比企の丘

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武蔵国血洗島の・・・名門から出た・・・近代資本主義を作った男「渋沢栄一」

2015-02-23 | 古民家の風景
彩の国深谷市岡部、埼玉に18年ぶりで訪れた渡り鳥ナベヅルを見に行ったときの、その土地の見て歩る記です。

深谷宿の常夜燈、岡部藩の陣屋跡、長屋門、江戸時代初めに開削された備前渠川、深谷市血洗島の「渋沢栄一」の生家、栄一の従弟であり義兄でもある深谷市手計の尾高惇忠の生家、最後は渋沢栄一が設立に携わったといわれる深谷市上敷免の「日本煉瓦」。
最後に埼玉が生んだ近代資本主義の父「渋沢栄一」にスポットを戻して、この「見て歩る記」を終わることにします。

名門渋沢家中ノ家」(なかんち)の薬医門です。堂々として文字通り名門です。

渋沢一族は戦国時代末期(16世紀後半)にこの地に土着したといわれ江戸末期には本家「東ノ家」(ひがしんち)中心に17軒。明暦年間(17世紀中期)の記録によれば「中ノ家」は村内30戸の内21番目の小農、それが江戸末期には本家「東ノ家」に次ぐ2番目の豪農に。

さて渋沢栄一(1840~1931年)です。
なにをした人か・・・忘れられた日本人・・・の中に埋没しています。ここでこの人の足跡をたどって・・・近代日本の誕生の中で何をした人か追いかけてみました。


武蔵国血洗島の豪農渋沢家「中ノ家」の生まれ。血洗島は名の通り洪水で水田に不向きな地。畑作、養蚕、藍玉の生産を主としていました。14歳のころから藍葉の買い付けに単身歩いていたといいます。17歳のとき「中ノ家」が岡部藩阿部家の代官に呼び出されたとき父親の名代で出かけ御用金の命令(500両・・・本家東ノ家は1000両)を即答せず激しく代官とやり合ったという。百姓の子倅がイイ度胸していたのだ。江戸末期の領主は豪農に御用金と称してタカリをしていたらしい・・・岡部で岡部藩阿部家の遺構がほとんど残されていないことがわかってきます。そのころから10歳年上の尾高惇忠に師事し、その勤皇思想に心酔し幕藩体制の崩壊を目指し高崎藩高崎城の乗っ取り計画を計画、実行前に荒唐無稽の計画は頓挫、知遇のあった徳川一橋家の家臣の世話で一橋家に仕官。慶喜が15代将軍になると幕臣に。慶喜の弟昭武の随員としてパリ万博に。明治維新後に帰国、静岡藩主になっていた慶喜の下に。1869年明治政府大蔵省に、租税制度改革、駅逓法、貨幣制度、鉄道制度、公債制度、廃藩置県・・・数々の改革に絡んだという。洋行帰り、財務に明るい才能を買われたのであろう。官営富岡製糸場の開設にかかわり、1873年大蔵省退官、第一国立銀行創設。そのごは日本郵船、東京瓦斯、東京海上火災、王子製紙、秩父セメント、秩父鉄道、日本煉瓦、帝国ホテル、京阪電鉄、キリンビール、アサヒビール、東洋紡、石川島造船・・・東京証券取引所・・・聖路加病院・・・一橋大学、東京経済大学、二松学舎、同志社、日本女子大、東京女学館・・・など数々の会社、公的機関、学校の創設にかかわりました。
勤皇の志士から幕臣に、幕末に洋行し西欧資本主義、植民地政策をつぶさに見て帰国、幕臣から明治政府の官僚に、さらに実業界に、時代の波に乗って転身を繰り返す。

資本家としてではなく広く株式を公募する近代資本主義のプロモーター(発起人、推進者)としての渋沢栄一が見えてきます。

渋沢家の終焉・・・

澁澤敬三(1896年~1963年)・・・澁澤栄一の孫。偉大なる祖父の嫡男篤二が放蕩三昧に耽ったため廃嫡となり孫の敬三が渋沢家の2代目後継者に。第一銀行副頭取から日銀副総裁。1944年3月日銀総裁に。1945年8月の太平洋戦争の敗戦まで、軍のいうままに赤字国債を引き受け、日本銀行券の貸し出しの増加という形で無制限に軍の資金調達を続けた。敬三の日銀入りはウムとも言わせぬ軍部からの命令だったという。誰がなっても赤字国債を乱発するしかなかったでしょう。
あの戦争の敗戦の年・・・1945年9月3日、敬三は日銀5階の集会室に全職員を集めてこう訓示した。

・・・今この至難というべき業を始めるに当たり、先ず我々は過去に対し熾烈なる反省を加えねばなりません。本行総裁として私自身又大きな罪を犯して居ります。私情から申せば斯かる事態にもかかわらず、引続きこの責務を続けることは堪え難き事であり、事実、君の為に死んで行った兄弟達や、忠実に奉公した銃後の兄弟達に対する冒涜であると感じます。
この意味で私自身を含めて指導者と目すべき各界の幹部は、悉く万死に値する罪びとであったと云わねばなりませぬ。今我々が先ず為さねばならぬ事は只一つ過去の罪業をはっきりと正視して、今後の日本の発展を齎すべき基礎を打ち建てる、それのみであります。



上記の言葉は痛切な悔恨の言葉とも聞こえます。
10月9日、日銀総裁辞任、大蔵大臣に、預金封鎖、新円切り替え、財産税を実施。任期は1946年5月までの半年あまり。まるで自分を罰するかのごとく財産税導入では自ら祖父栄一が残した大邸宅を処分、財閥解体では自らの澁澤財閥を解体、見事に没落しました。

※渋沢栄一の写真は深谷市パンフレットより、渋沢敬三の写真はWikipediaより。


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