アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

出口王仁三郎パンデミックでの集中冥想

2021-10-17 07:01:55 | 古神道の手振り
地獄的なライフ・スタイルをやめる

出口王仁三郎の長期集中冥想と言えば、最初の大悟である一週間の高熊山洞窟での飲まず食わずでの修行が有名であるが、二回目もある。二回目は、1918年大正7年(48歳)8月18(旧7月12日)から始まった七十五日間。これは、彼の誕生日からのスタートというところが味噌。

ところが出口王仁三郎によれば、これは三度目の身魂の大洗濯であり、一回目は高熊山、二回目は28歳から38歳までの十年間、三回目が、この48歳の75日間。

長期での閉じこもり修行といえば密教だが、深山の洞窟で食料や水を供給してもらって、空気穴のあるところで観想に励むタイプの冥想修行ではなかったようである。

出口王仁三郎によれば、1916年に究極の悟りを開いた教祖出口ナオに寄って来る第一次世界大戦で死んだ救われぬ霊を我が身に引き受けることが狙いの一つ。また悪の親玉である金毛九尾の狐を出口王仁三郎の肉体に引き込んで、その間世界を一休みさせるのが狙いの二つ目。

もう一つの狙いは、パンデミックたるスペイン風邪の根本原因を断つこと。スペイン風邪は、この年の5月頃から日本でも流行を見せていた。出口王仁三郎によれば、スペイン風邪流行を終わらせるには、バイ菌を退治するだけではだめで、その背後にある邪霊群を止めなければならない。邪霊群と言っても元は今度の第一次世界大戦で死んだ者がほとんど。これを救って初めて流行が止まる。

七十五日間の長期冥想修行は、元教祖室の二間続きの奥の間に床を敷かせでこもり切って行ったが、相手によっては、面会もしていた。ただし始終高熱にうなされていた。

11月の七十五日間の長期冥想修行終了後まもなく第一世界大戦は終了したが、スペイン風邪はその後も5年流行。

パンデミックの原因が霊であるというのは、空海も採用している理論。迷信だと思われているのは今の時代ぐらいだろう。

キリスト教では、輪廻転生がないので、天国に入り損ねた人々は、煉獄と地獄にどんどん積みあがっていき、最後の審判時の再生チャンスを待つだけという苛酷でストレスの高い状況に置かれる。生きながら地獄的に生きれば、そうした死後の運命は内心自分でわかるものだろう。

今般のコロナ・パンデミックは、何の霊の仕業かと言えば、死者ではなく生者の生霊、つまり生きている人の潜在的無意識の混迷が惹き起こしているのではないかと思う。地獄的に生きる生者が多い時代ではある。

最近、妙な通り魔的殺人事件が連発しているが、それもその兆候なのではないかとも思う。

大正時代には、出口王仁三郎がパンデミック退散のご神業を引き受けた。現代のパンデミックは、各人が冥想により我が身魂の洗濯をしなければ、収束できないのではないか。

『どうしてこんな時代になったのか?』

また第一次世界大戦の結果、日本は旧ドイツ領南洋諸島を得たが、これが後の太平洋戦争で補給が伸びきる原因となり、また戦勝ビジョンを描けないままの開戦の一因となっていた。禍福はあざなえる縄の如し。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

有と無を経験的に考えてはいけない

2021-10-16 05:39:50 | 現代冥想の到達点
◎アートマン(我)と無我

仏教哲学者の中村元が面白いことを書いている。

『また『バガヴァッド・ギーター』においてもいう。―――
『一切の愛欲をすてて、欲求なく、わがものの観念なく(nirmama)、自我の観念のない(nirahankara) 人は、やすらぎに到達する。』(Bhag.G., II, 71)

アートマン(我)の哲学を説いた当時の哲人たちが、このように仏教の無我説を採り入れて、そこになんらの矛盾を感じなかったのである。したがって、仏教の修行者がアートマンの実現・愛護と、無我説とをともに説いていたとしても、なんら不思議はないであろう。』
(中村元選集第二十四巻ヨーガとサーンキャの思想P495から引用)

