比企の丘

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満蒙開拓・・・残留孤児の父・・・山本慈昭師を尋ねて・・・長岳寺へ

2013-07-20 | 語るべき責任 満蒙開拓とは何だったのか
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7月18日、信濃路、ひさしぶりの伊那の谷の阿智郷駒場(コマンバ)。
律令時代のむかし美濃国坂本駅から神坂峠を超えて東山道。そして近世・・・三河からは三州街道、木曽三留野からは清内路道。
駒場はいにしえより交通、流通の要衝でした。

国道153号線(三州街道、飯田街道、塩街道、中馬街道)・・・いまは旧道・・・宿場の雰囲気を残す駒場の市街地。

国道から旧道へ、さらに小さな道を下っていくと阿知川の畔にたつ小さなお寺。

中国残留孤児の父「山本慈昭師」に逢いたくて天台宗広拯山長岳寺にやってきました。


残留孤児の父「山本慈昭さん」の話です。

1902年飯田市に生まれ、1932年南信州阿智村駒場の長岳寺の住職に。1945年5月満蒙開拓団阿智郷(参加者330人)の小学校教諭として51名の生徒とともに渡満。たった4ヶ月後、8月ソ連軍の侵攻、敗戦、生きて帰ったのは42名、そのうち生徒は6名です。山本さんは奥さんと2人の子供を連れいましたが自身はソ連軍に連行されシベリアへ、帰国後に家族の死を伝えられました。24年後(1969年)、臨終の床の村民から長女啓江さんが生存しているのではないかという話を聞きます。
1972年日中国交が開かれ、山本さんの中国残留孤児探しの活動が始まります。今でいうNPOです。「日中友好手をつなぐ会」の会長に推され、1979年10月11日第1回総会が開かれ、1980年(昭和55年)残留孤児の訪中調査に赴きます。80歳のときです。315人の孤児に面接、その調査報告が翌81年の第1回47人の残留孤児の来日に結びつきます。孤児といっても年齢は40代です。このときの肉親判明者は24名。不明のままの23人に山本さんは語りかけます。

今日から私が皆さんの父親になります。いつでも日本に来てください。私の家に来てください。待ってます

山本さんは年金と住職としてのわずかな収入のほとんどをこの運動につかっていたといいます。満蒙の地に散った教え子たちへの贖罪だったのでしょうか。その後、肉親にめぐり会えなかった方の一人が山本さんの娘さんを探し出してくれたそうです。90歳,100歳までこの仕事を続けるとがんばっていましたが88歳で天寿を全うします。
(この稿は「プロジェクトX-新リーダーたちの言葉」(今井彰 文藝春秋)を参考にしました)


このあと・・・長岳寺の下にある満蒙開拓平和記念館を尋ねます。

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