アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

大寒の時期と気功

2019-01-18 05:38:27 | 気功、導引(冥想法2)
◎気を回す

日本語には、気を使う、気を回す、気働き、気合を入れるなど、気にまつわる言葉が多い。

道教では、気を回すと言えば、下丹田(スワジスターナ)から中丹田(アナハタ)、上丹田(アジナー)へと観想しつつ気を循環させる周天があり、丹田から肩経由で指先まで気を行かせ丹田に戻すようなのがそれ。

白隠が病気を治したナンソの観は、頭頂のクリームが全身にしみわたると観想することで身体の不調を治癒させようとするもの。

アメリカ原住民のメディスンマンのヒーリングでは、乳白色の幕を用いるが、白隠の軟ソもメディスンマンの乳白色の幕も気なのだろうと思う。

冬、毎年1月下旬頃は寒気の影響で調子を崩す人が多く、この頃スーパー銭湯が大賑わいとなるのは、そのせいだろうと思う。

だが水の乏しいスーパー銭湯のない地域では、どうしてもこうした気を回す技に頼らざるを得ない。

共産中国では、医療環境が厳しく、気功太極拳系を全土で流行させたのは、気を回すことによる治癒効果を狙ったものと知識分子迫害で医者がいないくなった反作用でもあったのだろうと思う。

気はプラーナであり、半物質であるからこうしたことができるが、なくなった臓器や四肢が復活するわけではない。

聖書には超能力による治癒の例が多いが、気で治したり超能力で治したりしてもらっても、人生ドラマは、どこで幸福でありどこで不幸であるかということであり、病気治癒シーンは一つのクライマックスであるかもしれないが、人生の目的はそこではないのだろうと思う。

誰もが何とか食べていける時代自体、一つの恵みである。

節分前のこの大寒の時期、やったことのある人もない人も、白隠のように全身にイメージのクリームをしみわたらせるのも良いのではないだろうか。
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中国の大気汚染から呼吸法

2015-11-11 05:34:13 | 気功、導引(冥想法2)
◎体内の老廃物や不要エネルギーの除去

2015年11月7日、中国の瀋陽の大気中の「PM2.5」の値が一時、日本の環境基準の40倍にあたる1400を超えた。(日本の基準は、1年平均値 15μg/m3以下 かつ 1日平均値 35μg/m3以下)

中国の大気汚染は、年々ひどくなり、中国全土の模式図で見れば、黒い雲霧みたいな大気汚染が、中原全体を一年中右往左往しているように見える。道者笹目秀和が見たカルマの霊界からの現実化のビジョンがこんな風だったのが思い起こされる。

こうした汚染された空気は偏西風に乗って2、3日経てば日本に降り注ぐ。昨日の雨はアスファルトに落ちて、こころなしか、いつもよりぬるぬるしていたような気がする。一衣帯水とはよく言ったものだ。

クンダリーニ・ヨーギ本山博によると、長く人生を歩いてきた人や心臓の悪い人の身体の中には、本当は排出されなければならないもの、消費して衰えたエネルギーがたくさんたまっているという。

これを排出する呼吸法がある。

達人坐あるいは蓮華座で坐り、鼻から息を吸い込む腹式呼吸で吸う。
息を腹いっぱいまで吸いこんだら、2、3秒を止める。

次に腹から胸から体内に溜まっている不要なもの汚れたものをすべて吐き出すつもりで口からでも鼻からでも吐き出す。
一応息を出し尽くした後でも、腹と胸から徹底的に吐き出す(これがポイント)。

これを本山博は、クンダリーニ・ヨーガだから、これを七の整数倍にやることを勧める。

この繰り返しで体内の老廃物や不要エネルギーは除去され、気力の衰えた人も老人も見違えるように元気を回復するという。

これは、帰宅してから夜やる方が良いものだろう。帰宅して漫然とテレビを見るよりは、よほど本当のリラックスに入りやすいのではないか。
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剣の護法童子

2014-03-26 03:50:20 | 気功、導引(冥想法2)
◎神機発動

有る婦人が合気道開祖植芝盛平の姿を見ていたところ、彼の身体から無数の線が出ていて、それはタワシのようであり、それに触れると相手は一瞬にすっとんだという。

このようなハリネズミ様の武人の姿と言えば、国宝信貴山縁起絵巻にある剣の護法童子である。病気の醍醐天皇に乞われ、クンダリーニ・ヨーギ命蓮が呪法でこの病を平癒させるのだが、その証拠に遣わしたのが剣の護法童子。