バガバッド・ギータでは、自我の観念がなくなればやすらぎがあるとし、中村元は、これを無我と思っている。また彼は無我を我がないことだと想像しているようである。
アートマンは我と訳されるが、現象全体、有全体であり、既に個人ではない。彼は、経験的に無我とアートマン=我が併存するのはおかしいと言っているのである。

無我の方は、無我と名付けたり訳されたりしているが『無』なんぞではない、言葉で表現できないものを仮に無我と言っているだけで、有我あるいは有=アートマンの対義語として無我といっているわけではない、と私は考えている。

要するに中村元が、無我という体験とは言えない体験を経ていさえすれば、このような説は出てこなかったのではないかと思う。

第六身体アートマンと第七身体ニルヴァーナ。これは身体と呼んでいるが、全然身体のことではないのだが、アートマンとニルヴァーナ、我と無我を経験的に考えてはいけないと思う。我も無我も意識でも心理でもない。

経験的に考えた瞬間に真実は取り逃がされるからである。
もちろん体験とは言えない体験を経た人は真相を承知している。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北欧神話-フェンリル狼

2021-10-15 05:49:36 | 究極というものの可能性
◎食料危機の数年

北欧神話の神々の黄昏では、フェンリル狼のあまりの強力さに度肝を抜かれるものだ。

フェンリル狼は、東の鉄の森に住む老婆の末裔であり、この一族からやがて日輪を呑みこむフェンリル狼が出る。フェンリル狼は、神々の座を血に染め、日輪の光が死に、いまわしい嵐が吹きすさぶ数年がある。

北欧神話は、北欧ローカルの神話であるが、日輪がその姿をほとんど見せぬ異常気象は、世界的に影響を及ぼさないわけはない。

日本でも今年の夏の日照が平年の三分の一などということが話題になっている。これが数年続けば、世界は、同時に一挙に飢餓の時代に突入する。

中国が穀物輸入を急増させているのが、最初のサインとなっているが、先日テレビで日本の専門家が、食料需給30%台で、輸入食料がほとんど途絶えた時の政策案の一つとして公園やゴルフ場で食料を生産することを披露していた。

このゴルフ場に芋を植える話は、40年ほど前からダンテス・ダイジ予言の一つとして知っていた。公園やゴルフ場で食料を生産するというのは、生産量としてたかがしれているが、そこまで追い込まれるということなのだろう。

戦乱、食料危機、コロナとくれば、飢病戦で、仏説の小三災。これらは、ほぼ世界共通のビジョンである。

欲を寡少になどというのは日本人の協調性の一つとして評価されるが、ダンテス・ダイジは、そうした時代に日本人が収入を半分にしてやれるかどうかが日本の分水嶺になることも予言している。真の謙遜、謙譲、寡欲は、真の愛からしか起きないからである。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

芦別岳

2021-10-14 05:51:23 | 古神道の手振り
◎北海道と関西の綾部に黄金の橋を架ける

芦別岳は、富良野にある。Great Traverseの番組でも望見していたが、山容はなんということはない山だった。だがここは日本の東北、艮の極みであり、霊界物語では、国祖国常立尊が隠退されていた場所。

昭和三年8月26日(旧暦7月12日で出口王仁三郎の誕生日)、出口王仁三郎は、北海道にあって、国祖国常立(くにとこたち)尊の神霊を綾部の四王山(四尾山)に奉迎された。以下は出口王仁三郎の四首。

『永遠に御代を守らす大神の みあらかなれや芦別の山

芦別の山を立ち出で四王の峯にうつらす常立の神

芦別の山にはいかし四王の神山にやさし元津大神

芦別の山の尾根より四王の山につづける黄金橋はも』
(新月の光 上巻/木庭次守/八幡書店P180から引用)

