アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

プラーナ・ヤーマ

2018-09-26 05:30:43 | 冥想の準備
◎血行改善と肚を作る

スワミ・ラーマは、アメリカに行く直前の11か月間、山の洞窟それも一本の光しか差し込まない洞窟で、食事は支援者が差し入れてくれ、排せつ物を流す溝がついているタイプの洞窟で冥想を繰り返した。

その洞窟には、出入り口はなく、封鎖されているので、冥想をしない限りは、精神に異常を来すとは、スワミ・ラーマ自身が述べていること。

実験心理学なら長期の感覚遮断実験であり、こういう環境で、冥想しないとどうなるかは、20世紀から知られている。

チベット密教行者は入り口を塞いだタイプ山の洞窟で何か月も冥想するのだが、どのような洞窟かあまり詳述していないので、関心を持っていたのだが、スワミ・ラーマのこの記述で大体わかった。

ヒマラヤの斜面にある岩に座って冥想しているわけではない。

このスワミ・ラーマの冥想三昧の日々で関心を惹いたことがある。毎日プラーナ・ヤーマをやっていたことである。

肚を作るというのは、丹田=スワジスターナ・チャクラの強化だが、社会で活躍するには必須のことである。頭ではわかっていたが、こういうシーンで日々プラーナ・ヤーマをやるというのは、渡米の準備でもあったかと思いあたる。単に血行を良くする健康法をやっていたわけではないのだろう。

またこれは想像だが、このような出口のない洞窟や独房では抜けやすいということがあるのかもしれぬ。その意味でもプラーナ・ヤーマをやっているのかもしれない、と。

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睡眠と食事

2018-01-04 03:21:04 | 冥想の準備
◎3時間睡眠など

出口王仁三郎随筆集月鏡から。

『人間は三時間ねむれば沢山である。それ以上睡れば、寝疲れでかへつて睡眠病を惹起する。今の人間は大抵睡眠病にかかつて居る。食事も二食がよい。

朝六時なれば晩も六時、七時なれば七時といふやうに十二時間おきにとるのがよい、三食になつたのは関ケ原の戦ひ以来の事である。

労働者が三度四度食べるのは労働が喰ふのである。一体人間は睡眠の時間、食事の量等一生涯のものはちやんと定められて居るのである。だから私は年とつてから眠られるやうに、今の中に少くねむつておく。』

人は、食事も睡眠も一生の上限を決めて生まれてきている。そういう視点からしても食事も睡眠もむさぼってはならない。

インドでよくいうところの熟睡中の夢も見ない状態とは睡眠時間には含まれないだろう。出口王仁三郎のような古神道による覚醒者にして、3時間睡眠でOK。

ヨーガでは人間が克服すべき欲望として、食欲、性欲、睡眠欲などを挙げる。だからこの夜更かしなライフ・スタイルの時代には、誰でも3時間睡眠で足りるとは、思えない。だが、彼の眼には睡眠病だと見えるとは、傾聴すべき点である。

食事も2食で足りるのであれば、現代人は食べすぎであり、飽食の結果は成人病罹患率の高さに跳ね返る。

食べすぎは、消化器系を痛め、余剰の食物からのエネルギーは精神エネルギーのバランスをも狂わせる。肉食やホルモンや添加物だけが問題ではなくて、食べる量が過剰であることの問題も本筋の論点なのだろう。

ファースト・フードはカロリー過多になりがちなことは、アメリカでは、ファースト・フード利用の多い低所得層に肥満が多いことにも関係している。

食事と睡眠も重要なライフ・スタイルの柱。冥想と合わせて考慮すべき部分である。

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ストレスを呼気と共に排出

2017-01-22 07:06:00 | 冥想の準備
◎複数ボディでの同時呼吸

最近通勤時で座れる時には、完全呼吸法をやっている。通勤時でも呼吸しているので、通勤時に呼吸法は時間の有効利用ではある。完全呼吸法そのものでなく、最初の息を吐きだすところで心の中でオームを唱えながらあらゆるストレスを呼気に乗せて出すようにしている。

※完全呼吸法(丹田呼吸法)
1.意識を丹田(へそのやや下)において腹をひっこめ、息を十分に吐きだす

2.1~2秒息を止めてから、腹の力をゆるめる。すると自然に鼻から息が入り、腹が少しふくれる。)