剣の護法童子に前から立ち会うならば、くるくる回転する法輪ではじき飛ばされ、後ろから攻めかかれば、ハリネズミのような鎧形の剣で寄せ付けない。

剣の護法童子が人間として登場したならば、植芝盛平のように相手が彼の身体に触れる前にすでに投げられていた武技を持つ武道家がふさわしい。

植芝盛平が綾部の本宮山で修行中、毎日ある時間が来ると彼は神がかりの状態(神機発動)になったという。これ以後、剣の切っ先が来る前に小豆大の白い玉が見えるようになり、剣も銃弾もよけることができるようになった。人間技でなく、神技である。




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植芝盛平のエーテル体

2014-03-24 05:23:25 | 気功、導引(冥想法2)
◎気配を感じる金光の線

エーテル体が、傘の骨状の形であって、経絡に沿って広がっていることは知られている。合気道開祖植芝盛平は、他人の気配を感じるのに体外にハリネズミ様に広がる金光線を用い、この金光線に触れると、植芝盛平の肉体に触れる前に、他人は一瞬にして吹っ飛んだという。エーテル体では、気で巡らしたバリアーを作れるということだろうか。

『新撰組の猛者よ、しっかりせい
ある時、こんなこともあった。大阪警察署長の森田儀一が、大阪の門弟や東京から来ている若い連中に、
「一ぺんお前たち、先生のスキを見て、一分間でもよいから、みんなで先生を押さえて見ろよ。もし一分間押さえてることが出来たら、何でも御馳走してやるぜ」
といってけしかけた。

若いものたちは早速ある夜ふけ、先生の休んでいる寝所に忍び寄って、それも気づかれたり、音をたてたりしないように廊下に座布団を敷きならべて、ソーッと近づいていったが、一間半〈三メートル)ほどに近づくと何か声がしたようでもあり、起きているようで、どうしても近づけない。何べんもやってみたが、どうしても押さえられなかった。

そのような事が一、二ヵ月もつづいたのであった。それでは先生は熟睡することがなく、いつも半ば起きてるのだろうか、それではノイローゼになるが・・・・と、わざわざ医師を呼んで先生の健康診断をしてもらったが、盛平は、「わしはどこも悪くないよ」といっていた。医者も、「先生の体は三十歳ぐらいの体です」といった。

「森田さん、どうしてわしの体を診断させたんや?」と先生から問いつめられた森田は、「実はこういうわけで門人たちをけしかけ、先生の寝込みを一分間でも押さえてみろと企らんだのですが、先生はいつも気づいているようで寝ていないらしいから、それではノイローゼになると心配になったものですから・・・・・」と説明すると、

「わしは、充分に熟睡してるがな」といって、「わしの体からは常に金光の線が出ていて、普通は九尺から一丈(三メートル〉ぐらい出ているんじゃが、長いときは十五尺〈五メートル)ぐらい出てるから、人がそこまで来るとすぐわかるんじゃ。前から来ても横から来ても、また後ろから来てもすぐわかるんじゃよ」
と話すのであった。これには森田もあっけにとられた。』
(合気道開祖植芝盛平/砂泊兼基/講談社p177-178から引用)

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天の露とオルゴン

2012-09-24 06:02:22 | 気功、導引(冥想法2)
◎生命が誕生する前、宇宙にはオルゴン・エネルギーが流れていた

焚書された現代アメリカの心理学者にして科学者のウィルヘルム・ライヒ。彼のいうオルゴンとは、中世錬金術者のいうところの天の露ではなかったか。彼の著書「宇宙との合体の一節」を引用しながらのコリン・ウィルソンの説明。

『「生命が誕生する前、宇宙的オルゴン・エネルギーが流れていた。地球上の気象条件が整ったとき、原始的な原形質の薄片という形で生命が誕生した。・・・・・・この薄片は、十億年以上かかって、単細胞生物へと進化した。

ここにいたって宇宙エネルギーは広大な銀河系宇宙のなかだけでなく、どんな小さな膜状物質のなかにも流れることになった」。そして地球上に生まれた生命は、長いゆっくりとした苦闘を開始した。そしてついに人間が誕生した。

「人間は少しずつ、オルゴン・エネルギーとの密接な繋がりや自然との調和を超えて思考しはじめた」。だが、やがて人間は自分自身を思考の対象とするようになった。自意識がうまれたのだ。

そこから堕落がはじまった。「・・・・・自分自身を、そして自分のエネルギーの流れを理解しようとして、人間はその流れを邪魔することになった。そして、そうすることによって、鎧を身につけ、自然から逸脱した。自分自身の核からの疎外がはじまり、生存の機械的秩序が、圧倒的な力で、有機的・無意識的・生体エネルギー的な自己調整に取って代
った」』
(ライヒの悲劇/コリン・ウィルソン/筑摩書房P403から引用)

