アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

至誠の道はもって前知すべし

2019-10-09 05:35:16 | 究極というものの可能性
◎予知する時点である「今」が動く

中国の四書五経の中庸で大悟覚醒した人を至誠の人と言い、その人に予知能力があることを言う。人はニルヴァーナという体験とは言えない体験を経て、六神通の超能力を得るので、将来のことを当然に予知できる。また将来のことは予知できるが、予知した時点の未来が予知したとおりにならないこともあるのも知っている。時間軸にあっては、予知する時点である「今」が動くからである。

中庸から
至誠の道では、前もって予知することができる。国が将に勃興するときにはその瑞祥がある。
国が将に滅亡するときには必ず禍々しい前兆がある。
兆しは、各種占いに現れたり、人間たちの動作行動の動きにさえ出る。
禍福が将に発生しようとするときには、善も事前に予知でき、不善も事前に予知できる。

故に至誠は、神のごとし」

訓読
『至誠の道はもって前知すべし。国家将に興らんとすれば、必ず禎祥あり。
国家将に亡びんとすれば必ず妖(ようげつ)あり。
蓍亀(しき)に見(あら)はれ四体に動く。
禍福将に至らんとすれば、善必ず先ずこれを知り、不善必ずこれを知る。
故に至誠は神の如し。』

SNSに挙げられた地下アイドルの瞳に映った駅の風景から、Googleストリートビューで駅を特定し、アイドルを駅で待ち伏せ自宅を突き止め襲ったという。

危険なのは、瞳に映った風景の写真か、SNSか、Googleストリートビューか。

それは、心が危険なのである。
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少年がひとつかみの砂を釈迦に献ず

2019-10-03 05:34:24 | 究極というものの可能性
◎行為の善悪は動機の善悪で決まる

ちょっと悪いことをしても、お金が儲かれば、あるいはスーパーリッチ、プチリッチになれさえすればよいなどと考える人がほとんどの時代。

悪いことをすれば、将来に苦しみや悲しみが起こり、善いことをすれば将来うれしいこと楽しいことが起こるという当たり前のことを信じもしないし、非科学的であって迷信だと思っている人も多い。

禅の高僧が真顔で私は来世はロバに生まれるというシーンでは、カルマの法則が輪廻転生に及ぶことを言い、輪廻転生を認めないキリスト教では、煉獄、地獄に悪を積んだ人々が底溜まる。

仏教では、十善として善行の典型を定めているが、その行為の外形が十善のどれかに当てはまれば、善行ということでもない。

※十善:不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不両舌・不悪口・不綺語(でたらめを言わない)・不貪欲・不瞋恚(怒らない)・不邪見。

まずその行為の動機が善であるか悪であるかが問われる。動機が良ければ、見た目悪行でも善となり、動機が悪ければ、見た目善行でも悪となる。

行為の見た目が十善であっても、その行為の真の評価は動機による。

さらにその善行の善い報いを期待するためには、そんなことを塵ほども思ってはならない。思った瞬間に果報は実現したことになるからである。

昔、ある少年はひとつかみの砂を、本当に砂金だと信じ込んで、お釈迦様に捧げたという。その少年は、次の輪廻転生で、アショーカ王として誕生してきたという。

誠に人は、一挙手一投足、一言一句なおざりにすべきではないと思う。
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世界はまもなく発狂する

2019-10-02 05:41:53 | 究極というものの可能性
◎オレたちは何でも都合よく考えすぎる

『世界はまもなく発狂する』こんな真に迫ったことを言えるのは、OSHOバグワンだけだ。

人は貧しい時には、富める者、持てる者、豊かな者がその財産を貧しい者に分配したり共有してくれるべきだと考えがちなものだ。その持たざる怨みを他にぶちまけたいのだ。

ところが、しばらく経って自分が家や車や金融資産や別荘など財産を持った途端に、それを失いたくないと思い、貧しい多くの他人にそれを分配するなどはとんでもないことだなどと考え始める。
オレたちは、都度自分の都合のよい方に考えがちだ。

