わたしの本棚から。
山崎豊子「大地の子」(文藝春秋1991初版)
井出孫六「終わりなき旅」(岩波書店1986初版)
いずれも初版のとき買ったものです。
「終わりなき旅」は雑誌「世界」1985/6初出、「大地の子」は雑誌「文藝春秋」1987/5初出となっています。
「終わりなき旅」からの抜粋です。
『後世に伝う血涙の記録―満州泰阜村分村』
という記録が紹介されています。その中の奥瀬くに子さんの「曠野の墓碑銘」の一節です。
話は奥瀬さんのお姉さん篠田ウメヨさんの三男欽三少年(15歳)が敗戦直後の満州の逃避行の中で襲撃を受け(そのとき日本刀を持っていたのが仇になった?)重傷を負って死んでゆく状況を記しています。
夜は涼しいが、日中は暑かった。馬車の上に寝かせれているのが暑いのか、頭が異常に暑かったのか?
「お母ちゃ。ここは暑くてしょうがないから、もっと涼しい綺麗なざしきに連れて行ってよ・・・」
欽三は、切なげに姉に訴えていた。一かけらの氷どころか、タオルで頭を冷やしてやることもできなかった状況の中で・・・姉は欽三との別れの時が近づいているのを知った。
「欽三・・・お母ちゃのお乳にさわって見て・・・」
「お母ちゃ、なんだか・・・はずかしいな」
はにかみの笑い顔を見せた欽三であったが、おそらく欽三が母に向けた最後の笑顔であったと思う。
流れもゆるやかな綺麗な川のほとりで息を引きとった少年は、彼のことばに従って、祖母と母親の手で屍は水葬にふされます。欽三少年の家族七人のなかで日本の土を踏めたのは少年の兄欽次さんと母親の妹くに子さん二人だけのようです。
お母ちゃの行動は、性的な匂いさえします。まさに「たらちねの母」です。極限の状況のなかで死にゆく十五歳のわが子に対し、してやれた母の最後にして最大の愛の行為だったのか。
はにかむ少年の最後の笑顔。「たらちね」は男子一生の憧憬です。
★泰阜村・・・長野県下伊那郡泰阜村。静岡、愛知県に近い南信州、天竜川の左岸。河岸段丘に囲まれた美しい村落です。
★お母ちゃ・・・伊那地方の方言です。「お母ちゃん」ではありません。「お父ちゃ」「お婆ちゃ」とつかいます。「ん」をつけないのです。身内でもそうでない近所の人もマッタクの他人もつかいます。「やすおちゃん」は「やっちゃ」「やすおさ」といいます。

井出孫六「終わりなき旅」(岩波書店1986初版)
いずれも初版のとき買ったものです。
「終わりなき旅」は雑誌「世界」1985/6初出、「大地の子」は雑誌「文藝春秋」1987/5初出となっています。
「終わりなき旅」からの抜粋です。
『後世に伝う血涙の記録―満州泰阜村分村』
という記録が紹介されています。その中の奥瀬くに子さんの「曠野の墓碑銘」の一節です。
話は奥瀬さんのお姉さん篠田ウメヨさんの三男欽三少年(15歳)が敗戦直後の満州の逃避行の中で襲撃を受け(そのとき日本刀を持っていたのが仇になった?)重傷を負って死んでゆく状況を記しています。

「お母ちゃ。ここは暑くてしょうがないから、もっと涼しい綺麗なざしきに連れて行ってよ・・・」
欽三は、切なげに姉に訴えていた。一かけらの氷どころか、タオルで頭を冷やしてやることもできなかった状況の中で・・・姉は欽三との別れの時が近づいているのを知った。
「欽三・・・お母ちゃのお乳にさわって見て・・・」
「お母ちゃ、なんだか・・・はずかしいな」
はにかみの笑い顔を見せた欽三であったが、おそらく欽三が母に向けた最後の笑顔であったと思う。
流れもゆるやかな綺麗な川のほとりで息を引きとった少年は、彼のことばに従って、祖母と母親の手で屍は水葬にふされます。欽三少年の家族七人のなかで日本の土を踏めたのは少年の兄欽次さんと母親の妹くに子さん二人だけのようです。
お母ちゃの行動は、性的な匂いさえします。まさに「たらちねの母」です。極限の状況のなかで死にゆく十五歳のわが子に対し、してやれた母の最後にして最大の愛の行為だったのか。
はにかむ少年の最後の笑顔。「たらちね」は男子一生の憧憬です。
★泰阜村・・・長野県下伊那郡泰阜村。静岡、愛知県に近い南信州、天竜川の左岸。河岸段丘に囲まれた美しい村落です。
★お母ちゃ・・・伊那地方の方言です。「お母ちゃん」ではありません。「お父ちゃ」「お婆ちゃ」とつかいます。「ん」をつけないのです。身内でもそうでない近所の人もマッタクの他人もつかいます。「やすおちゃん」は「やっちゃ」「やすおさ」といいます。
※コメント欄オープン。
ヒキノさんのお父様、立派な方なのですね。
晩年のお父様の活動に敬意を感じております。
また、お義母さまの弟さんお二人も、満蒙開拓団で亡くなられたとの事、何という事でしょう。
私の父も、自分達は天皇の赤子と言っておりました。ただ、父は大東亜共栄圏建設の為、アジアの共存共栄の為に戦ったと話し、晩年も決して日本の他国への侵略や支配を認めようとはしませんでした。
それが当時の国の政策で、それをどこまで信じていたかは定かではありませんが…。
異国の地でも人間の尊厳を守った方のほうが多いと思います。かの国の人たちも同じです。八路軍の規律正しさを引き上げてきた方に聞いたことがあります。
このシリーズについてはマダマダ書きたいことがあります。
そして、必死の逃避行が始まったとき、足手まといの老人子供は殺されることになり、親から逃げなくてはならなかった孤児もいたとか。とてもできなくて、老人と子供と隊から外れた人々も勿論いたということ
そして、自分の子供を殺す人の親を物陰から息を殺してみていた人もいるという。川が血で真っ赤に染まっていたと言う。
何も攻められない現実、ひどい現実の中、残留孤児は生き延びてきたと言えそうです。(過激です。不適切でしたら消してください。)当時の残留孤児の記録の一部です。