オルゴンとは、晴れた日の日中空を見上げ、眼の力を抜いて空中を眺めると、ぐるぐる回りながら乱舞している無数の光のきらめきが見えるが、それのこと。

オルゴンとは、気、プラーナのことかと最初のうちは考えていたが、むしろ人間を貫くクンダリーニのエネルギー・コードの原質みたいなものではないかと思われる。

というのは、上記引用文ではオルゴン・エネルギーとは自意識を成立させている原因であり、また自分自身の核からの阻害とは、コーザル体レベルでの自意識からの離脱のことを言っているからである。

つまりオルゴン・エネルギーとは、気・プラーナで成るエーテル体レベルのものに止まらず、それ以上の微細なレベルで活動するものであると、ライヒが見ていたからである。


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イメージの人から人への伝播

2011-09-01 05:59:28 | 気功、導引(冥想法2)
◎情報操作の波及の連鎖

人間も50代になれば筋力も落ちるし、関節や筋の柔軟性も失われてくる。このブログではハタ・ヨーガ気功にはあまり力が入っていないが、最近はそうしたものに研究する必要を感じ始めてきた。そこで、1980年代初めに北京語言学院にいて気功の研究をされていた鵜沼宏樹氏の話から。

『北京の学校では、留学生の宿舎に住んでいましたが、留学生仲間と遊んでいる時に、とても印象深い体験をしました。

その友人は日本の大学院でイメージを研究し、卒業後は臨床心理士としてしばらく身心
症の治療にあたっていた人でした。最近になって気功の勉強を始めたんだといっていました。よく二人で、中国の気功治療はどうだとか、あの有名な気功の先生はこうだつたとか話していたのですが、その時は、たまたま手かざしとか手当てを使わず、視線とか意識だけで治療している先生の話題になりました。

私は、そういう技法は、特別な訓練を長年積んだ熟達者だけができるものだと思っていました。ところが彼が、
「治療効果、うんぬんは別として、イメージは以外と相手に伝わりゃすいものじゃないかなあ」
といい出しました。以前にもいろいろゲームで試してみたというので、ではやってみようということになりました。
ゲームの方法は、いたってシンプルです。二人が目を閉じて坐り、一方がイメージを送り、もう一方が何を感じるか、一~二分して、どんな感覚があったのか尋ねて検証するというものです。

お互いが送り手と受け手を交替しながら遊んだのですが、印象に残っているのは、私が送り手の時のことです。受け手の彼は「時々ドンドンくる」とか「少し温かい」などと感想を述べました。この「ドンドンくる」の時は、私は石をぶつけるイメージを思い浮かべていたのです。「少し温かい」の時は、燃えさかる炎のイメージでした。

最も鮮明に覚えているのは、一番思いきってイメージ遊びした時のものです。その時彼は「少し冷んやりする感じ」と感想を語ったのですが、これには私も大喜びしました。 その時私がイメージしたのは、以前テレビで見たウルトラマンの一場面、大雪の中で暴れる怪獣ウーだったのです。

このようなゲームを通して、人のイメージはいくらかは相手に伝わるのではないかと感じました。もちろん全てのイメージが伝わったわけではありませんし、私が受け手にまわった時はあまりうまくいきませんでした。きっと彼が非常に感覚的に繊細な人だったということが、うまくいった要因でしょう。とはいえ、この時、自分の頭の中のイメージが、別の人の頭に受信される可能性を強く感じました。

イメージの作用に自信が出てきた私は、日本人、中国人の仲間をつかまえては何度もイメージの遊びをしました。そして相手の腰や首を見ながら、そこが動きやすくなるイメージを送りました。その結果、受け手の腰のまわしやすさや首の動かしやすさもイメージで随分変わるものだということが分かりました。

そうなると、今まで考えていたことが少し違っているらしいと気づきました。それまでは、自分の頭のイメージが静かに目を閉じた相手の頭、すなわち脳に受信されると思っていたのですが、ただ普通にしている人が、その意識のままで体の動きだけが変わるのです。
ということは、相手は脳というよりは腰や首といった体の局所で直接、イメージを受信し
にいむことになるのではないかと思われてきたのです。』
(医療気功/鵜沼宏樹/春秋社P89-91から引用)

この話では、気功研究家ゆえに、どうしても観想が身体に及ぼす影響という視点で考えているのだが、「自分が他人のことをどう思っているか」がこのように相手に伝わっているのであれば、相手に悪意を持っていたり、相手に嘘をつく場合は、感受性の強い相手ならば、それは微妙に伝わっているということである。
だから恋愛感情なんかも、当然に伝わっている。

