アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

施餓鬼から七つの身体論

2019-05-18 07:04:59 | チャクラと七つの身体
◎別次元ボディとカルマ・ヨーガ

人間の呼吸、感情、想念、気力、体力と七つの身体は密接に関連しており、肉体とエーテル体、アストラル体とそれ以上はそれぞれ別次元に存在しながら、いわば相互の次元、相互のボディにおけるエネルギー交換を日夜不断に継続しているものである。

それは、健全な精神は健全な肉体に宿るという格言から始まって、身体の不調が夢に出たり、集合的無意識が夢に出たりあるいは身体の不調として発現することもあることで、多かれ少なかれ万人が感じていることでもある。

クンダリーニ・ヨーギ本山博によれば、死んだ人はアストラルの世界においてアストラルのボディを持っており、そのボディがアストラルの食物やエネルギーを摂取して生きているように見えると語っている。

彼の説明では、施餓鬼では物理的供物から供物の持つアストラル次元のエネルギーをアストラルの人間が摂取している。また、生きている人間に死んだアストラルの人間が憑依するケースでは、死んだアストラルの人間が、生きている人間からアストラル次元の活力を得ているそうだ。(出所:カルマと再生/本山博/宗教真理出版P148)

こういった事象をみると先祖供養はおろそかにできないなどと思うのだが,功過格的にみると、施餓鬼にしても憑依されることにしても無償のエネルギー、資金提供のようなものであり、カルマ・ヨーガの一種であり、真理にたどり着くには、おそらく何生もかかる。

そういう道を辿る人ももちろんいるが、全員が真理を知る時代には、個々人が神とつながるのがストレートで、最速である。一人が真理を悟れば九族昇天すとは、カルマ・ヨーガのことではないと思う。とるべき作法はあるが、あまりそれにこだわりすぎるのもどうかとも思う。
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ダンテス・ダイジの8チャクラ説-3

2019-04-12 05:13:18 | チャクラと七つの身体
◎八番目のチャクラならざるチャクラ

「八つのチャクラが、人間の絶対性の基本的ポイント」とダンテス・ダイジは、云う。

人間の絶対性とは、人間を外的な部分・社会と内的な部分・個人とに自分というものを区分して認識し、個々人が分かれていながら、同時に神・絶対者から個々人が流れ出ているものであって、今ここしかない今しかないが、過去現在があるものとして時間の流れを想定してしまう認識形態とでも言おうか。

個と全体の並立・共存と七つの次元に亘りながら、今ここという一つながりのものの不断の変容を現実と認識する一方で、それが夢幻でもあることをよく承知することもできる。

その意味で、芭蕉がその庵を幻住庵と名付けたのは至高のネーミングだと思う。

ダンテス・ダイジの『戯れに冥想を』から以下引用の続き。
 『だが、アメンティーの教えでは、無限絶対それ自身を、生きているあいだに体験できるとされている。
 
そして、無限者・絶対者そのものから、直接、地球人として生誕した私は、当然、アメンティー・タントリストとなった。

 私は、八番目のチャクラならざるチャクラを地球人として生き味わわずに、ニルヴァーナそのもの、つまり、いかなる顕現をともなわぬ非存在そのものとして、神の仮現としてではなく、神そのもの無限に帰郷することとして選んだ。

 したがって、今、私は神自身である。』

『無限者・絶対者そのものから、直接、地球人として生誕した私』、これについては、ダンテス・ダイジがどこかで言及しているが、前世を遡って幻視していったら、個なる人間が彼の転生の始まりではないことを、確認したみたいなことを書いていることを思い出す。

要するに、我ら俗物連と同じではないやんごとなき人なのだ。

この文の前段で、『クリヤ・ヨーガの宇宙では一般に、すべてのすべてである究極のニルヴァーナは、死んでからしか自覚できないとされている。』とするのに対し、私は、死ぬことなく、生きながら究極のニルヴァーナ、大涅槃を生きていると宣言している。