かくして出口王仁三郎の手によって、国祖国常立尊は、日本の中心にして、世界の中心である綾部に招来され、三千年の隠退を終え、本来の場所に昭和の初めには戻った。

これにより、北海道と関西の綾部に黄金の橋が架けられた。

これはいわゆる型であって、現実界のことではないが、現実界ではいかほど毎日クレイジーな神知らぬ生業が行われ続けても、荘厳なご神業は、今日に至るまで行われ続けている。

出来事は、霊界に先行して現れ、その後現実として実現していくが、底流に流れるマグマは、われら一人一人が形成し、現実そのものに影響を与え続けているという側面もある。

諸悪莫作、衆善奉行(悪いことをせず、善いことを行う)。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

父は少(わか)くして子は老いたる

2021-10-13 05:38:13 | 冥想アヴァンギャルド
◎老いたる子、白髪の赤子-4

法華経の従地涌出品に「父は少(わか)くして子は老いたる」とある。若い父から年老いた子供ができるということ。法華経では、25歳の仏弟子が百歳の仏弟子を我が子と言うというような輪廻転生しつつ仏道修行を積み重ね、それを前提にすれば、若い父から年老いた子供ができるという言い方ができるというような、とってつけたような話になっている。

禅僧曹山の偈では、
「今年の米が足らない時は(今年田不聚)
来年の籾を食べるしかない。(来年田有期)
年の若い父を慕って     (愛他年少父)
なんとしても白髪頭の子を産まなければならない。(須得白頭児)」

法華経に沿って読めば、この人生で大悟覚醒できなければ、来世でも冥想修行を積まねばならない。今生でも来世でも、ひょっとしたら自分より年の若い先輩修行者を師として、なんとかして解脱しなければならない、となる。

法華経の、25歳の修行の完成した菩薩は、白髪の赤子となったとして表現されている。

未来も今も過去もわかるなら、自分も他人も世界全体のこともわかるなら、それが体験とはいえない体験であったなら、白髪の赤子として再誕したと表現するのだろうと思う。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冥想十字マップ

2021-10-12 05:34:58 | 冥想アヴァンギャルド
◎老いたる子、白髪の赤子-3

逃げるアタランタXXⅢ図で、頭頂から出現したのはパラスであって、アジナー・チャクラのシンボルである智恵を得た。

人間には七チャクラあるが、当代の人間の進化という点では、アナハタ(愛)、ヴィシュダ(調和)、アジナー(智恵)の上部3チャクラを開顕するに限る。

ここで、一チャクラの属性獲得をもって、悟りと認定してよいのかという疑問も出てくる。チャクラは、何しろメンタル体以下にしか存在しないからである。

これについて端的な回答らしきものとしてダンテス・ダイジの冥想十字マップがある。


(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジ/森北出版から引用)

これによれば、悟りの側は、横軸で言えば、有相三昧、無相三昧、縦軸で言えば、調和、知恵、ニルヴァーナ。愛は縦横の交点だが、上位三チャクラであり、現代人がマニピュラの自己実現からアナハタの愛に進むことがテーマとなっているからには、悟りの側に近いと見てよいのではないか。

ただし一属性をもって大悟覚醒、解脱の側に区分するのはやや無理があるのも事実である。

西洋錬金術は、知性を順調に発展させ、叡智の極みに達するというのが、逃げるアタランタXXⅢ図ということになろうか。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

逃げるアタランタ-頭が割れてパラスが出る

2021-10-11 03:14:29 | 冥想アヴァンギャルド
◎老いたる子、白髪の赤子-2

同様のモチーフは、錬金術にもある。

逃げるアタランタXXⅢ図。
図の標題:『黄金は降り、ロードスにパラスが生まれ、太陽はヴェヌス(ヴィーナス)と交わる。

寸鉄詩:われわれは、ギリシャでのこととみなしているが
その実、ロードスに起こった奇瑞。
それは、雲から黄金が降ると、
太陽と女神キュブリア(ヴェヌス)は愛に睦む。
パラスがユピテルの頭から出ると、黄金が
雨のようにうつわの中に降る。』(逃げるアタランタ/M.マイヤー/八坂書房P212-213から引用)
※パラスは、叡智の女神アテーナーの別名。