この手の話をまったく信じない人々もまたいる。

しかし、マスコミが日夜、新聞・テレビ・映画・youtubeで,このような大衆のイメージや感情を意のままに操作していることを思えば,これまた恐ろしいものがある。政府・マスコミの意図で、悪意・善意のイメージの拡大再生産が日夜行われて、そこで起きた様々なその傾向に染められた事件は、ある世相を形成するからである。

気の伝播でなく、イメージ・観想の伝播も恐るべきものがある。


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五気:中国とインドの比較

2011-01-10 08:11:15 | 気功、導引(冥想法2)
◎プラーナ(気)の見方

ハタ・ヨーガの経典に出ている気は、10種であり、うち五種が主要五気であるが、それは、中国の五気に照応するのだろうか。

まずハタ・ヨーガの五気。
1.プラーナ気:心臓に位置。鼻頭から心臓までの間にとどまり、息を運ぶ
2.アパーナ気:会陰に位置。臍から足の裏までの間にとどまり、体の汚れを取り去る。
3.サマーナ気:へそに位置。心臓から臍までの間にとどまり、食物を消化、吸収する。
4.ウダーナ気:のどに位置。鼻頭から頭までの間にとどまり、上昇する。
5.ヴィアーナ気:全身に行き渡っている。
(参考:続ヨーガ根本経典/佐保田鶴治/平河出版社)

中国の五気(黄帝内経)
1.木(陰中の陽) :風:(肝・胆)  (生)
2.火(陽中の陽) :暑:(心・小腸) (長)
3.(陰中の至陰):湿:(脾・胃)  (化)
4.金(陽中の陰) :燥:(肺・大腸) (収)
5.水(陰中の陰) :寒:(腎臓・膀胱)(蔵)

対応部位でいえば、心臓のプラーナ気が「暑」にあたり、会陰のアパーナ気が「寒」で、ヴィアーナ気が「湿」、上昇のシンボルであるウダーナ気は、陽属性だろうから「風」、サマーナ気は、「燥」というところか。

但し、五化(五つの機能みたいな)の配当は、生長化収蔵となっており、ハタ・ヨーガの五気が肉体機能で説明しているのに対し、動植物の活動の時間的な推移とおぼしき説明となっているので、きちんと一対一対応とは言えないように思う。

いずれにせよ、同じ気を扱って、かつエーテル体レベルの体系を説明しようとするものだから、インドだろうが中国だろうが、もともとの説明にあまり乖離があるはずもない。

むしろ中国では、四位一体に1を加えた五行理論に忠実なあまり、わかりにくくしたというきらいがあるのかもしれない。禅僧洞山の五位って、結局この五行が基本的枠組みなのだろうとわかる。

インドには、主要5種以外にナーガ気というのがあり、これは、おくびの気であるが、またナーガ気は、意識を生ずるとされる。近代西欧文明は、意識偏重型のアポロン型文明。だから現代社会で、きちんと適応して生きれば生きるほど、意識を鮮明に持たねばならないが、そのことは結局胃にストレスをかけることになり、おくびのナーガ気を酷使する生活形態になっているのだろうと思う。意識的に生きるのは、胃に負担がかかるのだ。

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エーテル体と病気

2010-10-21 06:13:41 | 気功、導引(冥想法2)
◎ちょっとした不調というきっかけ

熱帯や亜熱帯で暮らすと晩秋から初冬にかけては体調を崩しやすいものだ。日本でも夏の猛暑が厳しかったこの度などは、よくよく気をつけないといけない。

シンガポールや香港帰りの人が帰国して、よく彼の地で開いた汗腺が閉じないなどというが、その微妙な肉体のアンバランスな状態と似ている状態が晩秋から初冬にかけてはあるのだと思う。

『どんな病気にかかる時でも、その75パーセントは第二身体から生じて第一身体におよぶ。第二身体はとても暗示にかかりやすいため、新入の医学生はいつも自分が勉強している病気にかかる。症状が出はじめる。頭痛について議論しているとすると、知らないうちにみんな内側へと入ってゆき、「私に頭痛はないだろうか?私にこうした症状はないだろうか?」と問いかけはじめる。

内へと入ることはエーテル体に影響を与えるため、その暗示は受け取られて、頭痛が投影され、生み出される。』
(秘教の心理学/OSHO/メルクマール社P156から引用)

第二身体とはエーテル体のこと。エーテル体とは気のボディである。第一身体は肉体。

肉体でのアンバランスは、しばしば意識では不安という形で認識される。そうした自己暗示が、しばしば肉体の微妙な不調とコラボして、病気のきっかけとなるものだ。それが、晩秋から初冬にかけて起こりやすいということがあるのではないだろうか。