死とニルヴァーナ突入そして再生という定番ルートの他にルートがあるかのように語っているわけだ。

ここは、二律背反なことを述べている可能性があるので、ここに書いていることは嘘かもしれないなどと別のどこかで書いていることを思い出させる。

だが8チャクラ説というのは、チャクラというも愚かな世界そのものの転変と人間の採る世界の見方についてのごくストレートな見方でもある。だが、誤解や偏見を最も排することのできる厳格な世界観でもある。
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ダンテス・ダイジの8チャクラ説-2

2019-04-11 05:29:18 | チャクラと七つの身体
◎大涅槃とクンダリニー

サハスラーラ・チャクラ(ブラフマランドラ、泥丸)をチャクラに数えるかどうかの議論は、頻出であって珍しいものではない。
だが、チャクラを解説した本を開くと、なにげなく会陰のムラダーラとクンダリニーが接して描かれているものだが、決してそうではないことを、ダンテス・ダイジは、8チャクラで暗示する。

ダンテス・ダイジの『戯れに冥想を』から以下引用の続き。
『クリヤ・ヨーガつまり、クンダリニー・ヨーガの場合は、クンダリニーをチャクラの一つに加えるかどうかで、七チャクラズの流派と六チャクラズの流派とに別れる。同様に、サハスラーラ(ブラフマ・ランドラ)を、チャクラの一つに入れるかどうかについても言える。
 
一方、アメンティー・タントリズムにおいては、八つのチャクラが、人間の絶対性の基本的ポイントとされる。
 
アメンティー・タントリズムでは、尾骶骨に位置するクンダリニー又は、サハスラーラをチャクラの一つに数えて七チャクラズとなり、サハスラーラ・チャクラの上にと言うか、七チャクラズを絶対無・絶対精神が包含したチャクラではないチャクラ、あるいは大涅槃そのもの(釈迦が死んでから入った無限絶対自身)のことをしめし、クリヤ・ヨーガの宇宙では一般に、すべてのすべてである究極のニルヴァーナは、死んでからしか自覚できないとされている。』

まずクンダリニーを独立したチャクラと見ているのは、ムラダーラとクンダリニーが分離し得ることを示しており、同じ説を寡聞にして知らない。

さらに窮極のニルヴァーナ、大涅槃そのものを第八チャクラと見ているのだろう。個ではないものをチャクラとわざわざ置くのだろうか。悟った者限定の世界観を以って定番としている。

第八天球を意識しているのはヘルメス文書(七つの遊星天と恒星天(8番目)。だがその外側に神があるので、8チャクラ説ズバリではない)なのだが、アトランティスの残党が大挙して渡ったに相違ないエジプトに8チャクラ説みたいなものが残っているのは偶然ではあるまい。

今のエジプトは、観光客がテロの標的になることがあるほどの治安の悪い地域。この地でもこれから一つのスペクタクルがあるのだろう。
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ダンテス・ダイジの8チャクラ説-1

2019-04-10 04:57:03 | チャクラと七つの身体
◎私が始めて地球へやって来たのは

街も老い、国も老い、世界も老いる。するとその中の数少ない若者の中から新しい大地の到来を予感する者が出て来始める。


ダンテス・ダイジの8チャクラ説は、それまでの5チャクラ説7チャクラ説とは一線を画す説である。まずどのボディにおけるチャクラかという前提すら、彼らにとってはあまりにも自明なのことなのか、説明を省く。

ダンテス・ダイジの『戯れに冥想を』から以下引用。
『私が始めて地球へやって来たのは、今からおよそ七万年ぐらい前だったと思う。今の私は、地球ロゴスの流れに乗って、ニルヴァーナに充足した存在である。

