比企の丘

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信州上田・・・あの戦争の遺跡・・・上田千曲高校の敷地内にある・・・上田飛行場跡碑

2016-06-02 | 語り継ぐ責任 あの戦争
5月16日、上田市内の散策です。上田市中之条、長野県道65号線、千曲町交差点そば、千曲川左岸に沿った地点。
県立上田千曲高等学校のグランド入口でしょうか。あの戦争に敗れたときまであった上田飛行場(熊谷陸軍飛行学校上田分教場)の正門跡です。


正門跡の数m左に上田飛行場跡の石碑があります。長文の碑文が刻まれています。

参考
※上田市のHPの中にこのことを記したサイトがあります→クリック「上田市の戦争遺跡」
※長文の碑文を記したブログサイトがありましたのでリンクさせていただきました→クリック「空港探索・2」

ネット検索「上田飛行場跡」の記事から経緯を追ってみました。
1930年 昭和初期からの繭糸価格の暴落で農村が疲弊、政府はその対策として失業救済農山漁村臨時対策法を施行して低利の融資を図る。
     この融資を受けて千曲川左岸のの中之条荒蕪地復旧組合が結成され農耕地の開拓が開始されるが農耕地に不適と判断される。
1931年 開拓半ばの地は市に移管され、飛行場に転換、10月開場の運びに。全国で2番目の市営飛行場。20㌶。
1933年 陸軍に献納される。
1937年 熊谷陸軍飛行学校上田分教場に。約57㌶。 
1945年 8月13日 米軍の空襲を受け、市民にも犠牲者が(詳細不明)。
1945年 8月15日 敗戦。

1946年 以降、跡地は農耕地、県営住宅、学校に。
1947年 旧制上田市立高等女学校、旧制長野県上田商工学校の併設中学校が合併してこの地に移転。1949年県立校に、現校名に。 
1985年 旧飛行場関係者有志、地元関係者有志らにより記念碑が建立される。石碑の横には「南無妙法蓮華経」の石碑があります。


検索サイトからこの飛行場で特攻隊員の飛行訓練が行われたことを知りました。教官の一人は敗戦の3日後に妻(22歳)、子ども(0歳児)を道連れに自決します・・・why or why not?・・・
↓クリック
特攻隊教官一家の自決は教え子との約束だった? 8月に遊佐准尉の慰霊祭


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