3.胸を広げ、まず胸の下部分に息を入れ、次に真ん中とだんだん上方に息を入れていき、最後に肩を上げ、胸の上部にまで一杯に息を入れる。息が胸に滿ちるにつれ、腹は自然に少し引っ込む。意識は、息で膨らむ部位とともに上へ上へと位置を変えていく)

4.しばらく息を止め、やがてゆっくり息を吐く。まず腹がすぼまり、次に胸の下部、中部、上部とすぼまりながら、完全に吐く。 意識をすぼまる部分にそって移動させる。


この呼吸法も3分くらいでは自律的な深い呼吸には移行せず、10分くらいやると深い呼吸に切り替わる。

仕事中つまり意識的活動を行っている時は緊張を強いられるものであり、「気が抜けない」。仕事中に「リラックス」せねばなどと思おうものなら、仕事の手順も密度もばらばら疎漏になり、仕事的には良いことはない。

ところがこうした交感神経系優位の時間をあまり長時間持続することは、身体にダメージを与える。よって適度に副交感神経系優位の時間を作らないと、自律神経失調症になったり胃をやられたりする。

年齢的なものもあるが、こうしたフィジカルなものも取り入れていかないと、メンタルにも影響の出やすいデリケートな時代になってきた。

道教の行気、服気では、吸気の側に重心が置かれているが、ハタ・ヨーガの呼吸法では、まず呼気に重点と若干相違があるように思う。

このまがまがしき時代のストレスをまず吐き出さなければ,リラックスも清新な外気の取入れもないだろうというのは、生身の体感である。ストレスをたっぷり溜め込んだままでは、新たな宇宙エネルギーが入っていく余地もあるまい。

呼吸は酸素を吸い二酸化炭素を放出するだけではない。人は肉体で空気を呼吸し、エーテル体で気を呼吸し、アストラル体で好悪などの感情を呼吸し、メンタル体で想念を呼吸する。オームを唱えるのは複数ボディレベルで効く。
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キリスト教的合気道

2017-01-19 05:31:28 | 冥想の準備
◎天意、神意が合気として展開

広島県三原の隠遁者エスタニスラウ・マリア・ヨパルト神父は、キリスト教的合気道もやっていたらしい。

最近これについて何か書いていないかと、以下3冊を読んだ。保江邦夫さんと佐川邦夫さんは同一人物。
『合気開眼 -ある隠遁者の教え 保江邦夫/海鳴社』『魂のかけら/春風社/佐川邦夫』『唯心論武道の誕生/保江邦夫/海鳴社』

残念ながらどういうアドバイスを受けたかについては、この本に書いてなく、スペインのモンセラートの修道院のそばで合気道みたいな格技を修道士がやっているのを目撃した程度のことしかかいていなかった。

またある霊感のある女子大生が組手を見た時に、技がかかる瞬間に合気をかける側のエーテル体らしきものが相手を包みこみ、次に相手が倒れるなり飛ぶなりするのに驚いたという部分がヒントかもしれないと思った。

植芝盛平は、自分の側のエーテル体については、ほとんど書いてはおらず、大本教の世界観に基づいた合気の運用については盛んに述べていた。

要するに植芝盛平は、天意、神意が合気として組手の中に展開するのが合気道だとし、そこに恣意の入る余地はないことを強調していた。合気は技が始まる寸前にエーテル体が伸びあがって相手を包み云々というメカニズムなのかもしれないが、ここで、そういう神秘生理学の技術論の解明に進むのでは合気の奥義はつかめまいと思う。

一時合気道本をまとめて読んでいた時期があったが、それから受けた印象としては、
1.合気道には攻撃技は本来ないようだ。受動技のみ。
2.戦前の軍国主義の時代に、敢えて攻撃的技も含んで軍部に協力していた時代があったが、それは植芝盛平にとっては心のしこりとなっていたようだ。
3.終戦後、彼の高弟の何人かは攻撃的技を封印せずにそれも「合気道」として広め続けている。

もっとも以上3点については、はっきりとそうだとは著書には書かれてないのではあるが。

戦後の合気道家の中にも、身体の中心点を感得し、正統的な合気道を継承できている人もいるのだろうと思うし、三原のヨパルト神父のような高徳のキリスト者もこれに類した格技を扱うのをみると、日本の武道の清流はまだ流れ続けているのだろうと思う。
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朴槿恵自叙伝 絶望は私を鍛え、希望は私を動かす

