アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

キリスト教でも輪廻転生

2019-05-20 05:05:46 | キリスト者の秘蹟
◎エリヤの復活

サッカーのゴール後のパフォーマンスで、よく見かけるのは、キリスト教徒らしい選手は、十字を切って天に感謝、イスラム教徒らしい選手は跪いてアッラーに感謝。これが日本人選手だとてんでんばらばらである。

天に視線を向ければ、物事を大きく全体、集団で考えたり感じたりしがちだが、地に視線を向ければ物事を身近なものから考えたり感じたりしがちだという説もあるが、スタートはそこであっても人生の最後にはそうでない反対説の側も感得するものなのだろうと思う。

キリスト教では一般に輪廻転生はないといわれるが、預言者エリヤは、なぜか例外である。マタイ伝17章では、イエスが、既にエリヤは輪廻転生済であって、事を元どおりに改めるであろうが、しかし人々は彼を認めず、自分勝手に彼をあしらったと語ったシーンが出てくる。

教義書である聖書に輪廻転生が書いてあっても、輪廻転生はないと教える。それでもなんとかなるのが宗教ではある。教義も重要だが、自分自身がどう取り組むかの方が重要なのだ。

この話の段階ですでにバプテスマのヨハネは斬首されており、イエスの弟子たちは、エリヤの再来はヨハネだと悟ったという。この辺がヨハネ大物説の根拠なのだろう。
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ベン・シラの智恵-6

2019-05-13 05:02:02 | キリスト者の秘蹟
◎貧しい者に耳を傾け、謙遜に、おだやかに

旧約聖書の外典・偽典に分類されるベン・シラの智恵から。今回は、持てる者の持たない者への態度の話。非正規労働者が四割となり、非労働者である年金生活者だってほとんどが『持てる者』とはいえないだろう。
なお、ベン・シラの時代は女性が働いて稼ぐことはできず、寡婦の面倒をみてやることはそれなりに意義があった。

生活困窮者を見ることは、東日本大震災の直後数か月は本当に多かった。いまはまず見ないが、潜在的な困窮者は増加しているのだろう。

最近大金持ち(セレブ)がマスコミで大金持ちであることをこれみよがしに誇るシーンが多いが、それは、日本的な謙譲から言えば異端的なものである。ベン・シラの智恵を待つまでもなく、貧しい者に耳を傾け、謙遜に、おだやかに、が本来の日本的なものである。

わびさびは、持たないことを恥じず、持たないことをよしとするカルチャーだったのではないか。秀吉に利休が茅屋にわび茶を見せるというのは、そういうことではなかったか。

『一 子よ、貧しい者の生活の糧をだましとるな。懇願の眼差をじらすな。

二 飢えた魂を痛めつけるな。苦境にある人を苛ら立てるな。

三 苛立った心を余計に荒立てるな。乞い求める者に対する施しをひきのばすな。

四 窮乏を訴える人をはねつけるな。貧者に顔をそむけるな。

五 もの乞いする者から眼をそらすな。きみを呪う口実を彼に与えるな。

六 彼が恨みがましくきみを呪えば、彼を創造されたおかたは彼の訴えを聴き届けられるであろう。

七 氏子たちからは好かれるようにし、偉い人には低頭せよ。

八 貧しい者に耳を傾け、謙遜に、おだやかに返答せよ。

九 不法をされている者を不法を働く者の手から救い出せ。審くときにはびくびくするな

一〇 孤児には父代わり、その母親には夫がわりとなれ。
そうすれば、きみは至高者の子にひとしい者となり、彼はきみの母以上にきみを愛されるであろう。』
(聖書外典偽典 2/日本聖書学研究所/編 教文館P92から引用)
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ヤコブ・ベーメの自動書記

2019-05-10 05:17:49 | キリスト者の秘蹟
◎自ら書き損じもなく文章を起こす

ヤコブ・ベーメは、1600年に錫の器の凝視をきっかけに15分間の神の照明体験があって、その19年後からバンバン自動書記で著述ができるようになった。自称15分だが、本当に死と再生まで行っていれば、15分かかったのでは肉体は蘇生しないので、もっと短かった可能性もあるのではないか。