 通常、地球ロゴス内のアラハンのレヴェルにある覚醒、すなわち悟りを開きつつ人間としての生存を続ける生命は、七回又は八回の転生を選ぶ者が多い。
そして八回目の転生で、地球ロゴスから、別の高次元ロゴスへ移行する者と、ブッダとして人間最後の生涯を送る者とに別れる。

もちろん、八転生目に、人間としてブッダの生涯を選んだ場合でも、ブッダが子供の頃からブッダの自覚を持って生まれることは難しい。現在の地球ロゴスは、まだ人間に固定観念と抑圧とを必要とする階梯にあるからである。

レムリア末期・プレアトランテスの時代が私の地球人としての最初の誕生であった。

 七回又は八回のアラハンあるいはボーディサットヴァの輪廻転生は、インドのクリヤ・ヨーガ、アトランティスのアメンティー・タントリズムなどのチャクラに対応している。』

7転生、8転生で転生を終了するのは、各転生において毎回大悟覚醒を持ちつつ生きるタイプの人(アラハンあるいはボーディサットヴァ)であって、万人が7、8回ではない。

出口王仁三郎は、艮の金神の転生は役行者であり、空海だなどと言っている(新月の光)彼らもそういうタイプの人なのだろう。俗人から見れば、超人過ぎる。

なぜだか知らないが、7転生、8転生は彼らのチャクラの数に対応している。
そして彼らがその転生での最初の悟りを開いた時に、7万年前に銀色の光輝く円盤で自分が始めて地球へやって来たことを思い出したりする。
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七つの身体相互のエネルギー変換-1

2019-03-20 05:16:44 | チャクラと七つの身体
◎エネルギーという言葉ももどかしく

第七身体は、大神であり、仏であり、タオであり、言葉では表現できない。

あらゆる現象には実体はないが、一つながりにつながっている。過去も現在も未来も、男も女も、光も闇も、神も悪魔も。色即是空で一気通貫。これは第六身体であって、全体だが、個ではない。

第六身体と第七身体に相互の影響は、語られたことはないことはないが、梵我一如などあまりとりあってはいけない説ばかりのように思う。

日本神話で言えば、天之御中主神が第七身体であって、高御産巣日神 、神産巣日神が第六身体。

ここから個が打ち出される。個の最初である第五身体に行住坐臥のような日常性はみられず。ダンテス・ダイジによれば、コーザル体と思しき自己意識は頭頂から離脱して地球の次元、宇宙の次元の壁をも越えて現象宇宙を上昇する。
この部分が、コーザル体とアートマン第六身体との関連部分と呼べるものだろうと思う。コーザル体の自我が死ねば、第六身体に出るのだろう。

それでは改めてコーザル体とは、OSHOバグワンによれば、自我の死について、「自我」とは「私=エゴ」と「在る」に分解され、コーザル体では、「私=エゴ」だけが死ぬという。

この辺は、実体験してみないと始まらないことはわかっているが、敢えて彼らの説明を見てみた。
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チャクラの2分類

2017-11-29 03:39:36 | チャクラと七つの身体
◎高さと深さ

ダンテス・ダイジは、チャクラを2つに分類している。

天国志向型として、3チャクラ
アナハタ・チャクラ:愛
マニピュラ・チャクラ:歓喜
スワジスターナ・チャクラ:安心

天国と地獄の結婚志向型として、3チャクラ
アジナー・チャクラ:智慧
ヴィシュダ・チャクラ:自由
ムラダーラ・チャクラ:力

愛、歓喜、安心、智慧、力、自由と平板な言葉が並んでいるように見えるが、その語感と語られている文脈を考えると、次のような感じである。

只管打坐的な高さの悟りは、純真さ、純粋さ、素直さ、清らかさ、崇高さの極みだが、彼に失うべきものはなく、彼には、それを失わないと悟りに到達できないような人生経験はこの悟りには不要であり、それを味わう受動性さえあれば悟りが可能なところが特徴である。それが愛、歓喜、安心。

