比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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ヒマラヤの青い罌粟・・・を画いた・・・堀文子さんを偲んで

2019-02-14 | 絵画、彫刻
1月5日、日本画家の堀文子さんが亡くなられました。100歳だったそうです。
わたしが堀文子さんを知ったのは・・・2000年10月放映のNHK「アーティストたちの挑戦 ヒマラヤ 高き峰をもとめて 日本画家 堀文子」を視てからです。そのとき堀文子さん80歳・・・好奇心旺盛、挑戦する老婦人として強く印象に残りました。
あのときいくつかの作品を見て強く感動したことをおぼえています。

堀文子さんのことをもっと知りたくて図書館で本を読みました。

村松友視極上の流転 堀文子への旅」(中央公論社 2013年刊)

堀文子・・・1918年東京都麹町区平河町に6人兄弟の4番目三女として生れる。父は泉州堺の豪商の子、中央大学の西洋史の教授、母は信州松代藩の学問所の学者の孫。麹町あたりといえば江戸時代の旗本屋敷を中心とする山の手、明治期にはいり武家屋敷が高・中産階級の住宅に。屋敷は500坪。ちなみに現在の国会議事堂は1936年建造、文子の少女時代にはありませんでした。男尊女卑の上流階級、母の家からの女中頭、子ども1人に女中1人。5歳のときに大正大震災。永田町小学校(現麹町小学校)から府立第五高女(現都立富士高校)へ。1936年府立第五高女卒業試験の日に陸軍のクーデター2.26事件・・・屋敷の庭を軍隊が進軍していくのに遭遇。自立を目指して女子美術専門学校(現女子美術大学)へ。父は働き口の狭さから反対したそうです(美術学校卒では教師ぐらいしか就職口がありません)。卒業後、教師の職業が合わないと自覚して東京帝国大学農学部作物学教室の記録描写係りとして就職(月給20円)。自立して神楽坂のアパートに、住人の芸者さん、お妾さんなどと交流、山の手のお嬢さんから世俗を知る女性に変身していきます。東京大空襲・・・平河町の屋敷は全焼、やがて敗戦(兄弟はともに戦死)、一家は戦前の上流階級から180度転換、青山に移りバラックの建物で生活。文子は一家の大黒柱に。出版物の挿絵、絵本などの仕事を生活の糧にして、画家としての制作活動も始めます。外交官と結婚、父の死、病弱だった夫と死別。虚脱状態のあと文子の一所不在(流転)の人生が始まります。1961年エジプト、ギリシア、ローマ、パリ、ニューヨーク、メキシコへと3年間の旅に出ます。旅行中の家族の生活費、旅先の滞在費は10数年間の挿絵、絵本の仕事の蓄積で、当時の外国旅行は外国での身元引受人が必要であったため無名の文子の絵画を高く評価してくれていたAIG(AIU損保保険)の社長(展覧会で見て感動して青山のボロ屋に尋ねて来てくれた)に頼み、その人が身元引受人を引受けてくれ3年間のフリー航空券までプレゼントしてくれたそうです。帰国後、大磯に転居、アトリエを、軽井沢、イタリアにもアトリエを、アマゾン、インカ、マヤなど諸外国を歩きます。2003年にはブルーポピーを探して標高4500mのヒマラヤ(ネパールのドルポ山中)を歩きます。

東京の山の手麹町の上流階級のお嬢さんから、戦争で何もかも失い、挿絵、表紙絵、装丁、絵本の仕事で一家を養い、絵描きとして描きたいものを画くことに挑戦し続けた、やがてそれが花開いた・・・素晴らしい人生だった・・・と思います。

文子さんのモットー・・・「群れない・・・慣れない・・・頼らない」・・・噛みしめたい言葉です。



堀文子さんを偲んで・・・「幻の花ブルーポピー

白馬村神城で                       中国雲南省で


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