正面に寝転ぶユピテルの頭を、鍛冶屋ヴュルカヌスが斧で割って、老いたる赤子アテーナーを出す。この舞台は蛇の多いことで有名なロードス島で、クンダリーニを暗喩する。クンダリーニは火の剣と表されることもある。火トカゲはサラマンダー

背景では、太陽と女神が交わって、男女両性具有が成り、盛んに雲から黄金が降って言祝(ほ)ぐ。

老いたる赤子パラスが出現すれば、また黄金が降るに値する。ここで叡智を得たが、これぞ解脱であり、神になるということだが、そのことを文字にするわけにはいかなかった。

えり好みをせず、男女の別を超えて、黄金なる悟りを得るのだ。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エレウシスでの覚醒プロセス

2021-10-10 07:06:45 | 冥想アヴァンギャルド
◎老いたる子、白髪の赤子-1

老いたる子、白髪の赤子のシンボルは洋の東西を問わず存在する。

ペルセポネは、ゼウスの娘だが死の世界の神ハーデースに略奪されて妻となった。ペルセポネは死の世界の女神であり、地母神となった。

アテネに近いエレウシス神殿では、古代から秘儀が行われていた。それは群衆が、大きな光の真ん中に、死の国で身ごもった赤子を抱いて死から戻ってきたペルセポネを目撃するというもの(出典:異次元の刻印(下)/グラハム・ハンコック/バジリコP172)。

大悟覚醒では、一旦肉体死が発生し、死の世界に入り、死の世界から戻って再生するのが定番のルート。どこで身ごもったかと言えば死の世界で。ただし、全員がこの世に戻れるわけでなく、1割などとも(OSHOバグワンなど)言われる。

人が個的自我を死に、世界全体、宇宙、神になるというステップは、生の世界も含む死の世界に入るということである。その全容をこのペルセポネのビジョンで洞察させる仕掛けがエレウシス神殿にはあったということだろう。

ただしその仕組みは、言われたもの、見せられたものをほとんどそのまま信じるという、古代ギリシアの原始的な自我の構造の人々に対して有効であって、それをそのまま毎日スマホやTVで動画を見慣れている現代人に見せても、現実として信じ込むということはまずあるまい。

ペルセポネは、個のイメージでなく全体のイメージ。死の世界で懐胎した赤児は、全体(第六身体、アートマン)を体験した個人として再生をスタートするのだ。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

心の御柱

2021-10-09 07:42:04 | 古神道の手振り
◎うつせみの世を改むる真木柱

伊勢神宮正殿の床下中央にある心の御柱。これは床下にあるのに柱は床に届かず、床を支えておらず、ただ立っているだけ。言うなれば誰にも見えないオベリスク。これは、内宮にも外宮にもある。

式年遷宮でも古い方の宮の心の御柱は残され、小さな覆屋(おおいや)に保護される由。(参照:伊勢神宮の謎を解く/武澤秀一/ちくま新書P266-272)

出口王仁三郎の言う柱は、神柱、人柱であって、大神の内流を受ける神と人であって、物である柱にはあまり関心がない。

霊界物語第16巻神定の地では、丹後の元伊勢に天照皇大神が降臨し、この地は、「天照皇大神が、その昔この山に現われ、産釜、産盥と称する天の真名井に御禊(みそぎ)して、神格を作り上げた我が旧蹟である。ここに宮殿を造りなさい。」という神示を受けた。

これにより一男二姫が百日百夜をかけて宮殿を造営して、天照大御神の神霊を招(お)ぎ奉り、鄭重に祭神の鎮座式を奉仕したという。これが伊勢神宮宮殿造営の嚆矢だが、心の御柱の話はない

「霊界物語第6巻21章真木柱」では、天照大神の柱から下った伊弉諾大神(いざなぎ)、伊弉冊大神(いざなみ)の二柱が国産みをする。
天照大神の柱のことを撞(つき)の御柱とも、真木柱とも称する。これが基本の三柱神であり、最初の柱が真木柱。よって、心の御柱とは真木柱のことだろうと思われる。

