明源寺ブログ

浄土真宗本願寺派

兵戈無用(ひょうがむよう)

2013-01-29 01:30:45 | Weblog
浄土三部経の一つ『仏説無量寿経』の下巻に「兵戈無用」(浄土真宗聖典註釈版73頁)という言葉がある。「兵戈無用」は、国・人民を納めるのに軍隊・武器を用いる必要がないという意味であろう。誰しもが願う理想の国である。しかし、この言葉の前に次のような言葉が書かれている。「仏の遊覆(ゆうり)したまふところ国邑(こくゆう)・丘聚(くじゅ)・化(け)を蒙(こうむ)らざるはなし。天下和順し日月清明(にちがつしょうみょう)なり。(略)国豊かに民(たみ)安(やす)くして、兵戈(ひょうが)無もちいるはなし」と続く。つまり、仏の教化(きょうけ)が行き届いていたならばという前提である。仏を信じる人々、つまり仏教徒が仏の教えを守っていたならばという意味であろう。そんな国が、歴史上あったのであろうか?存在したのである。古代インドおいて、初めてインドを統一したマウリア朝のアショカ王(阿育王)の時代である。
アショカ王は、インド統一戦争における悲惨な現実を深く懺悔(ざんげ)し、お釈迦様の教えに深く帰依し、仏教の教え(真理)に基づいてインドを治めようとされた。法(ダルマ)の政治」という。法とは、仏の教えをいう。今に残るアショカ王の石柱には、法(ダルマ)の政治」が書かれている。
今に残るアショカ王の石柱

「法(ダルマ)の政治」とはなにか?それは、「いのち尊し」という事であろう。「いのち」とは、単なる「生命」ではない。お釈迦様が、宣言された「天上天下唯我独尊」のこころは、代用のきかない、かけがいのない「いのちの尊さ」を告げられた言葉であろう。しかし、この「尊きいのち」がアルジェリアにて失われた。遠い国の現実を残酷な形で見せ付けられた。「兵戈無用」の言葉が、今こそ必要な時代が来ているのと思うですが。

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