アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

OSHOとダンテス・ダイジの性愛冥想の違い

2019-01-15 03:04:01 | カーマ・ヨーガ(性愛冥想)(冥想法4)
◎バグワン流

OSHOバグワンもダンテス・ダイジも性愛冥想には、わずかなヒントしか残していない。

だが、二人の性愛冥想には決定的な違いがある。ダンテス・ダイジは、不倫というようなわだかまり的なものがある場合は成就しないというようなことを言っているのに対し、OSHOバグワンは弟子の間での性愛パートナー交換は日常的だった。この点はクリティカル。

OSHOバグワンは、タントリズムはじめいろいろな宗派の経典をひいては性愛冥想についてコメントしているが、どうもダンテス・ダイジのそれとは全く別のものを言っているように思えるのだ。

OSHOバグワンのプーナに移る以前で、わずか25人程度のグループだった時代に弟子になったヒュー・ミルン。彼の著書『ラジニーシ・堕ちた神(グル) 多国籍新宗教のバビロン ヒュー・ミルン/著 第三書館』は敬して遠ざけるみたいにしていたが、改めて今読んでみると、冷静で緻密な書きぶりの求道者であり、のっけから、自分は20台だけどOSHOバグワンの指図で年齢が倍の面識のない婦人(小教団のリーダーで30人の弟子をインドに連れてきていた!)と、夜、メイク・ラブすることを指示された話が出てくる。

幸運にも、これは見事に失敗した。

当時から教団周辺のインド人からは、OSHOバグワンは、セックス・グルで、セックス教団と陰口をたたかれていた。OSHOバグワン自身もオルガズムに導く技法について解剖学よろしく細かく講義もしていたという話も出てくる。だが、信者同士のフリーセックスは奨励し、自らもパートナーを次々に変えていたらしい。

ところが教団内は、上水道などの問題で、もともとあまり清潔ではなく赤痢が蔓延した上に性病も蔓延。こうしたやり方もやがて下火になったという。エイズが出てくる前の時代のこと。

男性がパートナーを変えるのと女性がパートナーを変えるのは、意味が異なると思う。

平たく言えば、OSHOバグワンは、相手の心理を読む神通力は持っていたが、女心を理解することにはあまり関心がなかった。それに対して、ダンテス・ダイジは、女心のことは十分に理解していた。その辺がダンテス・ダイジの不倫はダメみたいな話につながってくる。

よって、そこから出てくる性愛冥想へのアドバイスは、二者間で自ずと異なる。

これは私の想像だが、前世で、生真面目なチベット密教修行者だったり、孤独なクンダリーニ・ヨーガ行者だったOSHOバグワンは、性愛方面では経験不足であり、大いにカルマを残していたのではないか。

これに対して、モテ男クリシュナの後身であるダンテス・ダイジは、女性のことは何でも掌を指すように理解していた。


OSHOバグワンは、集団の裸体冥想もやっていた。ヒュー・ミルンは、その写真を目にした。

そういう風景は天国(出口王仁三郎の霊界物語に指摘あり)にはある。また家の宗教がジャイナ教だったバグワンらしく、ジャイナ教風でもある。だが、インド人ならずとも、どの国でもそれをやれば皆顰蹙する。

覚者の合理的判断は尊重すべきではある。だが、それが社会の迷惑を全然顧みないで出ることも時にある。その一例がこれ。

ダンテス・ダイジは、OSHOバグワンが、コミューンでチャレンジしていることは評価していたが、弟子たちに対して真摯であったかどうかは疑問であるみたいなことを言っている。そういうのがバグワン流なのだろうと思う。


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オルガズムと無我、無時間、無思考

2018-12-22 06:22:33 | カーマ・ヨーガ(性愛冥想)(冥想法4)
◎性エネルギーとジャンプ・アウト

セクシュアル・メディテーションは、まず求道心が双方にないと成立しない。不倫であっては成立しない。二人に愛がないと成立しない。

何でも語ってくれるOSHOバグワンの片言には、時に性的ヨーガの片鱗を示すことがあるのだが、内なる女性とか、内なる男性の話にはぐらかされたり、性的ヨーガには何種類かあるのではないかと推測される発言がある。

そこで気にすべきなのは、セクシュアル・メディテーションというのは、男性のための冥想手法ではないのかということである。
密教では、明妃と結合した男性の交合像が堂々と存在する。これぞ、それが男性側の冥想法であるというシンボルであって、女性の側の悟りが主眼であれば、女性が顔を見せたり、台座の向きが女性が正面を向く形で作られているのではないだろうか。

