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【歯顔大笑】

歯を見せて大きく笑おう!

113.【川辺八幡神社】

2012-04-23 | “訪れました“
【川辺八幡神社】(かわなべはちまんじんじゃ)

大阪市平野区にある川辺八幡神社を訪れてきました。
  

創建の年月はよくわかっていませんが、石清水八幡宮から分霊をされたものと伝わっています。賑わっていた頃は
社殿も壮大で社領も広かったのですが、1704年の大和川付け替え工事によって現在の場所に移り、元の社領地
の大部分は川床となりました。 
    

この時代にこの川幅で整備をしたんですね。

その境内に医薬の神とされる少彦名神(すくなひこなのかみ)と歯神大神(はがみおおかみ)を祭る小さなほこら
があります。
  


歯神大神は歯と健康と長寿の神として知られ、かつては歯と箸をかけて箸を奉納して身体健康と長寿を祈りました。
しかし、移築と共に風習は失われほこらと地元での信仰だけが残っていましたが、1998年”箸護摩神事”として
復活しました。

健康、長寿、無病息災を願う神社だけあって”百度石”もありました。



記念撮影





<おまけ>
この日はここの他に大阪市東成区中道にある八坂神社、東大阪市吉田にある歯神さまにも訪れたのですが・・・

八坂神社
”もとは白山権現社といい「大坂願懸重宝記」「よはひ草」に歯の信仰があったことが記載されている。”と
あり、行かなくては!っということで行ってきました!

  5
歯に関するものが見当たらないので、神社の人の聞いてみたところ・・・「白山権現社といっていた事は確か
ですが、歯に関する信仰は聞いたことがありません・・・私の勉強不足かもしれませんが・・・」っということ
でした。 残念!

もうひとつ
東大阪市吉田の歯神さま
花園ラグビー場の近くということで細い細い道をグルグル、グルグル回って探しましたが、見つけることができ
ませんでした。 残念!

106.【和田賢秀の墓】

2012-03-05 | “訪れました“
【和田賢秀の墓】


“和田”ふつうに読めば”わだ”なのですが、この人の読み方はそうは
読まず”にぎた”または”みぎ(き)た” と読みます。名前は”けん
しゅう”または”かたひで”です。


和田賢秀は南北朝時代の武将で、楠木家と姻戚関係にあったとされて
います。賢秀は楠木正行の家臣として勇将としても知られていて・・
といろいろあるわけですが今回、この歯願大笑でご紹介するのは“歯”
に関係があるからなので、そちらの方を書きたいと思います。

それでは、和田賢秀の墓”についてです。

大阪の”四条畷の戦い”の際、楠木正成が討ち死にした後も、敵将の首を
討とうと孤軍奮闘していました。しかし力尽き敵方に首をはねられる事に
なりますが、首をはねられても敵将の首に噛みついたまま睨んで放さなか
ったといいます。そして敵将はそれが原因で死んだとされていて、その地
の人々は和田賢秀の事を歯噛様(はがみさま)といい、いつの間にか”歯
神様”というようになったのです。

実際に行ってみると・・・

対面2車線ですが、結構交通量の多い道沿いにいきなり森のようなところが
現れました。



近づいていくと、表はこんな感じでした。


中に入ると大きな大きな木が立っていてその真横にお墓がありました。


このような碑と説明板が建っていました。
 



お墓そのものはごく普通の感じでした。”源秀”と刻まれていますが、
このようにも言われていたようです。






・・・おまけ・・・

実はこの日はもう一か所交野市の 西念寺 “墾田地蔵石仏” という
ところを訪れたのです。 ”歯痛をはじめ何にでもよく効く・・・“と
いう事で行ってみましたが、何の歯にまつわる話も、説明も、石造等も
ありませんでした。 せっかく行ったので写真だけでも載せておきます!
写真くらい載せとかないと、お地蔵さんがスネはったらあかんので・・・。
 






104.【歯痛地蔵菩薩】

2012-02-20 | “訪れました“
【歯痛地蔵菩薩】京都府城陽市 龍福寺

今回のお地蔵さんはおもしろいんですよ! よくあるお地蔵さんは
“すましたお顔”で人々を苦しみから救ってくださるっというもの
ですが、ここのはちょっと違うんです。。。

今までもお地蔵さん見てきましたが、ここへ行って“そもそもお地蔵
さんってなんなんやろ?”って思ったんです。。。そこで、これを読
んでおられる方は、もうご存知かもしれませんが少し紹介します。 

お地蔵さん
お地蔵さんは、本当の名前は地蔵菩薩と呼ばれ菩薩は如来に次ぐ存在です。
お釈迦さん(釈迦如来)が亡くなられ(入滅)、この世界に次の弥勒菩薩
(みろくぼさつ)が現れるまでには56億年という時間が必要で、その間、
人々を救う仏が存在しないことになってしまいます。そこで次の弥勒菩薩
がこの世に誕生するまでの間、地蔵菩薩が人々の苦しみを救ってくださる
という事なのです。

これを読むと、上で書いた“すましたお顔“でシュッとされているのも
当然だと思いますよね。

それでは、今回訪れたお地蔵さんを紹介していきましょう。

かなり、かなり細い道を車で上がって行き“龍福寺 駐車場“に車を
止めました。



龍福寺まで少し歩き、階段を上がると真正面に張り紙がありました。
  
  



『へぇ~~~~~、”左手で頬づえ”をついてはるんやぁ・・・』


そこから右側の道を行くとあった、あったありました!
     