日本で自動書記と言えば、出口王仁三郎の霊界物語のように口述筆記だったり、出口ナオのお筆先のように記号や金釘流だったりしてそのままでは解読できないのもあったりするのだが、ベーメの自筆原稿は、ほとんど書き損じがなく修正の跡もないという。彼の知識の源泉は、聖霊のもたらす驚くべき知識であり、それは求めれば求めるほど得られ、そうして自動書記化していったようだ。

アカシック・レコード(キリストの霊をもつ私の中には聖書全体が蔵されている)からの書き下ろしとでもいうべきだろうが、自分で降ろし自分で書かざるを得なかったところが西洋の異端審問の厳しさなのだろうと思う。

宗教思想の相違による取り締まりの時代もまもなく終わり。
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新婦の部屋で結ばれる

2019-04-21 06:07:40 | キリスト者の秘蹟
◎聖なるものの聖なるもの

フィリポによる福音書で、イエスがマグダラのマリアにしばしば口づけするのを見て、あなたは我々弟子のすべてよりもなぜマリアの方を愛すのですかと質問したところ、イエスは、なぜ私は、あなた方をマリアのように愛さないのだろうかと問い返してきた。


フィリポによる福音書§76では、洗礼が聖なる家であり、「聖なるものの聖なるもの」とは新婦の部屋のことである。さらに洗礼には復活と救済があるが、救済は新婦の部屋の中にある、と新婦の部屋を解説する。

さらに§79では、女は、新婦の部屋で夫と結ばれるものであり、新婦の部屋で一つになったものたちはもはや離れることがないだろうが、アダムとエヴァは新婦の部屋でないところで結ばれたから分かれたのだ、と。

復活と救済の先にあるので、神を知っていることは勿論のことだが、不可分の両性具有の起きる場が、俗人の想像するような場ではないことを強調して、「新婦の部屋」と言っているように思う。

この両性具有のことを花婿と花嫁から成ったものと説明もしているが、それでは却ってわからないのではないだろうか。
古事記でも両性具有の伊都能売について全く解説していないように、準備のできた者だけに語るべきことなのだろう。
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巴里 薔薇の街

2019-04-18 05:26:53 | キリスト者の秘蹟
◎栄光を授けられた我らの内なる薔薇

巴里は、古代ローマでルテティアと呼ばれた昔から、薔薇の街として知られていた。それは薔薇の栽培が盛んな街としてではなく、パリ盆地全体のうねった地形がまるで薔薇の花びらのように中心であるパリを抱いているかのようになっていたからである。

パリは、セーヌ河岸の街なのだが、セーヌ川が大蛇行を始める寸前の位置に、ルーブル美術館とノートルダム大聖堂が位置する。そしてこの位置は、まさにパリという薔薇の花芯の位置。

カトリックという母性の位置づけの弱い実質二位一体の宗教。その反動か、フランスでは、特に聖母信仰が盛んであり、南フランスでは黒い聖母像も見受けられる。ノートルダムの直訳は我らのマダム=聖母マリアだが、錬金術的なイエスの伴侶マグダラのマリアを指すという説もある。

いずれにしても、GAFA、ブロックチェーンなどで個人への社会からの抑圧が更に厳しさを増そうとし、また一帯一路をめぐる各国の踏み絵が第三次世界大戦の陣営分けにつながっていくかもしれないという、この微妙な時期に欧州の地母神、母性の中心である、ノートルダム寺院が焼け落ちた。空撮により、それが燃え盛る巨大な火の十字架となったのを目にした人も多かったのではないか。

第五身体コーザル体から第六身体アートマンに進むことが悟りなのだが、その時人はすべてを喪失しなければならない。

キリスト教世界観では輪廻転生がないので、死を経て大悟覚醒後の復活は説明しにくいが、金で贖える復活を神は期待されているわけではなく、金ではどうにもならない方の復活を神は期待されているのだろうと思う。

パラケルスス流に言えば、『栄光を授けられた我らの内なる薔薇』は再生を期待されている。
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ゾイゼの第六身体、第七身体

2019-03-12 05:28:26 | キリスト者の秘蹟
◎自己放下、神への沈潜と一者

ゾイゼが第六身体を語っている。
『根源の一者に、再び導かれることになっている、すべての人間にとって有益なのは、自らと万物の始原を知ることです。というのは、それによって、そうした人たちの最終目標も定まるからです。ですから、かつて真理について語った者はすべて、絶対の原初で、最も単一な何かがあり、それに先んずるものは皆無であるという点では、一致した意見を抱いていることを、承知しなければなりません。』
(永遠の知恵の書/ドイツ神秘主義叢書 6 ハインリヒ・ゾイゼ/創文社P175から引用)