2016-12-18 07:09:16 | 冥想の準備
◎PTSDと完全呼吸法

朴槿恵が失脚した。

朝鮮の女性実力者の悲劇といえば、李氏朝鮮の第26代国王・高宗の王妃であった閔妃殺害事件がある。これを指揮したのは、当時の朝鮮公使三浦梧楼。三浦梧楼は長州の人物であって、以後歴代の朝鮮総督が長州系の人物で占められているのが、今の安倍首相の朝鮮との強いつながりの源流なのだろう。

閔妃はロシアの力を借りて1895年7月クーデターにより権力掌握に成功。この時代チベットも後見国をロシアにするか英国にするか迷っていたりするので、中国周辺の国家はどこも列強のいずれかを後ろ盾にして外交をやっていこうとする流れだったのだろう。これを良しとしなかった日本が暗殺を行った。

閔妃は巫堂ノリというシャーマニズムに熱中し、国庫の6倍以上にあたる金額の国費を布施により浪費している。

朴槿恵は、母を暗殺され数年たって父を銃撃で殺害されて、PTSDになるような事件に二度遭遇して、通常であれば精神的に不安定になりがちなものである。

特に父朴正熙殺害後はひどかったろうと思われるが、精神のバランスを保つためか、丹田呼吸法により、精神状態も肉体状態も改善したという。

例の男イタコは、母陸英修殺害後から彼女にとりいっていたようだが、そのことが朴正熙殺害の原因の一つになっていることが、「ヤクザと妓生が作った大韓民国 菅沼光弘/著 ビジネス社」で仄めかされている。

閔妃、朴槿恵とも精神の安定を求めるためシャーマニズムに傾倒したのは、朝鮮の風土の為せる技で、偶然とはいえまい。

それはさておき、丹田呼吸法はヨーガでいう完全呼吸法。免疫機能改善に良いとされる。
これだけでもよいが、オームの念唱によりストレスをオームに乗せて宇宙に解消していくのは併せて必要なのではないか。本山博は、長く人生を歩いてきた人や心臓の悪い人の身体の中には、本当は排出されなければならないもの、消費して衰えたエネルギーがたくさんたまっていると指摘する。こういうのを排出するのもオームによっても可能なのではないかと思う。

人は肉体で空気を呼吸し、エーテル体で気を呼吸し、アストラル体で好悪などの感情を呼吸し、メンタル体で想念を呼吸する。こういうのを呼吸法なら同時にできるのではないか。オームの念唱も呼吸法的な効果もある。

※完全呼吸法
①意識を丹田(へそのやや下)において腹をひっこめ、息を十分に吐きだす
②1~2秒息を止めてから、腹の力をゆるめる。すると自然に鼻から息が入り、腹が少しふくれる。)
③胸を広げ、まず胸の下部分に息を入れ、次に真ん中とだんだん上方に息を入れていき、最後に肩を上げ、胸の上部にまで一杯に息を入れる。息が胸に滿ちるにつれ、腹は自然に少し引っ込む。意識は、息で膨らむ部位とともに上へ上へと位置を変えていく)
④しばらく息を止め、やがてゆっくり息を吐く。まず腹がすぼまり、次に胸の下部、中部、上部とすぼまりながら、完全に吐く。 意識をすぼまる部分にそって移動させる。
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肉体と精神

2016-08-03 06:04:33 | 冥想の準備
◎日常からの切り替え

肉体と精神は一体である。

ウィルヘルム・ライヒは、神経症患者は自分のいやらしい性衝動を抑圧するため、骨盤付近の筋肉を委縮させ、やがて性欲解放がほとんどできなくなると見た。

フリッツ・パールズは、疎外された攻撃性が身体に向けられ、関係する筋肉全体の固定化を招くと見た。よって、誰かの首を絞めたがっている人は、口ごもったりし、また他人を叩きのめしたがっている人は、全身をこわばらせ硬直したりする。

精神での攻撃性は、心理での抑圧や投影によって、はぐらかされるが、肉体での攻撃性は、通常その攻撃的情動を発散させるのに必要な筋肉をふるうのではなく、すべての筋肉を固定化することで抑圧されるので、こわばり、硬直、痙攣といった状況が起こる。

