アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

夢と真実-コンテンツ一覧1

2009-10-10 08:17:19 | 夢と真実
Category 【夢と真実】 その1
Entry

1.日常感覚から悟りへ-1 (小市民の幸福)
1.日常感覚から悟りへ-2(自分の利害と感情)
1.日常感覚から悟りへ-3(冥想から悟りへ)
2.悟りとは何か-1 (神に出会うこと)
2.悟りとは何か-2(神と一体になること)
2.悟りとは何か-3(只管打坐系-1.道元)
2.悟りとは何か-4(只管打坐系-2.クリシュナムルティ)
2.悟りとは何か-5(只管打坐系-3.老子)
2.悟りとは何か-6(クンダリーニ・ヨーガ系-1.サナート・クマラ)
2.悟りとは何か-7(クンダリーニ・ヨーガ系-2.出口王仁三郎)
2.悟りとは何か-8(クンダリーニ・ヨーガ系-3.ドン・ファン・マトゥス)
2.悟りとは何か-9(クンダリーニ・ヨーガ系-4.呂洞賓)
2.悟りとは何か-10(クンダリーニ・ヨーガ系-5.空海)
2.悟りとは何か-11(クンダリーニ・ヨーガ系-6.荘子)
2.悟りとは何か-12(クンダリーニ・ヨーガ系-7.ヘルメス・トリスメギストス-1)
2.悟りとは何か-13(クンダリーニ・ヨーガ系-7.ヘルメス・トリスメギストス-2)
2.悟りとは何か-14(釈迦)
2.悟りとは何か-15(ダンテス・ダイジ-1)
2.悟りとは何か-16(ダンテス・ダイジ-2)
2.悟りとは何か-17(禅の悟り)
2.悟りとは何か-18(神降ろし)
3.悟りの必要性-1 (神の側から見た人間観・道徳観)
3.悟りの必要性-2(達磨と寄進の功徳)
3.悟りの必要性-3(原罪と善)
3.悟りの必要性-4(右手と左手)
3.悟りの必要性-5(迷い・マーヤ・無明)
3.悟りの必要性-6(二つの恐怖)
3.悟りの必要性-7(社会的な死にとっての救い)
3.悟りの必要性-8(ケン・ウィルバーの愛人との死別)
3.悟りの必要性-9(肉体の死と自我の死の関係)
3.悟りの必要性-10(肉体死と死の世界の全貌)
3.悟りの必要性-11(肉体死への恐怖から覚醒へ)
3.悟りの必要性-12(死を忌避する文明の特徴)
3.悟りの必要性-13(異端者排除から管理強化へ)
3.悟りの必要性-14(異端者排除から文明の自殺へ)
3.悟りの必要性-15(文明の自殺の回避-1)
3.悟りの必要性-16(文明の自殺の回避-2)
3.悟りの必要性-17(ソドムのロト)
4.悟りの効果-1 (無用の用)
4.悟りの効果-2(只管打坐の効果-愛)
4.悟りの効果-3(身心脱落の効果-OSHO-1)
4.悟りの効果-4(身心脱落の効果-OSHO-2)
4.悟りの効果-5(クリシュナムルティの効果)
4.悟りの効果-6(すべての人にとっての幸福)
4.悟りの効果-7(霊能力・超能力を相手にしない)
4.悟りの効果-8(クンダリーニ・ヨーガの効果)
4.悟りの効果-9(揺らぐ現実感)
4.悟りの効果-10(超能力の位置づけ)
4.悟りの効果-11(密教の悟りのジレンマ)
4.悟りの効果-12(ノー・リターン・ポイント)
4.悟りの効果-13(心身一如)
4.悟りの効果-14(マントラ・シッディ-1)
4.悟りの効果-15(マントラ・シッディ-2)
5.悟りへの手段-1 (冥想の準備)
5.悟りへの手段-2(中間段階を目指す冥想)
5.悟りへの手段-3(純粋冥想)
5.悟りへの手段-4(ヨーギ達の冥想手法の変遷)
5.悟りへの手段-5(秘儀伝承とグル)
5.悟りへの手段-6(禅の招来)
5.悟りへの手段-7(クンダリーニ・ヨーガの変貌)
5.悟りへの手段-8(日常の仕事を真剣に)
5.悟りへの手段-9(クンダリーニ・ヨーガの弊害と適性)
5.悟りへの手段-10(宗派をどうみるか-1)
5.悟りへの手段-11(宗派をどうみるか-2)
5.悟りへの手段-12(宗派をどうみるか-3)
5.悟りへの手段-13(パワー・スポット巡り)
6.悟りへの階梯-1 (悟りは心理に非ず)
6.悟りへの階梯-2(意識レベルの低下テク)
6.悟りへの階梯-3(悟りとステップ)
6.悟りへの階梯-4(只管打坐タイプの冥想のステップ説明)
6.悟りへの階梯-5(牛を飼いならす)
6.悟りへの階梯-6(体験ではない何かが起きている)
6.悟りへの階梯-7(第四図から第七図まで)
6.悟りへの階梯-8(身さへ残らず消えはてにけり)
6.悟りへの階梯-9(生還と社会への適応)
6.悟りへの階梯-10(不連続な意識のスペクトル)
6.悟りへの階梯-11(神の造化のデリカシー)
6.悟りへの階梯-12(クンダリーニ・ヨーガのステップ)
6.悟りへの階梯-13(死の質の違い)
6.悟りへの階梯-14(見性・見神の希薄化)
6.悟りへの階梯-15(水平の悟りと垂直の悟り)
6.悟りへの階梯-16(ヨーガ・スートラの定義)
6.悟りへの階梯-17(ヨーガ・スートラの定)
6.悟りへの階梯-18(ヨーガ・スートラの三昧)
6.悟りへの階梯-19(古神道のステップ)
6.悟りへの階梯-20(原始仏教のステップ)
6.悟りへの階梯-21(見ている自分)
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夢と真実-コンテンツ一覧2

