあらゆる諸仏像が寺院陋巷に鎮座しまくっている。

これらは、応仁の乱、戦国時代、全国大都市が焼夷弾による空襲を受けた第二次世界大戦を経ても、氏子檀家の神仏への崇敬の気持ちは変わるものでなかった。

だが、所詮八百万神も諸仏も他人であって自分ではなく、各宗派における聖者も他人、教祖も他人。

神像、仏像を愛でるのも、ラーマクリシュナのように神像なる太母と都度神人合一するのであれば、問題はないが、綺麗とか、美しいとか、神々しいとか言っているうちは先に進まない。古代中東のバアル信仰の昔から、出来のよい神像を愛でることはそこそこにせよと戒められている。

その神像を制作した者は、覚者だったのか、その神像に魂を入れた者は悟っていたのか。

この延長線上に唯の人間を祀った神社というのもある。

このような神仏グッズ、神仏ホールなどに取り囲まれた社会で暮らしていれば自ずと自分は篤信家であると誤解しがちなものである。これが、それを『外に求める』今の日本人。

小泉改革以降非正規労働者が激増し、一生涯一勤務先が崩れ、主婦は死語となり、日本の核家族化は不可逆となり、国民の貧困化は一挙に進行した。

貧困はどんな社会であっても神頼みの誘因になるが、巨大化し過ぎた新興宗教に入信しても巨大であるがゆえに現世利益は期待できないことは一目瞭然。『外』に解はない。

貧富の格差の先進国アメリカは、金持ちだけが幸はふ国だが、ドラッグ、カルト、パンクなど倒錯的なものも隆盛な一方で、率直に神仏を『内に』求める組織も人もいる印象がある。それを受け入れる準備のできた大衆がいるのだ。そのことをインド、チベットなどからアメリカに入った布教者は口をそろえて語っている。

実質無神論な日本人のことを、冷静にえこひいきせず見ていたOSHOバグワンも来日せず、クリシュナムルティも来日しなかった。日本人には、神人合一を求める気運がとても少ないとみていたのは、ロトがソドムの町で50人の正しい人もいなかった話と似ている。

そんな無神論砂漠の先に、世界は3%、日本は2%というネガティブ予言が見える。日本はワンランク・ダウンの評価なのだ。

イナゴの害は、アフリカにからパキスタンまで到着、南米ではパラグアイからアルゼンチンまで襲来。大雨洪水は、長江上中流域を中心に中国24の省(省は23だが自治区なども数えると34)で大規模な洪水が発生し、三峡ダム決壊への懸念が高まっているという。

更に米中対立は日を追って深まり、北朝鮮は韓国への軍事行動計画を「延期」、人災天災があざなえる縄の如くからんでいる。

それでも日々冥想を。
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素盞鳴尊の鼻、伊吹山

2020-06-25 01:14:48 | 古神道の手振り
◎気吹戸主神

近江の伊吹山は素盞鳴尊の鼻であって、世の中の邪気妖気を祓う時に気吹く。出口王仁三郎は、気吹かれたらえらいことになると言っている。

大直日神は天帝の霊魂の分賦たる吾人の霊魂をして完全無疵たらしめむとする直霊である。所謂罪科を未萠に防ぐ至霊にして、大祓の祝詞に、之を気吹戸主神と謂すのである。』(霊界物語 第10巻29章 言霊解三から引用。)

この書きぶりだと気吹戸主神とは、クンダリーニのエネルギー・コード

出口王仁三郎は、人は毎日大祓祝詞を奏上し、神人一致、罪と穢れの累積を祓い清めるように努力することが、いつの時代を通じても必要であるとしている。
自己の身体、家庭、国土、全地球、全宇宙から迅速に邪気妖気を掃蕩して神代にしなければ神に対して相済まない、とまでいう。

これに対して世の中全体の修祓がある。
『(八)
地球の表面の清潔法を施行するためには、大小の河川をつかさどる瀬織津姫が御出動になる。いよいよとなれば大雨を降らして大海へ一掃してしまう。
これに応じて速秋津姫の御活動が起こる。必要あれば陸地まで押し寄せてあらゆるものを鵜呑みにする。
邪気妖気の掃除のためには気吹戸主神が控えている。最後の仕上げには佐須良姫が待ち構えて揉み砕き、揺りつぶす。これでいかに山積していた罪穢もこの世から一掃される。』
(霊界物語 第39巻附録 大祓祝詞解から引用)

瀬織津姫は河川、速秋津姫は海、気吹戸主神は邪気妖気、仕上げは佐須良姫。

気吹いて邪気妖気のない世界になるとは、万人の神人一致であると思われる。それは今では夢物語と思うのだろうが、ビジョンとして確認している連中がいたということ。
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聖母マリアの謎

2020-06-24 05:37:24 | キリスト者の秘蹟
◎処女懐胎と不貞

日本人の大方は、処女が懐胎したということで欺瞞性に耐えられず、思考停止してしまい、そこから先へは進まない。

そこでキリスト教内部でも黒い聖母像というのが、太母として登場してきた。

だが、イエスの母が処女のままだったというのは、彼女が地母神、太母だったことを指している。決して文字通りの処女で、何だか悪いものを食べたか、人工授精して妊娠したということを言っているのではない。