そこで女性の窮極と男性の窮極は違うのではないかということ。このことは100年前以前の男性優位の社会では、求道の世界では暗黙の了解であった。あたりまえすぎて誰も言わなかった。ところが、男女平等の昨今では極めて言いにくい事柄となっている。

でもこのことは、70億人総冥想時代にあっては、ある程度オープンにしないと、いろいろな問題が起きてくるように思う。

性のオーガズムでは、思考は消え、時間は止まり、自分は相手に溶け込み自我はない。ここから冥想が始まる。(神秘家の道/和尚/市民出版社P436)

だが一般に男性のオーガズム(感覚)は女性ほどでなく、そこまで入れ込まない。だからOSHOバグワンの語る性的オーガズムの無我、無時間、無思考は、男性には感覚ではなく、洞察されるものなのだろうと思う。そこで冥想するというのは、いわば当然の流れ。

性エネルギーは、出産の源流でもあり人をこの世から脱出させるクンダリーニのエネルギー・コードでもあって、些細な快楽の道具などではない。

ライヒもOSHOバグワンも性的抑圧をなくそうと主張したが、それは、性エネルギーという膨大なエネルギーを自らのジャンプ・アウトに向けていけるという洞察があってのことだったと思うが、世間はまず理解してくれなかったし、OSHOバグワンのコミューンもそこまで成熟することはなかった。

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明朝と性的ヨーガ

2016-11-11 05:40:59 | カーマ・ヨーガ(性愛冥想)(冥想法4)
◎性事と政治

性的ヨーガとは、カーマ・ヨーガのことであり、北インドでアティーシャがこれを修したとされ、また、歴代ダライラマのうち何人かがこれを修したとも言われる。チベット密教に性的ヨーガがあるというのは、夙に中国人にも知られ、中国には道教の房中術があるにもかかわらず、唐代以降のチベット仏教流入の影響からか、明代の複数の皇帝はチベット風カーマ・ヨーガにふけったとされる。

いわゆる乱倫乱交とカーマ・ヨーガは全く異なったものである。
書物の幾何かにあたってみたが、一口に性的ヨーガと言っても、その狙うところの相違からか幾つかの種類があることに気がついた。ただ瞑想の深まりというものがないと性的ヨーガは成り立たないのであり、パートナーの選定も重要なファクターである程度のことはわかった。

さて中国明代第六代英宗皇帝から第十一代武宗皇帝までは、連続してカーマ・ヨーガに没頭した。特に武宗は、後宮に外観はイスラム風で中はチベット風の豪華宮殿「豹房」を作らせ、大勢の女性と日夜カーマ・ヨーガを修行した結果、31歳で急死した。

こうした皇帝は政務を顧みないので必ず国は乱れる。六代英宗皇帝は、果たして宦官王振の専横を許した。宦官王振は、もともと英宗の家庭教師だったが、王振は蓄財を目的に自宮(自ら去勢)して宦官となった人物であり、政治に対する理念に乏しく権勢と蓄財に邁進する性格であった。王振の専横により朝政は弛緩し、国内では社会不安が高まって思任発や鄧茂七らの反乱が勃発し、北方のオイラトはしばしば長城を越えて明へ侵入した。

トランプは宦官ではないが、政治に対する理念に乏しく権勢と蓄財に邁進する性格だとすれば、皆が期待するようなことにはならないかもしれない。有能で成功したビジネスマンは覚者ではなく、自己のメリット追及のチャンピオンであるだけなのだ。
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古代ローマのセックス競争

2016-09-27 05:34:44 | カーマ・ヨーガ(性愛冥想)(冥想法4)
◎皇帝クラウディウス・カエサルの妻メッサリナ

古代ローマの第4代皇帝クラウディウス・カエサルの三番目の妻メッサリナは、その飽くなき性欲で知られる。

プリニウスは博物誌で、動物はセックスで足ることを知るが、人間は四季昼夜いつでもできるし、足ることを知らないとし、その例としてくだんのメッサリナの事件を挙げる。

メッサリナは、皇帝の妻として人間は一日何回できるかを示すことが王者の誇りだと考えたらしく、職業的売春婦のうちで最も有名な娘を選び、彼女を打ち叩きながら25回もの試合を行わせた。

こういうのは、古代ローマならではのあきれたイベントと考えられていたのだろうが、はずかしいことだが、今の時代はこれに類する動画はあたりまえに存在している。

この辺が、現代人の悪に対する感度が緩いあるいは、悪に対して寛容とされるところだと思う。

クラウディウス・カエサルは、イエス・キリストと同時代の人物。こうしたローマの爛熟と腐敗が、ローマの辺境で救世主の誕生を起こし、またそのリアクションがローマ全域に広がるモーメンタムとなった。

