北へ南へ、東へ西へ

旅と山歩き・街歩きの記録です 今を語りながら過去も振り返って

移転ご挨拶

plalaからgooへ移転してほぼ修正が終わりジャンル・カテゴリーが設定出来ました。タグ付け法が見つからないので、県名・市町村名、東京都は区市町村名で、その他寺社・名所などは固有名詞でサイト内検索して下さい。 サイト内リンク先、アドレスがplalaのpubのままgooに変更していないのでリンク切れしていました。リンク箇所を探して変更するのはかなり時間がかかりそうです。

かなり前の画像ですが・・・ 軽井沢プリンスホテルスキー場:長野県軽井沢町

2015-02-18 14:21:41 | 思いでの写真館

 ゲレンデ脇にコテージが迫っています。というよりゲレンデ内にコテージがあるようなもの、子供連れには最適なスキー場です。

 冬場はスキーの話題が主となっていますが、近年は殆ど越後湯沢を中心とした上越に限られてしまい変化が少ないのです。軽井沢は2007年に一度紹介していますが、110フィルムを紙焼きした写真が見つかったので、スキャンして載せました。昨年溜まっていた未整理のネガをCDに焼き込んだ分を整理していて、35mmフィルムにも同時期の画像がありました。1984年ですから31年前のフィルムになります。当然退色してみる影もありませんでしたが、デジタルにしたおかげで画質修正を加えてある程度見られる物になりました。幼い子供3人を連れてですから、殆ど中央に子供の姿がありますが、アクセントと思えばそれなりに・・・。

 人工雪を主体としていますので、限られたコース以外は滑走出来ません。何通りかに分けたコースが樹間に散っています。ほんの少しの急斜面以外は中級者が十分楽しめます。最近は全く訪れていないので、今でもその当時と変わりないかは定かでありませんが。もっとも、高低差も広さも当時と同じはずですから、大幅には変更出来ないでしょう。

 ホテル東館前がメインゲレンデで、リフトもそこから乗ります。

 その頃は正月の雪不足で、人工雪の軽井沢には数年通いましたが、人気があったのか大勢のスキー客が押し寄せ、西館からのリフトとコース、日帰り客専用駐車場と山頂へのリフトも増設されました。末っ子が骨折したのもここでした。懐かしい思い出です。


記憶を辿って 志賀草津道路・鬼押しハイウエー:長野県山ノ内町・軽井沢町/群馬県草津町・妻恋村

2014-07-30 16:20:51 | 思いでの写真館

 小さな池・沼地が沢山散らばっています。四十八池の湿原です。志賀高原熊ノ湯・硯川の道路隔てて冬はゲレンデとなる前山を登り、志賀山・大沼池を目指して行くと現れます。やや色褪せしているのは1984年(昭和59年)8月、今から30年ほど前のフィルムからスキャンしていますから、修正を加えても色落ちは補正しきれません。

 夏休みの旅の予定を立てようとしていたのです。が、自覚症状は全くないのに健診で胃に異常を指摘され大事に至る前に養生することにして、夏旅は見送りになってしまいました。旅blogの“ネタ”も乏しくなっていたのが補充が効かなくなってしまい過去の写真を拾い集めていましたが、子供の幼い頃の旅では家族中心の写真ばかりで景色はほとんどありません。中心に子供が写っているのです・・・四十八池にも・・・。

 この時の旅の行程がはっきりしません。記憶はすでに過去の中に消えているのです。それでも写真の順序から記憶を辿ってみました。最初に「鬼押出し園」での記念写真がありました。


 真ん中に家族が陣取っていて風景写真にはなりませんので、大幅にぼかしを入れてみました。写真としては落第!!全く手つかずだったphotoshopの機能を少しずつ試してみるのに良い機会となりそうです。

 鬼押ハイウェーを通って草津に向かっています。草津天狗山ゲレンデ前のロッジ風ホテルに泊まったと記憶が蘇って来ました。(記憶を辿るのはぼけ防止の訓練に良い!!!)渋峠を越え志賀草津道路を通り熊ノ湯へ、四十八池から大沼池には行かず志賀山を登っているのです。そして草津への帰り道に白根山湯釜を背景に記念写真を撮っています。

