murota 雑記ブログ

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(歴史メモ) 古代の大和政権、聖徳太子まで

2016年08月07日 | 歴史メモ
 5世紀から6世紀の初め頃にかけて、日本では大王(おおきみ・天皇)の跡継ぎ問題や、有力な豪族(大伴氏・物部氏・蘇我氏など)の権力争いなどで国内の政治が乱れていた。当時、大和政権が支配していた朝鮮半島の任那地方(加羅)の支配力も弱まり、新羅・高句麗からの侵略が心配されるようになった。そこで大和政権は朝鮮半島の任那地方へ救援軍約6万を派遣するが、この救援軍が当時九州の北半分を統治していた筑紫の国造(くにのみやつこ・大和政権の地方官)磐井氏に進路を妨害され足止めをくらう。これが「磐井の乱」( 527年)だ。磐井氏の行動の裏には自分の統治している領地を大和政権から独立させたいとの思いがあった。しかし大和政権側がこれを放置するはずがない。当時の大和政権の支配は日本全土に及んでおらず、その支配力も絶対的なものではなかった。早急に日本全土に及ぶ支配を固める必要があった。しかも磐井氏のバックには新羅がついており、このままでは朝鮮半島の国に任那地方どころか日本の国土も奪われてしまうかも知れなかった。

 大和政権は磐井氏を討伐すべく、日本最強の軍隊を動かすことができる物部氏の麁鹿火(あらかい)に九州出兵を命じた。物部麁鹿火が率いる大和政権軍と磐井氏の戦いは1年以上も続いたが、528年大和政権側の勝利に終わる。磐井氏の息子である葛子は父の犯した反逆罪と同罪にされることを恐れ、所領であった糠屋(ぬかや・現在の福岡市東区あたり)を大和政権側に差し出し、死罪をまぬがれた。 福岡県八女(やめ)市にある岩戸山(いわどやま)古墳は磐井氏の墓と言われる。物部麁鹿火が磐井氏の討伐に行く際、大王、当時は継体天皇(けいたいてんのう)からは、「もし磐井氏を討ち取ることができたら長門(ながと・山口県)から東は私が、筑紫(つくし・福岡県)から西はお前が治め、賞罰は思いのまま行い、別に報告する必要はない」と言われていた。すなわち、磐井に替わって物部麁鹿火が九州を統治しろと言われた。磐井の乱は6世紀頃の日本はまだ大王による支配体制が固まっていなかったことを示す象徴的な事件だった。

 聖徳太子は574年、「用明天皇(ようめいてんのう)」と「穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)」との間に生まれ、幼名は「厩戸皇子(うまやとのおうじ)」と言い、この名は母親(穴穂部間人皇女)が馬小屋の前で急に産気づき、その場で産んだために付けられた名前だと伝えられる。この聖徳太子の両親は共に「欽明天皇(きんめいてんのう)」の子供で兄弟の関係でもあった。この当時は母親が違っていればたとえ同じ父親から生まれた兄弟でも結婚はできた。ちなみに用明天皇のお母さんは「堅塩媛(きたしひめ)」、穴穂部間人皇女のお母さんは「小姉君(おあねぎみ)」といい、2人とも「蘇我稲目(そがのいなめ)」の娘で姉妹の関係だ。厩戸皇子(聖徳太子)は両親から蘇我稲目の血を2重に受けており、当時の超有力豪族である「蘇我氏(そがし)」の血族のまっただ中にいた。そしてこの蘇我氏のもとには渡来人(中国・朝鮮から移住して日本に高度な文明をもたらした人々)が多数いて、厩戸皇子(聖徳太子)は彼ら渡来人達から儒教・仏教・暦学などの英才教育を幼少の頃から受け、青年期には激動の最新アジア情勢も渡来人達からいち早く伝えられるという環境に育った。