2009-10-10 08:15:55 | 夢と真実
Category 【夢と真実】 その2
Entry

6.悟りへの階梯-22(空海の十住心論-1)
6.悟りへの階梯-23(空海の十住心論-2)
6.悟りへの階梯-24(チベット死者の書の特徴)
6.悟りへの階梯-25(死の世界を扱う技術)
6.悟りへの階梯-26(死のプロセス-1)
6.悟りへの階梯-27(死のプロセス-2)
6.悟りへの階梯-28(死のプロセス-3)
6.悟りへの階梯-29(死のプロセス-4)
6.悟りへの階梯-30(肉体死からクライマックスへ)
6.悟りへの階梯-31(慧命経の粉砕図)
6.悟りへの階梯-32(道教オリジナル・メソッド)
6.悟りへの階梯-33(西洋錬金術の外形)
6.悟りへの階梯-34(七つの山)
6.悟りへの階梯-35(種子を採る)
6.悟りへの階梯-36(枝と葉の広がり)
6.悟りへの階梯-37(2万4千年周期と肉体)
7.悟りの実現可能性 (二重の不確実性)
8.21世紀に生きる (宗教の終わり)

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8.21世紀に生きる

2009-05-08 05:39:10 | 夢と真実
◎宗教の終わり

本当に納得するということ、本当に生きるということがテーマになっていない人々に対して、求道やら真理やらメディテーションなどと言っても相手にしてくれるものではない。

一歩進んでそうしたものに少しでも関心を持ってくれている人に対して、それについて知的な説明をいくらしても、本当の満足、本当の安心、本当の納得につながらないことも、いわば常識。

だからといって神とは何か、真の幸福とは何かという真剣な質問に対して、履いていた靴を頭の上に載せて答えですというような漫才みたいなやり方が、今のハイセンスファッショナブルな人達に受けるとも到底思えない。

真理は言葉で説明することはできず、人から人へ伝達することはできず、それは人間に属するものではない。だけど真理に出会うには何か冥想をしないと出会えないようだ。

しかし
冥想って、なんか変な新興宗教みたいで世間体が悪い。
冥想をしても金が儲からない。生活のたしにはならない。
冥想をしても真理という宝にたどりつけるとは限らない。
適当な師匠がいない、見つからない。
冥想をする暇がない、場所がない。

などと言う。

なるほど我々は、悟れても生きるし、悟らなくても生きる。
そして悟れても死ぬ、悟らなくても死んでいく。

個人の死とは、個人の世俗のあらゆる社会的関係、家族や人間関係を振り捨てることでもあり、あらゆる終わらない思いを断ち切らされる出来事でもある。悟らなくても、悟りに関心がなくとも、それにお構いなしに、そんなイベントは必ず誰にでもやってくる。

そして文明にも死がやってくる。

次の文明では今のITを初めとした技術文明はほとんど残らないという。今は大きな文明の終わり、文明の死の直前であるという。過去のあらゆる宗教ですらその文明の数多い道具の一つであった。そんな宗教の終わりの時代でもある。

宗教の終わりの時代とは、我々一人一人にとって、宗教がお払い箱になる時代のこと。それは極大化した欲望を各人がぶつけ合って争う時代のことではなく、欲望の本質を見切って、あるがままに生きることが求められる時代である。

