比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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秩父山中 太田部楢尾・・・「山の民 ムツばあさん」のものがたり

2019-07-18 | 道をゆく 秩父路
7月15日、NHKテレビPM1:20~3:50放映・・・ドキュメント「秩父山中 花のあとさき・最終章~ムツばあさんの歳月~」を見てました。録画もしました。


秩父の山中奥深く荒川流域から分水嶺を越えて利根川流域に入ったかつての秩父郡太田部村(現秩父市吉田太田部)の楢尾集落で生きて土に還っていった小林ムツさんのありし日を2002年からテレビカメラで追ったドキュメント・・・

2002年8月「ムツ婆さんの花物語 秩父山中・段々畑の日々
2007年12月「秩父山中 花のあとさき ムツばあさんのいない秋
2009年春 「秩父山中 花のあとさき ムツばあさんのいない春
そのの3部作の集大成が・・・
2019年5月「秩父山中 花のあとさき・最終章~ムツばあさんの歳月~」です。

テレビレンズに写るムツばあさん・・・可愛い・・・

過疎化していく山奥の集落の老夫婦、年を重ね山の段畑も手入れができなくなっていきます。残された時間・・・花の咲く木、実の生る木、紅葉のキレイな木を段々畑に植えていきます。
これまでお世話になった畑が荒れ果てていくのは申しわけない。せめて花の咲く木を植えて山にお返ししたい
自分たちはイノシシの食べる実のなる木を切って炭を焼いたり畑にしたりして、その跡地を実の生らない杉の木を植えたりして山の動物の食料を奪ってきた。今度は山を自然に返すときだ

2002年放送が開始される前の10年間で10000本の木の苗を植えてきたそうです。
参考サイト
NHK公式サイト「ドキュメンラリー紹介サイト★番組スタッフの百崎満晴さん(現NHK仙台放送局)は・・・カメラマンからの提案企画ではじまったミニ番組、カメラマン&ディレクター&インタビュアーの一人三役+音声さん、2002年から2019年までカメラマン人生の大半を費やすことになったと語っています。
ブログ メディガムツばあさんと秩父山中の場所はどこ?BSプレミュアムドキュメントまとめ


2010年訪れた秩父山中の風景です。

秩父市吉田石間(いさま)沢戸集落(標高約500m)・・・この集落の上の半納集落からの眺望です。
急峻な山肌に集落が・・・さらに登って行くと太田部峠に。

太田部峠(標高約750m)から東に向かうと城峰山と太田部集落との分岐点。

秩父市吉田太田部久保田集落に今は就学児童がいなくなったため廃校になった旧太田部小学校が(標高450m)。


いまから100年前に起こった農民たちの自由民権運動「秩父困民党事件」の跡を追って2010年秩父巡礼の旅、秩父吉田の秩父事件蜂起の原点「椋神社」を尋ね、そして下吉田石間、太田部へ。ムツばあさんが生きてそして土に還っていった村です。楢尾集落のムツばあさんの家はすでに主なく、旧太田部小学校あたりを逍遥。
旧太田部小学校の庭で会った秩父大滝村から来たという熟年夫婦、ご主人から秩父の山の民の生活についていろいろお話しを聞きました。
山の民は食べるものは麦、蕎麦、稗、粟などの雑穀類、米は買わなければ食べられません。畑は家の周りにはほとんど無く傾斜の緩い山の中腹より上の稜線近く。そこに桑や雑穀を植えていたそうです。明治以来税金は金納になりました。雑穀の収穫は食べるのに精一杯ですから現金収入が必要、養蚕、生糸、薪炭、楮から紙漉き、蒟蒻、干し柿、林業、出稼ぎなどが命の綱でした。そのどれもがいまの経済下では通用しません。むかしの桑畑もいまは杉林に代わったといいます。
7つの集落からなる太田部。世帯数、人口を調べましたがネットではわかりませんでした。郵便物は吉田から、医療は鬼石方面だそうです。

秩父市吉田太田部相見集落・・・江戸時代前の慶長年代から続いた旧庄屋さんの家。いまはコミュニティーセンターに。

太田部集落から群馬県との県境の神流川に架かる太田部橋を渡ると群馬県鬼石町(藤岡市)です。神流川を堰きとめた下久保ダム湖(神流湖)は渇水期でしょうか。ほとんど水がありません。堆砂も進行してるようです。右側の谷を分け入ったあたりがムツばあさんが生きた太田部楢尾です。
※撮影日は2010年10月。
秩父路や 天につらなる 蕎麦の花    加藤楸邨