これに対してクンダリーニ・ヨーガ的な深さの悟りは、現実全体が不安定であるという現実認識の人間(例えば最愛の子供が惨殺されたり天災で亡くなった母親のような)にとって到来してくる。これは、彼(彼女)にとっては大きな失うものが発生し、そこで虚無と向き合うことによって、このような現実認識に至ってしまう。

こうなってしまうと、彼には天国的な癒しは通用しなくなる。何も確かなものがない、諸行無常なる空こそリアルである世界に生きているからである。こうした虚無・ニヒルを超えるのは、天国と地獄の結婚であるが、そこに欲望から発していない智慧、力、自由がある。

これには、単なる受動性のみでは行きつけず、虚無・ニヒルに至る人生経験に出会ってそれをも超えていこうとする能動性が必要。

サハスラーラは別格で、他の六チャクラは同一平面上に見がちだが、そうではないようだ。

現代は、マニピュラ・チャクラの歓喜からアナハタ・チャクラの愛への移行期間。

時代の課題は、只管打坐型の身心脱落で十分とみているわけだ。

両チャクラとも成立条件は、純真さ、純粋さ、素直さ、清らかさ、崇高さなどであるが、それすらもうまく行っておらず、大混乱の状態にある。

大震災、原発事故、第二次朝鮮戦争は悪夢だが、それが現実化する場合は多くの人が虚無を見る。おろおろせずに、それですら、とあるチャンスに転じるには、日頃の冥想訓練が要る。

人は一足飛びにチャンピオンになることなどない。同様に、人は、何かショッキングな事件に遭ったからといって、ある日皆が突然大悟覚醒するわけではない。


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開いているチャクラ

2017-11-23 04:25:29 | チャクラと七つの身体
◎準備ができているかどうか

女性道士孫不二は、すべての竅(チャクラ)が開いていたという。

OSHOバグワンとチャクラということでは、かの父が亡くなった時と高弟ヴィマルキルティが亡くなった時に亡骸の頭頂部などに手を当て、どこから離脱したかなど、チャクラ・チェックをした光景が思い出される。

OSHOバグワンは、何百人かの弟子たちのチャクラ・チェックをしたところ、ほとんどが二つしか開いていなかったそうだ(出所:隠された神秘/和尚/市民出版社)。そこで、彼自身のようにすべてのチャクラが開いていると、その生は最後の転生だなどと云っている。

チャクラを開くには、準備ができていないとだめ。OSHOバグワンは、そんなわけで、チベットで肉体上の第三の目アジナー・チャクラの位置を鋭い金属で刺激して(ティラク)、故意に開かせるのは邪道であるとする。

故意に霊道を開くのは、生命の危険すらあることは、デビッドニールも指摘しているとおり。

チャクラについて、明るい展望しか書いていない怪しい本もあるが、チャクラにからむ密教、道教、古神道、錬金術、クンダリーニ・ヨーガなどいずれも、正しいマスターは、弟子の準備ができているかどうかをまず問題にするものだ。

この肉体人間として生きることですら全身全霊でないと難しい時代。チャクラ半開きで生きるのは、なお難しい。
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自己愛と感情とマニピュラの連動

2017-11-19 06:15:31 | チャクラと七つの身体
◎相手の話をよく聞く

我流でチャクラをいじることは危険この上ないが、本山博がマニピュラについて、こんなことを言っている。

曰く、マニピュラは、感情と想念に関係するが、マニピュラは、感情にもいろいろあるが受容する側。マニピュラが開けてくると感情の細かい彩がわかってきて、人の話がよく聞けるようになり、話者の心理や気持ちに共感できるようになる。

そして腹が立っている自分を他人の目で見られるようになると、だんだん感情のコントロールができてきてマニピュラが動くようになっているといえる。

小さい人間ほど、自分を守るために用心するから、建前で話すのだが、そんな奴は下らないのが多い。そういう相手でも相手のいうことをよく聞いて、本音をわかっているなと共感すれば相手も本音を言うようになる。そうなったら既にマニピュラは動いている。

