inspiration-macrobiotique・随想古事記

マクロビオティックインスピレーション・随想古事記・日本語と歴史・バベルの塔・日々雑感

インスピレーションとは何か!!

2024-03-19 15:15:40 | 父の背負子2(最終章・これを知るために)

     インスピレーション・・・・・それは『フト』した思い付き、ひらめき

 

ブログ名を 『inspiration - macrobiotique(マクロビオティック・インスピレーション)』と決めた時、何をどう思ったのかというと、マクロビオティックという正しい暮らし方によってカタカムナという正しい生き方を感得したいと思ったからです。知りたいことはすべて、インスピレーションによってもたらされる・・・・・ことを実感しているからです。そのインスピレーションとは何か・・・・・『ひらめき』ですよね。そのひらめきはどうやって起こるのか・・・・・

 

それは、『フト』起こります。その『フト』がインスピレーションというものの本質です。『フト』という日本語の意味は、二つの力波動が共鳴する、あるいはぶつかり交わりあって一つに合力するというものです。『フト』するものと生み出されるものとは、二つの力波動の性質によります。だから毎日毎日修行しなければなりません。この世に物が存在するのは『フト』が起こるからです。私達は己の修養を積む以外にありません。身を慎み行いを慎み、ひたすら世のため人のため、国を思い同胞を思って祈り続け出来ることをする・・・・・そうすると『積善の家に余慶あり』、ふと閃いて余慶をいただけることになるのだと思います。(余慶とは思いがけない喜ばしいことです。願って、あるいは目論んで、手に入れる良いことではありません。)

思ったとき、あるいは問題をはっきり認識した時、答えは『フト』明らかになります。だから禅僧は座禅を組む以前に食の制限を自らに課します。振動する体細胞の質を変える以外に『フト』する波動の選択はできません。テレビやラジオのチュウニングと同じです。否応のないものです。正直でありがたいものです。万人に平等です。自分の波動以上のものは受け取ることができません。自分が向上する以外にありません。難行苦行をするのではありません。鍵は『食』にあります。

 

後期高齢者になりました。父が亡くなった年を超えてしまいました。来し方を振り返りしみじみと思います。


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春の味

2024-02-24 11:34:30 | 季節・週末散歩

  海岸の瀬戸市場で見つけました。セリとつわと大きなシイタケ・なば。嬉しくなる春の味です。

 

追記(2/25):本当のところ、私は田芹が好きです。私にとって田芹は母の味です。昨年11月の記事の築城探訪では触れませんでしたが、母と芹摘みをした田んぼをひそかに懐かしく思っていました。残念ながらあと影もなくなっていました。田芹は、今普通に手に入る芹とは違って、独特の風味を持っています。母から植え付けられた記憶の風味は消えることはありません。10年以上前に吉祥寺駅のロンロン市場で田芹を見つけたことがあります。その時の嬉しかったことは、今でも忘れません。


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立春を迎えました。

2024-02-05 14:43:53 | その時々2

あけましておめでとうございます。

昨年決心しておきながらなかなかお神輿が上がらなかったのをちょっと反省しました。主人が30年ぶり(?)にブログを更新しました。それで私もブログを開いてみましたら、なんと百名以上の方がのぞいていてくださったのを見つけました。ありがとうございました。また私も『折りたく柴の記』を続けようと思います。

 

申し上げたいことは山ほどあるのですが、追々にするとして、昨日桟橋のところの道の駅で見つけたオゴゼと打ち牡蠣の写真です。昨夜はご馳走でした。 

                      

三枚おろしにしてもらったあらです。このお味噌汁が本当に美味しく温かく心落ち着きました。コツは熱湯をかけて、皮の泥臭い幕を取り去ることです。

                       

それに春の風物詩、打ち牡蠣の酢の物。橙は残っていなかったので、酢ミカンとリンゴ酢にお醤油をかけていただきました。    

しばらくは春は名のみの状態で寒さも続くでしょうが、わかめの季節ももうすぐ。平戸名物のヒラメも出始めました。お元気でお過ごしください。


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60年ぶりの築城

2023-11-12 15:24:39 | 父の懐

築城に行きました。中学三年の12月で、私は猶興館に入学するために祖父母と暮らすことになって平戸に帰省しました。父の東京転勤が決まっていたからです。その時以来実に60年・・・・・記憶の中では大きかった築城ですが、離れてもう60年も経っていたのですね。私にはどうしても確かめたい地が三つありました。一つは以前記事にしたかと思いますが、下関市吉田町。今回の築城町。そして残るは、静岡県浜松市鴨江町。宮城県の矢本は、大学生になった時の父の勤務地となり確かめることが出来たので、あまり心残りは感じません。ただあの大地震の時の映像が焼き付いています。