こうして心の中の葛藤は、筋肉の相剋となる。つまり自分の興味や興奮を抑制する人は、呼吸までも抑制することになっていく。具体的には、胸を固く締め、横隔膜や胃を硬直させ、あごを引き締める。

また怒りを抑制する人は、全筋肉を硬化させる。

泣きわめくことを抑制する人は、目、首、のどの筋肉をぎっちり緊張させ、呼吸を押さえ、内臓の感覚までも感じないようにする。

ここでは精神的原因が肉体の動作、機能を制限している例を挙げたが、逆に肉体の問題が心理状態に影響を与えることも日常茶飯である。

冥想に入っていくときは、こうしたものを徐々に解き放ち、次第に深めていくものである。そのためには、肉体の柔軟性を柔軟体操やハタ・ヨーガで復活させ、呼吸法やマントラやただ坐るなどで心身、エーテル体から想念まで落としておくというプロセスは要る。


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冥想の準備についての説明

2015-12-06 06:31:13 | 冥想の準備
◎坐る前に

冥想の準備については、冥想そのものの前段にあたるチューンアップである。「冥想の準備-2」では、以下のようなメニューになっているが、この構成は、ダンテス・ダイジのニルヴァーナのプロセスとテクニックに依っている。

1.冥想者の日常的な態度
2.柔軟体操(身体の運動)
3.プラーナ・ヤーマ(呼吸法全般)
 ⑴基本呼吸法
 ⑵完全呼吸法(丹田呼吸法)
 ⑶片鼻呼吸法
 ⑷題目、念仏、マントラなどの声をあげての読唱も一種の呼吸法としての作用がある。

これらについて出典やら気の付いた点やらは以下のようなところである。

1.冥想者の日常的な態度
自分では怒ったり嘘をついたりするとダメというのは感じる。態度も真似ばないとわからないほど混乱が進んでいるということか。自由になっても真相に近づくとは限らない。冥想者の日常的な態度についてまとめて触れている本はほとんどない。

2.柔軟体操(身体の運動)
ハタ・ヨーガ含めて体操の本は無数にある。最も良いと思った本は、本山博の密教ヨーガ。これは図版が多いわけではないが、説明が親切。けれども入手困難と思います。
長時間冥想では、足腰腕肩などの柔軟性、血行が問題となるので、その中から数種を選んでやることになる。

只管打坐でもクンダリーニ・ヨーガでもずーっと坐っているもの。

3.プラーナ・ヤーマ(呼吸法全般)
⑴基本呼吸法
⑵完全呼吸法(丹田呼吸法)
(3)片鼻呼吸法

これら呼吸法については、基本は佐保田鶴治本の中のヨーガ・スートラなどにバラバラに載っていたと思う。私はベースボールマガジン社の佐保田鶴治本をよく見ていたので、その中に載っていたかもしれない。
ハタ・ヨーガの本には大体載っているもの。

(4)題目、念仏、マントラなどの声をあげての読唱も一種の呼吸法としての作用がある。

題目、念仏、マントラは何回やるか、何時間やるかということを考えがちなものだが、念仏でいえば、妙好人のようにこの世もあの世もすべてが南無阿弥陀仏になるまでやるのだろうと思う。
呼吸法としてやるならば、時間を決めるのだろう。

なお、こういう題目、念仏、マントラの見方はとても機能的であって、既成宗教各派の見方とは異なることは承知しておきたい。
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坐と西洋人

2015-07-06 03:11:37 | 冥想の準備
◎体格の大型化と冥想姿勢

禅と神秘思想/エノミヤ・ラサール/春秋社には、西洋人は背骨を支えられないので坐が苦手であることが書いてある。

結跏趺坐か、半跏かということになるのであるが、結跏は日本人でもある程度の修錬(柔軟体操など)が必要であり、かつまた背骨を立て続けるには結構な筋力が要る。半跏であれば、大体の日本人であれば問題あるまい。

西洋人は半跏であってさえも苦痛があるのが一般的で、痛みなく半跏できる西洋人は稀だと言う。

かつての曹洞宗の長老宮崎奕保禅師も晩年は趺坐するのが大変だったようだ。

老齢になると日本人でも筋力が落ち、柔軟性も落ちるので、若い時には考えもしなかった筋力アップや柔軟体操が必要になるとは思わなかった。

結跏趺坐だけが、冥想姿勢ではないが、西洋人のボディが冥想向きではないという一つの傾向だろう。

さてここのところ日本人の体格が向上してきて、陸上短距離や、水泳、野球など世界的に通用する人間が徐々に出てきている。要するに日本人の体格が大型の西洋人に近づいているということで、そのことが却って脊柱を立てるという冥想姿勢の基本の一つができにくくなっているのではないかと懸念されることである。
特に女子の体格大型化は目立つ。

