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マクロビオティックな歯医者さんの食と暮らし                   食養塾 無何有庵の日々

無(む)と空(くう)の癒しの時間の中で、心食動息の一つ一つを共に考えていきたいマクロビオティックなスペース。

19年前のあの日。

2014年01月17日 15時49分45秒 | いただきますの法則
無事、叔父の葬儀も終わり、帰宅しました。
この1月の末に92歳になるのを待たずして逝った叔父ですが、高齢ですし、主人のいとこも東京暮らしのため、親族ももう年寄り組は残すところ1人。おばあちゃんの弟のみになり、それぞれの子ども、孫、ひ孫の参列ですが、昔と違って兄弟は二人、三人なので、少人数でした。あとはご近所の関係、叔父さんの写真の関係くらいの参列で、とてもこじんまりとした告別式でした。涙というよりは、温かな優しい雰囲気の告別式で、叔父の思い出などを語り合いながらお別れいたしました。

お焼香の折に、親族の順に呼ばれるのですが、なんと、「松見たまさま」と呼ばれてしまい、思わず主人が噴き出しておりました。やれやれ、あの世にも本名「千奈美」改め、本格的に「たま」で通ることになったようです。

さて、今日は、忘れもしない阪神淡路大震災から19年。

大きな揺れに何事が起きたか分からなくて、母といっしょに、とにかくベッドサイドにうずくまって揺れがおさまるのを待ったあの日。

もう、19年も経つんですね。

東北の復興はあと16年後には、記憶の中に仕舞われて、新しい町が生き生きと輝く日となっているのだろうか?そんなことを思う2014年の1.17です。

あの日、私はひきこもりの中で、会社に行く気持ちが湧かずに、長期休暇をいただいていた直中の大地震でした。なので、リビングで朝から晩までテレビの前に座り、三宮のビルが倒れるように傾き、あちらこちらの鉄筋のビルが倒壊し、長田町がどんどん焼けていくのを見ていました。

自然の力を前にして、人間の社会はなんて非力なんだろうってつくづく思いました。

当時、私は大手パンメーカーに勤めておりましたが、もともと地元のメーカーを吸収合併して作った会社なので、本社とは独立採算で成り立ち、その総務で課長を担っておりました。人事、労務、能力開発を担当し、総務といえど、営業、製造部門にも片足突っ込んで各部門の改革を命じられて仕事をしておりました。もともと、代表取締役の秘書として雇用されましたので、トップダウンの命が、直属の上司を飛び越えて降りてきますので、それはそれはやりにくい立場でおりました。

そのころちょうど人員不足で、求人倍率が高く雇用促進がなされぬまま、社内で人員不足を補うことで吸収するしかないような時で、課長職の私は当然のように、毎朝4時に起きて、坂出の工場にマイクロバスを取りにいき、そこから丸亀のデリカ部門の工場まで、知的障害者の社員を迎えに行き、6時前に坂出工場に送り届けることが一日の始まりで、そのあと、朝の始業まで製造の応援部隊。それから総務の仕事をこなし、また、社員を丸亀まで送り届けて、そのあと残業。夜12時くらいまで製造のラインに入り生産管理のためシフトのシステムプランを構築するという仕事をしておりました。本来、ライン長なり製造部門の管理職が担う仕事のため、私の存在は横やりである意味、余計なおせっかい。また、私より年上でキャリアもある男性が部下というそんな中、どんどん、会社が重荷になっていき、心身共にクタクタになり、ついには会社に行けない(行きたくない、もう嫌だ!)状態となりました。

そんなココロの重荷はうまい具合に、いろいろな体調不良の症状にも出て、休職の理由には困りませんでした。

当時の私は、コカコーラ、ポテチ、ポッキーが三種の神器で、そこに煙草とアルコールという生活。
朝は、牛乳。昼は適当。夜はお酒とつまみ。主食は酒食で、ご飯はほとんど食べていないという状態でした。もちろん、パン屋ですから、パンの摂取はかなり多かった時代です。
花粉症も30歳を超えた時から発病し、毎年どんどんひどくなるという状態でした。

引きこもりの典型的な食事スタイルの、ペットボトルと、スナック菓子の袋と、カップめんのカップが毎日ゴミになるという有様でした。便秘と下痢を繰り返す毎日です。

ただ、唯一まともだったのは、頭で、自分が病気ではないことを知っていました。母がよく「あんたはお化病(おげびょう)や」って口にしておりましたが、全くその通り。食べた物が化けているだけで、根本的な病気ではなく、仮病(化病)だということを認識しておりました。会社にさえ行かなければぜんぜん元気。だから、病院で薬をもらうことなく、向精神薬も飲まずに済んだのです。

そんな荒んだ生活の時に起きた大震災。

私のココロもカラダも大きく揺さぶりました。

もともと10年で会社を辞めるつもりで入社したこともあり、震災後、38歳で退職をいたしました。
震災から退職までの数年間、私の中の余震はたびたび繰り返されましたが、退職後、自然相手の仕事をしながら、割烹をしていた母の店を手伝い、食生活は改善傾向にあり、主人と出会い、玄米を食べ、砂糖なしの生活に入り、今の健康を取り戻したのです。

褒めてやりたいのは、私の頭はいつも冷静だったということです。
それから、母に感謝は、32本の歯をすべて持たせてくれ、健康の素地を与えてくれていたこと。
頭が冷静でおれたのは、しっかりとした顎に歯を32本持っていたからだと、今でこそ間違いないと確信しています。
おかげで、闇に入ることなく直観で、今をつかんだのだと思っております。感謝の何ものでもありません。



自分ヒストリーの大きな節目に被る大震災。
忘れられない、あの日の私です。



犠牲となられた6500人近くの方に追悼の意を表したいと思います。