 当時のアジア情勢は激動していた。中国では「後漢(ごかん)」という国が西暦220年滅亡して以来、分裂・戦乱の時代が約370年間も続いていたが、「隋(ずい)」と言う国によって再び統一されそうになり、統一されたのは589年。370年間も戦争していた地域を隋が一気に統一した。隋の軍事力・外交力・政治力はかなり強大だった。もちろん隋に対して脅威を感じているのは日本も同じだった。そして隋の中国統一という危機的状況に日本が対処するためには、日本は隋の政治を真似し、豪族達の連合政権から天皇中心の中央集権国家へと改革しなければならなかった。当時、隋は「律令制(りつりょうせい)」という、「律(りつ・刑法)」と「令(りょう・行政法と民法)」による中央集権国家として優れた政治体制を採用しており、国家宗教としての「仏教」も採用していた。こういう中で日本の危機的状況をいち早く察知し、日本の体制を変革しようと1人の豪族が立ち上がった。その名は「蘇我馬子(そがのうまこ・蘇我稲目の子)」、渡来人達との関係が深くアジア情勢にも詳しい蘇我氏の首長である。蘇我馬子は日本に律令制を導入する手始めに仏教の導入を急いだ。この仏教導入に反対する豪族「物部守屋(もののべのもりや)」を滅ぼし(587年)、この直後に「法興寺(ほうこうじ・飛鳥寺)」の建立に着手した。蘇我馬子が物部守屋を滅ぼした戦いで、厩戸皇子(聖徳太子)は戦勝祈願のため自ら四天王の像を彫って祈り、勝利を得たので四天王へのお礼に建立した寺院が大阪市天王寺区にある「四天王寺」だ。

 法興寺の建立で仏教導入に成功し、また強敵物部氏の滅亡で、豪族のトップに立った蘇我馬子は次の課題「律令制の確立」に向けて動く。従来通り自分の意見が通りやすい天皇を即位させ、裏から操るのが得策と考えた蘇我馬子は厩戸皇子(聖徳太子)の父である用明天皇の死後、自分の甥である「崇峻天皇(すしゅんてんのう)」を即位させた(587年)。しかし、この崇峻天皇が自分の言うことを聞いてくれないと分かると自分の手下である「東漢直駒(あまとのあやのたいのこま)」を差し向け、崇峻天皇の兄の「穴穂部皇子(あなほべのみこ)」もろとも暗殺してしまう (592年)。歴代天皇で暗殺された疑いのある人物は何名かいるが、はっきりと暗殺されたことが記録されているのは崇峻天皇。だが、蘇我馬子にとって困った事態は、自分の意見を通しやすい蘇我氏の血を引く天皇候補がいなくなった。厩戸皇子(聖徳太子)は蘇我氏の血族で頭も良く有力な候補だが、年も若く、暗殺された崇峻天皇の甥でもあるので天皇とするには無理があった。その他の候補者は全て蘇我氏の血族以外で、もしくは血縁が薄い人間だった。そこで浮上してきたのが「額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)」、彼女は用明天皇の妹であり、今は亡き「敏達天皇(びたつてんのう)」の皇后でもあったので血筋も位も申し分ない。そして厩戸皇子(聖徳太子)を「摂政(せっしょう)」「皇太子(こうたいし・次期天皇候補)」の地位につけ、将来は厩戸皇子(聖徳太子)を天皇にすれば蘇我氏一族も安泰、政治も安定させることができるとの理由から、蘇我馬子は彼女を天皇に即位させた。日本初の女帝「推古天皇(すいこてんのう)」の誕生であった。(592年)。推古天皇で3人目だとの説もあるが、通説では推古天皇が初の女帝とされる。説得の理由に天照大神(あまてらすおおみかみ)が女性であったことを引用したともいわれる。

 その翌年(593年)4月10日、推古天皇の「摂政(せっしょう)」「皇太子(こうたいし・次期天皇候補)」として厩戸皇子が選ばれた。推古天皇には竹田皇子(たけだのみこ)という息子がいたが皇太子として選ばれなかったところを見ると既に死亡していた可能性がある。「推古天皇」「聖徳太子」「蘇我馬子」の3人体制で律令制度の確立へ向けて動き出す。しかし聖徳太子はおじさん2人(崇峻天皇&穴穂部皇子)を蘇我馬子に殺されている事を知っていた。聖徳太子が蘇我氏の血族で優秀な人材であっても先走った行動をすればたちまち蘇我馬子によって殺されてしまうかもしれない。聖徳太子にとっては微妙で危険な立場でのスタートとなった。593年に摂政となってから最初の7年間、聖徳太子は目立った行動をしていない。「冠位十二階」や「十七条憲法」「遣隋使の派遣」などは600年代に入ってからのことだ。608年を境に政治改革の表舞台からは姿を消し、仏教の普及や歴史書の編纂などの事業に携わっていった。