更に自分の死がその積み上げた財産を一瞬にしてふいにすると気がつくと、自分を一番殺しそうな者は他人であるから、自分の死を一瞬でも忘れるために他人を殺そうとする。

他人を殺せば、誰も自分を殺せはしないと思うことで、自分の死を忘れる。暴力の原因は多かれ少なかれこの発想にある。

具合の悪いことに他人を殺したり追い落としたりした人間はそれを成功体験と認識するので、それを何回も繰り返す。それによって自分が死から解放されると本気で思い込む。

彼の居場所は既に地獄だが、現代の競争社会でトップ集団にいる者には、そのような牙を見せないが、そのような勝者のマインドに凝り固まった者が結構いるものだ。笑顔で礼儀正しく元気はつらつで他人を蹴落とす・・・・・。

(古事記では、禊をするのは、川の中ほどが良いというくだりが出てくるが、上流にはこのように悪人が多いことを指す。)

勝者たちは勝者たちと相互に競い、延々と地上と心理の地獄は拡大して行き、その成れの果ては、超大国同士の対立紛争である。

人間には幸福に生きるすべてがもともと与えられているが、これを地獄だらけの世界にし、かつ相互の争いによって、人類そのものの自殺に至らんとすることを見て『世界はまもなく発狂する』などという。 

ここに人知れず冥想の道もある。
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過去1万2千年のスピリチュアリズムの骨組みが壊れつつある

2019-09-29 06:13:23 | 究極というものの可能性
◎言葉の変化、ボディの変化

終戦の詔勅を聞いて、当時は普通に天皇陛下による敗戦の表明であったと理解されたという当時の日本人の漢文の素養の高さに驚かされる。

時代劇、特に昭和30年代までに作られた時代劇では、同様の漢文と江戸時代以前の歴史の素養がないと一度聞いてもわかるまいというような漢文のせりふ回しがしばしば登場する。映画『忍びの者』もそうだし、『忠臣蔵』もそうだ。

このように言葉は、時代の経過とともに全く変化を遂げてしまう。大意はわかるが微妙なニュアンスの伝わるのは、その時代の人だけなのだ。その点で文学というのは、時間のない世界から書かれたものを除けば、その時代とともにやがて打ち捨てられるものなのだろうと思う。

ブログ、SNS、twitterも直に棄てられるだろう膨大な文字群だと思う。

その一方、過去1万2千年のスピリチュアリズムの骨組とは、一つは旧約聖書や、北欧神話、古事記、バガバッド・ギータなど、ポスト・アトランティスの時代に作成された古層の時代を超えた部分と、もう一つは現代という人類の大きな文明の端境期に、円滑に人類が継承されることを狙いとしている部分である。

アトランティス沈没直後の時代でなくとも、易経とか、太乙金華宗旨など、後代にスピリチュリズムの骨子と言える書物は作られ続けてきた。

筮竹でもトランプでもタロットでもホロスコープでもよいが、昔はそういう身体外の器物を媒介にしてしか世界を観ずることしかできなかったが、21世紀に入り肉体が進化し、大悟覚醒に堪えられる肉体に進化した結果、人はボディで、世界を観ずることができるようになった。

人類全体が、大悟覚醒できる準備がボディの面でほぼ整いつつあるのだ。四大、五大、五行など世界を分析、再構築する伝統的なスピリチュアリズムの手法は、1万2千年を経て、いまやその役割を終えようとしているのだ。

これも人間の進化の前兆ということである。


蛇足:
中国の書物を見ていれば感じさせられることではあるが、古代において誰でも知っている書物でも数百年たつと失われ佚書に入ってしまう。その結果そうした重要文献は日本にしか残っていないことがままある。

仏教は、インドで滅亡し、中国で滅亡し、朝鮮で滅亡し、20世紀はチベットで滅亡し、仏教東漸し日本で最後の華を保持している。日本は実にスピリチュアルのラスト・リゾートではあるが、一皮も二皮もむけないと危ういと思う。

『終戦の詔勅(部分)

朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ 非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ 茲ニ忠良ナル爾(なんじ)臣民ニ告ク

(中略)

然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ 朕カ陸海将兵ノ勇戦 朕カ百僚有司ノ励精 朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ尽セルニ拘ラス 戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス

加之(しかのみならず)敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ 頻(しきり)ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所 真ニ測ルヘカラサルニ至ル』
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夢告は冥想体験である

2019-09-23 06:24:09 | 究極というものの可能性
◎意識清明にしてこの世ならぬものに会う

夢を見るというのは、明け方近く夢を見てそれを覚えているケースや、正夢、逆夢などと睡眠中に夢を見るということはあり、そうした中で未来の予知夢などもある。ここでは、そうした本物の夢のことは言わない。