聞こえてきそうです。。。『うっ、痛い!』
 

『歯ぁ~、痛いねん! このへんが痛いねん!』
    



こんな事を書いているとバチ当たりそうですね。。。本当は常に人々の
苦しみを思うため、表情も難しくなり頬杖をついて考え事をされている
様子なのでしょうが、”歯痛のお地蔵さん”と思って見ると、ついつい
上の言葉を想像してしまいました。 

実際は・・・
やっぱり、”このお地蔵様は歯が痛くて苦しんでおられる、と人々は
考え「歯痛地蔵の」のニックネームが付き、以来歯痛封じにお詣りす
る人々が絶えません。。。”っという事だそうです。

どうですか、どこかほんわかしてておもしろくないですか?
私は歯痛地蔵さんと記念撮影をして帰ってきました!

102.【歯痛地蔵】京都府城陽市 寺田駅

2012-02-06 | “訪れました“
【歯痛地蔵】京都府城陽市 寺田駅

久しぶりに“訪れました“シリーズです!今回は京都・城陽市のお地蔵
さんです。このお地蔵さんは今も“歯痛地蔵“と呼ばれ、今も信仰され
ているそうです。

どんなところにあるのか???
寺田駅まではすっと到着。付近を探してみるもわからず、道を歩く人に
聞いてみると『そこの角を左に曲がって少し行ったら「こんなところ通
れるの?」って思える道があるのでそこを曲がって・・・』との事。
そこは大きなスーパーマーケットの横の道で、確かに「こんなところ通
れるの?」って思える道でした。


しばらく行くとあっ、ありました、網フェンスの向こうにお地蔵さん小
屋らしきものが!


近づいていくと屋根は木でできていますが、横後ろはコンクリートで作
られた“小屋”にお地蔵さんがありました。


ですが、よく見ると普通の“お地蔵さん“ではなく、石の板”のような
ものがで~んと置かれていて、そこにかすかに顔のようなものが彫られ
ているのです。




実はこの“お地蔵さん“、元々は石棺の底石として掘り出され、鎌倉時代
に仏像彫刻されたものだったのです。それが、なぜか裏面を上にして寺田
西ノ口を流れる小川にかけられ石橋として使用されていました。そして大
正末期にはずされ、この地の人々によって祀られるようになったのです。

なぜ、“歯痛地蔵“になったのか???

みなさん、わかりますか? パッとひらめく事はありませんか?
小川にかかる石橋の”橋板”として使われていたことから”橋板地蔵“と
呼ばれていたのですが、いつからかなまって”橋板”→”はしいた”→
→・・・→→→”はいた”→“歯痛“から、“歯痛地蔵“と言われるよう
になりました。そして、多くの人々に歯痛にご利益があるお地蔵さんとし
て親しまれるようになったのです。 おもしろいですね。

お地蔵さんと呼ばれていますが、実際は地蔵菩薩ではなく釈迦如来である
ことがわかっています。

久しぶりの“訪れました“でしたが、“歯痛地蔵“、どうだったでしょう?
これからも”歯にまつわるところ“を実際に訪れてここへ載せていきたいと
思いますのでご期待下さい!

64.【白井神社】

2011-04-25 | “訪れました“
【白井神社】

場所は兵庫県尼崎市にありますが、ご存知の方はおられますか?
もしおられたらその方はご近所にお住まいか、よほど歯に関する
事に詳しいか、お好きな方だと思います。


さて、それでは白井神社についてお話しして行きましょう。
詳しい資料な残ってはいないのですが、諸事から総合して
天平時代に創立されたと思われ、御祭神は天之手力男命
(あまのてぢからのみこと)です。

いつの頃からか「歯神」とよばれ、200年以上前に発行された
『摂津名称図絵』には「白井天王祠穴太村に在り世俗歯神と
称し、歯の患を祈願すれば忽に平癒すとぞ」とあることから
この頃には既に穴太村の白井天王は歯神として有名で多くの
人々から信仰されていたと思われます。





“鯰神社”
白井神社は別名“鯰神社”と呼ばれています。その由縁は・・・
昔、白井神社は広大な敷地を有していて、広い境内には大きな
池があって多くの鯰が生息していたそうです。
ある時、歯痛に苦しんだ者が藁をも掴む思いで鯰の皮膚液を頬に
塗ったところ歯痛が止まったと住民の間に広まり、それ以来、
鯰大明神と崇められ、鯰を食することを断ち、祈願成就に鯰を池
に放したと言われています。
 しかし時代を経て地区整備などによって境内は狭められ、池も
なくなり鯰は絵馬に変わりました。それでも、近畿地方一帯より
多くの人が訪れ大いに賑わい参詣者が絶えることなく、参道には
茶店や絵馬売店が設けられたとも伝えられています。

歯患平癒の祈願者は御礼詣りに「鯰の絵馬」を奉納する習慣が
あり、現在、社殿内には天保時代のものが保存されてその名残
があります。


実際に行ってみて・・・
閑静な住宅街の中にあり、ほんとに静かな神社でした。鯰の絵が
描いてある絵馬が何枚かぶら下げてありました。


“白井神社御社殿大改修事業趣意書”という立看板がありました。
昨年の1月に出された趣意書で事業資金がたまれば大改修が行わ
れるんでしょうね。  そのためか境内には人気はなく、お守り
を買って帰ろうと思っていましたが何度呼び鈴を鳴らしても人は
出てこられませんでした。


伝統ある神社なので、大改修を終えた後にはまた多くの人が
”歯神様”として参拝し活気を取り戻してもらいたいです。