アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

狂わず、死なず、正気を失わず

2019-06-13 05:33:43 | クンダリーニ・ヨーガ
◎本山博のマニピュラ

ヨーガ経典を見ると、透視、直観、念力などの超能力を書いているものだから、不如意な生活を生きている人は、時にそういうものを手に入れようとして努力したりもする。だが超能力指向は、人をついには地獄的なものに向かわせるものだから、わきまえた人は超能力を得るために密教修行をしたりはしない。

人は、観想で将来の自分の姿を描き、世間でノーマルとされる努力を重ね、実際に描いたビジョンどおりの姿を実現する人の方が圧倒的に多数で、密教の修法などであの世で将来ビジョンを形成してそれを現実世界に落とし込むというようなことをする人は少数派である。

臍のマニピュラ・チャクラは自己実現のチャクラであって、ここからアナハタに向かうのが現代人共通のテーマ。

クンダリーニ・ヨーギ本山博が、『マニピュラチャクラの超感覚的能力は、客観性に乏しく、危険を蔵している』(超感覚的なものとその世界―宗教経験の世界/本山博/宗教心理出版P33から引用)と言っている。これは、マニピュラの透視や予知がよくはずれることを言っているようなのだが、事実本山博の予言録には大きくはずしているものがある。

だがそれは私の見るところ、現今の世界観、社会観に軸足をおいて、将来を透視、予知しようとした場合、見えるものの解釈をも現今の世界観、社会観に軸足をおいてやるとそうなってしまうせいではないかと思う。

現代は民主主義中心の世界だが、一皮むけば弱肉強食の社会・国際外交のパワー・バランスであって、また私権擁護を優先した法体系で、ほとんどは金で片をつけるという考え方の社会。こうした人間関係と社会と世界の形式は、決して永遠不壊のものではなく、時代が移れば言葉も変わり、正邪善悪の基準も変わり、金で換算できない価値を優先する社会通念の社会すら出現する。

現代人は、思考や感情を、多数ある現実形成チャネルのうち『近代西欧文明型世界観』チャネルに合わせて見るのが、唯一の現実と考えることに慣らされている。ところが、その思考や感情の動きは、全く別の世界観でも見ることができ、解釈も可能なのである。

それを示した一例が、カルロス・カスタネダのドンファン・シリーズだが、そこでは現今の社会性はほぼ放棄されており、まじめな社会人の一部はそうしたものに触れようとも思わないだろう。

いずれにしても、クンダリーニ・ヨーガの窮極は、既存の人間的な世界観をも棄ててしまい、狂わず、死なず(自殺しない)、正気を失わずが大悟への道となるのだが、その辺を考えないとマニピュラチャクラの超感覚的能力は、客観性に乏しく云々というようなことを言い出してしまうのではないかと思う。
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科学という冥想科学

2019-04-25 05:29:10 | クンダリーニ・ヨーガ
◎プリマ・マテリアが黄金へ

ゾシモスの頃であっても、それ以後であっても、クンダリーニ・ヨーガは秘教だった。

現代科学は、物質科学であって、肉体の次元、第一身体の次元しか扱っていない。第一質料プリマ・マテリアが黄金に変成するとは、大悟覚醒するということで、七つの次元をぶち抜けるということ。

段階を経て黄金となるには、手順と材料という冥想段階に応じた注意事項と坐法そしてグルが要る。それを表現するのに、世間に気取られず、余計な関心と欲心を抱くものが、この道に入って来ないようにするため、金属変成というアナロジーをとったのだろう。

それは、中国でも同じだった。本質は内丹だったが、外丹にも何かあるように見せてきた。ただし、外丹という薬物によっても、カルロス・カスタネダのシリーズが開陳したようなソーマ・ヨーガの道もある。

ソーマ・ヨーガだって、サイケデリック・ドラッグの出てきた20世紀以降のものでなく、アヴェスターの古代インドこそは、ハオマというソーマ・ヨーガ全盛の時代だった。
(私はソーマを飲んだのか?)

秘教、密教は、為政者の護持体制がなければ潜航せざるをえない。だが為政者は時代とともに変わるが故に、政権政治体制が変わっても、伝承されるようなスタイルを考えると、それは金属変成や外丹だったのだろうと思う。

西洋では、金属変成の方ばかり目が向けられて、冥想的錬金術の方については、中国で見るような大覚者の系譜が見られないのは特徴的だが、それが近代西欧文明の本質的な運命であるとも言える。今、物質科学の粋である核兵器によって、人類の危機を惹起し、そこでようやく人間の本質を俯瞰して一歩進むという危険極まりないシーンに向かおうとしているのだ。

東洋人(除く中国人)は、西洋人に比べると意識の上で2、3歩神に近い。この2、3歩の差が、近代西欧文明のアブナイ特徴を作り出しているのだと思う。
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本山博のクンダリニー覚醒のステップ

2019-03-18 03:34:36 | クンダリーニ・ヨーガ
◎心身霊のすべてがクンダリニー+神力で焼き尽くされる

「スピリチュアリティの真実/本山 博/ PHP研究所」にクンダリニー覚醒のステップが書いてあり、アストラル・プロジェクション、カラーナ・プロジェクション(メンタル体・プロジェクションのことか)の次に不動明王段階が置いてある。

この段階では、心身霊のすべてがクンダリニー+神力で焼き尽くされるという。不動明王体験を経ると霊の世界を超えて宇宙も包める次元に入れるようになり、過去、現在、未来が一体となってわかり、さらに神様と一つになると空がわかるという。

本山博は周辺に霊能力者が多かったせいか、霊能力者は、自分を残しているが、悟った人は自分がないと断言しているところ。
実はここが肝なのだが、あれこれ理屈で説明してもわかってもらえないという雰囲気の書きぶりである。
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クンダ自体の中に没入する

2018-11-05 05:19:39 | クンダリーニ・ヨーガ
◎トールが、角杯で一気飲みにトライ

クンダリーニのクンダとは、池全体のことだが、クンダリーニ・ヨーガで一般的に見られるクンダリーニ覚醒、上昇のプロセスの他に、クンダ自体の中に没入する道があるという。

OSHOバグワンによれば、その場合、超感覚的体験もなく魂の体験さえも完全に逸する。そのケースでは人は直接神に遭遇し体験する

この道はごくごく少数の人だけが辿る道であって、彼らは神のみがあって、一なるものだけが存在すると語る。

そのクンダのエネルギーは汲めども汲めども尽きることのない無限である。
(出所:奇跡の探求Ⅰ/和尚/市出版社P353-354)

この体験の仕方は、身心脱落のようだが、相違があるのだろうか。

北欧神話で、英雄神トールが、角杯で一気に酒を飲み干すことができるかどうか試されるシーンがあるが、その角杯の底は海につながっていて、少々しか飲み干せなかったという逸話がある。

このシーンはクンダの池のことであって、そうした場面に自分が立ち至って初めて何のことかわかるということなのだろうと思う。
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不動明王とサラマンダー-2

2017-11-18 04:35:17 | クンダリーニ・ヨーガ
◎賢者の石について

クンダリーニ・ヨーギ本山博によれば、人は不動明王段階に止まれば死の危険があるという。

西洋錬金術書『賢者の石について』では、最も卑賤な者が王位に上った後にサラマンダーが登場する。

すなわちマニピュラ・チャクラの社会的自己実現を成し遂げた後、天国的な幸福を満喫した後に、火蜥蜴サラマンダーが登場する。

ここまでいかないと先祖の因縁も解消しないとは、一人道を得れば九族昇天できる段階とは、まさにこのレベルであるということ。カルマ・ヨーガの極点である。

『旅する人がみな語る。
火とかげは火から生まれる、と
その食物と生命は火の中にある。
火とかげの本性からして当然なのだ。

それはまた山奥にも棲んでいるので
効験あらたかな四種類の火を燃やす。
第一の火よりも第二の火が強く、
まず火とかげはその中で浴(ゆあ)みする。

第三の火は、まこと他の火よりも強力で
火とかげはその中で体を洗い、身を清め、それから自分の穴へ急いで行く。

だが、すぐに捕らえられ串刺しにされる。
なぜならそれは死に、白くなるまで血を絞られなければならないから。
これはじつは火とかげ自身のためである。

なぜならこの動物は、自分の血を代償に永遠の生命を得なければならないのだから。
以後彼はもう死ぬことがない。

彼の血よりも高貴な医薬は地上にない。
この世にはこれ以上の薬は見つからない。
どんな病もこの血にはかなわないのだ。
それは金属と動物と人間の体を癒す。

賢者の知恵のもとはそこにあり、
賢者の石と呼びならわされる天の賜物を
神から授かったのもそれによる。
石にはあらゆる効力と力が宿っている。

賢者は好意からそれをわれわれに贈ってくれる、
われわれはそのため賢者の思い出を
讃えなければならないのだ。』
(賢者の石について 生ける潮の水先案内人/白水社P61-64から引用)

本山博は、こうしたレベルに達した人物について、ヨーガ以外でも十字架のヨハネエックハルトゾイゼ、道教の呂巌(呂洞賓)などを挙げる。これらの人物の共通点は、神と人間という二元論を超えたところつまりノンデュアリティまで行っていることであるとも指摘する。

つまりノンデュアリティでは、不動明王段階、サラマンダー段階を越えねばならないのだ。

もちろんサラマンダーは外になどない。昔のキリスト教世界で、人間が燃えるなどと公言したら火あぶりの刑なので、伝説の動物サラマンダーが燃えることにしたのだろう。

賢者の石は赤いとは火の色なのだろう。


十字架のヨハネ、エックハルト、ゾイゼ、呂洞賓、本山博を心から讃えます。

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七つの身体と下方互換

2017-10-11 05:27:12 | クンダリーニ・ヨーガ
◎現実認知の崩壊と微細身

七つの身体について並べて説明すると、いつそれぞれの身体を認識するのかという疑問が出てくるものだ。

一般には、こういう図式であれば、下方互換をイメージするので、例えば『メンタル体までわかれば、それ以下のアストラル体、エーテル体がわかるようになる。同様にアストラル体まで認識できれば、それ以下のエーテル体も認識できる。』というように想像するのだが、実際はそうではないらしい。

ダンテス・ダイジ座談の中で、いつ七つの身体を見るのかという質問があって、「第七身体であるニルヴァーナに入る直前。」と答えているところがある。またOSHOバグワンも同じようなことを語っているシーンがある。

要するに、一歩一歩肉体の次はエーテル体、それが済んだらアストラル体と万人が進んでいくわけではないらしい。

『微細身が肉体の外に出る瞬間、自然の秩序は必ず崩壊させられる。』(死ぬこと 生きること/OSHO/市民出版社p290から引用

肉体の外に出る微細身は、アストラル体、メンタル体だが、その時に自然の秩序は必ず崩壊させられる。

こういう情景を出口王仁三郎は、
『耳で見て目できき鼻でものくうて 口で嗅がねば神は判らず』と歌う。

そして、アストラル体での脱身は、ヘミシンクなどのおかげで神や悟りとは関係ないことが知られている。

結局アストラル体以下だけを認知しようという意図は、人のためにはならないので、どのボディを志向するにしても神、佛、ニルヴァーナとのコンタクトあるいは合一を狙って行かないとその微細身への興味は実のないものになろうということ。

一口に七つの身体は下方互換と言っても、それは覚者だけに許される見解であって、未悟の者にとっては何の意味も持たない説明だと思われる。

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感情コントロール

2017-10-10 03:09:36 | クンダリーニ・ヨーガ
◎コーザル体の超意識へ

人間の一見理性を動機とすると思われる行動の背後には往々にして、理性どころか強い感情が働いているものである。

人間にとって感情のコントロールは難しい。クンダリーニ・ヨ-ギ本山博は、感情のコントロールのできなかった行動の実例として、若者のいじめ、反社会的、無道徳な行為を挙げる。

本山博は、人間が感情をコントロールできるのは、カラーナ体つまりコーザル体のレベルまでいかないとダメと結論づけている。

彼は、コーザル体の超意識は、脳経由でなく、身体、脳、神経系に依存しないから、脳の依存によって生じた感覚、感情、想念、思考をコントロールできるとする。
(以上参考:人間はどこから来てどこへ行くのだろうか―人間、幸せ、健康について 本山博)

本山博は、コーザル体の超意識に進むには、肉体意識を離れることが必要だが、それには、グルの指導を受けながらクンダリーニ・ヨーガの指導を受けねばならないとする。

本山博は、コーザル体の超意識に段階的に進んでいくが如くに説明しているが、彼にとっても青年期に横須賀で神の一瞥体験があったからこそ、そう自信を持って言えるのだと思う。大死一番が必要なのである。
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タントラ・ヨーガ瞑想法

2017-07-28 05:27:22 | クンダリーニ・ヨーガ
◎ニルビカルパ・サマーディへ

『タントラ・ヨーガ瞑想法/スワミ・ジョーティルマヤナンダ/メルクマール』この本は、1982年出版だが最近初めて見た。

この本の帯にあるとおり、クンダリーニ・ヨーガは、具体的な瞑想手法は、正師から弟子に対して、弟子の状況を見ながら適切にタイムリーに与えられていくべきだが、師を持たない弟子が独習することは危険であると言いながら、瞑想法をかなり公開しているという点では危険な本ではある。

当時、好事家の間では、誰もが読んでいるが、著者の悟境もよくわからないし、あまりこの本へ言及する人は多くはなかったのではなかろうか。

1990年代瞑想法の紹介ということでは、OSHOバグワンのヴィギャンバイラブ・タントラ10冊が有名だった。が、この瞑想方法の紹介は、短い経典に彼の長い講釈がつくものであって、まともに座り方を書いているものは結構少ないように思う。

たとえば、
『ここにあるこの領域は、変化、変化、また変化だ。
変化を通じて変化を枯渇させる』
(ヴィギャンバイラブタントラ 6覚醒の深みへ/バグワン/市民出版社P117から引用)

バグワンの説明では、この一なるものは、変化し続ける。釈迦は変化を色即是空と見て実態がない、と新たな一段を加えるが、タントリストは自分が変化になりきる・・・そこで何かが起こる。

これは、瞑想法ではなくて、公案みたいなものだ。この世の見方という曲った通念を矯正するのにそういう刺激が必要なこともある。只管打坐といっても、只管打坐瞑想だけやっているわけでなく、作務もあれば経行も食事もトイレもあって只管打坐。

だからヴィギャンバイラブ・タントラは、瞑想手法集ではないが、瞑想手法集と銘打って問題ないという議論も勿論ある。

パタンジャリの八支(八つの瞑想法)の最後はサマーディ=三昧。サビカルパ・サマーディとニルビカルパ・サマーディが問題になるが、すでにどちらも個我はなく、ニルビカルパ・サマーディを窮極とする。

どちらにしても個なる人間からは、すべてを捨ててのジャンプが必要ではある。
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エルの臨死体験

2017-07-25 05:36:28 | クンダリーニ・ヨーガ
◎プラトンの国家の臨死体験

プラトンの国家の最終章にエルという兵士の臨死体験が出てくる。

臨死体験は、体験の質に非常にばらつきがあり、究極の体験に近いものはとても稀であるが、エルは特別扱いされてあの世の姿のフルコースを見せてもらったようだ。

人間がバルドから、再生してくる人生を選ぶときに、まず神は、様々な生涯の見本を見せ、それよりも多いを与えて、死者にその籤により人生を選ばせる。

神は籤を選ぶ人間に対して注意事項を与える。それは、籤で選んだ人生には特有の傾向と力があり、人はそれに縛られるということ。そして徳を積むか減らすかによってその人生は変動するということ。だから責任は籤を選ぶ人間本人にあって、神の側にはないこと。

さて、ある天国から来た人間は、前世で真の知を追求することなく、漫然と徳を身に着けてこの中有(バルド)にやってきた。彼は、人生籤を引いて、僭主の人生を選んだ。この人生では栄耀栄華は経験するが、自分の子供の肉を食らうことになることや様々な禍がついてくることを後で知った。

そこで彼は自分の選択を嘆いて、神の注意事項を守らず、不幸の原因が自分自身の選択であると認めず、運命を責め、神を責め、自分以外のすべてのものに八つ当たりした。

真の知とは伝統的には哲学だと思われているが、今なら明らかに大悟覚醒のことである。

プラトンの昔からこういう人生を選ぶ人はいたものである。
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姜甑山の遺言

2017-07-05 05:15:25 | クンダリーニ・ヨーガ
◎仁義相生、神化一心(神人合一)

朝鮮の神人姜甑山遺言

『甑山教の創始者姜一淳(1871-1909年、号は甑山)は、自分を天子弥勒と称した。彼は、臨終の際に、「私は弥勒だから、私に会いたかったら、金山寺の弥勒仏を見ろ」と語ったことで有名である。

その遺言に従い、弟子金亨烈らは、全羅北道金堤にある金山寺の弥勒殿の前で深い祈りを捧げ、日本の警察に逮捕され服役に処せられた。

姜一淳は、迫りくる弥勤の世を次のように描いた。
世の人が天に上り、夜と昼が何の障害もなく明るく通じ、百種の穀物を末永く取り入れ、数万種類の果物が太く大きくなり、豊かな食べ物が自然に生じ、美しい服が自ら現れる」』
(鄭鑑録 朝鮮王朝を揺るがす予言の書 白承鍾/著 勉誠出版P315-316から引用)

さて、姜甑山没後、無数にいた信者は、彼の不死を信じ切っていたショックで、残った信者は十数人という有様だったが、高弟京石と金亨烈は、遺言どおり全羅北道金堤にある金山寺の弥勒殿に入り、静寂な一室で冥想を2週間続けたが何も得るところはなかった。さらに冥想を続けた京石はやがて一切の疑惑が豁然として開悟されたという。
([朝鮮総督府]調査資料. 第42輯 朝鮮の類似宗敎/朝鮮総督府)

朝鮮では、古来弥勒仏の生まれ変わりを自称する人物は数多く出ている。だが、姜甑山は、並み居る偽物たちとは一線を画している印象を受ける。

明治時代にクンダリーニ・ヨーガ系で(信者向けにはマントラを与えていたようだが)、仁義相生・神化一心という神人合一を標榜する宗教を立てたことには、無類の先進性を感じさせられる。
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個我(魂、ジーヴァ)の抜け方

2017-06-29 05:52:56 | クンダリーニ・ヨーガ
◎頭頂=サハスラーラから出るかどうか

死に際して、個我(魂、ジーヴァ)が肉体のどこから抜けるかは、悟りの大きなポイントである。

本山博の見方。本山博は、身体のどこから魂が出るかは、カルマによるという説を立てている。

『(a)色情物欲の強いカルマをもった人は、そのジーヴァが心臓から微細身と共に抜けてスワディスタナチャクラに来て、足の腎経や膀胱経を経て、足の小指から身体外に出る。

(b)感情や想念のカルマをもつ人は、心臓からマニプラチャクラを経て、足の胃経、脾経を通って、足の拇指から出る。

(c)積極的で愛の深い人は、心臓を通って、心経を経て、手の小指から出る。

(d)真実の智恵に目覚め、心にとらわれのない人は、心臓から眉間のアジナ、あ
るいは頭頂に来て、そこから身体外に出る。』
(カルマと再生―生と死の謎を解く 本山 博 宗教心理出版P75から引用)

スタートは必ず心臓。この中の(c)は本山博が自分の母親の狭心症時を霊視して確認済。(d)の頭頂から出るのは、本山博自身も確認済であり、OSHOバグワンもダンテス・ダイジも同意見であり、ウパニシャッドにも同じような見解を見ることができる。

人間が、人間としての苦悩を超克するには大悟覚醒するしかないのだから、今更カルマの種類によってどこからジーヴァが出るか異なるかを問題にする意味はなく、OSHOバグワンやダンテス・ダイジのように頭頂=サハスラーラから出るかどうかだけが問題になると思う。


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バルド(中有)の比較

2017-06-28 05:42:41 | クンダリーニ・ヨーガ
◎バルドの長短

本山博が、『カルマと再生』の中でエジプト死者の書のバルドとチベット死者の書のバルドを比較している。

その中で、エジプト死者の書での審判は、羽とアストラルの心臓を秤で測って心臓の方が重ければ地獄行きで審判は一回きりである。一方チベット死者の書では、何度も回心の機会がバルド毎(チカイ・バルド、チョエニ・バルドなどいくつもバルドがある)にあり、その点ではチベット死者の書の審判は大甘であるなどと書いている。

実際に本山博が過去15年もの心霊相談の実績を踏まえると、49日どころか何百年もバルドに留まっている人もいて、なおかつバルドに薄暗い洞窟みたいな住処を自分の想念で作り出し、そこにいる人もいるところを見ている。ところがチベット死者の書では、新たなバルドに入る都度新たな救済のチャンスがあると繰り返しているのは、カルマの法則、不昧因果からすると、考えられないほどゆるいので、信者をがっかりさせないためのセールス・トークではないかみたいな意見である。

出口王仁三郎の霊界物語では、バルドは49日だが、大善と大悪にはバルドはないとしている。それ以上霊界物語では詳述していないようだが、バルドの期間の長短はあまり問題にしていない。

バルドの長い人を救うには、神様の助けが必要なので、あまりそこにこだわっても仕方ないと考えたのだろうか。
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玉光教十訓

2017-06-27 05:51:38 | クンダリーニ・ヨーガ
◎夫婦和合して成らざることなし

本山博がやっていた玉光神社の玉光教十訓。

『・神は一切萬霊の王
・己だになくば神の御声を聞き得べし
・生命も性格もみな尊き祖先のたまもの
・家に流るる古き罪垢を洗ひ清めよ
・憂愁に囚はるるな、焦慮に陥るな
・人の世に完全といふものなし
・夫婦和合して成らざることなし
・果を求めずして己が本務を尽すべし
・人は行ふことによりて其の地位を決定す
・惰心はあらゆる邪心邪霊を呼ぶ
以上大神の神訓なり身を以つておさめよ』

カルマ論とカルマ・ヨーガの傾向の強い教訓であり、チャネリングも否定はしていないところが特徴的。

この中の『夫婦和合して成らざることなし』。

本山博の見るところ、夫婦には二種あって、神霊界のような高い次元で一つであったものが別れて男女になって夫婦になったもので、これは魂の伴侶であるから順縁。もう一つは憎しみ、喜び、執着など因縁の塊りのような次元で結びついた夫婦や一時的に結びついただけの夫婦がある。

夫は妻のことを家政婦であってパートの金も入れる人のように見ていたり、妻は夫のことを月給を運んでくる猿や犬のように見ていたら、悪いカルマは解けることはないが、現実にはそのような夫婦が多い。

本山博は、そんな夫婦でもお互いのことを相手の立場に立って思いやることを続けていけば、いつか夫婦和合し、神様のところに行けると考える。

常に念頭に神様のことがあってそうなるのだが、そこは当事者の意識の持ち方やら生活習慣やらが大きく関与してくる。

そこで『惰心はあらゆる邪心邪霊を呼ぶ』ということだと思う。

他人の惰心はよく目につくが、自分の惰心は自分を蝕むが気がつきにくいものだ。

6割の人しか夫婦にならない時代がやってきて、この十訓も大時代的なものとなったのだろうか。

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本山博25歳時の修行

2017-06-25 05:35:23 | クンダリーニ・ヨーガ
◎修行時間とリスク

クンダリーニ・ヨーギ本山博の、25歳の時の修行スタイル。

1.毎朝3時に起きて30分ほどヨーガ体操。
2.4時から7時8時まで最初にプラーナヤーマ、後、精神集中。

プラーナヤーマのやり方は、
左鼻腔から4秒で息を下腹部まで吸い入れ、8秒間腹を膨らませて保息(クンバカ)。
次の8秒で尾てい骨の中のクンダリーニを観想によってスワジスターナ・チャクラ(丹田)まで上昇させ、同時に腹をへこませて腹に保息していたプラーナとクンダリーニをまぜてひとつにすると観想しながら、右鼻腔から息を4秒で出す。

これをまとめると
吸息 4秒
保息 8秒
観想 8秒
出息 4秒
で合計24秒。この呼吸を14~21回。

この修行を続けて3~6か月たってクンダリーニが頭頂のサハスラーラまで上がったが、エネルギーが頭頂からアストラルの次元に抜けたので、心身にそれほどの異常が起きなかったそうだ。
(以上密教ヨーガ/本山博/池田書店P194-196から抜粋)

(抜けないとリードビーターみたいに苦しむことになる)

これを見ると、3時に起床して、8時頃まで修行に打ち込めるのはよほど恵まれた環境である。

働きながらこのようなヨーガ修行優先の生活はできるものではない。本山博は幼児期より生母養母の二人が神道修行の師匠であったようなので、恐れることなくクンダリーニを上げる観想をできたのだと思う。

もっともクンダリーニ・ヨーガに打ち込もうとする人ような人は、既に自分のすべてを捨てる準備ができている人なのだろうから?、廃人になったり自殺したり発狂するリスクもへっちゃらなのだろうか?。

密教系の修行は、常にこのリスクがつきまとうのと、悪に落ちる危険性も隣り合わせなので、密教。今の時代は、普通に暮らしていても悪にはめられるリスクはあるので、密教系の修行だけそんなことを指摘しても仕方ないのだが。また現代は、ともすれば一人きりの分断された生活になりやすいので、これまた精神病を発現しやすい環境であり、密教系の修行リスクだけが精神・肉体を破壊するリスクでもない。

それにしても、修行が進んで不動明王状態になってすら、焼け死ぬ可能性があるなど、現代科学では未知の危険を伴うものであるので、まずは、指導者がいなければこのような修行には取り組んではならないと思う。

一人でジャングルをあてどなくさまよっても目的地に着く保証はないのだ。
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日本の怨みを解く

2017-06-24 04:43:17 | クンダリーニ・ヨーガ
◎本山博の全国浄化行脚

本山博の「霊の研究 人生の探求」の中に、アメリカの霊性について言及しているところがある。曰く、アメリカは今白人が貴族になってヒスパニックなど他の人種を自分たちの生活を支える道具に使っている。それは人種の自由・平等という点で正常ではなくて、そういうままだとアメリカは滅ぶなどとして、そういう争いの後始末ができないと、その国は栄えないというようなことを言っている。

これから12年くらい経って、なんと白人内部で貧富の分離が起こり、それは長期的には人種間の格差是正の一つの現れなのだろうと思うが、貧しい白人の期待を背負って出てきたトランプは、揺り戻しの位置づけにあるのだろう。

これに対して、本山博は、自らの霊能力者としての使命として、日本の部族間の怨みを解くことを挙げている。

それはアイヌと出雲族の争いを浄めることだとする。その代表的な地域として丹波篠山と関ヶ原。彼の霊視では、5、6千年前に鉄器を持つ出雲族が、中国・朝鮮から到来し、先住民であるアイヌと争闘を繰り返した。この時の主戦場の一つが丹波篠山。

さらに時代が下がって、今度は天皇族である大和族が瀬戸内から入り込んで、出雲族対大和族の紛争があり、その係争地がこれまた丹波篠山。

この本には、実際に本山博が丹波篠山に浄化に行って、さる古墳の前で怖いなと思った事件が書かれているのだが、その場所は、出雲族対大和族の紛争が一番ひどかった所だそうだ。

本山博は、全国を回ってこのような場所の浄霊を行っているという。

全国には由来のよくわからない古墳や岩のドルメン、メンヒルがあるが、素人は触らない方が良いのだろう。

丹波篠山は、綾部の南、亀岡の西、綾部・亀岡を舞台に出口王仁三郎は活躍し、もう一つの重要拠点である関ヶ原からは、江戸時代の重要な禅僧至道無難が出たのは偶然ではあるまい。

そしてアイヌとは、出口王仁三郎の見立てでは最初九州から入った熊襲(くまそ)であり、追われ追われて北海道に至ったという。

日本の古史古伝は、どうしても2千年前くらいから見るが、やはり1万年くらい前から見ないと日本のことですら流れがつかめないのだろう。
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