ゾイゼが第六身体のことを根源の一者とよび、自らと万物の始原であり、絶対の原初で、最も単一な何かであると、三様の表現をとっている。これは有の側。また根源の一者は終わりがなく測り知れず、理性によって知ることはできないとする。言葉による表現も排除する。

さらに自己放下と並行して起こる神への沈潜の始まりと終わりがこの一者であることを認めている。

かつまたその先は皆無であるとし、皆無であることを確認したのだ。これが第七身体ニルヴァーナ。
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ゾイゼの母の苦しみの克服

2019-02-27 04:55:23 | キリスト者の秘蹟
◎神に対する熱い愛慕

母は、死に臨んで息子ゾイゼに対し、主イエスの苦痛と母マリアへの心からの同情のため、30年間ずっとミサに与る都度激しく泣き続けたと告白した。

また母は、このような神に対する熱い愛慕の念が高まりすぎて、12週間病床にいたことまである。

そして彼女は、自らのあらゆる苦しみを、主が受けた甚だしい苦難に思いを込めて移し入れ、そうすることで彼女自身の苦しみを克服するという方法を身に着けていたという。

そこまで観想を徹底し、情動をイエスやマリアと同じものにしていけば、スティグマタが出たり、人間としての苦悩からの救済の道が開けるということはあるのだろう。

彼女は30年間、神への愛に立ち返りつつ生きることができた。

この母にして、自分の肉体を実験台にしてあらゆるトライアルを行ったゾイゼが出たわけだ。
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ポリュカルポスの殉教

2019-02-26 05:11:30 | キリスト者の秘蹟
◎サディズムを楽しむ系譜

ポリュカルポスは、2世紀のスミルナの主教。ローマ官憲に捕らえられ、棄教を促されたが、肯ぜず、処刑のために円形競技場に引き出された時は、既に86歳だった。

彼は、ローマ兵に「無神論者を取り除け」と棄教を迫られたが、「無神論者を取り除け」と応対したことから、汎神論風のローマの宗教を実質無神論とみていたことがわかる。
さらにローマ兵は、カエサルは主なりとか、カエサルの守護霊にかけて誓え、などとも言っており、家康というただの人間が神として崇められたようなこともやっていたようだ。

さてローマ官憲は最初野獣に彼を襲わせようとしたが、野獣競技は既に終了済であったので、野獣は見送りとなり火刑をすることとなった。

薪が組まれ、その上に縛られたポリュカルポスが乗り、点火された。すると不思議なことに炎が風をはらんだ船の帆さながらにアーチのような形に広がり、ポリュカルポスの体をぐるりと取り囲んだ。炎の中には炉の中で精錬されつつある金や銀のようなものが見えた。

やがて刑吏たちは、火が効果がないことで、結局剣にて彼を刺殺した。

さてこのポリュカルポスの最期は、不動明王段階だったのだろうか。

また周囲には観衆という、他人の不幸を見世物として嗤う人々が集まった。他人の不幸を嗤うコント・漫才というのは今でもテレビなどで生き続けているのは恐ろしいことだ。だがその背後には苦しみですらまんざらでもないという心性も見てとれる。

この事件は、キリスト者にとっては、苦難からの解放という殉教クライマックスだが、それを観覧した異教徒にとっては、それほど一本調子には事は進まない。その人間心理の状況は、サディズムを楽しむテレビ番組や他人の不幸を報道し続けるマスコミによって2千年間変わらなかったとも言えよう。

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フランシスコ法王、同性愛は罪深い行為

2018-12-04 05:21:25 | キリスト者の秘蹟
◎神仏の目からすればアウト

同性愛者は、性同一性障害という病気の場合もあるだろうが、単なる異常な嗜好の場合もある。日本のテレビやマスコミでは、同性愛者が闊歩する異常な状態である。

ローマ・カトリック教会のフランシスコ法王は同性愛を「深刻な問題」と捉えて憂慮していることが、イタリアで2018年12月1日に出版されたフランシスコ法王のインタビュー本「The Strength of a Vocation(召命の力)」で明らかにされたそうだ(2018年12月2日 15:23 のAFPBBニュース)。