冥想に適する肉体という議論は間違った方向を向きがちなのだが、これも一つ注目すべきポイントではないかと思う。

冥想姿勢の基本は、結跏趺坐は身体固定だが、クンダリーニ・ヨーガの姿勢はゆるいということ。

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胎息

2015-03-13 05:32:04 | 冥想の準備
◎大気汚染の進行と呼吸変化

胎息とは、抱朴子に現れる呼吸法のことで、水中でも何時間でも生息できるようなのをいうようなのだが、本来の胎息は違うらしい。

笹目秀和氏が出会った疏勒神仙の語るところの胎息とは、今の人間のような鼻呼吸ではなく、身体全体の呼吸のことを指す。当初人間は身体全体で呼吸をしていたが、時代が下がると身体表面の気孔が汚染され、身体全体で呼吸できなくなってしまった。これを契機に鼻孔呼吸に移行し、いつのまにか人間は鼻孔呼吸が当たり前と思われるようになった。

これは文字通りに読めば、それで終われるのだが、そうではない読み方もある。胎児は、肺呼吸していないが、出生した時点から肺呼吸に切り替わる。いわば胎盤経由の臍呼吸を行っていたのが、肺呼吸に切り替わるのだが、これからも、そもそも人体は、二通りの呼吸法が可能であることがわかる。

胎息から鼻呼吸に切り替わるには、何か必要性、必然性がないとそうはならない。それは生活環境の変化であろう。ずばり呼吸する大気の変動があったのではないか。

これは思いつきだが、1万2千年前のアトランティス滅亡時にも地球規模の大気の変動があって、それに対応する呼吸の変化が起こったのではないか。

中南米の密林に半漁人像が残っていること、古代ギリシアでは、アトランティスの守り神はポセイドンであり、変身物語系にはなぜだか、海から上がってきた人間の話が時々出てくることなどをその気配として考える。

疏勒神仙は、身体表面での呼吸すなわち胎息のことを、自然体とよび、自然体に還ることを還元法と言う。人は成道すれば、胎息するとも彼は言う。そして胎息する者が地上に満ちれば、ここに地上天国が実現する。

地球も人体と同義であって、山河はどんどん破壊され地球自体の呼吸が困難になりつつあり、疏勒神仙は「大爆発かこれに近い自壊作用としての一大地変によらなければ、地球生命の維持が難しくなってきている」とまで警告する。

この警告から既に80年経過。今や地球上には中国の中原各都市のようにマスクなしでは、外気を吸えないような大都市まで出現するようになった。大気汚染度も一つの自然への反逆度の大きな指標だろう。よってどういう地域から大自然の自浄作用が始まるかは明らかなのではないか。


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メディテーション・コンプレックス

2013-05-18 05:29:31 | 冥想の準備
◎単一ではないメソッド

只管打坐、クンダリーニ・ヨーガと言っても、それだけ坐っているわけではない。このブログの「冥想の準備」カテゴリーにあるように、禁酒、禁煙、禁肉などして肉体の調子を整えて、柔軟体操(ハタ・ヨーガ、太極拳・八段錦など)をやって身体をほぐして、呼吸法を何セットかやって、読経や祝詞などで発声・祈願などして、おもむろに坐る(只管打坐・クンダリーニ・ヨーガ)、そしてだんだんと呼吸を落としていく。

こういう一連の冥想技法の組み合わせをメディテーション・コンプレックスと呼ぶ。呼び名はともかく、宗派に限らず冥想の専門道場・修道院では、似たようなことはやっているものではないか。一日に何時間も坐るためには、メインの冥想のための助走が必要なものである。

環境の問題ということで言えば、一日に何時間も坐れるというのは、衣食住がなんとかなっていること、時間が捻出できること、坐ろうというモチベーションがあることがその前提条件となる。