猶興館の私達の学年は仲が良いのか、東京と大阪で各一回、年に二回も同窓会があります。私も60歳を過ぎたころから参加させてもらうようになりました。平戸に戻ったころからは、大阪の会に行っています。昔の記憶の探訪は、大阪からの帰途の寄り道です。今回も小倉で新幹線を降りました。きれいな駅になっていました。私の知っている小倉や門司は、何しろコレラ騒動の時代です。バナナのたたき売り。福岡県が募集したコレラ撲滅のポスターに入選したこともあります。駅ビルで、高田屋でしたか、美味しいゴマそばをいただきました。ゴマそばって、福岡の裁判所の近くの『そば切りかんべえ』という美味しいお蕎麦屋さんで初めて食べさせてもらいましたが、難しいらしいのです。そこのご主人とおそばを思い出しながら、いただきました。

 

そして始めに日豊本線で宇島(うのしま)まで行きました。宇島は官舎の空きがなかったために、家を借りたところです。九電の宇島発電所があって栄えていました。駅を降りて交番で道を尋ねて、先ず『八屋小学校』を目指しました。道々確かめながらやっとたどり着きました。記憶も少なく面影はなく、周囲の状況もがらりと変わっています。今月に入って1、2、3日と暑い日続きです。やや冬支度の私は汗をかくほどです。それでも八屋小学校に何とかたどり着き、小学校の先生にいろいろうかがって、昔の通学路と思われるところを辿りました。通学路が一番記憶に残った頼りの綱です。道々行き会う方々にお尋ねしながら、ここら辺に消防署があったのでは???・・・・・昔お店が並んでいた十字路に来て、記憶が鮮明になり、お魚屋さんの看板も残っていました。公民館があって、三差路があり石屋さんがあったはず・・・・・外科の病院も・・・・・?????それから先は、住宅街に代わっていて、それらしき九電社宅跡の丘は住宅街に変わっており、そこの坂を上って行った先にため池があったはずのところも・・・・・昔ヒシの実をとってゆでて食べました。弟の釣りに付き合って、ミミズをつけるのが嫌でそのまま垂れていたら、鮒がかかりましたっけ!!!お祭りがあったお寺だかお宮だかの鬱蒼とした森も、みんな住宅地になっていました。暑くて喉は乾くは・・・・・お店もない・・・・・2、3時間も歩き疲れて、駅前で覚えておいたタクシーに迎えに来てもらうことにしました。

八屋時代は戦後のどさくさの奇妙な時代です。小学校に怪力の見世物・・・・・軽トラックに子供たちを乗れるだけ乗せて、ロープをつけてそのロープを口で引っ張るとか、ガラス瓶を割って敷き詰めてその上に横たわり、マットを体に乗せてその上をトラックが横切るとか・・・・・今では考えられないようないろいろなことがありました。記憶の彼方にかすむ様な思い出です。それでも懐かしい・・・・・校長先生のお顔もお名前も鮮明に思い出せます。

現在の地名は知らないけれど、60年前の説明でタクシーは迎えに来てくれました。駅まで連れて行ってもらいました。運転手さんの話によると、新しい国道ができて、私達の通学路の旧国道は大きく様変わりをしたことがわかりました。商店も無くなり病院も無くなり、官公庁舎も亡くなった。八屋は知っているものがほとんどありませんでした。日豊本線を戻って、築城に行きました。おぼろだった築城、椎田、豊前松江(ぶぜんしょうえ)の位置関係もはっきりとわかりました。無人駅になっていた築城駅、駅前で出会った方に旅館を教えてもらいました。それで、昔自転車で通った自衛隊基地の前の踏切が確認できて、土地勘を少し取り戻しました。駅前は本当にわかりません。『紀文』という割烹旅館で、本当に暖かい優しい旅館でした。父達も昔宴会で寄ったのではないかと思う旅館でした。八屋探訪でその日の予定はお終いにして、ゆっくり旅館の夕食をいただき、明日の築城探訪を楽しみに8時には眠ってしまいました。