そこで、気功などの第二身体強化系のメニューが、季節にマッチした対策となる。





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平田篤胤の養父篤穏の養生法

2007-12-20 06:15:05 | 気功、導引(冥想法2)
◎エーテル体のイメトレ

冬らしい気候になってくると、風邪を引く人が多い。江戸時代の禅者白隠は、70歳となって、冬であっても足袋を履かず身体はぽかぽかと暖かいと語るほど健康を維持できた。

白隠は生来多病であったが、青年期に京都の白幽子に軟酥の看法を教えられて、それを行ずるようになってからは、病患を去って気力充実して修行に邁進することができた。気力充実するためには体力の裏付けがないと何事もなかなか進むものではない。

軟酥の法とは白いバターの固まりのようなものがあると想像して、それが、頭頂から手、足の先まで潤し、しみわたると看ることによって身体の健康、バランスを取り戻そうとする方法である。

国学者平田篤胤の養父篤穏の養生法も、肉体そのものでなく、軟酥の看法のようにイメージでもってエーテル体全体に気を巡らすことにより、健康を維持しようとするもの。

『①まず仰向きに寝る
②次いで両足を揃えてかかとを押し出すように強く踏み伸ばせ。
③そして全身の気を臍のあたりから、その下丹田、そして腰、脚、足の裏にまで充たす。
④次には指を折って、呼吸を百まで数えるがよい。
⑤呼吸を百数え終わったならば、踏みしめた力を緩めよ。
⑥これを一晩に四、五回続けるのだ。

「これを行なえば、元気が全身に充満して、腹中にあるしこりなども消える。どのような良薬も、この術に優るものはないのだ」と養父は服をはだけてその腹を出した。見れば腹力は充実して張って固いことコツコツと音がするようであったとして,この法の効能を篤胤は強調している。』
(古武術と身体/大宮司朗/原書房から引用)

篤穏は84歳の長寿であったという。篤穏の方法には、保息があるところが特徴。ただこれは、不調の時の即効性はなく、何十年か続けた時に効果が出てくるタイプのものであるように思う。

これに対して軟酥の看は即効性があるやり方ではないかという印象をもっている。

その根拠はと問われても、論理的回答はしづらいので実際にやり比べてみることをお勧めします。また即効性がないのはダメとも思っていません。


    1日1善。1日1クリ。


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程聖龍の生の側から極める

2007-03-23 04:41:41 | 気功、導引(冥想法2)
◎生死のぎりぎりのところ

武術家程聖龍は、絶対の強さとは、どんな状況でも生き残ることだと言う。今とは、次々と死んで行く瞬間だが、今生き延びたとしても、今の生は次の瞬間の生を保証しない。

従って武術の目指すものは、今という死ぬ瞬間を如何に継続させるかということ。言い換えればどんな状況でも生き残ることであると結論づけている。

『武術をやっている人間に「もし殺されそうになったときどうするか?」と問えば、まず大抵の人間は、「相手を殺してでも生き延びる。そのために武術をやっているのだから」と答えるだろう。

しかし実際はそんなものではない。生死の際のギリギリのその地点に立たされたとき、人は”生き延びるため”に戦ったりはしないものだ。何かはわからないもの、言葉にはできないものを経過して、気づいたときには自分が生き残っているのが実感である。そこはすでに「生き延びるために何かをする」などという選択肢は存在しない。

生と死を分けるものは何か。そのギリギリの一瞬に何があったからこそ自分は生の側に身を置き続けることができたのか。内家拳の世界でこの身に受けなければならなかった様々な経験を通じて、私は常にそれを考えてきた。』
(仙人入門/程聖龍/東京書籍から引用)

生死の際のギリギリのその地点とは、合気道の創始者植芝盛平のいう「天の浮橋」のことだろう。程聖龍は、何かはわからないもの、言葉にはできないものがそこから起こり、結果的に自分が生き残っていることを感じているが、何かはわからないもの、言葉にはできないものをもっと明確に意識できるようになることが彼の次のステップになるのだろう。

それが程聖龍の求める正しい選択の判別というべきものになると思う。

さて一人一人がこのような生死のぎりぎりのところに立って、正しい分別をするようになれば、次の時代に生き残る人も決して少なくはないだろう。逆に言えば、生死のぎりぎりのところに立たないと、何が本当に自分の求めているものかどうかがわからないということ。

ところが、この爛熟した時代に生死のぎりぎりのところに立とうとするのはよほどの物好きしかいないというのもまた悲しい真相ではある。ほとんどの人は、生死のぎりぎりのところに立とうなどということは思いも寄らないこととして一生を過ごす。