求道者の伝記や伝説などをみると、洋の東西と問わず、翻訳者や学者さんが『夢告』と平気で訳しているものだから、私も本当に夢告と信じていた。だが、本当は、睡眠に入って夢を見た夢告ではないと思われるのがいくつかある。それは次のようなものであって、おそらくは冥想体験なのだ。

1.崇神天皇は、又疫病が流行して、沢山の死者が出続けることに苦悩し、真っ暗な神床で、連日の冥想を続けたところ、何日目かに大物主神を崇敬すれば、国家は安寧となるという夢告を得た。

2.親鸞は、19才の時に、法隆寺参詣の帰途、大阪府南河内郡にある聖徳太子ゆかりの磯長御廟に三日の参籠をした。その時に「あなたの余命は10年あまりである」という衝撃の夢の御告げを受けた。

次に26才の時の太陽の火を取る玉の夢告があった。
更に、28才年の暮、比叡山の大乗院で、如意輪観音から夢告を受けた。それは、「善いかな、善いかな、あなたの願いは、まさに実現(満足)しようとしている。善いかな、善いかな、私の願いもまた、実現(満足)している」
29歳の時の六角堂の百日参籠の九十五日目受けた女犯偈もそうだろうと思う。

3. 二十一代雄略天皇の時代に天照大神が天皇に夢告があって、「吾ひとり居ることは不自由で食事も思うようにならぬ。故に丹波の国にます食事の主宰神たる豊受大神を我がもとに祭ってほしい」と仰せられた。
 そこで天皇は、豊受大神を丹波から勧請し、御饌殿(みけどの)も建てた。これが外宮豊受大神宮の始まり。

4.15世紀に真阿上人は、阿弥陀仏の夢告を受け、法名の真阿弥陀仏を授けられたので、真阿と号した。京都市伏見区下鳥羽の鴨川のほとりは、真阿上人(後亀山天皇の皇子)がその屍を水中に沈められ、その遺志により、うろくず(魚)の餌にされた場所であり、長く殺生禁断の地とされてきた。この側にあるのが一念寺。

夢告とは、深いトランスに入り、高級神霊から何らかのメッセージを受けたか、体験とはいえない体験を経て、『見るべきものを見た』ということなのだろうと思う。

夢告とはまことに都合の良い日本語だが、日本人の習慣の中に冥想が一般的ではないので、しょうがないので夢告と言っている場合があるのだと思う。

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白髪頭の子を産む

2019-09-22 06:27:08 | 究極というものの可能性
◎言葉も論理も越えたもの

『女神イシスの全体像や、その多面にわたる意義の総体を合理的に理解しつくすことはできない。ある元型が包含する意味を言葉で言いつくすことは不可能だからである。』
(男性の誕生 『黄金のろば』の深層 M.‐L.フォン・フランツ/著 紀伊国屋書店P224から引用)

父なる全能の神ラーは地母神イシスと結婚して、ラーの生まれ変わりを生む。これを指して人類学者は近親相姦だと言ったりするが、仏教的には、法身がラーであり、応身はイシスで、報身は再生した赤子のラー。これはキリスト教の三位一体とパラレルであり、洋の東西、宗派を問わず、見る目のある人にはそう映っていたということ。出口王仁三郎の弥勒三会もそういう構造。

地母神イシスは、母にして、完全な人間を出現させる媒介・刺激であり、世界の王と結婚する世界の女王であり、ラーが天国ならばイシスは地獄を受け持つ。天国と地獄が結婚して老いたる子が誕生するのだ。

人間の悟りとは、十牛図だけ見ても多層的なものであるのだが、こうした論理性を超えたアナロジーで描かれているものの方が、核心に近いと思う。


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OSHOバグワンのタロット

2019-09-03 05:38:52 | 究極というものの可能性
◎複数の冥想法の組み合わせ

OSHOバグワンのタロットは2種類ある。OSHO ZEN タロットとOSHO NEO タロット。どちらも本家タロットの伝統やシンボリズムはほとんど無視したもの。

彼の弟子のナルタンさんが、OSHO NEO タロットの方が良いと言っていたように記憶するが、私も同感である。

およそ組織宗教の教祖ならば、一つの冥想法を専一に推し進めるのが常道。その冥想法にフィットした経典、参考書、道場の日課、日常所作の決まり、呼吸法、食べるもの、飲むものまで決めてしまうことがあるもの。