 聖徳太子のしたことを列挙してみると、隋へ使いを送る(600?・607・608・614年)、冠位十二階(かんいじゅうにかい)の制度を作る(603年)、十七条憲法を作る(604年)、日本各地に仏教寺院を建立、などなど天皇中心の国家の基礎を作った。
また、聖徳太子のエピソードといえば、一度に10人の人の意見を同時に聞き分けられた、用明天皇の死を予言した、5歳くらいの頃、推古天皇の即位を予言した、3歳くらいの頃、「桃と松、どっちが好き」と聞かれて「桃の寿命は短いけど松は千年生きるから松の方が好き」と答えた、2歳の頃、教えられた訳でもないのに釈迦入滅の日(2月15日)に東に向かい「南無仏」と唱え合掌礼拝した等々。また、聖徳太子の母親の枕元に金色の僧が現れ、「しばらくお前の体内を借りる」と言って母親の口へ入り込み聖徳太子を身ごもったともいわれている。

 そんな伝説めいた話からも分かるとおり、聖徳太子は奈良時代以降になると信仰の対象(『太子信仰』と言う)にまでなってしまい、現在でも全国各地に聖徳太子の像が安置されている。日本の歴史上ここまで有名で信仰の対象となり、また英雄のような扱いを受けている人はいない。極端に言えば、実在したのかさえもよく分からない人物だと言う説もある。あの聖徳太子の肖像画は聖徳太子が死んでから100年くらい経ってから描かれたもので、正確には聖徳太子の似顔絵ではなく想像画だ。しかも聖徳太子は「推古天皇(すいこてんのう)」の「摂政(せっしょう)」として政治を補佐したと伝えられているが、聖徳太子が生きていた当時の役職や位に、「摂政」の地位は存在したが、当時の摂政は聖徳太子のように天皇に代わって政治を行う役目ではなかった。政治を代行するという立場での「摂政」の役職が出来たのは866年で「藤原良房(ふじわらのよしふさ)」が任命されたのが始まり。藤原良房より以前の摂政には政治を代行する権限は無かった。せいぜい天皇へ助言する程度の役目だった。聖徳太子が行ったとされる「冠位十二階」や「十七条憲法」は明らかに当時の摂政の権限ではできるはずがない。いったい誰が「冠位十二階」や「十七条憲法」などの大事業の中心となっていたのか。こういう政治の大変革には当時の有力者である「蘇我馬子(そがのうまこ)」を始めとする他の有力豪族達の力が欠かせない。これらの大事業の中心は権限のない聖徳太子でなく蘇我馬子やその他の有力豪族達が立案し実行したと考えるほうが自然だ。日本の国家の基礎を作り上げたと言われる聖徳太子、聖徳太子が何をやった人なのか、はっきりしていない。NHKの大河ドラマのリクエストでは聖徳太子が毎回上位を占めている。しかし大河ドラマになったことは無い。なぜ大河ドラマに採用されないか、ドラマを作ろうと調べてゆくと、聖徳太子がどんな人生を歩んだか資料が無くて分からないようだ。

2 コメント

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不可解な聖徳太子か。 (K.K)
2016-08-07 09:28:40
聖徳太子が生きていた当時の役職や位に、「摂政」の地位は存在したが、当時の摂政は天皇に代わって政治を行う役目ではなかった。政治を代行するという立場での「摂政」の役職が出来たのは866年で「藤原良房(ふじわらのよしふさ)」が任命されたのが始まり。藤原良房より以前の摂政には政治を代行する権限は無かった。せいぜい天皇へ助言する程度の役目だった。聖徳太子が行ったとされる「冠位十二階」や「十七条憲法」は明らかに当時の摂政の権限ではできるはずがない。誰が「冠位十二階」や「十七条憲法」などの大事業の中心となっていたのか。こういう政治の大変革には当時の有力者である「蘇我馬子(そがのうまこ)」を始めとする他の有力豪族達の力が欠かせない。これらの大事業の中心は権限のない聖徳太子でなく蘇我馬子やその他の有力豪族達が立案し実行したと考えるほうが自然。そうなのか。
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大変勉強になりました。 (山田)
2019-01-03 11:14:51
聖徳太子が歴史の教科書から消える恐れがあるために調べていたら、こちらがヒットしました。読ませていただいたら、ますます太子が実在していない気がしてなりません。
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