住所が一定で、その日の食事に事欠かなければ現代人の大方は、日に一時間程度の冥想は可能なものではないか。むしろ現代人の大方は、長時間の余暇をネットやスマホやテレビで、こまぎれに自分の慰め・気分転換のために浪費し続けているのではないか。

そうした時間の浪費の仕方こそ、現代人のカルマを日々の小悪の積み重ねに仕立てる典型なのではなだろうか。こういうのが小人閑居して不善を為すの謂いだろう。

そしてモチベーションの問題。これは、冥想しても金がもうからないということと、自分勝手な願望が実現するとは限らないということ、とりわけ世の大峠、世の終わりで生き残るかどうかわからないということが、モチベーションがわかない理由の最たるものである。

これでは、千年たっても人は冥想に取り組もうする日はやってこない。既に人間のあらゆる生業の行く末を見切って、万事休した気分がまずないと、人の関心は冥想には向かないのではないか。

メディテーション・コンプレックスはメソッドのこと。しかし冥想があるには、その上に本人のモチベーション、そして師匠(グル、マスター)・指導者が必要である。その師匠は最低でも見性・見神していることが条件となる。

このようにクリヤすべき条件は厳しいがそれを乗り越えないと千年王国はない。

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水時計=冥想の時を測る

2013-03-17 06:23:57 | 冥想の準備
◎古代インドの昔から

冥想でワン・クールを測るのには一般的には、線香でしょう。日本製の一般的なのではなく、いまではインド製やネパール製のまであってお好み次第。

坐る時間は30分から長い人で40分がワン・クールだと思っていたが、インドでは24分であるらしい。

古代インドでは、標準的な時計は水時計であり、写真のようなココナツの殻の底に穴をあけて水に浮べるもの。やがてゆっくりと水が上がってきてココナツの殻は沈む。沈むまでがワン・クール。

これが寺院で使うのになると水に浮かべるお椀という原理は同じだが、お椀は銅製となり、沈む時間はきっかり24分。水盤にお椀が沈むと僧が銅鑼を鳴らして知らせるのだそうだ。古代インドでは1時間が24分で、1日が60時間だった。だからワン・クールが24分。クリシュナは、せわしない国に暮らしていたものだ。

なお水時計は、古代バビロニアやエジプトでも使われていたが、水がたまる方式でなく、水が流れ出切るまでの時間を測るタイプ。

スマホや携帯のアラーム機能で、30分測って坐っている人は少ないかもしれないが、スマホや携帯よりもこうした30分で沈むような水時計を自作して、それでもって坐るほうが、スマホや携帯に頼るよりも、ロハスでしょう。

穴の位置は一番低いところがよさそうですね。




悟りとは何か
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人々に知られないように修行する

2011-10-28 05:55:31 | 冥想の準備
◎怠ることなく清く生きる

政治情勢、景気動向なども重要なファクターだが、この日本も、所詮は、ねたみ、そねみ、やっかみの社会であることに間違いはない。そんな人間の性質は、古代インドから何ら変わることはなかった。

以下は、主として修行に臨む心構えであるが、これなくして日常生活即仏法は標榜できない。引き寄せの法などをやっているうちは心は千々に乱れて使い物になりはしない。自分の利益を得ようとしない人は、それがバレると仲間はずれにされがちなものであるが、それ以外に真理に至る道はない。

おお、クレイジーな日本の社会。

『三 善くない人々は、利益を得ようと願い、修行僧らのあいだでは尊敬を得ようとし、僧坊にあっては物惜しみの気持を得ようとし、他人の家に行っては供養を得ようとする。

五 愚かな者はこのように思う。こうして欲求と高慢とがたかまるのである。利益を得るよすがは、ニルヴァーナにいたる道とは異なっている。

六 ブッダの弟子は、つねにこのことわりを如実に知って、栄誉を喜ぶな、孤独の境地にはげめ。

七 いかなることにもあくせくするな。他人の従者となるな。他人に依存して生活するな。法による商人として暮すな。

八 (托鉢によって)自分の得たものを軽んじてはならない。他人の得たものを羨むな。他人を羨む修行僧は、心の統一安定を得ることができない。

九 もしも楽しく生きようと欲するならば、修行者のつとめに注視して、蛇が鼠の隠れている穴に近づくように、臥処をさがして実践せよ。

一〇 もしも楽しく生きようと欲するならば、修行者のつとめに注視して、互いに満足せよ。唯一の真理(=ブッダの教え)を念じて修行せよ。

一一 もしも楽しく生きようと欲するならば、修行者のつとめに注視して、教団の所有である衣や飲食物を軽んじてはならない。

一二 たとい知慧は乏しくても、修行僧が戒しめを守ってよく心が安定するに至ったならば、怠ることなく清く生きるその人を、ことわりを知る賢者たちが称讃する。

一三 たといその修行僧が三種の明知を体現していて、死を打ちのめした者であり、汚れが無いとしても、無智なるものどもは、「かれは人に知られていることが少ない」といって、かれを見下す。