有史以来数多くの聖者、賢者が神、仏、道、ニルヴァーナを説いてきた。それが終わりになるということは、我々が神、仏、道、ニルヴァーナを知るということに他ならない。次のステージに進むためには、それをクリアできなければならない。それをクリアする唯一の王道が冥想である。

              (了)




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7.悟りの実現可能性

2009-05-07 04:41:15 | 夢と真実
◎二重の不確実性

悟りとは、すべてを捨て去った後に到来する日常性からの超越である。

この情けない人生を超越しようとする気分の根底には、この世の不条理の徹見、つまりこの世を生きるのがつらい、生きるのが大変でどうしようもないという気分、生活実感というものがある。

それがなければ、そうしたジャンプをしようとまでは思わない。この辺にまず魂の経験値に個人差があり、更にそれが修行結果に反映するという絶対的な法則を見る。

つまり経験値が十分でなければ、まだまだ贅沢な生活や燃え上がる恋なんかに未練を残していて、あるタイミングがくれば、冥想修行へのトライなんか中途でやめてしまいがちなものだ。

それでは、魂の経験値の問題をクリアできたならどうだろうか。
準備ができた修行者は、ジャンプ台の上に乗っていざ滑り出したとする。やがてジャンプもした。

ジャンプの瞬間は、どんなものでも受け入れられる程オープンになっているので、どんなものでもやってくる。着地したところが仏の場合もあれば、運悪く?悪魔の場合もあり、大日如来との合体を目指していたのに、全く別の阿弥陀仏の慈悲の大海を見てしまうようなこともあるだろう。

これなども、本人の資質や、平素の行動の善悪、そして前世を含めた過去の修行の結果が反映するというところがあるのではないだろうか。

要するに、冥想修行となれば、ある一定の修行方法で、ある決まった結果が出るのを大前提に考えてはいるが、まずその修行が成就するかどうかは保証できるものではない。これが第一の不確実性。

その上、結果が、その修行方法で予期された形に必ずしもなるものではないというもう一つの不確実性があるのである。つまり只管打坐メインで修行していたが、観想法もついでにやりづけた結果、クンダリーニ・ヨーガの方の修行の進境が著しかったなどどというケースがあること。

この二重の不確実性こそ、希望した人がすべて悟れるわけでもないし、希望した時期に悟れるわけでもない所以(ゆえん)である。

またそうではないと言下に否定されるかもしれないが、身心脱落などは、本当に本気になることで起きる何かだと思うが、その本気になるモチベーションがどこから来るかといえば、魂の経験値の積み上がり具合から来るものだと思う。

魂の経験値の積み上がり具合・成熟度は、自分で何とかできるものではないので、それを承知しているなら、悟れる悟れないについては、誰もが今生で悟れるなんて迎合的なことを言うグルはいないのではないか。

またこうした不確実性こそ、理性の勝った現代人が、容易に冥想修行に入らない大きな理由ともなっている。

そんなこんなで、今更言うまでもないが、真剣にあらゆるものを振り捨てて、神頼みしかできないような、緊迫した状態に陥らねば、人は冥想なんぞしないものだ。
天変地異などに遭遇して、初めて万人は、神頼みしかないところに追い込まれる。

だからといって、座して核戦争や天変地異を待つようなことは誰も考えないだろうと思う。それを予感して何をすればいいのかわからない人にとって最後に残された手段は、冥想しかないが、それを論理的演繹的に説明することなどできない。

それでも生き延びるため、ないしは情けなく無力で邪悪な自分を死に切るには、やはり冥想しかないことに気づくしかないのだ。




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6.悟りへの階梯-37

2009-05-06 07:44:27 | 夢と真実
◎2万4千年周期と肉体

19世紀インドの聖者ユクテスワによれば、地球文明は2万4千年で1周期。最も神に近づく時代を頂点(ヴィシュヌナビー=宇宙大中心に最接近)として、1万2千年は下降し、続く1万2千年は上昇する。前回の頂点の時期は紀元前11500年。これから1万2千年間人間精神は下降を続けた。

カリ・ユガ期の西暦500年が下降のボトムで、最も神に遠ざかった時代。これより1万2千年は上昇の時代になる。それからカリ・ユガ期は1200年続き、西暦1700年にはドワパラ・ユガ期(2400年間)に入った。

現代は、ドワパラ・ユガの300年を経過したところ。ドワパラ・ユガの時代のテーマは、物質界を作り出している原理である精妙な電気的力を理解することだと言われる。電気的力とは、エーテル体レベルの諸力なのだろうと思う。  