安土桃山時代には、見えないように心の御柱を土中に埋めたというが、仏像を拝むように拝まれてはたまらないという配慮だろう。

うつせみの世を改むる真木柱は厳(いづ)と瑞(みず)との霊魂なりけり
(出口王仁三郎:大本の道 第一二章伊都能売)
※真木柱は伊都能売(いづのめ)

西行法師が伊勢神宮に詣でて、
何事のおはしますかは知らねども忝けなさに涙こぼるる
と歌ったが、拝殿の幔幕が吹き上げられて、その先に拝むべき何も見えないところが古神道。仏教だって初期には仏像崇拝禁止だった。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地震がこわいようではいかぬ

2021-10-08 06:46:43 | 時代のおわり
◎わが身のメリットを思わず

2021年10月7日(木)22時41分頃、東京埼玉千葉を中心に震度5強M5.9の地震。帰宅困難者も多数発生、翌朝始発になっても動かない鉄道もある。首都圏で震度5強は、2011年の3.11東日本大震災以来とのこと。

3.11の前々日の3月9日に三陸沖震源の震度5弱M7.3の前震が発生したのを覚えている人も多いだろう。準備できるものは準備した方がよいでしょう。

出口王仁三郎は、地震を恐れないことを説く。
『地震
地震は壁が落ちたら外に出よ。地震がこわいようではいかぬ。こわがらないようにならねばいかぬ。
(昭和十九年十二月十五日)』
(新月の光 下巻/木庭次守/八幡書店P247から引用)

『壁が落ちたら』とは、土壁の一軒家が当たり前だった時代の話。マンション高層階ではさっさと外に出るわけにもいかない。

ただ地震を怖がらない状態とは、自分を守らない状態なのだろうと思う。自分が傷つけられようがどうなろうと、そんなことは自分の知ったことではない状態。つまり完全に利己、わがメリットを追求するということがなくなった状態なのだろうと思う。至善。

自分では髪の毛一本白くも黒くもできないが、いわんや地震時での自分が生き延びられるかどうかをや。

その先に、出口王仁三郎の地震鎮めがある。
1944年(昭和19年)12月7日午後1時35分の昭和東南海地震(震度6、M7.9、死者不明1223人)の最中に、出口王仁三郎は、神苑の根本に鎮魂し、天に向かって『鎮まれ』と二度叱咤(上掲書P239)。日本が沈没するところだったのを食い止めた。

第六身体、有、アートマン、宇宙と一体になる状態とはそういうものなのだろう。
地震を怖がらないということは、言うほど簡単ではない。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三種の「世の終わり」-2

2021-10-07 05:39:57 | 冥想アヴァンギャルド
◎老いたる子を産む、ホセイン・マンスール・ハッラージなど

三種の「世の終わり」とは、飢餓、疫病、戦争や風水火による大量死と、平素の意識と意識・想念と想念の隙間、そして冥想の極みの三つであると説明した。

だが、飢餓、疫病、戦争や風水火で大量死が起こっても、それは大量の肉体死は発生するが、救済につながる自我の死がほとんどのケースで起こるわけではないだろうことは、想像される。

また自我の死を狙って自殺してみたとしても、肉体は死ぬだろうが、まず大方の人は自己自我は死なず、中有に回って、また似たような子宮を選んで次の人生に出生していくのだろうが、解脱はしないだろうということ。

最後の審判と言えば、死後に閻魔大王の前に引き出され、大鏡で一生のパノラマ回顧動画を見せられ、自ら天国行きか地獄行きかを決めるという頻出シーンがある。だがこれは、「審判」ではあるが、救済、解脱、自我の死とは関係のない輪廻転生の一シーンにすぎない。

自我の死を目指すとは、自分が神仏になるということである。「自分が神仏になる」と唱えるのはよいが、まずそれは想像もできないことである。よって冥想修行を始めたばかりの人にとっては、様々なシンボリズムや説話が用意されているもので、それが地面と天がひっくり返るようなことであろうことは推定される。