一四 ところで、この世で食物や飲料を〈多く)所有している人は、たとい悪いことを行なっていても、かれは(愚かな)人々から尊敬される。

一五 つねに重衣をまとっているが飲食物と衣服と寝具と坐具を得る人は、多くの敵をつくる。

一六 (修行僧に対してなされる世の人々の)尊敬のうちにはこのわざわいと大きな危険のあることを知って、修行僧は、人々に知られること少なく、無欲で、気をつけて、遍歴せよ。

一七 この(体)は、食べなければ生きてゆくことができない。食物は心胸(むね)を静かならしめるものではない。食物は身体を存続させるためのものである。そのことを知って、托鉢の行をおこなえ。

一八 けだし良家の(人々から)つねに受ける礼拝と尊敬とは、汚泥のようなものであると(修行者らは)知っているからである。細い矢は抜き難い。凡人は(他人から受ける)尊敬を捨てることは難しい。』
(ブッダの真理のことば・感興のことば/中村元訳/岩波文庫P200-201から抜粋)


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悟りとは何か
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スピリチュアルな放射能対策

2011-09-11 07:11:00 | 冥想の準備
◎内分泌腺の活性化

冥想は、本来肉体からの放射性物質排出といった実利的目的に用いてはならない。用いた瞬間にブラックマジックに堕するからである。

しかし、食べ物のない禅僧が昼から夜にかけて飢えと寒さを癒すため懐に温めた石を抱えた「懐石」の故事のように、現実に即した対策はやむなく採る場合がある。冥想修行を継続するために必要であるという側面があるからである。

かの初めてチベットに入った河口慧海が5千メートルの吹雪の峠で、坐禅して身体を温め雪原の一夜を過ごしたなどは、その一例である。チベット密教のツンモもその類。ツンモは呼吸法プラス観想。

放射性物質の体外への排出を促進する薬剤は、核種によっては安定沃素剤やプルシアン・ブルーなどがあるが、そういうのは、薬剤の専門家におまかせしたい。

体内のガスなどの有毒物質排出で採られてきた手法は、まず内分泌腺の活性化であって、発汗、血行促進、柔軟体操、神経系を長期的に刺激する気功系の導引などの運動、若干の呼吸法などを組み合わせるものである。
一言で言えば肉体の浄化であるが、肉体の浄化はハタ・ヨーガの専売特許である。ハタ・ヨーガは、柔軟体操のアーサナだけではなく、本来呼吸法や坐法も含まれているもの。

というわけで放射性物質の体外排出促進メニューとしては、ざっとこのようなところになるだろう。
1.柔軟体操
2.導引
3.呼吸法
4.観想法
発汗、血行促進ということでは、入浴(温泉)も捨てがたい。

原発だらけの日本に住むには、この程度はこれからは本来常識であって然るべきだろう。また古代文献に核戦争の記述があって古来から人類は放射線障害に悩まされて来たのならば、放射線障害対策伝承みたいなものもあるはずなのだが・・・・。


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悟りとは何か
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被曝療法としての玄米、塩、みそ

2011-05-14 07:52:36 | 冥想の準備
◎秋月医師から黙示録の苦よもぎまで

放射線被ばくで、玄米、塩、みそが効果的であるという学会には容れられない説を唱えていたのは、長崎原爆を被爆した秋月辰一郎医師だった。彼の原爆体験記によると、それは彼自身の実体験ではあるが、理論的裏付けは弱いように思った。

秋月先生はもともとレントゲン科の医師であった。毎日レントゲンを操作することもあり、毎日放射線を浴びていると週末にはなんだか気分が悪くなって、その症状はレントゲン宿酔とされていた。軽度の放射線障害である。そんな時秋月先生は、食塩水を飲むことで元気を回復していた。

