漫筆日記・「噂と樽」

寝言のような、アクビのような・・・

犬医者の事・④

2009年09月17日 | Weblog
きのうの続き。

「お犬様治療御用達」と看板を出したかどうかはともかく、
江戸城に出入りするまでになった平助は時の人、江戸第一の有名人。

尚以下の文中、
「薨去(こうきょ)」は、身分ある人が亡くなること。
「抹(まっ)して」は、すりつぶして。
  
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「今川平助、犬治療の名医なり」とて、
その名、江戸の町にあふれ、もとより、犬治療の医者、他になし。

たまたま、思いつく者あれども、
その治療、効なきゆえに、自ら平助を頼む始末にて、

昼夜の治療、寸時のひまなく、
しばらくの間に、富裕の身となれり。

将軍・綱吉公、薨去の後、
「生類憐みの令」御取り止めとなりて、

犬医師も無用に成りし時、
ある人、平助にこの調剤の秘密を問わば、

彼が云う、

「犬は大熱性なる故に、
 石膏、人尿、小豆を抹して用いしなり、

 この事、古伝に有るにてなく、
 ふと思い寄りしが、不思議に的中せり」 と、笑えり。

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全盛の平助だが、ついに「犬医者バブル」のはじける時がきた。

「生類憐みの令」を発して二十年あまり、
その推進者であった綱吉が、
宝永六年(1709)、ついに六十四歳でこの世を去ったのだ。

後世、評判の悪い「生類憐みの令」だが、
その初めから、評判が悪かったわけではない。

「生類憐みの令」が出された最初の主旨は、

「動けなくなった老人を虐待したり、
 病や老いで、動けなくなった牛や馬を棄(す)ててはならぬ」と云うモノだった。

綱吉は彼なりの良心を以って、
人臣の間に、「生類を憐れむ心」を、広めようと意図したのである。

しかし、次々に出される一連の御触れは、
次第に変形してゆき、後世に伝わるような異常な形の法令として施行された。

綱吉の跡を継ぎ、
六代将軍となった徳川家宣(いえのぶ)が、
まず、最初にしたのは、この「生類憐れみの令」を廃止することだった。

この事は、
家宣とその側近の新井白石たちが、
この令の施行状況を見て、「悪法」と断じていたからでもあろうし、
また、
武家、町人を問わず、世の人々すべてが、
この令に迷惑し、疎(うと)ましく思っていたからこその廃止でもあったろう。



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