こういう状態は、好悪の感情は発生するがそれに落ちない状態。感情と自分を同一のものと見ない状況。

マニピュラは、気を吸い込む方で、アナハタは気を出す方。だから人込みなどで消化器に異常が起きやすい人、感情が不安定な人はマニピュラが不安定な人。この延長線上にそううつがある。

さらに本山博は、自己愛と感情とマニピュラの連動について、以下のような巧妙な見立てをしている。

自己愛が強い人間は、自己に執着が強いので感情が非常に激しく動く。それは恋愛の場合だったり、モノやカネや名誉が欲しいという場合に起こりがち。

それらは、表面的には恋人やモノ金への執着だが、実態は本当に相手や他のもののことを慈しむ気持ではなく、自分を守りたい気持ち、自己の執着や自己愛の裏返しである。自己への執着や自己愛が強い場合に、感情が激しく動くので、感情のコントロールができない。
(以上出典:「チャクラの覚醒と解脱」/本山博)

マニピュラと言えば自己実現だが、人間関係の不調の原因の一半がマニピュラにからみ、それも感情が大きく影響していることがわかる。

マニピュラ・チャクラを活性化させる方法について、本山博は、この相手の話をよく聞くことの他に、呼吸法、観想法を挙げる。

それにしても若いうちから相手の話をよく聞ける人は貴重だし、相手の話を親身に聞いているふりの上手な人が幅をきかせていたり、どうしても人間の幅がないと相手の話をよく聞けるものではないということもある。

確かにマニピュラに特化した行法やり方はあるものの、只管打坐や何も期待しないタイプの日々の冥想が基本だなと思う。


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OSHOバグワンの五つの身体

2017-10-05 05:27:56 | チャクラと七つの身体
◎エーテル体は火、アストラル体は水

OSHOバグワンは、“Yoga: The Alpha and the Omega, Vol 9”で五つの身体について言及している。

五つの身体とは、肉体、エーテル体、アストラル体、メンタル体、コーザル体。コーザル体は、ANANDAMAYA KOSHAとも呼ばれ、至福のボディである。

五つの身体は、5元素に対応する。
肉体は地(食物、物質)、

エーテル体は火(プラーナ、バイオプラズマ)、

アストラル体から先は非物質で、
アストラル体は水(川のように動き回り流動する)、

メンタル体は風(ほとんど見ることはできないが感じることはできる)、

コーザル体は、空(虚空、akash(アーカーシャ、アカシック)。感じることすらできないが、信じることはできる。至福。それは、純粋な場である(この表現は、本山博の「場」という言い方に共通する印象がある))

しかし、OSHOバグワンは、あなたはこの精妙なるコーザル体ですらもないと、いきなり否定する。釈迦は、無我、無自己と説いたが、あなたは生物ですらなく、五元素ですらなく、限りない純粋さそのものだと。そしてそれにふさわしい言語表現はない、と。


こういう話を講和の中で、ダーっとしゃべられて、一体何人の人が分かったのだろうかといつも不思議に思う。

「魂の科学」という本で長々と5身体について書いているが、いくら読んでも実態は理解できなかったけれど、逆にこういう短い説明で、大体の見当はつく。

本山博が内経図で言及した、エーテル体が水、アストラル体が火の論と、本論は、火水逆だが、どういうことだろうか。
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エーテル体と雷