まず、ローマ・カトリック教会は同性愛を罪深い行為とする立場で、2005年に初めて、同性愛傾向がみられる人々が聖職に就くことを規定で禁止。2016年に出された聖職者育成に関する教令では禁欲義務が強調され、同性愛者に加え「同性愛文化」を支持する者についても聖職に就くことが禁じられたという。

フランシスコ法王は、このインタビュー本の中で法王は「同性愛の傾向は当初は見られなくても、後になって現れる」と憂慮し、「聖職者や使徒的生活者の場は、同性愛者の居場所ではない」と断定している由。

修道あるいは修行は、神知らぬ者が、神知る者をまねぶことである。修道院での生活規則や仏教の専門道場における規則など求道者がどのように生活すべきかを記したものはあり、それは通常戒律という形で現れるもの。道教でいう善本もその系列であり、功過格もその一つ。

そうした神のルール、仏のルール、道のルールからの逸脱、違反はあらゆるバリエーションがあり、この個々人の価値観多様化の時代においては、個々人のあらゆる禍禍々(まがまが)しき行為の他に、そういう行為が巨大産業になっているものすらある。それは、もとより神のものであって、人が勝手に売買や仲介をすべきものやことではないことを商売にしているもののことである。

聖書では、黄金の子牛を崇拝するのはいけないというが、現代の黄金の子牛であるブランド品を身に着けることとか、アイドルに熱狂することはどうなのかという厳しい見方もあり得る。

このように世の中には、社会通念や法規制はないものの神仏の目からすればアウトであるものも数多い。

こうした社会に暮らす大半の人々のことを「何が善で何が悪かわからなくなった理性の発達した最後の時代の人々」と幻視されていたのだろう。
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神性に満たされた神の子の場所

2018-12-03 05:05:21 | キリスト者の秘蹟
◎すべての霊の霊性が消滅する、際限なき場所

ゾイゼの神性に満たされた神の子の場所。
『さて、露わなる神性に満たされた神の子の場所は何処でしょうか。それは神の単一性の、超実体的な光の中にあり、さらにその名付け難い名称を敢えて表現すれば、無であり、その無に移し入れられた状態に即していえば、実在する静寂であり、そこから霊が再び自らに立ち返った状態に照らして言えば、三位一体の本性なのです。

またその固有性に則して見れば、自性の光であり、創造されることのない原因性から考えれば、万物に存在を与える存在なのです。

そして暗い形状のない状態の中で、多様性はすべて消え失せ、こうして霊は、その固有の自己を失うのです。

霊は自分自身の業に関しては、無となるのです。またこれこそ、最高の到達点であり、そこにおいてすべての霊の霊性が消滅する、際限なき場所(daz endlos wa)なのです。

そしてその中で、常に自分を消し去っていること、それが永遠の至福です。』
(ゾイゼの生涯/ドイツ神秘主義叢書 5 ハインリヒ・ゾイゼ/創文社P220から引用)

自己が無に移し入れられるのは死であり、『霊が再び自らに立ち返った状態』こそが再生である。さらに霊が固有の自己を失うとは、神人合一であり(そのように表現すると異端認定されやすい)、それを三位一体と呼ぶ。霊性を失うのは自分だけでなく、すべての霊であるとし、父なる神と一体化した立場にあって、はじめてこのように言える。

その場を際限なき場所と呼び、カルマからの解脱でありながら、常に自分を消し去る生き方とは、仏教でいえば、諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教(諸々の悪をなさず、諸々の善いことを行い、自ら心を浄める、是れ諸仏の教えなり)であり、それが至福であるとする。

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イエスの黄泉下り

2018-11-22 05:02:26 | キリスト者の秘蹟
◎イエスの多忙な復活前の三日三晩

イエスは、十字架にかけられて亡くなったので葬られ、黄泉に下り、三日目に死人の中からよみがえった。
だが、このことは、
ペテロの第一の手紙4-6に『死人にさえ福音が宣べ伝えられた』とか、
マタイ伝27-52,53に『また墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った。 そしてイエスの復活ののち、墓から出てきて、聖なる都にはいり、多くの人に現れた。』などと漠然と死者の間にも宣教したと書かれているにすぎない。