日蓮は、南無妙法蓮華経を専一に、親鸞、法然は、南無阿弥陀仏を専一に、道元は只管打坐を専一に進めた。

この点で、OSHOバグワンは、特定の冥想法だけで、教団組織を維持拡大するよりは、様々な冥想法のあることを認めた瞑想コミューンの方に関心があったようだ。

よってOSHO NEO タロットにも様々な冥想法がバラバラに出てくる。

『38. 変容 Transformation』では、チベット密教のアティーシャの冥想。
アーティーシャは大慈大悲を持つための呼吸として、以下を示す。
息を吸うときに注意して聴きなさい、——過去現在未来の世界のあらゆる人びとの惨めさをすべて吸い込む。

息を吐き出すときは、あなたがもっている喜び、祝福のすべてを吐き出して、自分自身を存在に注ぎ入れる。

ここの存在とは、世界全体であって、過去現在未来を含む宇宙全体。観想を伴う呼吸。
いわゆるヴィパッサナーの呼吸をひたすら見つめるというのとは異なる。

それはよい。それぞれのカードに異なる冥想法。だが、頂点は同じかもしれないが、組み合わせによっては、効果を打ち消す冥想法の組み合わせもあり得る。

正師は必要なものだ。

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聖者の自殺未遂

2019-08-22 06:05:39 | 究極というものの可能性
◎一休から人類大量死まで

聖人、聖者が自ら自殺しようとしたことがあったことを語るのは、そう実例が多いわけではない。せいぜいが、古くは一休であり、最近ではダンテス・ダイジであり、チベット密教ではミラレパ。

出家とは、自分の生きる宇宙から遁走することであるから社会的には自殺だが、実際に自殺に踏み切ったとなると、社会的もへったくれもなく、一種の狂気にいないとそうはならないのだろうと思う。

一休は、17歳で謙翁の弟子となったが、4年後に、謙翁は逝去。突然の師の喪失に行き場を失った一休は自殺を図った。

臨済禅は、気力だ、胆力だとやるものだから自殺ということから縁遠いものかと思われるが、精神を操作すれば何でも起きるもの。自分が死ぬ、大死一番などという世界なのだから本来自殺があってもおかしくはない。

祖師の一人が自殺未遂経験者というのは、宗門には都合が悪かったのかもしれないが、聖者覚者はフランクでオープン・マインドだから自分の自殺も隠さない。

ダンテス・ダイジには、子供の頃から自殺念慮があって母親を悲しませたことが書いてあり、青年になってからは恋路のもつれから自殺未遂に至ったらしいことも書かれている。

あのあらゆる宇宙を突破して、六神通力を平気で使いまくる聖者がどうして自殺未遂しなければならなかっただろうか。これも一つの公案ではある。

大黒魔術師であったミラレパは、師匠マルパから弟子として認められる直前に、マルパから、様々な試練を与えられた上に、罵倒、殴打、蹴り上げなど怪我をさせられ、ついには自殺する決意までした。そこまで行って弟子入りさせてもらえた。

チベット密教では、屍解する聖者が多いが、厳密に言えばそれは自殺と言えないこともない。

禅語録でもそうだが、よく自分の死去する日時を予告して亡くなる禅者がいるが、実際はどのように亡くなるのだろうと皆少しは想像をめぐらすのではないだろうか。禅者は屍解こそしないが、自ら日を選んで逝去するのは、自殺と別なのだろうか。ただその辺は、禅家ではさして重要なこととは見ていないことはわかるものだ。

釈迦は、レア・ケースだが、自殺を認めた事例もある。

世間では、自殺はよくない、人間の命は地球より重いなどと言いながら、金やその他のことで追い込まれる人は無数にいるもので、その中でも自殺に奔る人も少なくないのだろうと思う。

聖者の自殺未遂は、そうした背景をも踏まえて存在する。現代文明の果ての人類大量死は、大集団自殺でもあり、あまり他人事とも思えない。

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人生を逆順に見る

2019-08-17 06:28:45 | 究極というものの可能性
◎結果を先に見て原因を改める

映画やドラマを逆回しにして見ても、音声は聞き取れないし、動作は奇妙なので意味不明なことになる。

だが、音声も動作も出来事もわかる状態で逆回しで見れるシチュエイションがある。

それは、前世記憶を見る場合である。これはOSHOバグワン(死・終わりなき生)が語っているのだが、自分の人生を遡って行って、3歳付近のことを思い出し、出生時のことを思い出すと、やがて子宮を選ぶシーンも見る。