2017-08-24 06:08:15 | チャクラと七つの身体
◎雷電で世界を滅ぼさんとする

朝から熱風の吹く晩夏の一日の始まりである。

人間は、電気の肉体であり、電気とは神経や筋肉である。神経系とほぼ似た位置に経絡であるエーテル体がある。

エーテル体は半物質であって、物質の性質が半分であって、経絡であるが故に電気的な性質も有している。

最近の名古屋地区や東京の一時に何千発もの落雷があって、巨大積乱雲スーパーセル直下では何千発もの雷が発生することが知られるようになった。

ギリシア神話に、神はこの世を滅ぼそうとして、いきなり洪水にしようと思ったのではなく、最初に雷でやろうとしたというのがある。

時代は、金の時代、銀の時代、銅の時代、鉄の時代と進み、既に敬虔と正義は人の心から失われた。そこで大神ユピテルは、日々罪という罪を犯しまくり、大地の広がる限り荒々しい狂乱の支配している人類すべては罰を受けねばならないとし、いつも愛用の武器である雷電でもって人類を滅ぼそうと考えていた。

ユピテルは、既に無数の雷電を地上の至るところにばらまこうとしていた。

ところがユピテルは、雷火では、地上の火が天上に延焼し、天の軸が端から端まで燃え、海も地も天上の宮殿も燃え上がり、宇宙全体が滅亡するかもしれないと懸念し、急遽無数の雷電による人類滅亡から、洪水による滅亡に切り替えることにした。

つまり無数の雷電とは核ミサイルのことであり、世界中に配備完了し、いつでも世界滅亡できるのだが、なぜだか、大洪水に切り替えるということ。

スーパーセル下の多数の落雷も核ミサイルも広義の雷電。大洪水前に雷電を見せるのは、スーパーセルだけでなく、核戦争も派手な雷電の打ち合いではある。

対エーテル体ということでいえば、スマホ、携帯電話の電磁波でエーテル体に影響を与えながら生活するのもプチ落雷のようなものである。

ギリシア神話もなかなかに意味深長である。
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カラーナ体

2017-07-09 06:17:58 | チャクラと七つの身体
◎違いを隠したままに

本山博は、アストラル以上のボディについてカラーナ体しかないと言い切っている。これでは七つの身体論の定番であるメンタル体コーザル体の2区分はしていない。また本山博はカラーナ体に原因体という漢字を当てる。

彼のカラーナ体の説明は、
1.形はあるが、色、臭い、味、触はない。
2.形は白く輝いた透明な形
3.男女の性別はない。
4.アストラル体の魂の働きは、感情、想念が主であり、カラーナ体は、真理つまり物質、精神、宇宙、絶対についての真理を探究しそれを実現するように働く。自分の個別性を捨て、神や他との合一を目指す。
(以上:本山博の人間の研究 本山博著 東洋経済新報社P172-174から抜粋)

これに対して、ダンテス・ダイジのメンタル体の定義は、透明で光り輝いているであり、コーザル体の定義は肉体のような身体の形式を持たず、霊眼で確認すると球形の光と見える云々と至って簡単に済ましている。

OSHOバグワンも、この辺は詳述していないと思った。

ただ男女の性別がないとしているところは決定的かもしれない。

本山博によるとアストラル体霊能の人は、カラーナ体はまぶしくて見えないそうなので、その霊能者が神仏に真につながっているかを判別する一つのテスト基準として、この辺は故意に世間には明かしていない部分なのではないかと思う。

カラーナ体には行けていない著名霊能者はいるのものであって、大部の著作があったとしてもそういう手合いにはひっからないように気をつけないと。
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七つの次元を貫くもの

2017-04-28 05:26:21 | チャクラと七つの身体
◎パイロットとクンダリーニ

スピリチュアルおたくとして色々と調べていくと、行き当たる大きな疑問が残る。その一つが、七つの次元を貫くもの。

7つの身体は、それぞれ7つの次元に存在する。そしてチャクラが存在するのは、第4身体であるメンタル体まで。

ここまでは良い。しかしこの他に七つの次元それぞれに存在するものがある。それは神なのだが、もう2つある。

それは、7つの次元すべてのパイロット水先案内人であって、ヘルメスでありミトラであり、猿田彦である。

残る一つはクンダリーニのエネルギー・コードなのだが、ダンテス・ダイジの明かした神人合一にあっては、個はコーザル体までであり、「コーザル体は7つの次元を超えて霊線上を上昇する」という矛盾に満ちた表現で説明している。