現代人は、自分と社会全体の腐敗度について、曇りのない目でみることが必要である。その直截な手法が冥想である。

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ダライラマのカーマ・ヨーガ-3

2016-07-10 06:25:40 | カーマ・ヨーガ(性愛冥想)(冥想法4)
◎マーヤ(幻影)を空性の悟りの智慧に変容させる

チベット密教では、サンヴァラ(交合)は、空性大楽に誘う。空と楽を結合させる必要性については、マーヤ(無明、幻影)を空に転換するのだから、楽という原始仏教の初禅から三禅までの始めの段階でみられるエレメントをことさらに用いるのは、当然と言えば当然なのかもしれない。

空性大楽とは、空性の悟りの智慧と楽の深い経験が、分かちがたく結びついていること。空性大楽とは不変の楽のこと。

『無上ヨーガタントラのクラスの密教においては、体内の生命元素のことを菩提心と呼びます。実際にこの菩提心を溶かしだすためには、性的魅力のある異性に対して感じるような欲望の感情をまず持つ必要があります。そうすれば、その欲望の力によって、体内のエレメントが溶けだし、概念のない心の状態が生まれてきます。菩提心が溶けはじめたら、さらに、それに意識を集中させる必要があります。

体内で菩提心が溶けだすと、至福にみちた概念のない状態(空性大楽)の経験が生じます。もしこの至福を味わいながら、その本性は空であると認識している心の状態を生み出すことができれば、幻影を空性の悟りの智慧に変容させるという一大事を達成したことになります。なぜなら、この智慧は、もともとは貪欲という煩悩だったのですから。

概念のない状態―――つまり、至福に満ちた心―――の体験をつうじて空性を悟ることができれば、そうやって生み出された智慧は、苦しみの原因となる煩悩やあやまった認識の力をすべて弱める、きわめて強力な解毒剤としての役割を果たすようになります。幻影から生じた智恵が、幻影を破壊するのですから、幻影そのものが幻影を破壊するのだ、といってもいいかもしれません。

性的欲望から生み出された至福に満ちた空の体験が、その性的衝動の力を融解させてしまうのです。これは、木に生みつけられる虫の生き方に似ています。この虫は、自分が生みおとされたまさにその木を食べるのです。幻影を悟りへの道の推進力として使うことは、密教のユニークな特徴です。』
(宇宙のダルマ/ダライラマ/角川書店P132-133から引用)

最近巷間の房中術本を読んでみたが、大半は快感追求に終始し、ダライラマのように人間を超えていく技術の展開として捉えているものはなかった。

若い時期の禁欲はきついが、禁欲の準備ができた者だけが、その先に進むことができる。また性的衝動が悟りの推進力なのだが、その原理は、カーマ・ヨーガだけで用いられているわけではない。
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ダライラマのカーマ・ヨーガ-2

2016-07-09 06:17:42 | カーマ・ヨーガ(性愛冥想)(冥想法4)
◎エクスタシーの秘密

ダライラマは、無分別智から光明に至ることを示し、日常の生活体験には無分別智にコンタクトするチャンスが性的な絶頂時など4種あることを示した。以下では、性的な絶頂時と射精コントロールについて説明する。

『これらの自然に生じる四つの状態の中で、光明を体験する最高の機会を与えてくれるのは、性的な絶頂時です。もっとも、「性的」といったからといって、ふつうの意味ではありません。異性と一体になることによって、生命力の元素が頭頂から溶けだしてきます。

さらに瞑想の力によって、その流れを逆流させ、上昇させるのです。性的ヨーガのきわめて高度な修行をおこなっていく場合、行者に欠かせない条件のひとつは、射精しないだけの十分なコントロールの力を持っていることです。射精は修行のさまたげになると考えられているのです。

特に『カーラチャクラタントラ』は、精液の放出は、修行にダメージをあたえるから、夢のなかでも精をもらさないように、みずからをコントロールしなければならないと、強く戒めています。

無上ヨーガの密教経典には、行者が夢精を避けるための、さまざまな技術も説明されているのです。このような無上ヨーガタントラの考え方は、小乗の戒律であるヴィヤナとは対照的です。ヴィヤナのなかで、ブッダは、夢精を例外として認めています。修行者の意識的なコントロールを超えていると考えられるからです。

ところが夢の中であっても射精することのないように努力すべきだと、タントラは特に強調しているのです。』
(宇宙のダルマ/ダライラマ/角川書店P131-132から引用)