翌日も快晴、旅館のきれいな朝食をいただいて、9時過ぎ探訪開始。築城での目当ては、自衛隊官舎と築城小学校。道路は幅が広くなって舗装されていたけれど、八屋よりはのどかな面影を残していました。小川のような側溝があったのですが、道路の下になっていました。ここら辺にお豆腐屋さんがあったでしょうという問いかけに、あったあったと言ってくださる私と同じ昔の方がおられて、昔を懐かしみました。衝撃は官舎です。二軒長屋だったんですよ。それが、コンクリートの団地になっていました。敷地も石垣があって、1メートルばかり高かったのですが、道路と変わりなくなっていました。上の堤から流れていた、へちまを晒した小川は汚くなっていました。もう昔はありませんでした。築城小学校はすぐ先にありました、途中の文房具とお菓子などを売っていたお店の跡らしきものはありました。小学校は祝日のお休みで、教頭先生のお許しをいただいて校庭に入らせていただきました。

昔をしのぶことができたのは、クスノキ。覚えているのは、クスノキと横に伸びた松の木があって、足洗い場でした。職員室の前にあった築山の残りかと思うような蘇鉄がありました。たぶん2回は建て替えが行われただろうと思いました。小学校を出て、昔サイクリングをした城井(きい)川の土手を見に行きました。これが意外に遠くて、住人もあまり知らないらしく、暑さを感じながら立派な住宅街を通り抜けました。こんなところに大きな道路ができたのかとトラックが行きかう道路を横切り、やっと城井川の土手道路にたどり着きました。途中で散歩中のご夫婦に会いましたが、城井川には降りることはできないと言われました。それから同窓生が雷に打たれて亡くなった悲しい橋らしき橋まで行き、折り返すことにしました。途中小学校の教頭先生に伺った市民センターでの小学生出展の文化祭をのぞくことにしました。立派な作品がいっぱいで、可愛らしい後輩の作品を楽しみました。幼稚園生のお習字もありました。とても上手で、よい指導だと思います。それからお茶席があって、お薄をいただきました。美味しくて、お代わりをしてしまいました。

そこからもう一つのお目当ての八築中学はすぐで、すっかり立派な中学校になっていました。部活の様子をちょっと見学して戻ることにしました。駅の方角を目指して、ぶらぶら眺めながら旅館に戻ることにしました。もう3時間以上も歩き回っているので、多少疲れ気味・・・・・町の人と短い会話をしながら・・・・・平戸は柿が不作のようですが、築城は鈴なりでした。気になったのは田んぼです。稲が育たずひょろっと生えたまま・・・・・旅館に戻って、お茶とおむすびを食べて、たっぷりのお湯を使わせてもらって、夕食まで一休みしました。

 

翌日築城を出ました。親しくなった旅館の女将さんらとお別れをして、待ち時間がたっぷりの築城駅のホームで両親を思い返しました。殆どが変わってしまった築城基地の町でしたが、それでも懐かしい両親と通い合う思い出を確かめました。吉田町と違って、何もなかったというのが感想ですが、満足です。ただ築城近辺には、私の知らない歴史があって、もう一度来たいなと思いました。博多駅で夫と待ち合わせて無事帰宅しました。


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2023・11・3 恒例のご案内

2023-10-31 22:24:50 | 父の背負子3(雑記)

私にとっての恒例行事の日が巡ってきました。『もう』という気持ちがします。時が経つのは早いものですが、最近急に記事を書く意欲がなくなりかけてきました。反省して最後まで頑張ろうと思います。今年は恒例の『父の背負子・随想古事記』のご案内の日に留守をしますので、早めに記事を上げることにしました。少しでも多くの若者の目に触れて、自分の考えを作り上げて欲しいと思います。どうかお読みいただけたらと思います。

 

 

父の背負子(随想古事記)

        父の願い   2010-04-30        

        私の邪馬台国   2012‐10‐04       

        随想古事記・はじめに   2012‐10‐05        

        随想古事記Ⅰ・あめつちの・・・・・   2012‐10‐09        

        随想古事記Ⅰ・イザナギとイザナミ   2012‐10‐12      

        随想古事記Ⅰ・アマテラスとスサノオ   2012‐10‐15       

        随想古事記Ⅰ・海幸と山幸   2012‐10‐23

 

        随想古事記Ⅱ・関連記事便覧   2012-10‐17        

        随想古事記Ⅱ・神話と言語   2012‐10‐17        

        随想古事記Ⅱ・天津神と国津神   2012‐10‐24        

        随想古事記Ⅱ・アジアの神話と歴史   2012‐10‐31

 

        随想古事記Ⅲ・大和の心1  2012‐10‐26        

        随想古事記Ⅲ・大和の心2   2012‐10‐27        

        随想古事記Ⅲ・大和の心3   2012‐10‐29        

        随想古事記Ⅲ・大和の心4   2012‐11‐02       

        随想古事記Ⅲ・大和の心5   2012‐11‐03

 