タロットの吊るされた男、老いたる子を産む、ホセイン・マンスール・ハッラージが処刑台の上でほとんどの肉体機能を失いながら真理を説くなど、いくらでもそうした類のものはあるものだ。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三種の「世の終わり」-1

2021-10-06 05:31:55 | 冥想アヴァンギャルド
◎自分が死に、全宇宙が死に、愛の都に入る

イエスは、2000年前に、明日にも世の終わりが来ると幻視。年代特定という点でははずしたが、人生の最後の十字架上で大悟したのだから、また人類愛に生きる男だから仕方のないところがある。

OSHOバグワンの見方によれば、意識と意識の連続の間には隙間がある。そして隙間にはニルヴァーナもあるという。顕在意識からニルヴァーナに至る途中には、必ず自分が滅びこの宇宙が滅びるステージ、すなわち世の終わりのステージがあるのだろうと思う。

そして様々な冥想手法の極みで起こる、自分が死に、全宇宙が死に、愛の都に入るプロセスで起こる世の終わり。全宇宙が死ねば世は終わる。人が神になるというのは、自分とその宇宙が滅びるということ。

世の終わりの予言、最後の審判の予言と言えば、とかく社会的自分として、地球人類の一人としてどんな内容の悲劇的カタストロフィーを迎えるかどうかに関心が向きがちなのだが、冷静にみれば、平素のこの身このままが「世の終わり」にいつも直面していることを知ることができる。


生きながら死人となりてなりはてて
思いのままにするわざぞよき

生死もしらぬところになをつけて
 ねはんといふも いふはかりなり
(生も死も、わからぬものに名をつけただけで、
 涅槃というのはそういうだけのもの)
(至道無難)

隙間にも世の終わりあり。大悟覚醒にも世の終わりあり。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

台湾有事

2021-10-05 05:38:40 | 冥想アヴァンギャルド
◎神仏が鞭を見せる

台湾は有事の瀬戸際と言っても過言でない。世界の主要産業が半導体不足に悩む中、半導体の最大の供給源である台湾が有事となれば、世界は文明生活の維持に窮する。

聖書の十人乙女の話では、花婿たるイエスがやってきたが、とても遅かったので、五人は眠りこけて間に合わなかった。それは大方の予想よりはるかに遅くやってくる。昔は1999年と言われたが、実にそれより全く遅れている。

だがそれは誰も予想しない時にやってくる。ソドムのロトのように事前に知らされる家族は稀である。

台湾は日本を龍体とみた場合、宝冠のサハスラーラ・チャクラに該当する。マッカッサーがフィリピンを奪還した後に、台湾を攻撃することなく沖縄に向かったが、スピリチュアルなアドバイザーがいた可能性がある。サハスラーラは聖地であるから、普通は慎むものだ。

以下の聖なる場所は、エルサレムのことと解されてきたが、古神道家から見れば台湾のことであってもおかしくはなかろう。

マタイ:24:15
『預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。屋上にいる者は、家からものを取り出そうとして下におりるな。畑にいる者は、上着を取りにあとへもどるな。

その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。あなたがたの逃げるのが、冬または安息日にならないように祈れ。その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである。

もしその期間が縮められないなら、救われる者はひとりもないであろう。しかし、選民のためには、その期間が縮められるであろう。』

台湾有事は、実質的に日本の有事。昨日のチベット、今日の香港、明日の台湾、明後日の日本でもある。

日本人には、お人好しにも他国によかれと思ってやったことが反感を生むカルマもある。

世界の文明生活が急速に衰退するのか、徐々に衰退するのかはわからない。だがこのように神仏が鞭を見せなければ、自分自身が神仏になることにチャレンジ、トライしていくのが最優先で必要であると思ったり感じたりする人が増えないというのも、悲しい現実であると思う。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