 鬼押しの次のフィルムにインドアプールの画像があり、時間配分からみて草津で連泊したと考えると納得出来ます。そして湯釜の後最後の方に白糸の滝の画像がありますから、帰りも軽井沢へ向かったのでしょう。

 うまく写真が加工出来れば、blog多少の延命が出来そうです。・・・思い出の写真ばかりになりますが・・・。


あれから10年! 高野山金剛峯寺:和歌山県高野町

2014-06-24 17:44:30 | 思いでの写真館

 白砂に石組み、見事な枯山水の石庭です(重ね言葉??)。ここは高野山金剛峯寺蟠龍庭(ばんりゅうてい)です。

 掲載予定の画像のSDが見当たらず1週間blog upが停滞しました。そこで一考!先日溜まっていた未整理のネガフィルム、退色も進んでいて近くのミニラボの期間限定CDへの焼き込み格安セールを利用しておよそ100本デジタル化しました。ほとんどはかわいい盛りの子供を中心にした家族写真で、旅のblogに利用出来るのはごく僅かです。穴埋めにならないかとその中から枯山水の画像を何枚かみつけました。ところが2004年GW前後とは分かっていても、愛知、堺、高野山、橿原神宮、松阪と移動していて庭の名前も場所も分かりません。googleで「枯山水」と検索し画像一覧からやっと類似画像を見つけ高野山と確定出来ました。

 ところが高野山の写真のネガの大半は露光していなくて、金剛峯寺、塔頭寺院のいくつかを巡ったのは記憶にあるのですが画像はなく、おまけに唯一残っていた写真のこの庭には覚えがないのです。

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 高野山のHPでは「この石庭では、雲海の中で向かって左に雄、向かって右に雌の一対の龍が向かい合い、奥殿を守っているように表現されています。」とあるのですが、奥殿側は立ち入れないので横から眺めているのでどれがどれやら分かりません。


 多分回廊の上から撮っているはずですが、回廊越しの画像が多いので奥殿への進入路と回遊路が全く記憶にないのです!


 そして回廊から裏庭も撮っています。


 山門ではなく正門と記されています。駐車場から来ると最初に巡り会うようですが・・・。


 GWのただ中で人出も多く高野山に着くまではそこそこの流れでしたが、山内に入ってからは停滞してしまって早めに車を止めて金堂までかなりの距離を歩いた・・・と、記録を纏めながらうっすらと思い出しています。!!!金堂入り口の人の列が長かったので、娘たちとの待ち合わせもあり早々に山を下った・・・と思いだしてきました。


思い出一杯! 田園調布せせらぎ公園:大田区

2012-12-15 11:13:45 | 思いでの写真館

 かなり激しい雨の中出かけて撮影しています。田園調布せせらぎ公園休憩所の外観です。

 正月前の一ヶ月、冬のスキーシーズンインに備えて毎年この時期のお出かけは殆どありません。旅のブログの端境期、それでも継続は命・・・未掲載と過去の記録で繋ぎます。・・・毎年のことですが・・・

 9月22日23日、久し振りの連休でしたので、思いっきりテニス・・・予定通りには行きません・・・23日は朝から土砂降りの雨、渋々起きたのですが尻軽夫婦ただでは済みません、雨が降っても散策くらいは出来るでしょうとやって来たのでした。テニス繋がり、この公園は2002年?閉鎖迄の20年間、青春の?後半期、いわば4半世紀を過ごした場所なのです。東横線多摩川駅の出口が公園の入り口です。



 かっての遊園地の跡地に作られた「多摩川園ラケットクラブ」ですが、その象徴の多摩川園駅も多摩川駅と改名され、目蒲線が目黒線と切り離され多摩川線の始発駅となっています。テニスクラブの南約三分の二が大田区が買い取り公園となっていますが、クラブハウスは休憩所として、テニスコートはフェンスはそのままにコート設備のポールやラインは外されたものの広々と運動広場に、一部は芝生が植えられ原っぱになって解放されています。