コーザル体は上昇を続けそれがアートマンの光線であったことに目覚め、「あらゆる多次元の現象宇宙は私自身の身体である」というアートマンの自覚に至る。

これは、なぜか“ブラフマンとアートマンの合一”という見出しのところに記述されている。(ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジによる)

クンダリーニのエネルギー・コードとは霊線のことで、自分がアートマンであるというところにまで至るが、ここまでなら6つの次元だが、あくまで説明は「7つの次元を超えて霊線上を上昇する」となっている。

クンダリーニのエネルギーコードは、正常人ならチャクラと接している。ところが、体外離脱や発狂に際しては、接続がはずれる。

それと関係があるかどうかわからないが、人は絶対絶命の状況に直面した時に、人は取る分かれ道が3つある。発狂か自殺か悟りかということになる。これは、神人合一を悟りとすれば、これは紛れもない悟りのチャンスである。

だから、「恐怖の恵み」などという微妙な、大きく誤解されかねない表現すら出してくる。凡俗の目から見れば、発狂も自殺もあり得るけれども、それでもチャンスなのかと感じられるからである。

そんなことを思うのは、まだまだなのだろう。
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グルジェフの4つの身体論

2017-03-08 05:34:37 | チャクラと七つの身体
◎未悟の人と悟った人の違い

グルジェフは4つの身体論を唱える。なぜ七つでないかというと、コーザル体までだからである。

グルジェフによる彼の身体論は、以下のようなものである。

第一身体:肉体
第二身体:アストラル体(ケスジャン体)
第三身体:メンタル体(スピリチュアル体)・・・高次の思考力開発に関連する。
第四身体:原因体(<神的(デヴァイン)>体)・・・全センターが統一的な調和と意志をもって機能する。
(以上出典:グルジェフ・ワーク 生涯と思想 Mind books K.R.スピース/著 平河出版社P138-139)

第四身体がコーザル体(原因体)なのは良いが、ダンテス・ダイジは、コーザル体上のチャクラの存在を認めていないので、グルジェフは、第四身体上のチャクラがあると言っているのかないと言っているのかは、この本だけではわからない。

グルジェフは、この四つのボディからなる人間を馬車上の人間にたとえる。

馬車は肉体、馬はアストラル体、御者はメンタル体、主人は、原因体。だが主人を意識している人は稀。

グルジェフは、普通の人間は、外界からの刺激に素直に反応して動く自動人形のようなものであり、これが覚醒した人間になると外界刺激ではなく、内からの意図によって動いているので、中の流れは全く逆であるとする。

要するに悟っていない人間は、外部刺激で動くロボットのようなものだが、悟ると内側から来るところの神意、天意を体して行動するので、外部刺激の奴隷たることはないということのようだ。

このようにフツーの人と悟った人は、見る人が見れば違いは容易に感じ取ることができるものである。
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エチオピア語エノク書のチャクラ

2016-05-02 05:07:51 | チャクラと七つの身体
◎七つの山

エノク
書の完全版は、欧州では18世紀末まで存在していなかったが、エチオピア語エノク書が、1770年頃エチオピアで「発見」されたことで、長文のエノク書全巻を見ることができるようになった。

『そこからわたしはまた進んで、地上の別な地点に達し、昼夜炎をあげる火の山を見せられた。そのほうに行ってみると、そこにわたしが見たものは堂々たる七つの山で、ひとつとして同じものはなく、岩は大きく美しく、その姿はいずれも堂々として賞賛に価し、その外観はみごとだった。 (七つの山のうち)三つは東のほうにあって、互いに高さをきそい、(ほかの)三つは南にあって互いに高さをきそっている。