小乗では夢精を認め、密教では夢精をも認めない。その差異の結果については言及していないが、チベット密教では行者が夢精を避けるための、さまざまな技術も説明されているほどにここの部分は厳格に対処されてきたのだろう。

改めて言うまでもないが、これは男性側の修行となる。エクスタシーにあっては、生命力の元素が頭頂から溶け出すが、それを上方に逆流させることだとグランド・デザインを示している。


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ダライラマのカーマ・ヨーガ-1

2016-07-08 05:35:03 | カーマ・ヨーガ(性愛冥想)(冥想法4)
◎自然に無分別智を経験する

ダライラマが、密教でのカーマ・ヨーガに言及している。
『『秘密集会タントラ』の本尊のうち、ジュニャーナパーダ流でおもに用いられるグヒヤサマージャ・マンジュシュリーヴァジュラの究竟次第についての注釈である『マンジュシュリームカーガマ』(マンジュシュリーの聖なる言葉)の中で、インド人の導師プッダシュリージュニャーナは次のように言っています。

この惑星に人間として生まれた者は、誰であれ、その身体構造と構成元素のおかげで、光明や概念のない状態(無分別) と呼ばれる繊細な意識のありようを、わずかな間ではあるけれども、自然に経験する場合がある、と。

それは、睡眠中、くしゃみをするとき、気絶、そして性的な絶頂時です。自分自身の中にもともと何らかの潜在能力や種子があるからこそ、それを大きく成長させることが可能なのです。』
(宇宙のダルマ/ダライラマ/角川書店P131-132から引用)

※直観智とは、般若のことであって、無分別智ともいう。主体客体を離れた智恵のこと。あなたは私であるという境地にあって初めてこれを知る。

チベット死者の書では、死の最初のステージで原初の光明という悟りに早くも到達するが、無分別智はその手前。修行によって主体客体を離れるのは簡単なことではないが、ここでは、自然な生活の中で、般若=無分別智へコンタクトすることがあることを指摘している。

このわずかなチャンスであっても、人間には無限光明に向かう可能性があることの説得材料として、チベット密教者はこれを出してきている。この4種のチャンスの中でくしゃみはもっともありふれているが、その一瞬に般若を感得するには、相当な繊細さが要求される。

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秘密集会タントラの神秘的な合一

2016-06-15 05:07:06 | カーマ・ヨーガ(性愛冥想)(冥想法4)
◎涅槃に最も近い神秘的物質

エリアーデは、カーマ・ヨーガの聖典、秘密集会タントラ(グフヤサマージャ・タントラ)が、性交も涅槃の入り口であることを示す文献であることを指摘している。

『タントラの最も重要な文献の一つ、『グフヤサマージャ・タントラ』を注釈して、月称(チャンドラキールティ)とツォンカパは次の点を力説いしている。

性交儀礼の問に、神秘的な合一(samapatti)が実現され、その結果二人は涅槃の意識を獲得する。男においては《菩提心》(bodhicitta)と名づけられるこの涅槃の意識は滴(しずくbindu)として顕われ、いわばそれと同一である。その滴は頭の頂上から下り、五重の光を発出して性器官を満たす。月称はこう命じている。「合一の問、金剛杵(vajra)と蓮華(padma)とをその内部が五重の光で満たされていると瞑想しなければならぬ」。

《滴》は涅槃の意識と同一であり、そうしたものとして頭の頂上で形成されると考えられており、普通そこで内的な光が体験される。したがって《滴》は涅槃の意識の「光明」に他ならない。
とはいえタントリズムにおいては、菩提心は同時に精液の本質と同一視されている。

この逆説的な過程をよりよく理解するためには、インドの精緻な生理学の細部に立ち入らねばならない。
少くとも次の事実を想起しておこう。涅槃の意識は絶対的な光の体験であるが、それが性交儀礼によって獲得されるとき、その光は有機的生の奥深くにまで入り込み、その奥底においても、精液の本質そのものの中に、神的な光、「宇宙」を創造した原初の光輝を見つけ出すことができる。

大乗仏教にとって、神秘的な光と精液の本質とのこの同一視は馬鹿げたことではない。
なぜなら、宇宙の諸要素、如来、そして結局のところ全存在の根源、および菩提心の様相、これらは悉く「原初の光」によって成り立っているからである。』
(エリアーデ著作集第六巻 悪魔と両性具有/せりか書房P44-45から引用)

《滴》は涅槃の意識の「光明」であり、死のプロセスにおいて万人が最初に目撃?する原初の光明のことである。多くの正統的な冥想マスターが弟子に対して不犯、禁欲を要求するものだが、これによって、その理由を想像することができる。