 休憩所から駅方向を眺めていますが、ホームが手に取れる位置なのです。食堂兼サロンであった室内は今は椅子が置かれ休憩所となって自由に出入りが出来ますが、バリアフリーの通路の新設とネットの張られていないこと以外は当時のままで感慨ひとしおでした。

 

 



 テニスクラブの崖の植栽などは遊園地当時のまま残されていて、階段の周囲は今も変わりはありません。



 段々畑と呼んでいた崖上のコートも同じく広場となっていました。雷に打たれて半分折れてしまった桜も健在で、季節には東屋やベンチでのお花見も楽しめそうです。



 階段とは別方向の小道には流れがあり、小さな滝となっています。



 坂をつづら折れに下ると小さいながらも滝があり池が・・・雨が激しく窪地の滝は何が何やら・・・。



 池から出た水は流れとなって崖地に沿って続いています。季節には崖一杯花が咲きます。・・・筈ですが・・・。

 

  古い写真ではないのですがタグは思い出の写真館にしました。yukimiさんのblogにも度々登場します。


お寺とお社を巡って楽しい? 金閣寺&神社仏閣etc.:京都府京都市

2012-07-21 16:04:53 | 思いでの写真館

 池(鏡湖池(きょうこち))に姿を写しているのは金閣寺である。もちろん通称だが正式名称を鹿苑寺といい、相国寺の塔頭寺院の一つであり画像の舎利殿「金閣」により金閣寺と呼ばれることが多い。池の名に見るように金色に光る姿を水に映して眺める池泉回遊式庭園の設えはニクイ演出だが、昭和30年の中学校の修学旅行3日間殆ど雨が降り続き歩いていた最中の記憶はほとんど無い。昭和25年放火により消失したため当初「銀閣寺」が予定に入っていたが、残されていた写真は「金閣寺」であった。昭和30年再建竣工し同年10月10日に落慶法要が行われたとあったので 、ぎりぎり間に合ったようだ。ということは、竣工直後で金箔は真っさら、さぞ金色に輝きまぶしい程であったろう・・・雨の中急ぎ足での移動で、それどころでなかったことは想像に・・・!

 当時の我が中学校、1クラス50余名で9クラス、1学年400名の生徒が同時に移動参詣・見学していたのであるから、如何様な状態であったのであろうか。中に入ってしまっていたから想像出来ないが、大勢での移動ながら京都の標準的“名所”は網羅しているようだ。先ずは清水寺、舞台ではなく山門が写っていた。



 平安神宮は最近訪れているので写真を見比べてみた。(2008年の画像



 東別院と二条城、金閣寺程には記憶していない!!



 神社仏閣や自然の山川は何時の時代に写したものかは画像を見ても判断出来ることが少ない。伝統を受け継ぎ保護されているものは変化させないことがベストなのだ。自然も大災害でもない限り姿を変えない。修学旅行の最後は人工物「国鉄京都駅」に出会った。さすがに大都市京都の顔、60年前でもコンクリート造りの立派なもので、我がふる里のいまだに鉄道最古を誇る木造跨線橋と付属する木造駅舎と比較にならない。



 が、時代の流れは古都京都の顔も超!現代的な古都のノスタルジーなど全く感じさせないない造形に成り下がっているようだ。最近2度の来訪の時にも写真は撮っていないので、京都の現在の顔をちょっと拝借した。

 中学時代のアルバムを纏めてみたが、入学後の運動会から修学旅行まで掲載した以外には学校祭の演劇が2回分と展覧会、クラブ活動の記念写真くらいしか無かった。それ程写真は高価な貴重品だったのであろうか?中学の修学旅行ではカメラを持参していたのはごく少数だったように記憶している・・・おぼろげだが・・・。その2年半後の高校の修学旅行では如何様だったかは記憶がないが、アルバムに貼られている写真の枚数は少ない。さらに3年後の大学に入っての北海道旅行の時は同行者全員カメラは持参していて、(カラーフィルムを持参していたのは地方出身のボンボン3代目だけだったが)白老のアイヌで会った高校生の集団も多くはカメラを持参していたのが写真に残されている。高度成長期とはこんな所にも現れているのであろう!