また深くうねり曲がる盆地が(いくつか)あったが、いずれも他とつながっていない。七つめの山はこれら(六つの山)の真ん中にあって、その高さは全体として王座にもたとうべく、また、香り高い木に囲まれている。

その(木の)なかにわたしがいまだかつてかいだことのないような香りを発するものがあり、そのなかのどれも、またよそのどの木もこれには比すべくもなかった。香りにかけてはその右に出るものはなかった。またその葉、花、木(幹)は永久に衰えることはなく、その実も美しく、その実はなつめやしの房に似ている。

そのときわたしは言った。「見よこれはみごとな木だ。見た目にみごとだし、その葉は心を楽しませ、その実も見た目にはなはだ快い」。そのとき、わたしについていた聖なる、大いなるみ使いのひとりで、それら(山や木)をつかさどるミカエルがわたしに答えた。』
(聖書外典儀典4/日本聖書学研究所編/教文館p193-194から引用)

昼夜炎をあげる火の山は、ムラダーラ、あるいはクンダリーニ基底のふいご。
東に3、南に3だが、ムラダーラ、スワジスターナ、マニピュラまでが東の3か。
アナハタ、ヴィシュダ、アジナーまでの3チャクラが南の3か。

中央の山はいうまでもなく、サハスラーラ・チャクラ。その周辺の数多い香木の中に「裁きの木」がある。

エノク書では、一つの空間に天国地獄があるが如く記述されているのだが、この裁きの木の存在は白眉である。
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胸から上のチャクラ、胸から下のチャクラ

2014-09-12 03:56:33 | チャクラと七つの身体
◎ボーダーとしての虚無や死

ダンテス・ダイジのチャクラの配当は、以下のとおり。

1.サハスラーラ・チャクラ: 窮極
2.アジナー・チャクラ:  智慧
3.ヴィシュダ・チャクラ:自由
4.アナハタ・チャクラ:愛(感謝)
5.マニピュラ・チャクラ:歓喜(喜び)
6.スワジスターナ・チャクラ:安心
7.ムラダーラ・チャクラ:力

胸から上のチャクラとはアナハタ以上のチャクラである。胸から下のチャクラはアナハタ以下のチャクラである。

ダンテス・ダイジと弟子の会話にこんなのがある。
(ダンテス)俺は七つ(のチャクラ)全部で生きてる。」
(弟子の質問)「クリシュナムルティは、胸から下で生きるとやばいからそうしてるの?」
(ダンテス)「ではなくて、胸から下で生きたら人類が破滅することを知ってるからだ。一方的に自分が胸から上、ハートから上の世界に生きなければ示しがつかないっていう。自分一人だけでも頑固に。」
(弟子)「全体を考えて?」
(ダンテス)「そう。全体の統一から見れば、どっちが優秀ってことはないんだ。云々」

更にダンテス・ダイジは別のところで、「智恵、力、自由は、虚無がないと起こらない。」「安心、感謝、喜びは、修道院生活で修行をひたすらやるような求道生活をすれば使えるようになるが俗世の泥沼では通用しない」みたいなニュアンスのことを語っている。

人類滅亡を回避するという狙いからは、故クリシュナムルティが一生かけて働きかけたように、アナハタから上を狙う。しかしそれは、虚無がないとあるいは切り捨てるものがないと起こらない。(力のチャクラは胸から下だが、それはジャンプ台である)つまり死を越えないと胸から上のチャクラは働かないと言っているようだ。

虚無は人生経験がないと起こらないとも語っているが、人生経験とは人間としてのあらゆる経験をし尽くしつつ、揺るがない自我を作るということ。揺るがない自我により人は一個の英雄として生きる。近代的市民社会とは心理的には英雄たちの時代なのだ。

そして今、絶滅兵器に天変地異と、人類はいつしか存亡をかけたステージに立っている。こうなってしまうと否が応でも胸から上ということになる。


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