この修行では、射精してはならないので、精液は物質レベルの精液を指すと考えてはいけない。また精液を涅槃の展開の一つと見るのは通俗的過ぎるが、カーマ・ヨーガにおいては、あるいは密教においては、精液こそ涅槃に最も近い神秘的アイテムであると示している。だが、こういう世間常識からするといかがわしすぎるメソッドやらシンボリズムは、邪道に落ちやすいため左道というありがたくない分類名をいただいている。

しかし真に情熱あふれる修行者にとっては、その困難さもあまり問題にしないかもしれないが、極めて難易度の高い道であることは間違いない。
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セクシュアル・メディテーション

2016-06-04 05:59:54 | カーマ・ヨーガ(性愛冥想)(冥想法4)
◎自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり

道家の房中術を俟つまでもなく、性愛をジャンプ台としてジャンプ・アウトできると見て、その可能性に言及した人物は、古来時折姿を見せる。しかし、それは、取り扱うものがものだけに、左道タントラや、真言立川流のように、全く宇宙意識、空、無、大神、ニルヴァーナなどとは全く違う方向に行きやすいものである。

ダンテス・ダイジのセクシュアル・メディテーションに関する言及では、

人は性愛によっても神秘体験を誘発するためにトランス状態に入ることができる。
自我意識の希薄化は、それがどのような方法で生じたにせよ、狂気にも至高の神秘体験にも開かれた状態なのである。
そして開かれた意識が狂気に落ち込むか至高の神秘体験に高揚するかは、結局その人の霊的主体の素直さ、広さ、高さ、深さの度合いによると言える。
私たちは悪霊、狂気を恐れてはならない。
あるがままの率直さのみが、私たちを私たち自身の本源的光明の中へ回帰させることができる。

というのがある。

自我意識の希薄化した状態がトランスだが、性愛でトランスは生じることがあり、そこから狂気に進む場合とニルヴァーナに行く場合がある。その分かれ目こそが、あるがままの率直さを持ち得ているかどうかだと示している。

勿論率直さだけでたどり着けるわけではなく、広さ、高さ、深さという表現で、魂の成熟度を測るメジャーを出してきている。

 一方で、悪霊、狂気を恐れないで、また自分が上記の成熟度を満たしているかどうかもわからない状態で、セクシュアル・メディテーションに突入するのは、自殺行為のようなものであることは察せられる。

セクシュアル・メディテーション、性愛冥想は誰もが関心を持つものだが、その難易度は極めて高いものだ。観想法と神格召喚を伴った房中術を儀軌どおりにこなしたとしても、それにより神人合一するかどうかは全く別の問題なのである。

セクシュアル・メディテーションでの犬死を避けるべく、マスターの存在は大きい。

道元は、
仏道を習うというは、自己を習うなり。
自己を習うというは、自己を忘るるなり。
自己を忘るるというは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるというは、自己の身心および
他己の身心をして脱落せしむるなり

と言ったが、性愛で自己を忘れ、アートマンなる「有」を確認し、自己の身心および
パートナーの身心を脱落させるのが、性愛冥想なのだと思う。
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道教のセックス冥想

2016-06-03 05:42:54 | カーマ・ヨーガ(性愛冥想)(冥想法4)
◎房中術

道教には房中術がある。道蔵にある上清黄書過度儀によると、まず男は女の師のところを、女は男の師のところを訪問する。(異性マスターと弟子の交合修行なり)

静室に入って男は寅の方角と時刻の上に立ち(東北東・午前4時)、女は申の方角と時刻(西南西・午後4時)の上に立つ。

次は観想であって、体内24神を始めとする気や神格を存思=冥想するのが、第二ステップから第十三ステップまで。この観想でもって上元、中元、下元(上中下の三丹田にそれぞれある気)の三元の元気がそれぞれ結びつき、道を成就し、死者の戸籍から名を削られ、種民(人の寿命をつかさどる天・地・水の三官の神々から不老長生を保証された選民)となり、この二人の元気が身体に満ちあふれることをありありと想像する。この観想が、呼吸法や身振りを入れながら行われる。

第十四~十五ステップでは、双方裸身となり、お互いに手足の指を組み合わせて、九宮の魔法陣を構成しながら、呪文をとなえる。

第十六ステップからは、営みとなるが、男は、女が自分に気を施してくれるように唱え、女も男が自分に気を施してくれるように唱える。次に神咒をとなえながら一体化し、北極に坐す桃康という名の神として、眉間のアジナー・チャクラ(命門)にある様を観想しつつ唱える。生気を鼻から三回入れ、三回、五回、七回、九回の計24回嚥下して、神咒を唱える。