    1日1善。1日1クリ。

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仙人の棲む山

2007-03-22 05:28:18 | 気功、導引(冥想法2)
◎岩畳の最期の修行

程聖龍は、山梨県の出身で、内家拳八卦掌の第一人者。小学校低学年の頃から、甲賀流忍術の師匠の下で暮らした筋金入りの気功の達人である。

かれが、ある時仙人の棲む山(中国か台湾かは判然としない)で修行をしていた時のこと。日中でも身体が凍るほどの寒さの山上とのことなので2千メートル級の山なのだろう。そこで、在家の人が最後の修行をするお手伝いをした。

最期の修行者の方々は、一夜を山上の寺で過ごし、翌朝近くの岩畳に坐ることになる。

在家の人が薄い服一枚で、断崖絶壁の上にある岩畳に端座して、朝日を浴びながら読経を続ける。低声の読経に合わせて、カシャンカシャンという錫杖の音が、早朝の凍えきった空気の中に響いているが、時間が経つにつれて、だんだんと読経の声も低くなり、錫杖の音も少なくなっている。

やがてどちらの音も聞こえなくなった。岩畳の上の人達は最後の修行を果たし、その身体は凍結したのだ。

そこでお手伝いをすることになる。この気温では、埋葬する土が穴が掘れるほど柔らかくはないので、やむなくご遺体を後ろから押して、岩畳から下の谷に落とす人手が要るのだ。

程聖龍は、いやでいやでたまらなかったが、毎日次々と凍った最後の修行者を崖から押して、それが朝日の中をきらきらと輝いて雲海に吸い込まれていくのを見続けた。
(参考:仙人入門/程聖龍/東京書籍)

死にに行くということは、生半可な覚悟でできることではないが、どういう理屈かは判らないが、そういう山が中国(台湾?)にあったこと自体が、生とは何か、死とは何かという巨大な疑問を改めて突きつけられる思いがする。

またご遺体を押す行為だけでも、そのご遺体の方の人生の重みを感じさせられる気の重い業である。別に自ら殺人を犯しているわけではないが、自分の生の重みをずっしりと感じさせられる「お手伝い」ではある。

程聖龍は、「生きるために来たはずなのに、死ぬための修行をしてしまうのではないか」などと迷い、この修行で生の何たるかを見切ることができたわけではなかったが、改めて武術と生きることの意味を考えるきっかけにはなった。

なお、この山は最近は様子が変わり、このようなことは行われなくなったそうだ。


    1日1善。1日1クリ。

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気の場

2007-02-26 05:55:23 | 気功、導引(冥想法2)
◎高級霊は他人事

気を視覚化できる人と感じる人がある。

高藤聡一郎は、世の中の気を発するものに生物と無生物があるという。無生物は場所や電気器具などのこと。無生物にも二種類あり、形のあるものと形の見えないものがあり、形の見えないものを霊と呼ぶ。

彼は、高級霊は暖かく感じ、その持つ気が広すぎて具体的な形とは感じられない。また、低級霊は冷たく感じ、手をかざすとビリビリ帯電したり、空気の塊のようにふわふわしたものと感じられるそうだ。

『気を感じられるようになるとこうしたことができるから、他人にとりついている霊が、どの程度のものかわかる。大言壮語を吐く霊感師などにつまらない低級霊がついていたり、何でもない人に思わぬ高級霊がついたりしていることがある。

人ばかりでなく、場所や物も同じである。有名な神社・仏閣に狐狸などの物欲霊がついていたり、荒れた祠に、力を持った神が住んでいたりする。

ただ面白いことに、高級霊のいる所はなんとなく整いすぎて人に敬遠されやすい。反対に低級な霊のいるところほど人が集まり生き生きとしている。バーだの競馬場だのは特にすさまじい。低級霊などの独立した霊だけでなく、人の妬み、虚栄・恨みなどの半独立の気が渦巻き、息が詰まるほどだ。

こうした半独立の気とも霊ともつかぬものは、その人の強い意識によって空間にある電界磁界に刻み込まれた記憶と言ってもよい。やがてこうした気が集まって強力に作用しだすと場所の雰囲気が作り出される。そして人が集まり、低級霊が跋扈するような誰にもコントロールできない空間か発生するのでる。』
(仙人になる法/高藤聡一郎/大陸書房から引用)

全国各地にある競馬の場外馬券売り場のウインズでは、どこでも高藤聡一郎のいうような荒れた雰囲気を感じるものだ。それと新宿と渋谷。オフィスでOA機器がいっぱい並んでいるところは、気は乱れているだろうが、その気に善悪、正邪の色はついていないのだろう。