過疎、限界集落・・・行政がいいだしたのかマスコミがいいだしたのか知りませんが現実はそうであってもこの言葉は嫌いです。使わないようにしています。
山の民」というほうがまだ優しいですね。太古のむかしは山幸彦といったのです。
日本の森林を育て水源を涵養し国土を守ってきた「山の民」はどこに行くのでしょう。

  
太田部楢尾のムツばあさん・・・おだやかないい顔していました。日本中の山の中、農村、海辺にムツばあさんのような人がいたでしょうね。わたしのおふくろも家内の母もおなじように田舎の片隅で野菜を作ったり花を植えたりして、やがて土に還っていきました。

☆私のブログ友「縄文人」さんが秩父山中の集落を写真に撮ったデジブック天空の郷・家・杣道です

※コメント欄オープン。


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6 コメント

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こんにちわ (たか)
2019-07-18 18:24:18
私、以前テレビで「むつ婆さん」のドキュメンタリー番組を観ました。
後年、息子と一緒に暮しても、やはり住み慣れた秩父の山が恋しくて戻るシーンは泣けました。
暖かいお顔をしてますよね。
笑顔が忘れられません。
返信する
山に行き、山で暮らし、山で生涯を閉じる。 (縄文人)
2019-07-19 07:40:04

 ムツばあさん・・・可愛い・・・いい顔している。
山に向かい合って暮らしてきたむつ婆さん、
 山で生涯を閉じたむつ婆さん。

自然と対峙し、畑を耕し花や鳴く鳥とともに4~6時中向き合って生きて来た。

我が、生まれた処から車で30分、萬年橋を右に1本道をひたすら山中へ。
天空の里、太田部楢尾、何回か足を運んだだことがありますが

  〇 耕してなお耕して天空に
           ムツ婆さんよ天に還りし


旧庄屋さんの家。いまはコミュニティーセンター。
秩父地方独特の養蚕農家であろう。
この家の作りは昭和の10年から20年ころの作りでは。
ガラス作り、そして材木がまだ輝いて見えます。昭和も遠くなりにけり。


       太田部の県境にぞ佇めば
           眼下に見ゆる神流湖の水
 
  都会にありて秩父山中の生活振り返れば、山中は厳しい。
   何時も親たちは≪現金収入≫と言うことを口にしていた。
  それが養蚕・繭作りであったのであろう。
自給自足、食べることはできても子供の教育・学校となればお金が必要となる。
  現在は、養蚕は衰退、勤めに出て金を稼ぐ……。それならいっそのこと山を・・・・・下りるそんな考えが・・・・・。
  歯が抜けるように大きな空き家、過疎、限界集落。

 むかし作ったDB 

http://www.digibook.net/d/0404c193b1dc0664f942a0f35557125f/?viewerMode=fullWindow&isAlreadyLimitAlert=true
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コメントありがとうございます。 (ヒキノ~たかさんへ・・・)
2019-07-19 12:05:05
山の民の生活・・・近代社会ではなりたたかくなりました。時代の流れでしょうか。

コメントありがとうございました。
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秩父山中 (ヒキノ~縄文人さんへ・・・)
2019-07-19 12:14:47
デジブック「天空の郷」本文中に使わせていただきました。写真1枚1枚に心がこもっています。
庄屋さんの家・・・今から60年くらい前に一家で横浜に移住とのこと。間口10間奥行5間約50坪、2階と合わせると100坪の家。出桁造り。大正年代の建造か。ガラス建具はあとから?この集落もいまは無人か。
みんな土に還っていきます。
縄文人さんも私も都会に生きる道を求めて・・同じです。
ドキュメンタリーを作ったカメラマンさんお暖かい心がわかります。

コメントありがとうございました。
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ムツばあさんの歳月 (oko)
2020-10-18 10:51:24
とても素晴らしい映像に感動しております。
千葉の映画館で上映を知りましたのでコロナ禍の中、友人3人で観ることができました。
ムツおばあさんがとても可愛く素晴らしい映画でした。
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テレビドキュメント・・・ (okoさんへ・・・)
2020-10-18 20:53:52
ずっと見ていました。
秩父というより、群馬の生活圏の場所です。
ムツばあちゃんの一言一言が今も思い出されます。
可愛いおばあちゃんだったですね。
山の民は自然と共存しながら生きてきたということがよくわかりました。

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