ピークとして九一(究極)がその中に生ずるという言葉を二人で云って、その後は召喚した24神を元に戻す等、それまでの儀式を逆にたどって終わる。(以上出典:からだのなかのタオ/石田秀実/平河出版社)

これは、観想法と神格召喚を伴った房中術であって、たとえばチベット密教のそれがこれと同じかどうかはわからない。ただいかにも男女平等的な儀式にあって、実はこれが男性側の修行形態であることは強調されていないようで、また大悟に至る成功確率が相当に厳しいであろうことは想像される。

この房中の道に志す者は、本当にすべてを捨ててかからねばならないだろうとは思う。
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ポンパドゥール夫人の「霊薬」

2012-10-22 05:55:50 | カーマ・ヨーガ(性愛冥想)(冥想法4)
◎寵姫一代

寵姫とは、愛人の歓心を惹くことにたけたプロである。
『ルイ十五世の寵姫ポンパドゥール夫人は、幼少より病弱で、幾度となく喀血して周囲の者を心配させていた。愛妾となってベルサイユ宮殿に住むようになってからも、王の寵愛を引き留めようと怪しげな精力剤を飲み、寵姫の座を去ってからは女衒めいたことまでしてその地位を守ったと言われている。

そのため彼女の死んだときには、次のような歌がつくられた。
十五年は生娘、
二十年は売女、
八年は女衒たりし者
ここに眠る

ボンパドゥール夫人が、実際国王の寵愛を失うまいとしで食餌療法までしていたことは、侍女のオーセ夫人の『回想録』からも明らかである。

「私はもう数日前から気づいておりましたが、夫人は朝食に、ヴァニラを三倍にし、龍涎香でかおりをつけたココアを出させていました。また松露(トリュフ)やセロリ入りのポタージュを召し上がっていることにも気づいておりました。」

ここに出てくる龍涎香入りココアもセロリも媚薬である。
龍涎香はマッコウクジラの腸内からとれる灰色をした蝋のような物質で、麝香のような強烈な匂いがあり、催淫効果も高いため、香水や愛の秘儀に用いられる。

ポンパドゥール夫人亡き後、ルイ十五世の寵姫となったド・バリ伯爵夫人もこの香りを好み、十八世紀のフランスの道楽者は龍涎香入りハッカドロップをかんで口臭をやわらげた。』
(媚薬の博物誌/立木鷹志/青弓社P89-90から引用)

セロリも媚薬だったのですね。生野菜を食べる習慣はあまりなかったのでしょうから、薬膳の一メニューみたいなものでしょうか。

愛人と出会うことは、外見の美醜の評価は言わずもがな、体臭、口臭まで評価されることになるので、その基本に忠実に食生活までも媚薬づくしだった。

彼女が寵姫以外の生き方ができたかどうかを語るよりも、40代以降も女衒のようなことまでして王に取り入ろうと努力をしたポンパドゥール夫人の生一本な生き方には、感心させられるところがある。そういう本気なところから次が展開するのだと思う。


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悟りとは何か
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愛欲と七転生

2011-09-13 05:55:14 | カーマ・ヨーガ(性愛冥想)(冥想法4)
◎スピード感なきカルマ・ヨーガ

ジョン・ダンの深い愛欲の海にどっぷりとつかると、なぜ人は七回しかないその輪廻転生コースを無駄遣いするのかと不思議に思う。

『五 人の快楽ははびこるもので、また愛執で潤おされる。実に人々は歓楽にふけり、楽しみをもとめて生れと老衰を受ける。

六 愛欲に駆り立てられた人々は、わなにかかった兎のように、ばたばたする。束縛の絆にしばられ執著になずみ、永いあいだくりかえし苦悩を受ける。

七 衆生は愛執に縛られて、移りかわる生存に心がなずんでいる。人々は悪魔によって軛にむすばれ、安穏を失い、生死のうちに落ちて来る。もろもろの軛は実に超克しがたいものだ。

八 しかしこの世において愛執を捨てて、移りかわる生存に対する愛執を離れ、愛執の消え失せた修行僧は、欲求することなく、ときほごされている。

九 この世において極めて断ち難いこのうずく愛欲のなすがままである人は、諸の憂いが増大する。雨が降ったあとにはビーラナ草がはびこるように。

十 この世において極めて断ち難いこのうずく愛欲を断ったならば、憂いはその人からえ失せる。―――水の滴が蓮葉から落ちるように。

十三 男は愛執を妻として、長夜に臥す。ひそむ妄執のゆえにくり返し流転輪廻して、くり返し母胎に入る。このような状態、それとは異なった状態というふうに、輪廻のうちに行きつ戻りつする。