こうして世界は2万4千年周期で神への接近と離脱を繰り返す。その大周期には、絶対区分ともいうべき7つの存在レベルがあり、それは7つの身体(ボディ)のことである。この大周期において、人間は7つの存在レベルの上昇と下降を繰り返す。

さらには7つの存在レベルの各々に対して、人間の肉体には、それに対応する7つのチャクラ(生命力の中枢)が存在している。

つまり七つのチャクラ、七つの存在レベルは、人間の歴史的発達を反映したものなのだ。ここで冥想十字マップにおいて、ダンテス・ダイジが時間的進化として七チャクラを充てた意味が判明する。

ムラダーラ・チャクラに始まりサハスラーラ・チャクラに終わる縦軸は、クンダリーニ上昇経路の意味ではなく、人間の歴史的発達段階、換言すれば社会全体の自己感覚の平均的あり方の変遷ステージをシンボリックに表現したものだったのだ。

自分個人は世界と同時にひとつながりであるという一見現実離れした理想主義的なスローガンは、我が肉体にチャクラがあることだけでも知られるということなのだった。




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6.悟りへの階梯-36

2009-05-05 08:35:07 | 夢と真実
◎枝と葉の広がり

十牛図の一円相に行き着いた修行者は、最後には酒とっくりを片手に陋巷に戻ってくるように、またあらゆる宇宙、あらゆる次元を突破した中心太陽へのパイロットが最後には地球に残された肉体に帰還するように、ピーク体験は、悟りという幹だけでなく、最後は枝葉に帰ってくる。

しかしながら只管打坐系のメディテーションでは、枝葉には価値を認めないという姿勢で一貫している。

これに対して、密教や道教、古神道、西洋錬金術などのクンダリーニ・ヨーガにおいて、アートマンの中心太陽突入というのは、根幹であって、大木の幹であり、幹には豊かな枝があり葉が繁っているもの。

枝葉とは、あらゆるアートである。絵画、彫刻、音楽などの形で現れることもあれば、合気道などのボディとエーテルの働きとして現れることもある。更にはあらゆる超能力として現れることもある。また現代の物質文明そのものが、それらアートの精華でもある。

ニュートンの万有引力の法則ですら当時はオカルト的との批判があった。けれどもその物理学の発展の結果が現在の核軍備競争になっている。核技術もアートの徒花なのだ。

このように一見渾然とした文明社会にあっても、何事においても、悟り、ニルヴァーナから流れ出るものだけが正統であるという基本線があり、それに沿って、次のようなさまざまな神秘的アートが周辺に配置されている。

1.物質変成の技術:エーテル体からも組成に影響を与えられ、アストラル体からも組成に影響を与えられ、相互のレベルに作用することを応用した技術。金属変成もあるだろう。同じレベルで肉体変成の技術もあり、ハタ・ヨーガや、エーテル体の鍛練を基調とする気功があり、レイキはその流れ。

2.前兆を見る技術:西洋占星術、タロット、易占などある。西洋占星術や易は、本来ホロスコープや卦をきっかけとして未来を覗き込むのが基本技であったはずだが、人生解釈のためのプロファイル技術として見ても優秀な程に発達してもいる。

3.願望を実現する技術:これは将来を変更する技術のことであって、観想法が第一と思う。奇門遁甲、風水は、おそらくはエーテル体、アストラル体レベルにおける法則を応用して現実レベルへの干渉をしようとするもので、観想法とはひと味違うものではある。


また昔はまず稀有なこととされた六神通という超能力群にしても、リアルタイムでの実現こそできないが、かなり日常生活の中で達成されている。
○天眼通(千里眼:遠くのものが見える):テレビ中継や、ネット中継で一部実現。
○天耳通(地獄耳:遠くの音が聞こえる):携帯電話でほとんど実現。
○神足通(どこへでも自由に行くことができる=アストラル・トリップ):飛行機や船や列車で一部実現
○他心通(他人の心の中が判ること)
○宿命通(自分や他人の過去・現在・未来が分かる)
○漏尽通(煩悩がない):これは超能力などではないが・・・。

こうした事象を考えても、昔ながらのオカルト的な技術の価値というものは相対的に低下していると評価せざるを得ない。それが文明の発達と人間精神の成熟の結果だと思う。こうして人間は冥想により自分の真の有り様を見つめねばならないところに追い込まれているのである。