 現在では、小型のデジカメからケータイに至るまで写真を撮る機材は常に身近にある。そしてプリントしない限りはコストは0に近いので、思う存分シャッターを切ることが出来、おかげで傑作も生まれやすい環境にある。写真好きには良い時代だが、構図を決めてチャンスを狙うには、やはり動きとアングルを求めて位置決めをし光の最良の具合を待つ時間が必要なことに変わりはない。せっかちに動き回っている最近では、落ち着いて三脚を構えている余裕がない。シャッターを切る回数も極端に減っているように思われる。依って傑作が生まれる訳もなく、blogネタにも窮することとなっている!!!


物価は十倍に? 猿沢の池&奈良公園:奈良県奈良市

2012-07-19 16:00:47 | 思いでの写真館

 昭和30年、中学校の修学旅行東大寺鐘楼の写真に写っていた番傘から泊まった宿「うを佐」旅館が猿沢の池畔にあったことを思い出した。猿沢の池越しに興福寺の五重塔を撮っているのは旅館の部屋か玄関前からの撮影であろう。

 小学校の修学旅行の時も妙高温泉でのスキー行きの時も、この時中学校の修学旅行でも“米”を持参し宿へ預けた記憶がある。米の配給と外食券制度が厳密に行われていたのであろう。その後高校へ入ってからの山行きやスキー宿ではすでに米は持参していなかったので、食管制度は続いていたが米の流通に余裕が出て来た時期であり、戦後の終わりの一歩前だったといえよう。

 奈良公園の鹿は今も昔も変わりなく来訪者にえさを求めて近づいてくる。

 

 注目したのは「わらびもち」の値段「四十円」である。今も奈良公園の茶店では名物として食べることが出来るが、同じ茶屋と思われる店では「五百円」であったと、とあるblogの探訪記にあった。単純に比べて60年前から現在では物価は10倍強で推移している。実感ではあるが・・・。

 そして大阪に移動しているが、何故か「大阪城」の画像しかないのはどうして・・・??



やはり大きかった 大仏殿:奈良県奈良市

2012-07-17 14:31:24 | 思いでの写真館

 東大寺大仏殿、奈良では先ず第一に訪れる場所、昭和30年秋、中学校の修学旅行は当時毎年の決めで奈良・大阪・京都の2泊3日であった。少し高い位置からの撮影のようだから中門の階段上から撮っている。当時は蛇腹式ブローニー版カメラコニカシックス標準レンズでは全体は入りきらなかったようだ。(余談だが標準レンズが何mmだったのか調べようと思い「コニカシックス」を検索してみて、記憶外の事実が分かった。正式には「コニカパール」の名称の付いた蛇腹式ブローニー版カメラでⅠ・Ⅱ・Ⅲ型があり、使用していたのはⅡ型のようだ)

 修学旅行初日は地元から名鉄で名古屋へ出て、近鉄名古屋線で伊勢中川まで行き大阪線に乗り換え(当時名古屋線は狭軌大阪線は標準軌であったので、時刻表では一本でも車両は乗り換えた)さらに大和八木駅で橿原線に乗り換え奈良へ向かっている・・・筈だが・・・記憶では奈良電鉄線だった気がするが当時の奈良電鉄(現近鉄京都線)は奈良京都間のみの運行だから思い違い???それとも翌日の京都行きが奈良電鉄線だった???大阪と京都どちらが先だったか思い出せない。・・・本論ではどうでも良いことだが、たった55年程しか経っていないが記憶は印象の深いものが断片的にしか残っていないようだ。