十四 神々も人間も愛執に依っていて、欲求している。その執着をなす愛執を渡ってのり超えよ。汝は瞬時も空しく過すな。時を空しく過した人々は地獄に堕ちて憂いにしずむ。』
(真理のことば・感興のことば/岩波文庫P170-171から引用)

これは釈迦の言であるが、愛執をどうやって離れるかは書かれていない。一旦は愛執そのものに没入して本気で愛欲三昧して、本当にセックス・フリークがいやになって、それから初めて愛欲を離れるのだろう。

そして冥想。一日のうちに冥想によって心を整える時間がないと、人は自分が本当は何を望んでいるかすらわからないものだ。

釈迦は、人間の通常転生コースがたった7回しかないなんてことは言わない(インド後期密教では出てくるという)。ジャータカ(釈迦前生譚)では、釈迦は何万生も動物や虫けらの人生を過ごしたかのように語っているが、それは本当なのだろうか。人間に転生してくるだけでも大変なのに、ジャータカ風ならば何万生もそのカルマ・悪因縁を浄化するために費やさなければならないというのは、人を簡単に絶望に追い込む世界観なのではないだろうか。

アヴァンギャルドな現代人には、ジャータカ風のカルマ・ヨーガはスローに過ぎる。



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悟りとは何か
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私はどんな女でも愛せる

2011-09-07 05:52:32 | カーマ・ヨーガ(性愛冥想)(冥想法4)
◎真心のない男

ジョン・ダンは、16世紀のイギリスのフリー・セックス詩人。この詩の無差別は、山岡鉄舟の男女の無差別ではなく、そこまで見切る以前の、「不実な女なら無差別に愛せる」といった、砂漠的な風景の描写である。

山岡鉄舟もダライ・ラマ6世ダンテス・ダイジも光明に出会う以前に男女の闇に没入していた時期があった。そんな大胆な覚者もいる。
悟った後の一休の愛欲生活は、どんな気持ちだったのだろうか。不実ではなかったのだろうか。そこには女性の真の幸福をどう見るかという、語らずもがなの真相が横たわっているように見える。

『無差別

色白も、色黒も、僕には愛せる。
賛沢にとろける女も、貧乏に負けて堕落した女も、
一人孤独を愛する女も、仮面劇や芝居を好む女も、
田舎で育った女も、都会で大人になった女も、
簡単に信用する女も、疑い深くて試す女も、
スポンジのような目で、泣きじゃくる女も、
コルクのように乾き切って、泣かない女も、
あの女でも、この女でも、君でも、君でも、
誰だって、不実な女であれば、僕は愛せる。

他の悪事では満足できないのか。
君の母親の真似ごとをするだけでは不十分なのか。
それとも、悪事の果てに、新しい罪をつくる気か。
或いは、男の真心を恐れて、悩んでいるのか。
我々男には真心などない。君もそれに倣え。

僕には二十人の女、君も同数の男をつくれ。
僕から奪え、だが、縛らずに行かせてくれ。
君の肉体を通り過ぎようとしただけなのに、
君の真心のせいで、僕は奴隷にされるのか。

溜息混じりの僕のこの歌を聞き、
ヴィーナスは愛の最も甘美な部分、変化にかけて、
こんな話は初めてだ、絶対に許せない、と誓った。
彼女は出かけ、調査をして、間もなく帰ると、
二人か、三人か、女の中には、哀れな愛の
異端者がいて、危険な貞節の風を確立する
ように努めていたが、あくまで真心を守る
のなら、その真心を当にならぬ男に捧げる
羽目になるぞ、と言ってやった、と宣うた。』
(ジョン・ダン全詩集/名古屋大学出版会P15-16から引用


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悟りとは何か
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タントラの現実

2011-07-17 06:39:14 | カーマ・ヨーガ(性愛冥想)(冥想法4)
◎谷体験

和尚バグワンのタントリック・セックスの見方。それは週刊プレイボーイや女性セブンのセックス観とは全く異なったものとなっている。

『タントラはセックスを教えているわけではない。ただたんに、セックスは至福の源泉となりうると言っているまでだ。そしていったんその至福を知ったら、その先へと進むことができる。なぜならあなたはもう真実に基礎を据えているからだ。

セックスとは永遠にとどまるべきところではなく、跳躍点として使うものだ。これこそタントラの意味するところだ。セックスは跳躍点として使える。いったんセックスのエクスタシーを知ったら、神秘家の語っている、より大きなエクスタシー、宇宙的オーガズムが理解できるようになる。』
(愛の円環/和尚/市民出版社p55-56から引用)