やがて長崎に原爆が投下され、彼は爆心から1800mの距離で被爆。爆心地近くで、被爆者の医療に携わった。食料も薬品も不足している中で、彼の直観で、玄米飯に塩を入れて握り、辛い濃い味噌汁を毎食食べることを職員、患者に厳命した。なぜか砂糖は厳禁とした。

この「ミネラル栄養食」は、結果として彼の周辺だけに行われた。彼自身は89歳の天寿を全うできた。

玄米は、ロハスやマクロビオティックで当時流行していたわけでなく、戦時中の銃後の食糧難の対策として玄米食が当時は政府から推奨されていただけのこと。一方砂糖は当時は貴重品だから、厳禁するまでもなかったとは本人も認めている。ゆえにこの「ミネラル栄養食」の実質は塩を多めにしただけということになる。

よってこの実態は、栄養理論というよりは、プラシーボないしは、秋月先生の暗示による催眠誘導効果みたいなものだったように思う。

今は放射線障害の対策も知られるようになり、原発事故の放射線障害対策もチェルノブイリを経て相当にノウハウが積みあがっていたかに見えるが、政府の住民に対する放射線対策が後手後手に回ることで、そのノウハウはほとんど生かされなかった。

放射能汚染された肉や野菜や魚を販売させたり(本来廃棄が望ましい。チェルノブイリの時は、はるばるイタリア・ミラノの野菜まで廃棄された。)、牛乳を他の汚染された牛乳とまぜて基準を超えないようにして販売させる(「チェルノブイリ極秘/アラ・ヤロシンスカヤ/平凡社による」)などは、25年前のチェルノブイリ時のソ連のやり方と同じなのは、単に前例踏襲だろうか。

ヨハネの黙示録にあるように、できあがりで全地球の水源の三分の一が放射能汚染される予想もあるので、放射線障害は今後全地球規模で頻発する可能性も見越して、飲料水、空気、食料の対策はとれるものはとっていくのが人間の努力というものだろう。

ヨハネの黙示録から。チェルノブイリニクとは、にがよもぎのこと。
『第三の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が、空から落ちてきた。
そしてそれは、川の三分の一とその水源との上に落ちた。
この星の名は「苦よもぎ」と言い、水の三分の一が「苦よもぎ」のように苦くなった。
水が苦くなったので、そのために多くの人が死んだ。』





悟りとは何か

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積善しないで幸運はもらえるか

2011-01-04 05:39:25 | 冥想の準備
◎悟りの機縁すらも善業の結果

ジャータカは、釈迦の前世での出来事を記した記録。私も子供の時に、寺の本堂で、住職にジャータカの説話を聞いて感心した覚えがある。

その中に幸運前生物語がある。

あるバラモン僧が幸運を得ようとして豪商の家を訪問した。そこで幸運が一羽の鶏のとさかに宿っているのを見て、その鶏をバラモンは譲り受けた。ところが、譲り受けた瞬間に、幸運は枕にはめ込まれた宝石に移動した。

バラモンはこれを、見て更にこの宝石をも所望した。豪商は気前良くこの宝石もバラモンに差し上げると言った。しかし、その瞬間に幸運は豪商の第一夫人の頭に移動した。

これを見て、バラモンは、流石に第一夫人はもらえないので、幸運を豪商から盗みとることはできない、また幸運は豪商に帰属すべきものだと悟った。

これについて、釈迦の偈があり、善業を備えている人には宝石が生ずるとして、善業によって、美しさ、美しい姿、王権、従者などの人間としての成功も手にいれることはできるし、涅槃の完成すらもそれによって入手できるとする。

また友人の獲得、根源的に結ばれること、そして、明知、解脱、自在性、悟り、仏の境地までもそれによって得ることができるとする。

釈迦は、善業を積むということはこのように大神通力を伴う。だから思慮ある者も学識ある者も善業を積むべきだとする。

ポイントは世俗の成功のみならず、悟りの機縁すらも善業の結実と見ているところ。善業恐るべし。

これに対して、昨今の、「善業を積まなくても、投資した資産が殖える、もうかる」と宣伝しているのはどういうことなのだろうか。この説話の幸運を追うバラモン僧となることをお勧めしているかのようだ。現代の資本主義の功利的発想に「積善の家に余慶あり、積不善の家に余殃あり」などという、善業についての基本原則は無視されている。

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