その次に前世における自分の死を見て、前世で離婚したのならば、離婚して、子供ができて、結婚して、恋人になって、また我が少年時代を見るというように、結果を先に見て原因を後で見る。

こうした前世を逆順に見ることは、大悟覚醒した後に、いわゆる宿命通を発揮した場合に見ていくことができるという。

この例で言えば、前世で離婚を経験した場合、離婚の原因は既に結婚の時にあったことを悟るもの。結婚の時に、あるいは恋人の時に、既に後に離婚に至るパートナーへの敵意があったことを見るのだ。

また実は、人生を逆順に見ることは、老人の誰もがやっていることであって、前世を遡行する宿命通を開いた人だけの能力ではない。

離婚に限らず、人生上の成功、失敗のほとんどが、その原因を事件の種の段階にあったことを後で知ることができるものだ。

この意味で言霊の意義はあだやおろそかにできないものだとつくづく思う。物事の始まりに、茶化した余計なことは言ってはならないと思う。

人生上の出来事は、職業生活、家庭生活などいろいろなシリーズがあるが、種から若葉、小枝が出て、花が咲き、実をつけ、最後は種が落ちると進むが、種の落ち方は最初の段階でほとんど決まっている。よって「最初」にはよくよく気をつけねばならない。

そんな訳で、前世記憶そのものがそんなに愉快なものではなかろうというのは誰でも想像がつくのではないだろうか。

また人生上の出来事をうまくやろうとして、メリット・デメリット優先のテクニックに奔るより、無私、素直が基本線であることも間違いないのだと思う。

いろいろ逆っぽいことを並べて書いたが、「それ」は簡単なことではないという面がある。
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朝は人間、夜は獣

2019-08-04 05:54:46 | 究極というものの可能性
◎人間の進化と循環、そして輪廻転生

人は、朝はより神に近く「人間」だが、日中のありとあらゆることで混乱し、夕方にはより神から遠い「獣」となる。

夕刻には、世界の雰囲気は一変し、更に猥雑なアルコール、ギャンブル、エロス、騒音などの世界に沈没する人もいれば、静かな夜の闇に自分を見つめ直す人もいる。夜は概して「獣」優勢の世界だが、夜が更けると、人は休息し、朝を迎える。

人が神・仏になることを一つの目標とする輪廻転生という視点では、紆余曲折はあるが、あるいは一時的な退歩はあるかもしれないが、長期的に見れば後戻りすることはないのだと思う。

日本や中国では、覚醒後でも人間は存在するが、インドでは覚醒したら終わりなどという違いのことはここでは言わない。

文明全体の無明への沈降から覚醒への上昇到達、そしてまた無明への沈降へという巨視的循環はユクテスワによれば、数万年周期で発生する。人はその文明下で生を受け死んでいくので、社会全体が迷いならば、人々も迷いがちであり、社会全体が悟りならば悟りがちであるということはある。

今次のことでは、先に悟る国家と後に悟る国家というのがあるだろうと思う。

ライフ・スタイルが個人向け電子デバイスの普及によって世界的に均質化されたといっても、そこだけが跛行的に進歩している観はある。水や食料がちゃんと供給できていなくとも誰もがスマホを持っている社会って、いったい誰が幸福なのだろうか。

悟りとは、あらゆる実感を経た人間に起こるが、それは先進国でより起きやすく、発展途上国ではより起きにくいということはある。

だが覚者にそこを質すと、どこの国でも悟りに変わりはないとか、覚者の眼から見れば悟らない人間と悟った人間の違いなどないとはぐらかされるのがオチである。

次の時代は万人が悟っている時代だという。その万人は何を意味するのか。日本人は全員悟るのか、朝鮮人は全員悟るのか、中国人は全員悟るのか。この辺をよく考えないといけないと思う。

AQUARIAN AGEとして猫も杓子も長寿で健康で大悟できるみたいな幻想を持つ時代は終わった。今まさに、その大事業に自分で取り組む時代に立ち至った。
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あらゆる戦争をやめることが可能か