いうまでもなく、超能力、オカルティックな技術は、それ自体善悪の色はついていないが、超能力者を中心としたカルト化や、我欲実現のための超能力使用など、落とし穴は身近に口を開いているものだ。一旦そうした方向に進んでしまえば、悟りとは全く縁がなくなる。悟りは、自分を捨てる方向に進むものだからである。




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6.悟りへの階梯-35

2009-05-04 08:23:03 | 夢と真実
◎種子を採る

ニコラ・フラメルの賢者の術概要によると、
サハスラーラ・チャクラで見つけた草から、太陽と月を含む純粋無垢な液体を採取して、草を捨てて種子を取らなければならない。草の液を抽出すると、先に白の医薬、次に赤の医薬を手に入れることができる。

この液体には、精液と経血が含まれているが、これを分離しないままで抽出する。抽出で注意すべき点は、精液は人の手では抽出することはできず、神の御力(自然の力)だけが抽出を行うことができる。抽出とは、等質性を損なう余分な異物を取り除くことで、生のものと熟したものを選別することである。

ニコラ・フラメルは、草を捨てて種子を採れという。一方チベット密教では、種子を意識する。

各チャクラの中心には、上半分が白く、下半分が赤い精滴がある。この精滴は、元は胸のチャクラにある不滅の精滴から生じたもので、小ぶりのえんどうまめ位の大きさをしており、その形状から種子とも呼ばれる。

肉体死のプロセスにおいては、サハスラーラ・チャクラから白い精滴が降りてきて、同時にマニピュラ・チャクラから赤い精滴が上がってくる。この白い精滴と赤い精滴が出会うと、8段階の7段目、近得である鮮やかな黒い心が現れる。これを西洋錬金術では黒い太陽と表現している可能性がある。

白い精滴が胸の不滅の精滴の上の白い部分に溶け込み、また赤い精滴が胸の不滅の精滴の下の赤い部分に溶け込むと、8段目の光明が発生するとチベット密教は説明している。

このようにおそらくは、西洋錬金術でも、死のプロセスにおけるチャクラ、精滴というような、神秘生理学からの説明ができるほどの力量のあるグルもいて、かつまたノウハウの伝承もあった。こうしたところから、改めてクンダリーニ・ヨーガというものの実力の広がりと深さには敬服するばかりである。




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6.悟りへの階梯-34

2009-05-03 05:58:45 | 夢と真実
◎七つの山

ニコラ・フラメルは錬金術の鍵について、このように述べている。
『こうして彼ら(錬金術者)は、石の原材料(プリマ・マテリア)とは何か、その真の母鉱はなんであるかを知ることを得ぬ。

彼らはあの七つの山に至らぬ限り成功はおぼつかない。そのことには何の不思議もありはしない。遠くから望み見る六つの山を超えれば、最高の山頂で、必ずや見事な王者の草を知るであろう。それは鉱物の草と呼ばれ、ある学者は草の草と名付ける。またサトゥールヌスの草と呼ばれることもある。

だが搾りかすはそのままにおき、草から搾る純粋無垢の液体を採取するが良い。この点に留意してやり方をよく心得よ。草を捨て種子を取れ。平常の仕方ではこの作業はおぼつかない。麦の選別を見るがよい。黄金の液の植物についてもまた同じ、あるいは更なる巧みを要する』
(賢者の術概要/ニコラ・フラメル/白水社から引用)

七つの山とは、七つのチャクラのこと。最高の山頂とはサハスラーラ・チャクラのことだから、サハスラーラ・チャクラを超えれば、次のボディに至るか、神に至る。神との出会いを王者の草と呼び、草の草と呼び、鍛冶屋であり、土星である、あらゆるものを造り出すサトゥールヌスの草と呼ぶ。

西洋錬金術では、その冥想法は明らかにされていない。道教のように大周天なのか、それともチベット密教のように連続的な観想法なのか、それともそのどちらでもないのか・・・。

仮に観想法と見れば、ここでいう搾りかすとは、観想法の中で現れるガラクタのビジョン、イメージ、幻視のこと。純粋無垢の液体とは、ガラクタではない本物のビジョンのこと。これをよりわける『巧み』は、真のグル、マスターの直伝による。

と読んでみると、石の原材料(プリマ・マテリア)とは、人間のことである。となれば石の原料を他に求める努力は徒労となる。




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6.悟りへの階梯-33

2009-05-02 06:36:18 | 夢と真実
◎西洋錬金術の外形

ユング派の心理学者が中国錬金術と西洋錬金術の類似に着目したのは卓見であったと思う。彼らの解釈は心理を出ることはなかったが、そんな心理学の色眼鏡を離れて、チベット密教や中国道教がメンタル体の体外への離脱メソッドを主要な目標の一つ、前半の重要なステップとして掲げていたことを念頭に置いて、改めて見てみるならば、西洋錬金術もほぼ同様のことを丁寧に説明しているように思われるのである。