 大仏殿の大きさに驚いたのか側面・背面も写していた。

 大仏殿前の八角灯籠、モノクロでも質感が分かる。



 その後鐘楼に向かっているが、カッパを着たり傘を差したり雨が降っていたようだ。その為かレンズに雨粒がかかっていたようで、画面に濁りがあった。



 雨傘に旅館の名が書かれており宿舎が「うを佐旅館」であったことを鮮明に思い出した。アルバムを見ながら懐古しているが、自分史などの大それた目論見をしている訳ではない。検証しながら掲載することで、思いこみ違いのを確認しているに過ぎない。それにつけても社会の移り変わりは想像以上のものがあり、あらためて懐古でない回顧によりこれからの残された少ない時間の過ごし方を考えなければならない年齢にさしかかりつつあるようだ・・・。


遊び?慰問? 神島:三重県鳥羽市

2012-07-09 16:34:19 | 思いでの写真館

 港には平坦地は少なく背後の山の斜面に民家がへばりついている。周囲4km足らずの小島だが現在も500名程の島民が暮らしている。伊勢湾口・伊良湖水道に浮かぶ離島「神島」である。

 昭和30年夏、中学校で組織していた「郵便友の会(PFC)」での神島灯台慰問で島を訪れている。(現地中学生との交歓会も予定されていた記憶があるが???だ)・・・半分物見遊山の旅??の様なもの・・・。鳥羽から市営の定期船はあるが、愛知県の渥美半島伊良湖岬からの方が距離的には断然近い。(最近定期航路が開かれたようで、渥美半島から短時間で行かれるようになったようだが・・・。)この時は灯台慰問とあって、武豊港に常駐する海上保安庁の港内艇「きよしも」が提供され、半田港より直接島を訪れていた。



 三島由紀夫の小説『潮騒』に「歌島」として登場している。訪れた時にはすでに作品を読んでいたので(付け焼き刃だが)、情景描写が実に的確にされていることに驚きを感じたことは記憶にある。当時の灯台の電源は自家発電の筈だが、現在は水も電気も鳥羽市方面から海中を潜って提供されている。灯台と参加者の記念写真だが、外観は変わらないが鋼鉄製の灯台は今は鉄筋コンクリート造りに建て替えられている。



 僅かに足下にのぞいている瓦屋根の建物は職員宿舎や事務所であろうか、各地の灯台が次々と無人化されているので神島灯台も無人の筈、現在何に使われているかは分からないがweb上で見ると存在しているようだ。小説『潮騒』では監的哨跡が重要な舞台となっていたが、実際は廃墟に近いものだった。ちなみに映画も見ているが、年代から見ると久保明・青山京子の第一作の筈だが???

 余談だが進学した高校は「郵便友の会(PFC)」活動の発足に関わった中心的な存在だったが、何かの不祥事で活動停止させられていた。同じ中学の仲間や同級生を誘い、校長に直談判の末中断していた活動を再開することが出来た。高校三年間同好会として生徒会にも認めてもらい、卒業後も下級生が運営を継続していた。「郵便友の会(PFC)」最盛期には全国の中・高生数万か数十万か数字ははっきりしないが大きな組織として活動していた。現在は「青少年ペンフレンドクラブ」として郵便事業株式会社の運営の元活動は継続されている。


信仰の山だった 木曽御嶽山:長野県木曽町

2012-07-06 12:09:12 | 思いでの写真館

 池の畔に白装束(白衣・びゃくえ)に身を包んだ本格派、そこまでではないが殆どの登山者は輪袈裟を首にかけ金剛杖を手に持っている。撮影地は木曽御嶽山三の池畔である。

 昭和30年夏、町の御嶽講(講社と呼ぶのが正しいようだが)の世話役に誘われての御嶽登山であった。先達に導かれた3~40名の集団であった。御嶽山の登山者は全国各地、中部・関西圏が多かったようだがそれぞれ講を組んで集団での登山だった。木曽の御嶽山は全くの信仰の山として存在していたので、ロープウエーがかけられ観光地に仲間入りしている現在とは異なり、夏最盛期は普通の登山客は宿を取るのも大変でかなり少なかったのであろう事は推測出来る。三の池にも鳥居が建てられていた。信仰の対象なのだ。