2019-07-07 06:25:31 | 究極というものの可能性
◎誰のための切りつめ生活

外交的に全方面から相手にされなくなった国を四面楚歌と言い、滅亡の直前夜とする。国の行く末を予言するのは、呉越同舟、同床異夢な勢力による政治、経済、文化、地政の多次元なパワーバランスを評価するものだから、大いに時間軸の移動とともにハズレの方向に行きがちなものであるが、メイン・シナリオは変わらないという厳然とした法則がある。

これまで何千年間、国々とその国民である我らは、戦争を準備するために平時を過ごしてきた。

そこであらゆる戦争の原因は何かをつきとめることができれば戦争とその準備の日々を打ち切ることができる。

あらゆるイデオロギーの対立、文化の対立、人種の対立、そして同種の者が集まった中では無理やり順位をつけて相互に争わせようとする、全方面にわたって火星に象徴される争闘がほとんどの時代。

ノストラダムスの4行詩
『1999年7月恐怖の大王空より至る
アンゴルモアの大王を甦らせ
火星の前後に幸運に支配させるために』
※この幸運は金星=愛の意味でもある。

火星は、自己実現であり、アメリカンドリームの源泉であり、パックスアメリカーナの背骨。ここに古代恐竜のような中ロが登場してきている。

人々相互の争闘は、マニピュラの火星を舞台にしている限りは収まらず、万人が一度真理に立ちかえって、愛アナハタに舞台を進めなければならない。

この一度真理に立ちかえるということほど、現代人が忘れ去ってしまったことはないと思う。

日々税金を払って無数の他人を殺す核とか通常兵器で防衛し、あげく50歳まで結婚できなかった人が2割で、結構な数の孤老たち。誰のための切りつめ生活、誰のための禁欲、我慢、日々の節制、世間体だけの社会性。

かくして叫びは戦争に転ずるのだが、そうしたサイクルを今次は脱却すべきではないか。
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エレウシスの秘儀

2019-07-04 05:04:54 | 究極というものの可能性
老いたる子を連れたペルセポネの帰還

エレウシスの秘儀とは、地母神礼賛系の秘儀であったろうということはわかっているが、詳しいことはわかっていない。

『異次元の刻印(下)/グラハム・ハンコック/バジリコP172』によると、毎年9月にギリシアのエレウシスに何千人もの巡礼者が集まった。そのテレストリオン神殿のアナクトロンという奥の院では、秘儀のクライマックスで、死の国で身ごもった新生児を抱いて、死から生還したペルセポネのビジョンを見たという。ペルセポネは死の世界に拉致されていたのだ。

大集団が同一ビジョンを見たのだとすれば、集団催眠か、薬物摂取の上で演劇を見せたか暗示を与えたかというようなことが推測される。

このビジョンは、一度見た人間を以前とは全く異なる人間に変容させるという。この儀式は2000年間継続し、儀式により死の恐怖を克服したという。

さるセレモニーに参加したからといって、参加者全員が大悟覚醒するようなことはない。ある種の洗脳、例えばとある品物が欲しいという洗脳は、数十分から数日続き、外部から洗脳暗示を繰り返し与えることで、欲しい気持ちが数年続くことすらあることは、我々は経験的に知っている。

そうした通俗洗脳と大悟覚醒は全く異なるものだ。
大悟覚醒、自分のあらゆる宇宙が死に、自分が死ぬ体験は、集団の儀式で全員に起こることはないと思う。道は3つに分かれ、覚醒か、発狂か、退行か、である。チャンスは与えられるが、準備ができているかどうかが問われるのだ。

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物事は紙一重で変わっていく

2019-07-02 05:24:01 | 究極というものの可能性
◎無力で情けない自分とそうではないもの

昨年も7月初めに西日本豪雨があったように今年も九州、西日本で長雨が続いている。
避難所と言っても公民館や学校なので、布団があるわけではない。

大きな流れが、紙一重で変わっていくというのは、2018年のサッカー・ワールドカップ日本対ベルギー戦で、主将長谷部の何でもないミスパスから始まった0-2からの逆転負けが例である。それは後講釈だから言えるという側面がある。

政府は2019年7月1日、韓国への輸出規制を厳しくするため、半導体材料の審査を厳密にし、安全保障上の友好国の指定も取り消すと発表した。これにより韓国経済の主柱である半導体輸出は大きな制約を受ける。
敗戦後に日本が外国に対して独自に(国連の方針やアメリカの意向と関係なく)こうした政策を取るのはほぼ戦後初めてではないか。

