アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

心の本性の性質と体験

2019-06-15 07:10:57 | マントラ禅(冥想法7)
◎マントラだけでできている世界

チベット密教では、第六身体アートマンのことを、心の本性、空性、輝き、リクパ、自己認識などと言う。

心の本性においては、既に個人は独立した存在ではなく、土も、コンクリートも、空も、魚雷で穴を開けられたタンカーも、密かな恋人との語らいも、誰にもばれないでうまいことやろうと思っている心の動きも、生きとし生けるものすべて、無生物すべても相互に連動している、心の本性である、アートマンの現れたものである。

だがその現れには重要な特徴がある。チベット密教で用いられる例えでいえば、アートマンは大きさのない点に似ている、或いはアートマンはが飛び行く空に似ているなどと言う。だから空性と呼ぶ。

この表現では、明らかに見ている自分を残した見え方であり、そのような表現では誤解を招きそうであるが、譬えというのはそういうものなのだろう。

人は、譬えに接し、イマジネーションでもってそれにアプローチ、コンタクトし、真似をして、やがてその真似は神に入り、やがてそのものの実体験へ移っていく。

般若心経を唱えれば、色即是『空』と言うが、それを実体験することを狙うのか、それを常に実体験している自分に気がつくことなのか、気がつこうとしている自分は何なのか。

六字の名号を唱え続けるだけでも、アートマンに到達する人もいるくらいだから、当然に色即是空、色即是空と繰り返すだけでもいける。その先にあるあらゆるものが南無阿弥陀仏である世界、あらゆるものが色即是空である世界は何ものなのだろうか。

安心決定鈔
『念仏三昧において、信心決定せんひとは、身も南無阿弥陀仏、こころも南無阿弥陀仏なりとおもうべきなり。』

島根県の妙好人 浅原才一:
『この世界仏の世界でござります
仏の世界に生をうけさせ
ご恩うれしや南無阿弥陀仏
ありがたいな
ご恩を思えばみなご恩
これ才市なにがご恩か
へえご恩がありますよ
この才市もご恩でできました
着物もご恩でできました
食べ物もご恩でできました
足に履くものもご恩でできました
そのほか世界にあるものみなご恩でできました
茶碗や箸までもご恩でできました
敷き物までもご恩でできました
ことごとくみな南無阿弥陀仏でござります
ご恩うれしや南無阿弥陀仏』
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明恵の一日千回マントラ

2019-05-05 06:02:44 | マントラ禅(冥想法7)
◎文殊菩薩の五字真言

明恵は、13歳から19歳の7年間高尾の山を下りずに修行した。13歳の頃、これだけ昼夜不退で一生懸命修行しているのだが、もう13歳で年をとったが、大悟もできないので、死んだ方がましだと考えて、三昧原というところに行って横になっていた。
すると狼が大勢やってきてそばにあった死人などをがつがつと食う音がするのだが、明恵を避けて食いもせず狼たちは帰っていった。
これにより、明恵は定まった寿命でなければ死ぬことはないと知って、以後はそのようなことをすることはなかった。

この7年間高尾の神護寺の金堂に毎日3度入ったのだが、そのさい文殊菩薩の五字真言「おんあらはしゃのう」を一日に千回唱えたという(千日で百万遍)。明恵のマントラは、連続念唱でなく、仏道成就祈願のためらしいが、そういう時期はあるものだと思う。

14歳の時、神護寺の再興者文覚が病に伏し、ひそかに明恵を召して、病気平癒を祈請せよと命じた。明恵の幼名は薬師丸だが、果たして、明恵が祈願すると病気は平癒したという。

明恵は後のゴッホみたいに耳切り落としとか、真っ直ぐな事績が多い。神護寺は、創建から三百年。荒れ果てていたのを文覚が再興。その勢いを受けて最も成功したのが明恵なのだろうが、文覚の地ならしも忘れることはできない。
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禅定を修するに三つの大毒あり

2019-05-04 06:18:30 | マントラ禅(冥想法7)
◎睡眠、雑念、坐相不正

明恵は鎌倉時代の人物であって、鎌倉方に敵対した敗残兵を栂尾にかくまったことで知られる。

私は、古寺名跡を訪れることは極めて少ないが、栂尾高山寺と、明恵が奈良を出て修行した高尾の神護寺は訪問したことがある。神護寺といえば、最澄、空海だが、神護寺の脇に和気清麻呂の墓があるとの立て札を見て、わき道を進んでみたが、夕暮れ遅い時間であったこともあり、見つからず断念して戻ったことがあった。先日テレビで神護寺の特集があり、果たして和気清麻呂の墓を守っている人達が出てきて墓は本当にあったのだと確認した。
和気清麻呂の事績のディテールはよくわからないことが多いが、神託を材料に政変を行ったとだけ伝わっているが、国難といえども政治の世界なのだから血で血で洗うようなことがあったのだろうと思う。今で言えば自民党総裁を追い落とすようなものだから。
ただ和気清麻呂が、空海、最澄も認める都の西北の大パワースポットに葬られたというのは、意義を考えるべきだろうと思った。

一日、建仁寺の円空上座という坊さんが、禅定を修するにはどうしたら一番いいかと、長老に尋ねたところ、栂尾の上人に聞けと教えられた。そこで、明恵の元に参ずると、
彼はこのように答えた。
「禅定を修するに、三つの大毒あり、是を除かざれば、只身心を労して年を経るとも成就し難し、一には睡眠、二には雑念、三には坐相不正なりと。」

普勧坐禅儀には、沢山述べているけれど、日中労働しているとどうしても眠くなるが、禅をやろうというのなら、睡眠、雑念、坐相不正の自己チェックは欠かせない。

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自力と他力

2019-03-10 06:24:11 | マントラ禅(冥想法7)
◎自分自身で水を飲んではみたものの

自力と他力と言えば、弥陀の本願に救い摂らせ参らせるなど、自力が他力に転換するなどとと、気軽に転換を語る。自力は大変、他力は容易など、浄土系では言うものの、実際は、自力も困難、他力も困難なのではないかと思う。

阿弥陀仏が自分のことを救い摂ってくれるかどうかは、阿弥陀仏様の匙加減一つであって、自分がやってほしいと思ったからできるという類のことではない。

ロバは馬より一回り小さいし、馬は精悍だが、ロバはのろまな感じを受ける。駄目な禅僧は、自分のことをめくらのロバと称する。

禅ではよく馬を水辺に連れていくことはできるが、水を飲ませることまではできないという。なんとなれば、自分で飲むしかないから。あるいは、冷暖自知す、などとけむに巻く。水辺にあって水を飲まないロバこそがダメ僧だと自称する。

ところが、水ならば馬もロバでも自分で飲める。実のところ最後の一歩は、自分ではどうにもならず、神仏のご加護なくしては成就できない。あらゆるものに対してオープンになってしまい、神にもオープン、悪魔にもオープンになって、発狂か、自殺か、大悟覚醒かというような切羽詰まった状況において、どれに進むか。特に大悟覚醒は自分の意思ではどうにもならないところがあるのではないか。ここに神仏の裁量というかワン・プッシュ、御加護があるように思う。

これは平たく言えば、冥想修業成就の不確実性とみるのだが、それは人間から見た場合の見方ではあるが、修行者にとっては、のっぴきならない現実でもある。
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ぼろぼろファッションと清貧

2019-03-03 05:59:45 | マントラ禅(冥想法7)
◎天童山の道如上座

電車に乗ると膝や太腿に穴のあいたジーンズを着ている人もいる。これは故意にそうしているのであって、人に見せる目的のものである。

正法眼蔵随聞記で、天童山の書記(修行者中の第二位)で道如上座という人がいた。この人は政府高官の子弟であったが、親族とも交際せず、世俗の利益も貪らなかったので、衣服のやつれや、破れは目も当てられなかった。

あまりにも率直で遠慮のない道元が彼に質問するに、「貴殿は貴顕の生まれながら、その衣服はどうしてそこまでぼろぼろなのですか」。

道如答えて曰く、「僧だから」と。

清貧を通すには、世間からバカにされることを恐れないという一種の決心が必要である。専門道場での修行はある意味で社会性の放棄だが、天童山においても棄てきれぬ僧は珍しくなかったのだろう。

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日蓮の虚空蔵求聞持法

2019-01-28 05:16:08 | マントラ禅(冥想法7)
◎マントラときっかけ

日蓮は十二歳で、安房小湊に近い天台宗清澄寺に入り、その年からこの寺の虚空蔵菩薩に願をかけ、「日本第一の智者となし給え」と祈っていたという。一六歳で出家。清澄寺の本尊は虚空蔵菩薩。

虚空蔵求聞持法は、虚空蔵マントラの連唱。清澄寺から旭の森に行く途中の切り立った崖の下に小屋があって、これこそ慈覚大師円仁の求聞持修行の地であり、日蓮の法華修行の霊場だという。

『五十五歳の日蓮が、身延から清澄寺の大衆へ書き送った手紙『清澄寺大衆中』の中
にこういう言葉がある。

「生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給はりし事ありき。日本第一の智者となし給へと申せし事を不便とや思(おぼ)し食(め)しけん。明星の如くなる大宝珠を給ひて右の袖にうけとり候し故に、一切経を見候しかば八宗竝に一切経の勝劣粗(ほぼ)是を知りぬ。」(『昭和定本日蓮聖人遺文』H・一一三三頁)』
(名僧列伝 3 念仏者と唱題者/紀野 一義/文芸春秋P210-211から引用)

おそらく日蓮は、空海などと並んで虚空蔵求聞持法に成功して、この一なるもの、アートマンにコンタクトし得たので、この手紙になっている。

何でも記憶できる虚空蔵求聞持法は受験生のあこがれだが、記憶力優先の大学入試の時代ではあるが、日蓮は、そんなところに関心なく、いきなりあらゆる経典を見てしまい、世界の構造まで把握したのだろう。

虚空蔵求聞持法は真言宗系の行法だが、日蓮は、真言亡国などと真言宗を批判するプロパガンダを行っているのは、よくよくのことなのだろう。

彼自身もマントラとしてはやや長い虚空蔵マントラでなく、南無妙法蓮華経というマントラでの可能性を確証し、布教したのだろう。

2019年1月27日人気アイドルグループ嵐が突然活動休止を予告。国内のトレンドワードでは“嵐”が急上昇(Google Trendでは2百万件以上)。何で今の時期にという声は多いが、日本の嵐が予告されたのだろう。嵐マントラが大勢念唱されている。

東京都心では、2018年12月24日以降ほとんど1か月降雨がなく、異常乾燥が続いているが、これぞ“嵐”の前の静けさか。

複数の関係ない事象を関係づけていると思う人もいるかもしれないが、シンクロニシティというのは、こういうものである。今眼前に起こっている事象をきっかけとして、自分の内部をのぞき込むということ。易占の原理も、タロット占いの原理も同じ。
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マントラ・シッディ

2018-12-13 05:25:03 | マントラ禅(冥想法7)
◎心身一如的

アー、アー、アー。
南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。
オーーーーーム、オーーーーーム、オーーーーーム。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
惟神霊幸倍坐世(かんながらたまちはえませ)、惟神霊幸倍坐世、惟神霊幸倍坐世。
ムー、ムー、ムー。
アッラー、アッラー、アッラー
スッブハーン・アッラー、スッブハーン・アッラー、スッブハーン・アッラー(アッラーの栄光をたたえまつる)。
これらは、伝統的マントラ。

そして伝統的でない奴。
非二元、非二元、非二元。
イワシの頭、イワシの頭、イワシの頭。
レッドブル、レッドブル、レッドブル。
モンスターエナジー、モンスターエナジー、モンスターエナジー。
などどんなマントラでもあり得る。

言霊が綺麗で美声だなどという迷信にはとらわれない。

真言宗の覚鑁は、初心者は余計なことは考えずにアーアーアーとやりましょう(阿字)とか、黄檗宗の加藤慈光は一週間念仏三昧したとかあるが、常にマントラ・シッディとは何かということが問題となる。

『マントラ・ヨーガも、マントラ禅も、一点集中によって思考の雑音を排除しようとする単純なトリックではあるが、マントラ禅の方が、精神安定剤よりは、生命力増強法としては、多少すぐれていると言えば言えるだろう。

とりわけ、マントラ・シッディという爆発的な心身一如的な歓喜や感謝や念力の発現は、マントラ禅の方がはるかに速い。』
(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジ/森北出版/P124から引用)

ダンテス・ダイジの定義では、マントラ・シッディとは、心身一如ではなく、心身一如的に止まる。だが冥想の可能性に限りはなく、妙好人のように究極にまで至る人たちもいる。
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掛け声と呼吸そしてマントラ

2018-02-18 06:34:09 | マントラ禅(冥想法7)
◎ハンマー投げから羽生結弦のフィギュアスケートまで

ハンマー投げの室伏広治は、ハンマーをより遠くに飛ばすために、まずハンマーを磨くことを始めた。

また掛け声が心理も肉体の状態をも変えることに気がついた。

そして彼は大事な試合の前に独自の呼吸法により、できる限り集中力を高めて本番に臨む呼吸法を実践していた。

それは背筋を真っすぐにしてリラックスして力を抜き、さるポーズで手を組み、意識を丹田に持っていくというもの(詳しくは『ゾーンの入り方/室伏広治/集英社新書』)。

眼目は、そのポーズで、いきなりゾーンに入れるかということなのだろうと思うが、それこそ選手控室の喧騒の中やフィールドで自分の順番を待っている時に平常心でこのルーティーンに取り組み、このポーズに1~3分いることで、ゾーンなるトランスに入れるかどうかは、練習を積む必要があるのだと思う。

練習を積めば、それに入る時間は短縮されるが、深まり具合は人によるのではないか。

室伏広治は、『人は意識をほんの少し変化させたり、意識を別のところに移したりすることで、呼吸も変化し、そして動作も変化するのです。』
(ゾーンの入り方/室伏広治/集英社新書P44から引用)
などと宣う。

冥想修行者にとっては、心理状態が坐相ポスチャーを変化させ、呼吸もそれに応じて変わるのは、いつものこととして自明である。

合気道の開祖植芝盛平は、稽古の前に神事を1時間半もやっていたという。ゾーンなるトランスに入るのは、日々都度都度の冥想の繰り返しによる深まりが先になければ、むづかしいだろう。

2018年2月17日平昌五輪での羽生結弦選手のフィギュアスケート金メダルの演技では、足の痛みをこらえながらやっていた由だが、肉体の痛覚を後退させて、できる限りの演技をするというのも一つの超能力みたいなものである。ゾーンに入らなければ、ああいう演技はできまい。

兵士やスポーツ選手の中にはマントラを用いる人もいる。『南無八幡大菩薩、南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経・・・・』、周りが許さない場合は、心の中で唱え、発声しないマントラもありだ。繰り返し繰り返し念唱する。マントラ・シッディもゾーンだが、その深まり具合が意外な世界を開示してくれることがある。

植芝盛平には著作はない(口述のみ)が、そのゾーンは宇宙そのものであって、試合での勝ち負けなどではない。立ち合った瞬間に勝っているのだ。


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スーフィとマントラと帰依

2018-01-16 05:30:41 | マントラ禅(冥想法7)
◎ファナー

マントラを繰り返し繰り返し繰り返し念唱することで、人はマントラ・シッディに至り、そこから神へのコンタクトに進むこともできる。

白いスカートで円運動を踊るスーフィの修行の基本は、「アッラー、アッラー」とか「スッブハーン・アッラー、スッブハーン・アッラー(アッラーの栄光をたたえまつる)」などの短いマントラを繰り返し繰り返し唱えるズィクルと呼ばれるマントラ・ヨーガ。

マントラ・ヨーガであるからには、帰依が必須となるのだが、果たしてスーフィでも帰依は必須。全面的帰依の先に一者=アートマンがある。

スーフィでは一者との合一を単一化(タウヒード)とみて、神秘主義的直観により神を唯一の全体として、一挙に体認することを意味する(出所:イスラム神秘主義におけるペルソナの理念/R.A.ニコルソン/人文書院P175訳注10)。

周到な表現の仕方だが、禅の十牛図でいえば、第七忘牛存人

スーフィにあっては、神を愛し、知るためには、神に対する愛と知のうちに自分を消滅させるのだが、その時神の一性(いつせい)のうちに自己は消滅し、自己と神はひっくりかえって、神が一であることを体認する。

この自我の消滅をファナーと呼ぶ。


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九州からの客人が生き仏に出会う

2017-06-04 06:35:57 | マントラ禅(冥想法7)
◎光を放つ念持仏

妙好人の貞信尼の続き。

ある時、信者の小松原操子のところに九州から来客があり、「折角越後にきたことだから、ご馳走よりも誰かありがたい人に会わせてください。生涯の思い出ともなるから。」との希望であったから、それならばと貞信尼の宅に案内した。

ところが貞信尼は留守であって、勝手ながら念持仏の五劫思惟の像を開扉して一緒に拝礼した。

するとその客人は、「この仏像の鼻の先から光明が放たれており、ちゃんと拝むことができない。このような仏像は初めて拝んだ。どなたに会わなくともこれさせ拝ませて頂いたらこれでもう充分だ」と非常に喜び、有難がった。

車を連ねて帰途につくと途中で貞信尼に出会い、近くの茶屋で法話をうかがうことになった。

すると客人は、「どうも不思議だ。さっき拝んだ仏像とこの人の人相がそっくりだ、五百里あってもこの如来様に会いさえすれば充分だ、生き仏様に会えば充分だ。」と大喜びで帰って行った。

操子は、「私は平生、生き仏の現物に出会っても、生き仏と拝むことができないのはどうしたことでしょうか」と嘆くと、

貞信尼曰く、「喜ぶ人は前生が違う。私やあなたは喜ぶことができないので、さあ称えましょう。」とて、喜び喜び念仏を称えましたとさ。

謙遜、自己を低く見るのは、本物の特徴。前生が違うとは、それを感得出来る感性があるということ。

起こることは起こっているが、何が起こったかを知るのは、それはまた別のこと。
万人が死を迎えるが、そのプロセスの中で、原初の光に万人が出会っているが、それを感知する人は極めて稀である。

イエス・キリストの来臨を願う人には、ある深夜にキリストが臨在するのだが、本人は寝ていて気づかないというようなことと同じ。キリストの再臨を待つ人、生き仏の出会いを待つ人は多いが、それは多分既に起こっているが、実は気がつかないことが大半なのだろうと思う。
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おすえの臨死体験

2017-06-03 05:43:41 | マントラ禅(冥想法7)
◎私を極楽へ連れて行って

これは浄土真宗の明治の妙好人貞信尼物語に出ている話。貞信尼は、越後出身だが、14歳で嫁したが、病気で離縁され、以後尼僧として生きた。

さて江州高宮におすえという若い女がいたが、いつも貞信尼の教えを受けて念仏を唱えていた。

5月12日におすえは亡くなり、一時生き返った。その時におすえが言うには、

「貞信尼は、『いつも南無阿弥陀仏様が極楽へ連れて行ってくれる、これだけを忘れないでね。』と教えてくれていたが、本当におっしゃられたとおりでした。

浄土はよいところで、お母さんも往っていたし、おばあさんも、姉さんも往ってらした。」とばかり繰り返して、7日の後には本当に亡くなってしまった。

おすえは、間違いなく辺地かどうかはわからないが、浄土に往生し、そのことを貞信尼に伝えることができた。

臨死体験は、結構はずれが多いが、つまり臨死体験をしたというだけで何も起きないケースが多いが、これは稀有な極楽実証体験といえる。

ただし、体験とは言えない体験ではない。

※貞信尼物語/大須賀秀道は、国会図書館デジタルアーカイブからダウンロードできます。
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歎異抄から念仏を始める気持ち

2017-04-20 05:32:09 | マントラ禅(冥想法7)
◎光明のうちに摂(おさ)めとられる

歎異抄のその1から念仏を始める気持ちの部分。

『あらゆるものを救わねばおかぬと御誓いなされた弥陀の本願の不思議な御はからいに助けられて、

浄土へ参らせていただけると信じて、御念仏を申そうというこころざしの起きたとき、

そのときこそ、もはや光明のうちに摂(おさ)めとって、捨てたまわぬ恵みにあずかっているのである。』
(親鸞全集 第1集 現代語訳 語録 親鸞/著 講談社P26から引用)

これは悪人は悪のままに、弥陀の本願にて既に救われているとは、時間のない世界のこと。ラーマクリシュナはすべての悪人の中にも神性を見たが、それと同様に、悪人であってもなべて仏性を有している。

すべてが救われている弥陀の本願に摂めとられるためには、この日常たる時間のある世界から、時間のない世界である弥陀の本願に入らねばならぬ。

その契機を念仏というマントラ・ヨーガが与えてくれるというもの。
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釈迦を見る

2017-04-05 05:38:59 | マントラ禅(冥想法7)
◎比叡山延暦寺でやる好相行

肉身でない釈迦を見る修行がある。これが比叡山延暦寺でやる好相行

アストラル体の釈迦を意識的に見ようというのだから、意識が釈迦に合わないと見れない。釈迦意識と同等のトランスに入るのだ。

十二年籠山行を満行した堀沢祖門氏によると、好相行の概略は次のとおり。
1.仏の御名(南無釈迦牟尼仏)を唱えながら五体投地の礼拝を毎日三千回。
2.三度の食事とトイレに行く以外はこの行中は不眠不休で続ける。この間は布団で横になれない。大型椅子に腰を掛けることだけは認められている。
3.この行には終わりの期限がない。最長で3年もやった記録があるという。
4.周りの人は誰もアドバイスをくれない。

単純な行だが、実際にやると、次のような状態になるという。
1.昼間は意識がはっきりしているが、夜の9時10時は意識が混濁して自分が何をやっているのかわからなくなる。同時に身体も重くなって力いっぱいやらないと腕で持ち上がらなくなってくる。
2.こんなことをやって何になるのだろうとか、本当に仏がでるのだろうかなど葛藤が起きまくる。
3.継続していくうちに余計なものが削げ落ちていく
(以上出典:求道遍歴/堀沢祖門/法蔵館P74-85)


五体投地をまじめにやっているのは今時はチベット密教信者くらい。昔は地べたにそのまま突っ伏していたが、チベットでも最近はヨガマットみたいなのを敷きながら進むようになっていた。(テレビで見ました)

それにしても、疲労困憊、意識混濁でトランスを起こし見仏するというのであれば、トランスの状態を見ながら、アドバイスする人がいればいいのにと思うが、それは素人考えなのだろうか。そしてまたこういうトランスへの入り方は、念仏お題目も似たようなメカニズムなのだろうと思う。
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一兆倍の悲しみよりもなお

2017-01-04 05:34:25 | マントラ禅(冥想法7)
◎人口爆発と大悲

世界人口はますます増加し、80億の声すら聞かれる。キリスト教でもチベット密教でもゾロアスター教でも、最後の審判に参加するために、天国に行った者も、地獄に落ちた者も一旦大復活を遂げるみたいなことが言われる。

出口王仁三郎は、同様に中有以下、地獄の者も大量に復活してくることを述べている。

出口王仁三郎の随筆玉鏡から。
『出産率と救ひ

近年世界人口の激増する所以のものは、今や世は二度目の天の岩戸開きに直面せむとして、中有界以下の諸霊は、神の限りなき大慈大悲によつて現界へ再修業の為め出されて来るからである。

かかるが故に、今此時に当つて生を現代に享けたるものは、神恩の広大無辺なるを感謝し、ひたすらに身魂みがきに没頭精進して、御救ひの手に縋りて天国に入らむことを希はねばならぬのである。』
(出口王仁三郎の随筆玉鏡から)

こういう時代だからこそ、いわゆる不徳の人たちが多いのだからこそ、愛、あるいは大慈大悲も知性や意志と並ぶもう一つの方向として強く出していかなければいけないのだろう。

禅、あるいは只管打坐はどうしてもそういう方面は、クンダリーニ・ヨーガに比して薄かったり弱かったりするところがあるのだろう。

自分より弱いもの、婦人、幼児、ペット、病人、老人などに優しく対する、自分より力の弱いもの、地位の低いもの、貧しい人に優しく対する。

マントラヨーガ、念仏、お題目はこうした大悲心の発現を呼び起こす。その先には、ダンテス・ダイジ言うところの人間的悲劇の一兆倍の悲しみよりもなお悲しいというのがあるのだろう。
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玉城康四郎の仏光明

2016-10-04 05:27:53 | マントラ禅(冥想法7)
◎個人的でかそけきものだが

1960年代に玉城康四郎が、ギリシアに旅行した時に、アテネのホテルで突然ものすごい悪寒に襲われた。医者の呼び方も知らないので、ベッドにもぐりこんでひたすら仏を念じた。

彼がこれまで学んだ知識や知恵も役に立たず、肉体はただ悶えているばかりであったが、仏を念ずるということがだんだん広がってきて、すべてが仏の光明に貫かれ、この身このままが浄土となり、悪寒はたちまち快楽(けらく)に変わったという。
(出典:冥想と経験/玉城康四郎/春秋社P107)

彼によれば、これは一種の即身成仏だそうだが、南無阿弥陀仏と念じているうちに、いつしかすべてが仏光明になりきったのだろう。
妙好人には、この種の体験は時折見られる。

彼はこの体験の後も冥想を続けているが、時にその根源のものが吹き通しになり、身心が光明そのものになるものの、時がたつともとの木阿弥になると正直に告白している。

冥想を続けていると、時熟してこのようなことがあるものだろうと思う。それは個人的でかそけきものだが、本人にとっては重大なもの。
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