『タントラ的セックスとは、根本的に、まったく正反対であり、違っている。それは放出ではない。エネルギーを外に放つことではない。それは射精なしで、エネルギーの放出なしで、性行為の中にとどまることだ。溶けあったまま性行為の中にとどまる・・・・・・性行為の後半部ではなく、前半部にとどまる。これによって性行為の質は変わる。質がすっかり別のものとなる。

(中略)

そして第二点。興奮とは始まりでしかない。ひとたび男が挿入したら、ふたりはくつろぐことができる。動きはまったくいらない。ふたりは愛深い抱擁の中でくつろいでいればいい。ただ男なり女なりが、勃起の減退を感じたら、そのときにだけ、多少の動きなり興奮が必要になる。でもそれからまたくつろぐ。この深い抱擁は、射精なしで何時間も続けられる。それからふたりは共に深い眠りの中へと入ればいい。

これこそが谷オーガズムだ。ふたりはくつろいでいる――――ふたつのくつろいだ存在として出会う。

(中略)

しかしタントラとはあくまで谷オーガズムだ。頂上体験ではなくて、谷体験だ!』
(同上書p63-67から引用)


タントラは、男性の側の修行法のはずだが、和尚バグワンは女性が誤解するだろうなんてことにはお構いなしだ。(巻末に女性が体験談を載せているが、妙な感じである。)

冥想修行者はセックスをもジャンプ台に使うのだが、修行者は男性に限られる。相手の女性について条件はあるが、女性にとってそれがどうかなんてことは、本筋ではないせいか、饒舌な和尚バグワンですらほとんど言及はない。ただ「ゆらぎ」は男女双方に起こるとする。

最初はくつろぎ、谷に入り、やがてゆらぎ、円環となる。これが和尚バグワンの見方。谷体験とは独特の表現なのだが、タントラ技法って本当にこれを極とするのかどうか疑問が残る。ジャンプしていないからである。

谷神が死んでいないところをまだ見ていないからである。





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深い愛の中

2011-07-16 03:56:04 | カーマ・ヨーガ(性愛冥想)(冥想法4)
◎ゆらぎ

カーマ・ヨーガの簡潔な説明。
前提条件として、「両方の体がどこまでもリラックスし、お互いに対してどこまでもオープンになり、何の恐怖も何の抵抗もないとき」を挙げているので、不倫の場合はそれだけでアウト。

(上部は胸で、下部は陰部)
男と女が出会う時、男の陰極は上部にあり、陽極は下部にある。
女の陽極は上部にあり、陰極は下部にある。

この陽と陰の両極が出会って、円環が形成される。その円環は至福に満ちている。でも普通はそうでない。普通の性行為の中では円環は起こらない。

だからこそ、あなたはこれほどセックスに惹きつけられながらたいそう嫌悪するのだ。これほどにセックスを追い求め、ほしがりながら、いったんそれが与えられると、がっかりしてしまう。何も起こらない。

円環が可能となるのは、両方の体がどこまでもリラックスし、お互いに対してどこまでもオープンになり、何の恐怖も何の抵抗もないときだ。そのようにして、自らをどこまでもゆだねたとき、両方の電気は出会い、溶け合って、ひとつの円環となる。


するとじつに奇妙な現象が起こる。タントラはそれを記録している。
あなたは聞いたことがないかもしれないが、この現象はたいそう奇妙なものだ。二人の恋人が真に出会い、一個の円環となるとき、そこに「ゆらぎ」が起こる。

少しの間彼が彼女に、彼女が彼になる。そして次の瞬間、彼は彼に、彼女は彼女に戻る。少しの間、男性が女性になり、女性が男性になる。それは円環状にエネルギーが働いているからだ。エネルギーは一つの円環となっている。

それでこんなことが起こる。男性がしばらくの間活動的になり、それからリラックスする。すると今度は女性が活動的になる。つまり、男性エネルギーが女性の体に移る。すると彼女が活動的になり、彼は受動的になる。そひてそれが続く。通常、あなたは男であるか、女であるかのどちらかだ。

でも深い愛の中、深いオルガスムの中で、しばしの間、男が女になり、女が男になるということがある。この受動性の変化は明らかなものだ。はっきり感じられ、認識される。』
(生の神秘/和尚/市民出版社p117-118から引用)

だからと言って、男の方が意図的に女になろうとしたり、女の方が故意に男になりきろうとしたりするのは、的外れなことなのだと思う。

いずれにせよ、このカーマ・ヨーガの話は断片的なのが多い。





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