 名古屋駅から夜行列車で中央西線木曽福島駅まで行き、バスか徒歩かは記憶していないが黒澤登山口迄移動し、先ずは祈り(里宮?霊神碑?)を捧げ行列をなして登り始めた。随所にお祈りの対象があり、祈祷を捧げながらの登山であったので、初日何処まで行ったかの記憶はない。今になって思い出すのは多分行者の内の一人(先達?)であったと思うが、祈りの最中神がかり的行動(祈祷の途中から神が乗り移り一体化する)を取っていた。(これは御座と称し神がかりによる病気治療や卜占の信仰で御嶽信仰独自の霊魂観によるもの:この項のため調べた結果知り得たのだが)

 さらにこの信仰の対象は「諸神仏(大江権現、金剛童子、奥の院など)を祀る中腹では講社で祀る崇拝対象を選択して巡り、霊神を祀る山麓では講社に関係する霊神場のみ、個別的な巡礼が行われる。」とあり、登山の途中何度も祈祷のための時間を割いていた。

 2日目頂上直下の小屋泊まりの筈だったが、信仰と関係なく参加していた若者数名で、祈祷しながら時間をかけて登ってくる本隊を後に、三の池・二の池・万年雪と巡っていた。三の池と二の池の間の賽の河原で記念写真を撮っていたようだが、輪袈裟と金剛杖は身に付けていたようだ。ちなみに、木製の六角の杖は、各合目の小屋で焼き印を押してもらっていた。



 賽の河原辺りから頂上は見えていたのであろうか、見上げると空に突き出ているのは頂上剣ヶ峰であろうか、尾根には残雪も見えている。三千メートルを超える高峰なのだ!



 九合目の小屋で泊まり翌朝のご来光を拝み、頂上下のお鉢巡りにも行ったようだ。火山特有の岩山とガレ場が続いていた。



 王滝口へ向かい下山し、登山口の小屋で納めの会食をしたはずだ。もっとも講社は中高年中心であったから若者はかなり速い速度で下りているので、あちこち寄り道をしながら下ってもかなり待たされた。最後の祈祷の後、上松駅より蒸気機関車にひかれた列車で帰路についた。

 信仰の山としての御嶽講社に同行したので夜行+二泊三日の旅となったが、ロープウエーの架けられた現在、日帰りも可能となっている。それでは途中の巡礼は出来ないので、一合目から地道に足で登って聖地を巡るのが御嶽山ならではの楽しみになるのでは・・・。


思い出は藪の中 根の上高原:岐阜県中津川市

2012-07-04 13:43:56 | 思いでの写真館

 昨年5月末立ち寄った「根の上高原」(2012年6月blogに掲載)原点は中学時代のキャンプの思い出にあった。アルバムに貼ってある写真は殆ど人物を撮った記念写真だから、風景は添え物に過ぎない。それでも背景の景色から雰囲気は窺うことが出来る。「保古の湖」のボート小屋、当時はバラックの質素な物だったようだ。

 この後か先ボートに乗っているが、画像は人物のアップだけで周囲の景色は殆ど写っていない。昭和29年中学2年生の夏、担任の教師に連れられて男女混成10数名で「根の上高原」にキャンプに行くことになった。何故キャンプにこのメンバーで行くことになったかその時の計画の由来は記憶にない。唯一学校行事と関係なく先生の個人的計画であったことだけは確かだった。テント前の記念撮影は男子だけ、もちろん女子とは別テントだったからか??遠く丘の上は管理事務所やロッジ食堂があったのであろうか?最終日自炊に飽きて炊飯を放棄し、小屋の食堂へ外食に出かけたからその場所かもしれないが定かではない!



 まだ中学生、当時小遣いはさほど多くはないはず、モノクロといえども高価なフィルムをふんだんに使えるはずもなく、写真の数は少ない。笹原というより藪の中でのキャンプ、じっくり構えて記念撮影している。立木の向こうの山は恵那山か前山であろう。



 朝昼晩の食事の支度と片づけに追われ自由な時間が少なかったこと、テント内の寝心地の悪さだけが記憶に残っている。この後テント泊まりのキャンプはしていないのは、この時の印象の悪さのせいに間違いない!