太陽を産むのは月であって、月は有だから第六身体アートマンにして、それが第七身体、無なるニルヴァーナである太陽を産む。マリアは太陽を着て月を踏んで現れる女性なのだ。
(ヨハネの黙示録第12章1:ひとりの女が太陽を着て、足の下に月を踏み、その頭に十二の星の冠をかぶっていた。)。

キリスト教の教義では、イエスは父なる神の子だから父は人間ではないので、イエス家は父の影の薄い母子家庭。それで父に釣り合うように母マリアも神に同格に祭り上げられたが、本来の父ヨセフはそのままだった。

禅では、達磨以降どういう覚者の伝燈で法が伝えられてきたかの系譜、授記がある。同様にマタイ伝にはアブラハム以降イエスまでの男系系図が述べられている。その一方で聖母マリア側の素性も系譜もない。

ユダヤ教徒は女系家族であり、その点からも聖母マリア強調という理由は考えられる。

冥想修行は、おおまかに言ってなべて男性側の修行であり、それはキリスト教でも同じこと。男性の師嗣相承だから聖書でも禅でも嗣法の系譜は出るもの。

キリスト教が、母なき実質二位一体で、輪廻転生を認めない仕組みになっているのは、聖母マリアなる太母の物質面を極めるこの近代西欧文明をまず繁栄させる。然る後に反転させ、同時に輪廻転生を認めないことで、我が罪人意識を高め、今生のみしか覚醒のチャンスがないと、二重に覚醒へのプレッシャーを与える構造になっているため。

イエス一家は、複雑な家庭であり、布教の都合上、マリアは不貞を犯し父なし子を産んだ(ケルソス反駁)などということは隠さざるを得なかったのだろう。

一宗一派を立てる場合、そういうことはあるものだし、個々人の大悟に至る過程はその人によってそれぞれ異なるものである。
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古い水と新しい水

2020-06-23 06:17:53 | 究極というものの可能性
◎北朝鮮の水、韓国の水

昔、モーセの師のハディルが人類に警告を発し、『やがて特別に貯めておいた水以外はすべて干上がってしまう。その時期より後の水は人々を狂わせてしまう』、と。

ただ一人の男がこの予言を信じて水を集めて安全な場所に保管して、その日に備えることにした。

ある日、井戸は干上がり、川は流れを消した。

これを見て件の男は、とっておいた以前の水を飲んで日々をやり過ごした。

やがて小川が流れ始め、滝も落ちるのを見て、男は町に戻っていった。

町の人々は、以前とは全く違ったやり方で話したり、ものを考えたりしていた。

しかも彼らは、水が干上がった時期があったこともそれを予告したハディルのことも全く知らなかった。

男は、彼らと話しているうちに自分が気ちがいだと思われていることに気がついた。というのは、人々は、彼のことを哀れだと思ったり、嫌な奴だとして敵意を示したりして、まともに彼の話を聞く者はいなかったからである。

こうした町の雰囲気に男は耐えられなくなり、男は昔の水を飲むのをやめ、新しい水を飲み始めた。

すると男は、昔の水のことなど忘れ、新たな行動の仕方や言葉や考え方を身につけ、すっかり町の人々に溶け込んだ。

町の人々はそんな彼を、奇跡的に狂気から回復した男と呼んだ。


農水省のパンデミック対策HPを見て食料備蓄している人も少なくないのだろう。このスーフィの小咄では、カタストロフィーで生き延びた人の未来が示されている。

万人が覚醒していない社会を倒錯した世界とすれば、この小咄では、先の世界も後の世界も倒錯した世界であることに変わりはない。(後の世界の住民が覚醒していれば、敵意を示すことはない。)

古い水に真理があるのでも新たな水に真理があるのでもない。自分が問われているのだが、このアプローチで自分を省みる方向に進む人は稀だろう。

さて、中国人民解放軍が北朝鮮国境に集結しているというのは数年に一度外信で報道されるので珍しくない。ところが今般は、38度線に北朝鮮軍が集結という情報は珍しい。

平壌は3か月前から飢餓が始まり市民の動揺が起こっているという報道もある。春荒とは、秋の収穫を食べ尽くした春は飢えの季節であるということで、中国と朝鮮で使われる言葉。

北朝鮮の水、韓国の水。

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煉神還虚

2020-06-22 03:38:53 | 道教
◎出神メモ

高藤聡一郎のメモ『仙道においては、陽神を作るのが最終の目標ではない。最後は、この陽神さえ虚空に戻していくのである。これを煉神還虚あるいは気化と呼ぶ。

この宇宙に本来なかったおのれというものを再び無に戻すのである。これが完全にできた状態を還虚合道と呼ぶのだ。道と一つになった状態である。
陽神とは本来この目的のために作られるのである。』
(現代中国の仙人/高藤聡一郎P94から引用)

高藤聡一郎は台湾中の道士に出神とはどのようなものか聞いてまわったらしいが、はかばかしくなかった。唯一盧勝彦だけが、出神体験を3例目撃したことがあったという。一童子なる陽神が頭頂の外側に出現したという。

そういうことに価値があると気づく人が増えないとどうにもならない。

陽神が体外に出るのは、いわゆるアストラル・トリップなどの通俗超能力とは別のことである。
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