もう一つが、日本はクジラ漁の国際的な取り決めを定める国際捕鯨委員会(IWC)から、2019年7月1日をもって正式に脱退したこと。これも捕鯨云々よりも、戦前の国際連盟からの脱退を彷彿とさせる出来事である。日本が戦後こうした国際機関から脱退したのは戦後初めてではないか。

国際機関が中国や韓国などの意向を受け、反日に動くのは、2019年4月の世界貿易機関(WTO)を舞台にした日本と韓国の水産物の輸入制限を巡る争いが、日本の「逆転敗訴」となった事例など最近時々発生し始めてはいる。

世界は大きな流れに押し出されるようにその後の針路を示すようなシンボリックな兆候が起こって、やがて誰も押しとどめられない大きな流れになっていく。

小さな兆候は、各人の日常茶飯事にも散りばめられており、気がつくか気がつかないかだけの差とも言える。それが継ぎ目のない一つながりの今ここ。今日の食卓は世界情勢の反映でもあり、飲み屋での中生ジョッキの周辺状況は緊迫する世界情勢と無縁ではなく連動している。

世界戦争なくして次の時代に進めるかどうかは大きなテーマだが、それも日々の自分の一挙手一投足にかかっている。無力で情けない自分と、全くそうではないものがどちらも真実だが、それを証明することはできない。
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その意を誠にする

2019-06-28 04:59:20 | 究極というものの可能性
◎君子は必ずその独りを慎むなり

四書五経の大学から。
『いわゆる其の意を誠にするとは、自ら欺くこと毋(なき)きなり。悪臭を悪(にく)むが如く、好色を好むが如くす、これを自ら謙(こころよ)くすと謂う。

ゆえに君子は必ずその独りを慎むなり。』

『その意を誠にする』で思うのは只管打坐の坐り方、意識をはっきりしたままで深まっていく。シュンニャ、玉ねぎの皮をどんどん剥いていったら何もなかった。現代人のほとんどは、揺れ動き不安定な自意識が本当の自分の気持ちだなどと思い込んでいる。『その意を誠にする』人は少ないものだ。

悪臭はいやだし、好色は好ましいなどエロ爺な言い方だが、当時書物は男性しか読まなかったので、こういう言い回しでもよかったのだろう。この先に本当の謙譲がある。まず男女の別、天地の別など区別を立てないと、社会性は広がらないし、自意識も育っていかない。だが、それは入門段階の話ではある。

本当の謙譲では、好き嫌いを問題としないから。

ゆえに現代人はその独りを慎み冥想する。

この文の後に小人閑居して不善をなすこと至らざること無しとして、SNS、モバゲー三昧の現代人を揶揄している。

一人でいる時間の過ごし方こそがクリティカル・イシューである。
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儒家の影響と未発の中

2019-06-25 05:06:51 | 究極というものの可能性
◎中華思想の淵源

歴史学者の宮崎市定が、儒家は、人間の理想を人間関係に分解、矮小しすぎたというようなことを言っている。

儒家の世界観といえば、修身斉家治国平天下であって、個人から天下に至る。天下の先は中であって、未発の中が世界の中心となる。

その基調には愛があるのは間違いなく、それは、人間関係である君臣、親子、夫婦などに分解されて五常(仁、義、礼、智、信)となって、君主への忠義や親孝行、夫婦の親和などとなる。

これだけで悟る人もいるのだろうが、この世や森羅万象の無常であることも置き、言葉で表現できない未発の中も置くというのが、ノーマルな宗教。古神道では、幽斎と顕斎をおいて、かたや形のない神様との直面、かたや形ある神様や生物無生物との交感でもって十全とするが、この儒教世界観では、形ある側に偏向していると言わざるを得ないところがある。

平天下までしかない世界観のもとでは、易姓革命の思想が容易に受け入れられるものだが、時代が下がるにつれ、ちまたに善本と呼ばれる功過格が流通していったのは時代自体が自ずとバランスをとったのだろう。

儒家にクンダリーニ・ヨーガ系はないかに見えるが、易経はクンダリーニ・ヨーガ系である。易経は、論語読みの人はあまり気に入らないようだ。理解できないものを理解できないから無視するのではなく、読みこなそうというチャレンジは必要だと思う。八卦384爻で世界を解くのだ。

こうした『時に影響を受けるもの』が主流の世界観が、中国では中華思想を維持してきたと思う。
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