問題なのは、人間の妬み、憎しみ、虚栄、征服欲、支配欲、金銭欲などのネガティブな思念が、毎日テレビや新聞や週刊誌などで、人間にとって当たり前なものと喧伝されるが、そう思い込んでいる人々が街を徘徊することは、まるで低級霊が跋扈するようなものである。だから人が大勢集まる場所は、一様に低級霊が跋扈しやすいということでもある。

それでは高級霊がつくためには、どうすればよいか。高級霊がついた方がよいという発想そのものが、一種の物欲に等しいので、高級霊など何の意味もなく、あらゆる人間的な欲望を捨て去ったところに真理があることを、意識の極限状況を通過して思い知ること、ということになるだろう。

高級霊にこだわれば、自らの覚醒を後回しにて、最高級霊が霊がかりするシャーマンへの道をとることになるが、それはやや時代遅れのイメージがあり、あまりお勧めするものではない。高級霊は高級霊、自分は自分。


    1日1善。1日1クリ。

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気と現代人の生活環境

2007-02-25 06:30:41 | 気功、導引(冥想法2)
◎マントラ禅や気功の勧め

ホワイトカラーの仕事は、一昔前は、ワープロに向かって労働していたものが、今は一日中パソコンに向かう労働になってしまった。電話とマウスとカバンは持つけれど、ややもすると鉛筆やペンすら終日持たずに終わることすら珍しくない。

通勤は、数万ボルトの電力で走る電車に乗るが、電車の中も冷暖房で、照明バッチリ、山手線に乗れば液晶ディスプレイでニュースまで見れてしまう。

仕事場は、エレベーターに乗って、上のフロアまで上がる、そして冷暖房があり、照明があり、パソコンがある。昼食や休憩時間には、テレビをみたりして、一服するドリンクは自動販売機。

こうした電気器具の発達により、リゲインではないが、24時間働ける態勢を作っていただいたことは大変有り難いことだ。夜中でもお笑いや映画を見れるのは愉快なことだ。

ところが、この結果、睡眠不足になったり、身体が変調を来したり、体力が落ちたり、気力が低下するということが広範に起きるようになってきたのではないか。電気器具は、身体の気に直接干渉してくるのだ。

このような不健康な生活環境で長期的に健康を維持していくためには、マントラ禅気功でもって心身の調整をやる方法がある。こうして見ると、マントラ禅(南無阿弥陀仏、お題目、オームなど)や気功は、やった方がよいというお勧め程度のものではなく、中年になったら身体がぼろぼろになることを回避するためには、若いうちから、必ずやるべきものではないかと思われる。

神おろし、ピースフル、ヒーリング系では、心身の調整をやってもらった直後は快調でも、電気器具に囲まれた日常生活を繰り返していくにつれ、また不調になるのではないか。

また電磁波に限定すれば、まず携帯電話は四六時中身につけたままだし、家庭内では、テレビ、パソコン、電子レンジ。街の中では、電車や自動車がカーブする場所でブレーキをかけることで電磁波が発生しているという。こういう場所の周辺は、気が電磁波で不安定なので、気功の修行には不適当とされる。

仙道研究家の高藤聡一郎は、平地の市街地に建設された高層住宅では、大気中のイオンは不安定になりやすいので、健康を害しやすく、気功の修行にも向かないと指摘している。

合気道の開祖植芝盛平は電車に乗るのを非常にいやがった。

我々の生活にも罠は多いが、生活環境そのものがこのように罠であるからには、近所迷惑にならないように真剣にマントラ禅をしたり、気功に打ち込んだりしないとならないと改めて思った。

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ライヒのオルゴンの定義

2007-02-22 05:45:11 | 気功、導引(冥想法2)
◎気を見る

次の時代の人間と現代人の相違は、まず第一に神・仏・道なるものを明瞭に実感しているかどうかと、霊的なるものに対する感受性・知覚能力の有無ということがあるように思う。

だからといって「みんな霊能力をつけチャネラーになりましょうという」方向は全く誤ったものではある。というのは、現代人の不安定な心理状態のままで、霊能力をつけチャネラーになろうと努力したところで、その感受性の増進により、日々の生活に必要な生存競争に必要な闘争心が減退して、生活ができにくくなるだけで、一利はあるかもしれないが百害があるように思う。

確かに冥想には感受性を深める側面があるが、それが必ずしも霊がかりを目指すものであってはならない。冥想に対して、霊がかりや神懸かり、霊的な世界観を目標や先入観としない、ありのままの姿勢で臨めば、感受性の深まりに応じたネガティブな状態に迷ったりひっかかったりすることは、比較的少ないのではないか。もっともその人の持つ素質や霊的因縁、カルマというものを排除して考えることはできないけれど。