そうしたヒントがなければ、西洋錬金術の言葉はひたすら難解なものと感じられる。

錬金術者ニコラ・フラメルが、『賢者の術概要』で指摘しているが、多くの錬金術者は、普通の金や銀や卑俗の水銀を動力因として用いて、この三つを混ぜたり、熱したり、かき回したりして、賢者の水銀を作り出そうとするが、決して完成することはない、としているので、錬金術では鉱物の話をしているのではないことは想像がつく。

またニコラ・フラメルは、象形寓意図の書の第六章で、白い石に表象されるものを得る。続く第七章では、この錬金術の石は、人間と同じく肉体、魂、精神を有するとする。この石を薬とも呼ぶのは、中国錬金術風でもある。

また肉体と魂と精神は、一旦死に、蘇って生に帰ってくるが、この蘇生によって太陽と月と水銀が得られると言う。白い石の白は、生の象徴である。太陽と月と水銀は、死からの蘇生以後に初めて出現すると強調されているので、それ以前には存在しないことがわかる。

肉体も魂も精神も、復活してから以降は、腐敗しない性質となると言っているので、これは、第六身体=アートマンを意識した物言いであることがわかる。腐敗しない、不壊の存在レベルは第六身体にしかないからである。

従って、白い石とは、メンタル体の肉体からの発出をまずイメージしたもので、それが上昇過程の中で、コーザル体からアートマンへとその性質を変容させていくことを描写していると見るとあまり不自然ではないように思われる。

まず肉体が死ぬことによって白い石たるメンタル体が打ち出され、次に自我が死ぬことによって自我の最後の姿であるコーザル体が死にアートマンとして復活する。この時アートマンは月(本来の自己)であり、太陽は中心太陽であり、水銀とはクンダリーニの白銀の道であったことを語っているとみれば、すべて符号することになる。

つまりニコラ・フラメルもクンダリーニ・ヨーガの究極のメカニズムを説明していたと考えられるのである。

さてここで人は救世主となり、王として登場する。この時『白い霊薬エリクシール』=白い石が現れ、以後これが金属を極めて精妙な本質に変えるとされる。金属を極めて精妙な本質に変えるとは、世界そのものがそれ以前とは全く変わって、何の問題もない調和した世界に変わることの比喩であると読むのだろう。

なるほどこの『白』を地水火風の次の第五元素と呼ぶのは、アートマンとして個別性を超えたのならば、それは当然のことであり、アートマンに到達するまでの様々な苦難を『坩堝をくぐり抜けて七度精錬される』と表現するのは、クンダリーニ・ヨーガで窮極に到達できた人を英雄と呼びならわすように、その苦難の道のりを意識した言葉と感じられる。

このように西洋錬金術は、例によって人から神に至るテクノロジー解説であったように考えられる。




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6.悟りへの階梯-32

2009-05-01 06:13:53 | 夢と真実
◎道教オリジナル・メソッド

チベット密教では、連続的な観想法により、肉体を飛び出す準備とするのに対して、道教では、背骨に沿った督脈、身体前面に沿った任脈を気でもって周回させることで、金丹なるものを錬成することによって準備とする。

これぞ道教オリジナルのスペシャルメソッドであり、西洋では見ないものであり、この小周天と呼ばれる気の周回を何度も繰り返すことにより、メンタル体と思われる元神の体外離脱を実現していく。
     
この一連のステップを見ると、煉丹術ないしは煉金術とは、小周天による金丹錬成のことを指しており、鉱石や薬草をもって鉱物の金や不老長寿の秘薬を造り出そうとする、いわゆる外丹の道というのは本筋ではなかったようである。内丹こそが、目指すルートだったのだと思う。

柳華陽の金仙証論などを見ると、小周天、大周天のメソッドの秘訣が時代を下るにつれて徐々に公開されていったことが明かにされている。

言うまでもないが、慧命経の道胎図を見て、男でも妊娠するのかとみたり、出胎図の頭上に小人が出ているのを見て、現実ではないファンタジーの類と見て一蹴するのが常識人の反応となる。この辺が秘教の面目躍如たるところで、道教の最後はどうなるのかと問われれば、屍解のエピソードでもって、真相をはぐらかすいうのが、単に生き抜いていくのすら過酷な中国において、道統を維持、継承していくための窮余の知恵だったのだと思う。