キリスト教には、転生がないので、天国に入り損ねた人々は、煉獄と地獄にどんどん積みあがっていく。生きていく環境が厳しければ厳しいほど弱いものを虐げて奪うという悪事を行いやすいものだから、煉獄と地獄に吹き溜まる人数は時代と共に増えていく。
こうした人々は、最後の審判の時に上昇のチャンスがあるが、それをひたすら待たねばならないという過酷な運命が待っている。

そこで、イエスが再生までのわずか三日間を利用して、アダムとイブ、そしてその他の煉獄と地獄に苦しむ人々を、引き上げたという見方が登場した。

これは、マリア信仰みたいに本来その教義からすれば正統的なものではないが、集合的無意識にもともとインプットされていたものが、バランスをとるために浮かび上がってきたものの一つなのだろうと思う。

多くの人にとって、この世の生きづらいことよ。物の生産力が遥かに上がったこの21世紀になってすら、地獄に生きている人が多いことはどうしたことだろうか。


イスタンブールのコーラ教会の脇教会(parecclesion)のフレスコ画「アナスタシス」

※画像は、https://en.wikipedia.org/wiki/Chora_Church#/から。
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修道院でのパンの施し-2

2018-11-17 06:20:35 | キリスト者の秘蹟
◎死者への施し

イエスの言葉の中に修道院でのパンの施しの原因となる言葉が見られる。

マタイ伝25-31~36『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。

あなたがたは、わたしが飢えていたときに食べさせ、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、牢獄にいたときに尋ねてくれたからである』。

さらにマタイ伝25-40
『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』

上の2段を踏まえ、兄弟である『最も小さい者』である小児、子供、老人、貧者、虚弱者、病人、寡婦、社会的に恵まれない者等に対して、施しを与えれば救済があると説いた。

兄弟である者とは、この一なるもの、一気通貫、アートマンであり、万人を指す。

だが厳しく見れば、右の手のしたことを左手が知らないというルールを犯しているので、施しをして救済を求めるというのはまずい。だが大衆向け布教にはこういう面は付き物。

修道院では、明らかに死者のための施しとみられる機会があった。
一つは、11月1日の万聖節(聖人となった死者の日。あまり有名でない殉教者の日)。

一つは、11月2日の万霊節(一般の死者の日。輪廻転生のないこの宗教では、天国に入れなかった死者はここで思い出される。)

そして葬式と死者の命日。

この日に死者のためという名目で施されたパンは、貧者、困窮者など最も小さい者に与えられた。

欧州では、貴族が近親者の死を悼むために修道院を建立し、パンを盛大にふるまうことがあったが、最近は、基金設立に代わり、ダイアナ基金はその例の一つ。

死者に食べ物を供えるのは日本ではごく普通。欧州ではお下がりを頂くことの方が切実だったのですね。

それにしてもイエスは、磔刑の時以前にも牢獄に入ったことがあったのですね。
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修道院でのパンの施し-1

2018-11-16 05:29:02 | キリスト者の秘蹟
◎生者への施し

欧米キリスト教社会では、クリスマスなどに富者が多額の金銭を救恤団体に寄付したというニュースを目にして、いささか鼻白む思いがするのだが、中世ヨーロッパでは、修道院が、大量の寄進を受けていたことから、修道院自体が富者であり、大規模な施しを行っていた。

僧といえば、托鉢、寄進を受けて暮らすものという先入観から抜けられない頭では、これは意外なことでもある。ただ一方でアッシジのフランチェスコのように托鉢メインでやった僧たちもいた。

中世修道院は、「祈りと労働」をスローガンに掲げ、穀物庫、脱穀場、粉ひき場、パン焼き場、醸造所を敷地内に抱え、一大食糧生産工場でもあったから、生産力には余剰があった。

こうした修道院は、高位聖職者から、王侯貴族、修道僧、旅人、乞食、放浪者、病人、虚弱者、寡婦にまで、パン、ビール、ワインの他、宿泊場所まで提供しており、この宿はホスピティウムと呼ばれていた。(出典:パンの文化史/舟田詠子/朝日新聞社P259-260)

