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旅と山歩き・街歩きの記録です 今を語りながら過去も振り返って

信仰の山だった 木曽御嶽山:長野県木曽町

2012-07-06 12:09:12 | 思いでの写真館

 池の畔に白装束(白衣・びゃくえ)に身を包んだ本格派、そこまでではないが殆どの登山者は輪袈裟を首にかけ金剛杖を手に持っている。撮影地は木曽御嶽山三の池畔である。

 昭和30年夏、町の御嶽講(講社と呼ぶのが正しいようだが)の世話役に誘われての御嶽登山であった。先達に導かれた3~40名の集団であった。御嶽山の登山者は全国各地、中部・関西圏が多かったようだがそれぞれ講を組んで集団での登山だった。木曽の御嶽山は全くの信仰の山として存在していたので、ロープウエーがかけられ観光地に仲間入りしている現在とは異なり、夏最盛期は普通の登山客は宿を取るのも大変でかなり少なかったのであろう事は推測出来る。三の池にも鳥居が建てられていた。信仰の対象なのだ。



 名古屋駅から夜行列車で中央西線木曽福島駅まで行き、バスか徒歩かは記憶していないが黒澤登山口迄移動し、先ずは祈り(里宮?霊神碑?)を捧げ行列をなして登り始めた。随所にお祈りの対象があり、祈祷を捧げながらの登山であったので、初日何処まで行ったかの記憶はない。今になって思い出すのは多分行者の内の一人(先達?)であったと思うが、祈りの最中神がかり的行動(祈祷の途中から神が乗り移り一体化する)を取っていた。(これは御座と称し神がかりによる病気治療や卜占の信仰で御嶽信仰独自の霊魂観によるもの:この項のため調べた結果知り得たのだが)

 さらにこの信仰の対象は「諸神仏(大江権現、金剛童子、奥の院など)を祀る中腹では講社で祀る崇拝対象を選択して巡り、霊神を祀る山麓では講社に関係する霊神場のみ、個別的な巡礼が行われる。」とあり、登山の途中何度も祈祷のための時間を割いていた。

 2日目頂上直下の小屋泊まりの筈だったが、信仰と関係なく参加していた若者数名で、祈祷しながら時間をかけて登ってくる本隊を後に、三の池・二の池・万年雪と巡っていた。三の池と二の池の間の賽の河原で記念写真を撮っていたようだが、輪袈裟と金剛杖は身に付けていたようだ。ちなみに、木製の六角の杖は、各合目の小屋で焼き印を押してもらっていた。



 賽の河原辺りから頂上は見えていたのであろうか、見上げると空に突き出ているのは頂上剣ヶ峰であろうか、尾根には残雪も見えている。三千メートルを超える高峰なのだ!



 九合目の小屋で泊まり翌朝のご来光を拝み、頂上下のお鉢巡りにも行ったようだ。火山特有の岩山とガレ場が続いていた。



 王滝口へ向かい下山し、登山口の小屋で納めの会食をしたはずだ。もっとも講社は中高年中心であったから若者はかなり速い速度で下りているので、あちこち寄り道をしながら下ってもかなり待たされた。最後の祈祷の後、上松駅より蒸気機関車にひかれた列車で帰路についた。

 信仰の山としての御嶽講社に同行したので夜行+二泊三日の旅となったが、ロープウエーの架けられた現在、日帰りも可能となっている。それでは途中の巡礼は出来ないので、一合目から地道に足で登って聖地を巡るのが御嶽山ならではの楽しみになるのでは・・・。



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