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6.悟りへの階梯-31

2009-04-30 06:02:00 | 夢と真実
◎慧命経の粉砕図
     
道教の柳華陽においては、慧命経の挿絵の第四図道胎図から第五図出胎図において、気が満ち足りて、やがて円熟すると胎児(道胎)は頭頂より出て行き、身外に出る。これを陽神の出現とも言い、千弁の花びらがある蓮華中の如来とも呼ぶ。これがメンタル体の離脱と考えられる。

第六図化身図では、この陽神が妙道を通って虚無と化していくとあり、無上の垂直道ならぬ「妙道」を通って中心太陽に向かうことを言っているのだろう。

有より出て無に入るとは、文字通りアートマンからニルヴァーナへ。

第七図面壁図は、アートマンとブラフマンの合体の前段になると思われるが、「心印は空に懸り月の姿は浄い」とは、アートマンを月に見立てている。
「筏は岸に到って日光に融ける」とは、アートマンの中心太陽突入を比喩しているのだと思う。

柳華陽の凄いところは、この後のモクシャのところまできちんと記録しているところ。それが第八図の粉砕図である。これは「一片の光輝が法界を周り、日も月も忘れて寂浄にして霊虚」また、「不生不滅にして、無去無来」そして、「碧空に雲が散り山色浄く、慧は禅定に帰し、月輪は孤である」

粉砕図は十牛図の第八図と同じ一円相ではあるが、そこに到る道程は、禅などの只管打坐系メディテーションとは全く異なったものであり、その終着点もまたフツーの人々の夢にも思わない世界に隠されているのである。





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6.悟りへの階梯-30

2009-04-29 06:18:38 | 夢と真実
◎肉体死からクライマックスへ

クンダリーニ・ヨーガで、冥想による肉体死から先へ進む話は、柳華陽呂洞賓出口王仁三郎にもあり、明恵にもそれらしい話が出てくる。

メンタル体らしきもので体外離脱するエピソードがそれとはっきり書かれているのは、柳華陽とダンティス・ダイジになるだろうか。そのから先のことを指して、死の世界を究めると言っているのだと思う。

ダンテス・ダイジの物語るメンタル体離脱以後のルートはこうなっている。

(1)頭頂から肉体を離脱する。

(2)メンタル体意識は消滅する。

(3)コーザル体は6つの次元を越えて、中心太陽に向かって上昇していく。
コーザル体は、最後の個人性・個別性を残してはいるが、完全な透明な光明意識である。そして個別性を残しながらすべてを見る局面があると彼は語っている。

(4)上昇しつつアートマンであることに目覚める。

(5)アートマンとブラフマンの合体

(6)モクシャ(実在・意識・至福)

(7)肉体への帰還

メンタル体離脱以後には、通俗的アストラル世界、つまり霊界にはまったくこだわりなく進んでしまっていることに注目すべきだろう。ここは霊界を相手にせず進んでしまうのだろう。

またステップということでいえば、メンタル体、コーザル体、アートマン、ブラフマンとステップを駆け上がるが、同一3次元エリア内ですべてのステップが展開するようなものではなく、世間の常識人の想像を完全に超えたものとなっている。




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6.悟りへの階梯-29

2009-04-27 04:46:33 | 夢と真実
◎死のプロセス-4

チベット密教では、悟りの成就のキーとなる「(8)光明(原初の光)」段階の滞在時間を問題にする。生前の修行によって「(8)光明(原初の光)」に対する感受性を上げないとどうにもならないわけである。

「(8)光明(原初の光)」を見る時間は、通常20~30分であり、邪悪な人生を歩んできた人々や健全でない精神の人々にとっては更に短い時間であり、指を鳴らす時間つまり1秒弱とも言われる。つまり普通の現代人にとっては、『原初の光』を見る時間はせいぜい数分かそれ以下だろう。

肉体死直後のサハスラーラ・チャクラからのメンタル体での離脱は、幻身と呼ばれるひとつの達成ではあるが、それは『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』に書かれている別の次元への脱出と中心太陽への突入へのスタート台に乗ったに過ぎない。

チベット密教では、幻身から先がどうなっているのかは、屍解の話になっていることがままあり、巧妙に隠されてきているようだ。詳細は、然るべき技量のある師弟間で口伝になっていたのだと思う。


「生きとし行けるものはすべて、限りない回数、死しては生まれ変わってきている。彼らはこの名状しがたい光明(『原初の光』)を幾度となく体験しているにも関わらず、無知の闇に妨げられて、無限の輪廻を果てし無くさまよっている。」
パドマサンバヴァ(仏教をチベットに伝えた人)


※『チベット密教』で参考とした本
『ダライ・ラマ 死と向き合う智慧』地湧社
『三万年の死の教え』中沢新一/角川書店
『チベット死者の書』講談社
『チベット生と死の書』ソギャル・リンポチェ/講談社
『ゲルク派版チベット死者の書』学研M文庫




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6.悟りへの階梯-28

2009-04-26 06:32:41 | 夢と真実
◎死のプロセス-3

チベット死者の書では、中有に入った後も、いろいろとチャンスがあるという書きぶりで再誕生までの出来事を記述してくれているが、悟りを得るという観点からは、一旦中有に入ってしまえば、一から人生をやり直すしかないということになり、再誕生までの途中に悟りのチャンスはほとんどないのだろうと思う。要するに死んで中有に入ったら求道トライアルとしては失敗なのである。

よって、ハイ・レベル修行者として、メンタル体でサハスラーラ・チャクラから肉体を離脱できるかどうかが最大の関門であると、チベット密教は見ていることがわかる。

というのは、チベット死者の書の冒頭に、頭頂であるサハスラーラ・チャクラからの離脱サポートテクニックが置かれているからである。

将来予想される同時大量アセンションにおいても、この点は、間違いなく大きな焦点の一つになるのだろうと思う。

○メンタル体での肉体離脱のサポート

『喉の左右の動脈の動悸を圧迫せよ。またもし死に赴く者が眠りにおちいろうとするば、それは妨げられねばならない(←意識を清明に保つための工夫)。そして動脈がしっかりと圧迫されるべきである。

そうすることによって、生命力(クンダリーニ)は、中枢神経(スシュムナー管)から帰って来ることができず、ブラフマの開き口(サハスラーラ・チャクラ)を通って逝去することは確実である。』(チベット死者の書)
(※スシュムナー管は背中を通る3本のエネルギーコードの中央の1本。)


〈参考〉
アストラル体での肉体離脱

残念ながらクンダリーニが、頭頂(サハスラーラ・チャクラ)を通過しなかった場合は、左右いずれかのイダー管かピンガラー管を通じてその他の開き口(へそ等)を通って去っていく。(チベット死者の書)

これはアストラル体での肉体離脱だろうと思う。そして、これが大多数の人の死後のルートであると考えられる。この後、輪廻転生の通常ルートに流れていく。チベット密教ではこれを『無知の状態で死ぬ』と呼ぶ。

フツーの人においては、「(8)光明」は指を鳴らす時間しか続かないともいう。「(5)顕明 (6)増輝 (7)近得」は、指を3回鳴らす時間しか続かないとされ、光明(原初の光)が消えてから3日半は無意識の状態に投げ込まれる。




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6.悟りへの階梯-27

2009-04-25 06:50:01 | 夢と真実
◎死のプロセス-2

次に呼吸が止まって、心臓も止まったところから、肉体と意識が分離する直前まで。

2.内なる溶解

(5)80の概念からなる粗いレベルの意識がすべて溶解すると『鮮やかな白い心』(まばゆい光にあふれた秋の空)が現れてくる。(顕明)
※80の概念からなる粗いレベルの意識とは、五感と五感よりやや深い程度の、思考を伴う粗いレベルの意識。五感、恐怖、執着、飢え、渇き、喜び、驚きなど。

(6)『鮮やかな白い心』とそのプラーナ(ルン、気)が溶解すると、『鮮やかな朱色の心』が現れる。真っ赤に輝く太陽のように見える。(増輝)

(7)『鮮やかな朱色の心』とそのプラーナ(ルン、気)が溶解すると、『鮮やかな黒い心』が現れてくる。次第に真っ暗闇になる。(近得)

(8)プラーナ(ルン、気)の動きが弱まって、もっと微細なプラーナが起きると、失神したような状態は消え去り、まばゆいばかりの透明な光、もっと微細な『光明=原初の光、一切空、光明である根源的な生来の心』が現れてくる。

無上ヨーガタントラによるとこの光明以上に微細な意識はなく、この最も微細な意識が、輪廻と涅槃の現れすべての土台となっているとのこと。またこれは、別名母の光明と呼ばれる。母の光明は誰にでも現れる。

これとは別に観想法の修行(イメージ・トレーニング)によって類似の窮極のイメージを培って、空性を悟っている場合があるが、これを子の光明と呼ぶ。

ここでハイ・レベルの修行者は、母の光明を子の光明に変容させることにより、幻身と呼ばれるメンタル体とおぼしきボディを出現させることで、中有に入ることを回避する。

ハイ・レベルでない修行者は、中有にはいり、再度の輪廻転生ルートをたどることになる。




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