中世欧州は、生産力が低く、慢性的飢餓状態に加え、しばしば飢饉が襲ったことから、修道院は年中こうした施しをした。それでも飢餓の時期には、一日に何百人が修道院の門前で餓死していったこともあったという。

修道院はキリスト教組織として当然のことをしたのだが、一方で真理を伝承することも大切な義務でもある。

こうした富める者の習いが、現代の派手な寄付競争や寄付集めイベントに転化したとみれば、個人主義の徹底し、輪廻転生がない欧州人にとっては、まんざら弊害ばかりではなかったと思う。
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マギの礼拝

2018-09-24 06:26:18 | キリスト者の秘蹟
◎組織宗教の始まり

ヘロデ王の時代に東方からエルサレムに来た3人のマギが、ユダヤの王として生まれた子を探しにやってきた。やがてその子がベツレヘムにいると聞いた。

3人のマギは星の導きによりベツレヘムのマリアの家を訪問し、彼女に抱かれた赤子に黄金、乳香、没薬などのプレゼントを捧げた。

これは、ムリリョの絵だが、まるで3人のマギの赤子に対する姿勢は、まるで弟子が師に対するが如くである。

この師はやがて世界の師となり、以後2千年は西洋の組織宗教の中心として影響を与え続けたので、それはそれで成功だった。

この赤子を人間とみれば、師であり教師だが、神の化身と見れば、話はやや違ってくる。

その図式であれば、神と人は永遠に別であり、人が神になるなど恐れ多く、あってはならないこと。

だが、時代が21世紀に入り真に希求される宗教者のスタイルは、自分が神と合一する方のビジョンに変化した。

それは、みずがめ座の時代と呼ばれている。イエスは神秘主義的には魚であり、イエス以後の2千年は魚座の時代。今のみずがめ座の時代には、救世主と人とは友人であり、神と人とは合一できることがモチーフとなる。

キリスト教で、神人合一を語ったのは、何人かいるが、エックハルトもそうだが、そのままでは異端とされるので、弁解したり、とりなししてもらう場合がある。だが実際に異端とされた者もいる。

一方錬金術師たちは、厳格なキリスト教による思想締め付けの中で、金属精錬業に見せかけつつ神人合一の伝統を護持してきたのだろう。

キリスト教の伝統の中で神を見た人は、指導よろしきを得れば神人合一に進むこともできる。

彼らにとっても、今をどう見るか、今をどう感じ取るが重要なカギとなっている。


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エノク書の人間の寄せ場

2018-05-07 05:35:57 | キリスト者の秘蹟
◎すべての人間が行く場所

エチオピア語エノク書には、死後のすべての人間が行く場所の記述が第22章にある。

曰く、西方にすべての人間の魂が戻る窪地がある。その魂は、最後の審判の日まで留め置かれる(輪廻転生がない)。

そこは以下の区分がされている。
1.義人は水の泉のあるブロック
2.悪人は、罪人(悪人)は3ブロックに分けられる。
(1)罪人であって在世中裁きに合わなかった人のブロック
(2)カインに殺されたアベルのように、その殺害を告発しようとしている場合、その犯人(罪人)のブロック
(3)悪行をさんざん犯した者。裁きの日に殺されることもなく、ここから出してももらえない。

これは天国と地獄のミックスしたような場所である。地獄と煉獄が区分されているかといえば、そうとも思えない。

出口王仁三郎によれば、地獄のスタイルは時代によって変遷し、昔の地獄の方がよほどひどかったというようなことを書いている。

エノク書は、イエス・キリスト以前であり、ならず者・荒くれ比率が今とは比べものにならないほど高かったのだろう。

現代中国では政治的に迫害された者の肝臓を皆で食べるというようなことがいまだに現実にあるようだから、昔の人の残虐度は推して知るべし。

輪廻転生がないという発想については、このようなことが考えられる。
一人のAという人間が没して後、全きAは転生しては来ないが、A‘という人間は転生することがあり、彼は、Aの記憶、カルマの相当部分を受け継いでいるがAそのものではない。だから人間Aは転生はしていない。

このような厳密な議論を採れば、人間は輪廻転生しないという見解となるように思う。

ならず者多数の社会向けに、厳しめに輪廻転生を定義づけるというところはあろう。

もうひとつ、かれらの冥想修行体系が、輪廻転生がないという見解にマッチしていたのだろうということも考えられる。

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