暗の時代から恐怖時代へ

2021-10-04 05:36:17 | 冥想アヴァンギャルド
◎一切口に出さぬ事

出口王仁三郎の戦時中昭和19年3月の予言。
『〇暗の時代から恐怖時代へ

この時代・暗の時代が去ったら恐怖時代が来る。

一切口に出さぬ事が肝要である。先方より出して緒(いとぐち)を拵(こしら)えるから。

問 そして日本が清まってから世界が清まるのですか。

答 そんな事は言うてはならぬ。それが因で問題が起こるから、日本も世界も一所に来るわい。』
(新月の光(下)/木庭次守P141から引用)

まず先の太平洋戦争は、暗の時代。それ以後のこの長い平和の時代を経て、恐怖時代が来るのだろう。

今や人の顔も居場所も思想傾向も買い物傾向も、興味のある事柄も、生年月日、住所もすべて、センターサーバーで把握されているようだし、そういうのを集めている外国も超国家もあるようだ。

ある日突然に見える核戦争は、世界壊滅に至るまでせいぜい10分間。また次の戦争が、太平洋戦争やベトナム戦争や湾岸戦争のように地上戦であるとも限らない。

今般のコロナの緊急事態宣言が前日に出されて、小売、飲食業界を中心に世の中は右往左往した。戦時、準戦時ではなおのこと。

コロナの自宅療養にじっと耐える素直でお人好しの日本国民も、いよいよ食料がなくなって、思想、信教、言論の自由がなくなれば、「お上」への考え方を変える人も出てくるのだろう。

そういうシチュエイションでも一切口に出さぬこと、だそうだ。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神仏を見る、神仏になることへの関心

2021-10-03 06:18:24 | 究極というものの可能性
◎自発性を削がず、見ている自分を残さず

大災害、メガ災厄を回避する手段は、そう多いものではない。旧約聖書のソドムのロトに見るように、神仏を見た人になることか、神仏になることのどちらかが代表的である。重く莫大に積み上がった悪のカルマを日々の各人の善行で切り崩していくこと(カルマ・ヨーガ)は、効果はあるかもしれないが、多勢に無勢で焼け石に水ということがあるかもしれない。

当代において、宗教組織の外の人で、神仏を見ること、神仏になることに真剣に取り組んでいる人はとても稀れである。同様に宗教組織の中の人であっても神仏を見ること、神仏になることに取り組んでいる人もとても少ない。

もっとも教団によっては、専門道場や修道院を設けてやっているところもあり、稀少ではあるがそういう場所もないわけではない。

七つの身体でいえば、最後の二身体が神仏になること。神仏を見ることでは、見ている自分が残るので、厳密には人間の救済にはならないし、善の側から不退転でもないし、いささか不完全である。

イエス・キリストを見る、出会う、不動明王を見るカーリー女神を見るなど、神仏をどこから見るか、どういう神仏を見るかについては、いろいろなパターンがあり得る。

その効果から考えれば、そこをあまり追求しても、仕方ないのではないかと思う。

それにしても、この時代は、各人が神仏になることへの関心を持ってもらわないと、人類の正統な針路への回帰は始まらないし、その前段として神仏を見ることへの関心が高まらなければならない。

だからといって、その関心の高まりは、マスメディアやSNSで半強制的にあるいは潜在意識に訴えるものではまずい面がある。各人の自発性を削ぐからである。

最後の一段は各人が自発的な進めるものだからである。入門者が二人来て、一人は最初から錬丹のテクニカル・タームにも詳しく、知識が豊富だった。もう一人は錬丹のことは、名前を聞いたことがある程度で、同行した友人につきあいで来ただけだった。ところが大成したのは、つきあいで来た彼の方だった、ということはある。
自発性、物事の最初の「種」のエネルギーの多寡が、悟りの実現では問題になるからである。
「教えてくれなくてありがとう」ってこと。

禅の十牛図の第三図見牛は、見神見仏。神仏になるための呼び水は必要だが、時期と程度、そして師匠との縁など、一筋縄ではいかないところがある。

そうした諸条件と、「テレビ、スマホに代表されるマインド・コントロールと信教・思想管理環境」での、神仏を見る、神仏になることへの関心が高まっていかないと次の時代はない。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする