アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

トレヤ、ケン・ウィルバーの魂の伴侶

2019-04-14 05:14:16 | 只管打坐
◎トレヤの身心脱落

トレヤは、40歳くらいで、右腕のリンパのガンを摘出した後、一日に10時間も自分の呼吸を見つめ続けるというヴィパッサナーを10日もやった。9日目には、彼女はガンを恐れない平成な境地にあったが、その状態を続けられるかどうかに不安を抱いていた。

トレヤが問うて、ケン・ウィルバーが語る。
『「意識がただただ外へ拡大していく体験がずっと続いてるわ。自分の心と体をひたすら見守ること、言い換えれば、思考や感覚にただ注意を向けるということから始めるんだけど、それから心と体が消えうせたみたいになるのよ。そして、自分が、よく知らないけど神とか宇宙、もしくは高次の自己か何かとひとつになるのよ。素晴らしいわ!」

「それを神、宇宙、あるいは真我と呼ぼうが、本当にどうでもいいんだ。道元禅師は、師が耳元でこうささやいたときに悟ったんだよ。『心身脱落!』って。君の言うように、分離した心身への同一化がただ落ちるって感じ、そんなふうに感じるものなんだ。それがぼくに起きたのは、ほんのわずかな回数だけど、とてもリアルな体験だと思っている。それに比べれば、自我なんてまるで非現実的だよ」』
(グレース&グリット/(上)愛と魂の軌跡/ ケン・ウィルバー/春秋社P169-170から引用)

ケン・ウィルバーが、トレヤに初めて出会った時、二人とも何度も生まれ変わりながらお互いを探し求めていたという奇妙な感覚に襲われた。これぞ魂の伴侶。

魂の伴侶に出くわすチャンスは一生のうち何度もないらしい。

トレヤはやがてガンで早逝し、『ワン・テイスト』には、ケン・ウィルイバーが毎日只管打坐を繰り返しながら2、3年毎日一人で泣き暮らしていたという述懐が出てくるが、その原因の一つがこれではないかと思う。

世の女性の大半が感じているように、異性への愛の純粋性と強さは、この時代相当に軽んじられている。だが、それは繰り返される輪廻転生のシナリオの中で、極めて重要なプロットとして存在し得る。

ケン・ウィルバーもトレヤも十分に覚者だが、相思相愛の彼らにしてこの悲劇的ドラマが起こるし、相思相愛でない場合でも、人生上に決定的な方向付けを与えてしまうロマンスがあることは、皆知っているものだ。


身心脱落とは、『分離した心身への同一化がただ落ちるって感じ』だそうだ。落ちるって感じがあるから脱落なのですね。
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因果は感じるべきものか

2019-03-21 07:15:35 | 只管打坐
◎無相は空なく不空もなし

道元が師の如浄に「因果は感じるべきものなのでしょうか」と質問した。(宝慶記)

すると如浄は、「因果を否定してはいけない。
永嘉禅師は、証道歌で『闊達の空は因果を撥(はら)う、 莽莽蕩蕩(もうもうとうとう)として殃禍(おうか)を招く。(大意:現象には何も実体がないという理屈だけで世を処して行けば、そのメカニズムは明白にはわからないものだが、結局ひどい災いを招くものだ。)』と言っているように、(そんな人は)仏道修行という仏法の中において、善根を断った人であり、釈迦の子孫とはいえない。」

現象は実体がないから、どんな悪いことをしてもいいのだとか、あるいは有を捨て転変して変わり続ける空だけを信じるなどは、水に溺れるのを避けるために猛火に飛び込んでしまうようなものである。

だから証道歌のこの段の冒頭では、「無相は空なく不空もなし、即ち是れ如来の真実相。」とコーションを入れている。

空は第六身体だが、確かなものは何もないとか、現象には実体がないという一方通行の理屈で進む人が出てきがちだが、それで進むとひどい目に遭う。

なるほど、禅問答の代表的テキスト無門関の第一則の趙州狗子に『ワンちゃんに仏性があるのか』と問い、第二則の百丈野狐では、『キツネちゃんが『不昧因果』と断言された途端にキツネのままで大悟した』話が出ているわけだ。

へまをすると、死後500回もキツネの転生をやるはめになるぞ、と。
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醒めること、自分で決めること

2017-12-16 06:05:28 | 只管打坐
◎他人が教えないということ

只管打坐にあっては、醒めてはっきりしていなければならない。無意識に落ちること、昏沈は不可である。

つまり意識的ではあるが、起こってくる想念にかかわってはならず、またぼんやりしてもいけない。

夢とは物思いにふけっている状態だが、只管打坐にあってはそういうのはいけない。

あらゆるできなかったこと、言えなかったこと、悔しかったこと、悲しかったこと、むかつくこと、みじめだったこと、情けなかったこと、恥ずかしかったことが、その静まった時間にふつふつと沸き上がってくることがあるが、それにふけることなく、ほおっておく。

ほっておくのは能動的自発的意志である。それを相手にしないと自ら決める。その妄念、思い、情動が浮き上がった時に誰かに相談して、「それはほっておきなさい」とアドバイスしてもらって、それに無条件に従うのではなく、自ら決める。

こういうのは、無意識のあらゆるごたくを動き回らせるのをやめる心の断捨離。心の意識化である。だが只管打坐にあっては、心を意識化せねばならない。

心を意識化せねばならないと思うこと自体が妄念だからそれも捨てねばならない。

いやいや『心を意識化せねばならないと思うこと自体が妄念だからそれも捨てねばならない。』と思うことが、思いを相手にしていることだからそれもいけない。

などと延々とやってしまったりもする。


意識化とは、夢を見ないということであり、ウパニシャッドの「熟睡中の夢も見ない状態」がこの先にあることが予想される。

夢が消えると思考も想念も消える。背骨を垂直にして、意識を覚めたままで坐るのが只管打坐。
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悟りの説明=クリシュナムルティ

2017-11-24 03:09:44 | 只管打坐
◎悟っている人は少ない

クリシュナムルティの悟りは只管打坐によるもので、身心脱落だが、それは、クンダリーニ・ヨーガの悟りとは全く異なっている。

だが、最初に出てくる只管打坐による悟りについてすら、現代の社会人、学生が想像するのもあまり容易ではないみたいなので、改めてクリシュナムルティの悟りの説明を見てみる。

クリシュナムルティは、以下の文章で、悟りのことを「真の沈黙」「生きた心」と表現している。

『真の沈黙がどういう沈黙であるか、私がそれについて説明するのをあなたは待ちもうけている。そしてそれをきいてから後で、他の沈黙と比較し、解釈し、身につけ、あるいは捨てさろうとしている。

だが、言葉で説明できるのは既知のものであり、既知のものや精神的苦痛、へつらい、これまでにつくり上げたすべてのイメージ、すべての経験を毎日超越し、脳細胞が新しく若く天真爛漫になるように毎日死ぬときにはじめて、既知のものからの自由が存在しうるのである。

しかし、その新しさ、天真爛漫さ、優しさと柔和さは愛を生みださない、それはまた美や沈黙の資質でもない。

真の沈黙が騒音がないという沈黙ではないということは、問題のきっかけを与えるものにすぎない。

それは小さな穴を通り抜けて、巨大な広々とした大海―――測ることのできない時間を超えた状態に達するのと同じである。

だが、意識の全構造を理解し、快楽や悲しみや絶望の意味を把握しなければ、そして脳細胞自体が平静になったことを理解しなければ、そのことを言葉を通じて理解することはできない。

おそらくそのとき、あなたはだれもあなたに解き明かすことのできない、何ものも破壊することのできない秘密を知ることができるであろう。

生きた心は静かな心であり、生きた心は中心も空間も時間ももたない心である。こうした心は無限の広がりを有しており、それは唯一の真理、唯一の真実である。』
(自己変革の方法/クリシュナムーティ/霞ケ関書房P230-231から引用)

このように、悟りとは、生きた心であり、生きた心は静かな心であり、生きた心は中心も空間も時間ももたない心である。

悟りとは、こうした神秘体験であるが、解明不能で、破壊不能なある秘密があるがゆえに、体験とはいえない体験と称せられる。

今、仮にこうした人が、各小学校の学区に一人とか、各商店街に一人とかいれば、こんな時代にはなってはいない。
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悟って後、俗世を生きる

2017-11-01 05:41:21 | 只管打坐
◎人間ドラマを演ずることのできない人

悟っていない俗人が、俗世を生きるのは、大変だし、全身全霊の努力も要求される。だが、悟った人でも、煩悩まみれの俗世を生きるのに耐え得る人とそうでない人がいる。

悟った人から見れば、悟った人も悟っていない人も同じだし、まして悟った人同士の差については、婉曲にしか表現しないので、わかりにくい。

悟って後、俗世を生きるとは、煩悩を生きるということである。禅では、悟って後、煩悩を生きることを聖胎長養とか、悟後の修行という。

禅は、西洋錬金術やチベット密教では、「乾いた道」「近道」などと呼ばれていると思うのだが、それは、悟後の修行があって、クンダリーニ・ヨーガでの悟りに近づくと考えられているのではないかと思った。

20年近く悟後の修行をやった臨済と大燈国師宗峰妙超。宗峰妙超は、9年間も字も読めない乞食の群れに日がな過ごした。ホームレス9年はきついが、インテリで極めて精妙な感受性を持つ覚者がそこで風雨を逃れるすべもなく暮らすのはまして生きづらい。

そういう第三者が見たら全く無駄で非生産的な悟後の修行のことは、本人も言わないし、後世のライターも書かない。だから余計にわかりにくい。

クンダリーニ・ヨーガ系の修行では、俗世的なマターを全ては排除しないまま修行を進めるので、悟り後の修行の必要性は問われないのではないか。

こうして、悟後の修行がいまいちだった道元のことでダンテス・ダイジが残した詩「人間になれなかった道元」がある。

その一部は
『今・吾・ここにて
道元老古仏に深く深く深く
帰依したてまつります

あなたは 人間になろうとして
只管打座の日々を送り
「正法眼蔵」を著述した

あなたの言う正法眼蔵が
人間そのものに他ならぬことを
私は知っている

しかもあなたは
決して人間になれなかった

道元よ
あなたはあまりにも弱すぎて
人間ドラマを愛することはできても
人間ドラマを演ずることはできなかった』
(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジより引用)

いまようやくこの詩の意味がとれた気がする。
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社会的地位獲得から恐怖へ-3

2017-07-15 02:07:50 | 只管打坐
◎只管打坐へ

クリシュナムルティの文脈の続き。

さて思考は恐怖を生み出す。

思考とは記憶に対する反応であるがゆえに、思考とは常に古いものである。だから恐怖もまた古い。古いものであるので、人は自分で恐怖を見つめることができる。

こうしてクリシュナムルティは、社会的地位獲得への原動力が恐怖であり、恐怖の原因が思考と記憶という古く過ぎ去ったものであることに行き着いた。

恐怖をモチベーションとする行動はヒステリックなものであり、こうした偏執的な動機を避け、人としてまともに生きるには、恐怖を持たないことが条件となる。クリシュナムルティは、恐怖を持たない心は、心が完全かつ全体的なものとして現在に生きる場合に実現するとする。

ただし、これを理解するには、『思考と記憶と時間の構造』を知的な理解や言葉による理解でなく、全身全霊で理解せねばならぬという。

思考は物事を断片化するが、恐怖を断片化せず、分析せず、恐怖を恐怖のままに恐怖全体として見る。だが、心が恐怖を全体として見れるのは、一切の思考作用が存在しない時だけである。

こうして平静さと敏感さのうちに理解を深めていき、あなた自身が恐怖そのものになった時恐怖は消え去り、
偏執狂的な社会的地位獲得への努力はやむ。

クリシュナムルティは、知的理解ではない全身全霊の理解、全体的な理解といっているが、この方法論とか心構えの説明を読むと、只管打坐に酷似していることに気がつく人も多いのではないだろうか。

クリシュナムルティは、身心脱落にして恐怖がなくなるといっているようなのだが、身心脱落ではなく、『全身全霊での理解』というような、とりあえずわかるような用語を用いたために、晩年、誰も自分のやったことをわかってくれなかったみたいなことになったのだろうか。
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社会的地位獲得から恐怖へ-2

2017-07-10 05:28:44 | 只管打坐
◎自分の恐怖を見るのを恐れる

クリシュナムルティの語る恐怖の文脈は以下のようなものである。

恐怖には、肉体的恐怖と心理学的恐怖がある。心理学的恐怖を理解できれば肉体的恐怖をも理解できる。

人はみな何かについて恐れを抱いているが抽象化されたものに恐れはなく、常に具体的な何かに恐怖が存在している。職を失う恐怖、食物や金が十分にないという恐怖。家族を失う恐怖など。

人はその恐怖から逃げ出したり、恐怖を隠すために何か観念かイメージを作り出すものだが、それは恐怖をふやすことになっているだけ。

恐怖を生み出す主な原因の一つは、あるがままの自分と直面しようとしないこと。

人は確信のあるものから不確かなものへと変化する可能性をみると恐怖し、慣れたものから慣れないものへと変わる可能性を見ると恐怖する。

人は、将来起こるだろうこと不安に思うのだが、これは将来のことを思考すると、これが恐怖感をもたらす仕組みとなる。思考は恐怖を生み出す張本人。

クリシュナムルティは、恐怖が存在するのは、思考が入って来たときだけであり、だからこそ人は恐怖に直面することができる。

ところが、いつもあるがままの自分を見ないで済ますようにするため、人はたえず他のことで心を一杯にしておきたいと思っている。自分の恐怖を見るのを恐れているからだ。
(続く)
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社会的地位獲得から恐怖へ-1

2017-07-06 05:43:55 | 只管打坐
◎社会での他者侵略

これは、クリシュナムルティの著作中の白眉『自己変革の方法』から。クリシュナムルティの講演集は聴衆のレベルのせいか冗長なことが多く、核心を性急に求める冥想修行者には食い足りないことがままあるが、この本は珍しく濃厚である。

『大抵の人間は社会的地位を確保することによって満足を得ようと願っている。それは、彼らがつまらない無名の人間で終りたくないと思っているからだ。社会というものは、立派な地位を占める人間はきわめて丁重な扱いを受けるが、一方、社会的地位をもたない人間はただ酷使に甘んじなければならないようにつくられている。

それ故、だれでもみな、社会的地位や家庭内の地位を欲し、あるいは神の右側に坐りたいと願っている。

しかも、その地位は他人によって認められなければならない。他人が認めるのでなければ、それは決して地位とはいえないからだ。

人間はいつも演壇についていなければならない。それというのも、われわれの内部にはさまざまな害悪と精神的苦痛がひしめいており、それ故にこそ、偉い人物として外部で認められるのはきわめて愉快なことであるからである。

こうした地位や威信、権力を求め、何らかの方法ですぐれた人間として社会に認められたいと願う切々たる気持は、いいかえれば他人を支配したいという欲求であり、この支配欲が一つの侵略となるのである。

聖者としてより高い地位を求める聖者も、農場で互いくちばしでつっつきあっている鶏と同じように侵略的である。では、何がこのような侵略性を生みだすのだろうか。それは恐怖心ではないだろうか。』
(自己変革の方法 経験を生かして自由を得る法 クリシュナムーティ/著  霞ケ関書房P80-81から引用)

社会における自己実現の願望は、人間の社会性の根源ではあるが、神なき自己実現の願望はしばしば暴走し、カルトへ金と時間をつぎ込んだり、巨大な国家カルト形成への原動力となり戦争を引き起こしたりする。

社会における自己実現の願望を否定することは、現代社会においては、自分の社会性の否定につながるのだが、クリシュナムリティムルティは、そこに敢えて切り込み、社会性の根源が恐怖であるとえぐり出す。
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道元の見る善事悪事

2017-06-08 05:25:11 | 只管打坐
◎小悪から戦争まで

正法眼蔵随聞記から。道元の善悪観と因果応報観がまとめて出ている。

それでもって犬に仏性ありやなしやで因果を昧(くら)ますことはできない。

『夜話で道元が言った。

世間の人は善事をなす時は、他人に知られようと思い、悪いことをする時は、人に知られまいと思うので、この心は仏の心にかなっていないので、なしたところの善事に報酬はなく、人に隠れてするところの悪事には罰があるものだ。

こうした人は、自分の経験を振り返って思うには、「善事をやっても見返りはない。仏法に現世利益はない。」などと思うのである。

こうした考え方は間違った考え方である。特に改めるべきものである。』

善事悪事、善行悪行の根底に流れているのは、洋の東西を問わず、善因善果、悪因悪果で一定している。

ところがこれが、現代にあっては非科学的という理由で退けられている。

逆に「善いことなどせず、隠れて悪いことをしまくっても」引き寄せの法則のとおり行動すれば、金もメリットも自分のところに舞い込むという、奇怪な『引き寄せの法則』が横行するような時代になっている。

出口王仁三郎は、地獄の住人は、自分で働かないで他人のものを取ってきてそれで食べようとする者ばかり、などと評しているが、こうした『引き寄せの法則』の輩は、地獄の住人達であり、こんなことで、現代は地獄が現出したと言われるゆえんである。

本来正しいとされる生き様にそれを証明する手段などないが、そのことをケレン味なく言い切るには、体験とは言えない体験あってのことだが、彼らの言う言葉が地獄的ライフ・スタイルのしみ込んだ人に通用するかは別の問題。

戦争は地獄そのもの。平時がこれほどまでに地獄的でなければ戦争も起こらなかっただろうにと思う。

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無常の修行

2017-06-05 04:32:28 | 只管打坐
◎無常迅速、生死事大

正法眼蔵随聞記第三巻に、どうすれば悟れるでしょうかという質問に対し、道元がまずは、その悟りを求める志が切実であることを求め、次に世間の無常を思うべきだと言う。

道元は,観想法などで理解するようなことでなく、これは眼前の道理だと断言する。

すなわち、他人が死ぬことを考えるのではなく、いつかは自分が老いて死ぬことをまず考えよう。いやこの道理を考えることも間の抜けたことだ。自分の命ですら、明日、急な事故や天災に巻き込まれないともしれないのだから、そんな悠長なことではいけない。

心構えは、無常迅速、生死事大であって、その危機はいつ来るかもしれないからこそ、今日ただ今しかないと心に据えて修行に励まねばならぬと説く。

修行に切実に取り組むのは当然だが、無常であることの切迫した意識は一時は持てても、常時そうなると、これは一種の強迫神経症みたいな感じだが、そうでもないと事は成らないということなのだろう。

そういう意識を持って、体を横にして眠る時間もなく、只管打坐を続けるのだろう。

それでも身心脱落するのは、千人に一人か二人。
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本当の相は、相がないものである

2017-01-20 05:32:58 | 只管打坐
◎只管打坐、随息観も方便

原田雪渓禅師の12月の臘八接心時の講話から。

『禅という一つの窓口ができてから、いまのような只管打坐、あるいは随息観というような言葉が、生まれました。しかし、仏教全体では、「実相は無相なり」といっています。

「本当の相は、相がないものである」ということを、よく承知しておいていただきませんと、大きな間違いを生じます。したがって、私たちがいま参じている只管打坐、随息観という坐禅も、無相に至るまでの方便であります。

只管や随息を消滅させていくように坐がなくなるように坐ってください。』
(THE 禅/原田雪渓/柏樹社P127から引用)

只管打坐の機能と位置づけについて、「実相は無相なり」といきなりストレートをど真ん中に投げ込んできている。しかしながら只管打坐も随息観も方便であるから、方便はなくなるように坐って下さいと悟後の態度と方向性までアドバイスしてくれている。

この辺が、わかったようなわからないような説明をする凡俗の師匠とは全く異なる面目の禅師だと思う。

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ただ、そのままに見て。そのままに聞け。

2016-12-14 05:34:50 | 只管打坐
◎他人の教えは大いに人を誤らせる

関ケ原の宿屋の親爺だった至道無難禅師の即心記より
『教えは大いに人を誤らせる。それを習うとなお誤りを犯す。

ただ、そのままに見て。そのままに聞け。

ありのままにものを見れば、見る我はない。

ありのままにものを聞けば、聞く我はない。

見ず聞かず思わず知らぬ思い出を
何とてをのが他になすらむ
(見ず聞かず思わず知らぬ思い出を
どうして自分のこととせず他のこととしてしまうのだろうか)』

見る自分もなく、聞く自分もないというのは十牛図でいえば、牛が消えたあたりから。

この和歌の“思ひ出”というのは、ニルヴァーナを知らぬ人間から見た窮極の体験ぐらいの意味だろうか。

ただありのままに見る修練、それが至道無難のいう坐禅である。何度も何度もありのままに見直す聞き直す

只管打坐の座法に見直す聞き直すというポーズはないが、そういうものだと思う。
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坐禅儀での禅の効果

2016-10-23 06:12:08 | 只管打坐
◎心は爽やかに正念が明らかに

結跏趺坐あるいは半跏趺坐での禅に効果はあるのか。
効果を求めて坐るのは間違いだが、敢えて坐禅の効果を掲載して、新規の入門者を誘っている。

道元のではない長蘆宗賾の坐禅儀から禅の効果を説く部分。

【大意】
『自ずから身体は軽く安らかになり、心は爽やかに、
正念(無念=念がないこと)が明らかになってくる。このような正法の味わいが精神を助け、おちついて、安らかで楽しくなる。

もし本当の自分にめざめれば、龍が水を得たとか、虎が山に遊んでいるようだと謂うべきだ。
である。よしんば、本当の自分にめざめなくても、風の吹く方向に火を放つようなもので、努力は少しでよい。どこまでも自分が納得することを心懸けよ、決してその努力が君をだますことはない。』

【書き下し】
『若し善く此の意を得れば、則ち自然に四大軽安に、精神 爽利に正念分明にして、法味 神を資け、寂然として清楽ならん。若し已に発明するところ有らば、謂うべし、龍の水を得るが如く、虎の山に靠るに似たり。

若し未だ発明するところ有らざるも、亦、乃ち風に因って火を吹くが如く、力を用いること多からず。但だ肯心を弁ぜよ。必ず相い賺(いつわ)らず。』

肉体はさわやかに快適になり、気分爽快、大悟すれば龍が川で遊んだり虎が山で遊ぶように、思いのままになると書いているが、健康で気分爽快なだけでは人生上の諸問題は何も解決しない。また自由気ままに生きるのが如何に周辺に迷惑をかけるのかも気にしない。

かといって、坐禅してもなにも変わらない、何も起きないと宣伝するわけにもいかないので、とりあえずこう言ってみるか、という雰囲気がある。

唐代の禅僧普化は、禅マスターの臨済と一緒に檀家でのごちそうに招かれて、そのテーブルを蹴り倒した。

こんな「効果」を語れば即座に普化に破り捨てられるが、それでもそうせざるを得ない側面はある。


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原田雪渓の身心脱落の説明

2016-08-15 03:35:32 | 只管打坐
◎自分とものとがひとつになっている状態を自分で知る

道元の正法眼蔵でも身心脱落についてすっきり説明しているところはない。そこで曹洞宗の原田雪渓禅師の身心脱落の説明。

『ですから、眼耳鼻舌身意の六つの働きを、本当に働きのままにまかせておくことのできる状態というのが、いちばん人として安心であり、平和の状態であります。

坐禅のひとつの方法に「ひたすらに坐る」、すなわち「只管打坐」という方法があります。只管打坐という坐禅は、いまご説明いたしましたように、六根―――眼耳鼻舌身意の働きを、自分の考えをまじえずに、まったくその働きのままにまかしている。見るもの、聞くもの、考えること、それを一切相手にせず、邪魔にせずして、凛として坐る。

それを只管打坐の坐禅といいます。

そういう六根のままにまかして、それを続けることによって、自分とものとがひとつになっている状態を自分で知ることができます。それを「身心脱落」と呼んでおります。』
(THE・膳/原田雪渓/柏樹社P69-70から引用)

普勧坐禅儀で、只管打坐の坐法はわかるが、身心脱落のイメージは初心者、門外漢には形成しにくいものだ。只管打坐はイメージ実現の観想法ではないが、ある程度はわかるように教えてもらわないとね。

ネットで道元の映画がyoutubeで置いてあったが、それに身心脱落シーンがあって、空中に昇っていくのだが、それで只管打坐をイメージするのでは大いに誤ろうというものだ。
こういう文章はありがたい。
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禅に生きる日本?と禅が盛んなアメリカ

2016-05-27 05:37:11 | 只管打坐
◎器はあるが魂入らず

アメリカでの仏教伝道は、最初は西本願寺が隆盛だったが、後に臨済、曹洞の禅宗が盛り返し、1980年代には、大きい禅道場は会員に入るのも難しいほどで、小さい3、4人のグループあちこちにあって、そういうのが百日とか二百日の参籠をやっていて、さながら中国の唐代が禅の黄金時代だったが、それと同じような禅フィーヴァーになっていたらしい。

アメリカには何万人も日本人がいたが、師家によれば、当時も禅堂を訪れる日本人はほとんどいなくて、外人だけだったという。

そうしたアメリカのZENムーブメントの結実の一つがケン・ウィルバーだが、それだけの社会的うねりになっていれば、大悟徹底した者も相当数出ているのではないか。ケン・ウィルバーだって、結構な年だし、若い人の中にも当然覚者が出ているだろう。そういうのがほとんど日本に伝わってこないのは私の不勉強のせいだろうか、日本の禅宗の姿勢の問題なのか。

いずれにしても、アメリカで相当フランクに、どの師家は本物偽物から始まって、悟りそのものの点検と議論が行われていたからには、日本より、相当に禅そのものの研究が進んでいるのだろう思う。

1980年代は、日本では、禅ブームのぜの字もなく、いわゆるOSHOバグワンなどのニューエイジ系の宗教が盛んになっていた時代。

日本人は社会全体として禅に生きているから、その器はあるが、それに冥想という命を吹き込むことができていない。そうして2016年になっている。
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