ライヒは、種々の物体から青っぽい光が放射されていると語っているが、同じことを多くの人間が語っているわけではないので、これは、ライヒの持つ特殊な知覚のなせるわざではなかったかと思う。ヒトのオーラは、ある人が見れば光輪と見え、またある人が見れば、狐や狸が憑いていると見えるが如きものではないか。

ライヒのオルゴンの定義は、かっちりとしたものがなく、たとえばこのようなもの。
『晴れた日の日中空を見上げ、眼の力を抜いて空中を眺めると無数の光のきらめきが見えてくる。それはぐるぐる回りながら乱舞しているようだ。』
(ウィルヘルム・ライヒ生涯と業績/マイロン・シャラフ/新水社から引用)

この光のきらめきがオルゴンのことのようで、誰でも注意すれば見えるはずだが、科学史上でこれを採り上げた人はいない。また見えたとしても、どうしても眼そのものの属性ではないかという議論を排除できない。またライヒ自身はオルゴンが眼に見えることを非常に強調したが、オルゴンが見えることは、ライヒの個人的特殊能力であった可能性が高い。

オルゴンは、気、プラーナのことではないかという仮説はあるが、気、プラーナが目に見えるかどうかという点では、見える人もあり、見えない人もありというのが穏当な言い方ではないか。またオルゴンの定義そのものがしっかりしていないので、気、プラーナと同一かどうかという議論も難しい。

中国の医学書の古典黄帝内経では、体内を真気、邪気、正気、陽気など沢山の気が巡ることをいい、そのすべてが陰陽の影響を受けることを語っている。インドのウパニシャッドでもプラーナが体内を巡ることは言っているが、明らかに肉体レベルのことではない。

肉体レベルでない、気つまり七つの身体論でいうエーテル体レベルの議論をするに際して、全員が見えることを前提に議論を勧めようとしたところにライヒの無理があったのではないか。気を見れる人は少ないのだ。気を全員が見るのは現代ではないだろう。


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ライヒの筋肉療法

2007-02-21 06:00:10 | 気功、導引(冥想法2)
◎こりの解消と心の緊張

ライヒの筋肉療法は、心理的緊張をゆるめれば、筋肉の緊張をもゆるめるが、その逆に筋肉の緊張を解除していけば心の緊張をも消滅させていくという原理に沿ったものである。

ライヒは、患者の全身の筋肉の固いしこりや筋(すじ)をあちこち、つついたり、押したり、揉んだりした後で、できるだけ深く息を吸ったり呼いたりしながら、眼球を四方の壁をひとつづつ見るようにしてぐるぐる回させた。

次に両足を上げ、ぐるぐる自転車をこぐように動かし続けると、足の筋肉の痛みは、段々消えていき、甘い陶酔感が全身に広がり、息を吸うたびにその吸った空気が全身のすみずみにいき渡るほどになっていく。この後患者は、気分が高揚し、エネルギーが体内に横溢することを実感して帰途についた。
 
ライヒは、人間の筋肉は、眼、口、顎、胸、横隔膜、腹、骨盤を中心とする七つのグループがあり、それぞれの筋肉のグループは、いずれも不安、怒り、恨み、抑制、といったネガティブな情動によって緊張することがあると考えていた。

たとえば、眼は不安により、口は自己憐憫や泣きたいという欲求で、顎(と背中)は怒りやヒステリーで、固く緊張するといったあんばいである。たとえば不安と怒りが抑圧されると喘息が引き起こされたりする。

ライヒは固くなった筋肉に刺激を与えた後に深呼吸を繰り返させ、更に脚の筋肉運動により血流を促進することにより、まず筋肉の弛緩を実現して、結果として心の緊張をもなくしてしまうことができた。

この手法は、精神分析で多用されるカウンセリングより遥かに効果的に、抑圧されていた情動を表面化させ、(言語化することなく)緊張のピークを再体験することによりその緊張を解きほぐし解消するようだ。

ただしこの療法は、施術者であるライヒが、患者の様子(態度、顔の表情、しぐさ)の変化に対して極めて鋭敏であり、その変化を患者自身に指摘し、患者が自分でその意味を意識する手助けを綿密に行うという才能があったということを無視することはできない。

ライヒはこの療法に関してのすぐれたグルだったのだ。同じ手法を他の先生がやっても同じように劇的な効果を上げるとは限らないのだ。

また,ハタ・ヨーガだけでは、入口に立っただけである。


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