        随想古事記Ⅳ・おそれながら・・私の仮説   2012‐11‐04

       

        随想古事記・おわりに   2012‐11‐06

        随想古事記前章・民族の形成   2011-04-11

        随想古事記前章・五色人の謎Ⅰ  2011-04-13

        随想古事記前章・五色人の謎Ⅱ  2011-04-14

        随想古事記前章・五色人の謎補(私の五色人説)    2011-04-21

          アインシュタイン博士の言葉    2012-08-17

        私の『中朝事実』    2013-11-03

 

 

 

それから決意をもうひとつ。現代人の歴史の断絶を何とかしたいとずっと思ってこんなブログを続けてきたのですが、思いついたヒントが、父から教わった昔の人をしのぶやり方、和歌の本歌取り・・・・・、これは長い時間をさかのぼって昔の人と対話できるやり方のように思います。きっかけは、テレビで流れた与謝野鉄幹の『人を恋うる歌』・・・・・名を惜しむかなおのこゆえ・・・・・を聞いた途端に以前このブログの記事でご紹介した大伴旅人家持親子の歌を思い出しました。言葉の連想は千数百年を飛び越えて、昔の人を懐かしむことができる・・・・・私たち日本人は昔の人の心の発露の歌というものを持っている!!!そうして時を隔てても重ねて自分の心の歌を発することができる!!!これはなんと素晴らしいことではないでしょうか。それで、和歌をご紹介するカテゴリーを作って、好きな歌の記事を書くことにします。言葉というものをテーマにした私にとって最後のご奉公のような気もしています。


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しその実の塩漬け

2023-10-13 13:46:16 | 母から娘へ

母が得意だったしその穂のみそ漬け、懐かしい味です。私は穂をしごいて実だけにして、塩漬けにしています。イキな塩に出合ってからは、美味しいのでなんでも大体塩漬けにしています。先日ご紹介した茄子の塩麹漬けのように、今年は塩麹漬けです。気候の所為か、今年の茄子は傷が多いのですが、そこをむきとって使います。本当においしいご飯の友です。それで、シソの実も塩麹漬けにしてみることにしました。収穫がちょっと遅くなった気がしますが、しその穂をしごくと清冽な香りがいっぱいです。指先は真っ黒になりましたが、楽しみができました。


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秋ナスの季節になりました。

2023-09-29 11:21:10 | 自然食品和みさん

九州育ちにはお馴染みのこの長いお茄子・・・・・今日は最近はまっている簡単お漬物をご紹介したいと思います。以前お料理教室で作った『和み』さんの『イキな塩』で作った塩麹で和えるだけです。ただお茄子にはいくつかコツがありますので、それをご紹介します。

1.茄子は圧倒的になりつきの蔕の部分がおいしい(特にお漬物)。

2.かさついた実をしているが、水分が多い。

3.環境条件によって、皮が硬くなることがある。

 

というわけで、蔕の部分をきれいにむしって、なるべく残して細長めの乱切りにします。皮が硬いところは剥き取ってください。押しをかけられる容器に入れて、塩麹を多めに入れて混ぜます。私は30センチくらいの茄子に、塩麹を小匙3杯くらいにします。茄子は塩気をたっぷり入れないと、水が出てきません。蓋をして押しをかけます。一晩くらいで食べられます。驚くほど水が上がります。蓋を取って、そのまま水洗いして笊にあげ絞ってちょうどよい塩加減です。何のことはない『あちゃら漬け』の塩麹版ですが、これが絶妙な味のご飯のお供です。

 

きうりでも出来ます。きうりはすぐ水が出るので、塩麹は小さじ1にして、水洗いはしないで絞るだけで食べられます。最近のきうりは皮の青みが臭いので、なりつきの部分は多めに皮をむいたほうがおいしいようです。きうりは断然なりしもの色が薄いところが美味しいと思います。きうりは30分もすれば食べられますが、一晩置くとカリカリして違った味になります。

 

塩麹ですが、和みさんで塩麹キットを買えます。作ったものもありますが、簡単ですから自家製にすると毎日食べたにしても、一回分で三月はあると思います。お試しください。


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万世一系の天皇②

2023-09-06 15:01:14 | 父の背負子3(雑記)

史記という書物をご存じですか。漢時代司馬遷が著したとされている書物です。紀元前2世紀から1世紀の事です。随想古事記の中にも記事を書きました。その中に三皇本紀という章(これは司馬遷の作ではなく、唐代の補作だと言われている)があって、そこには中国大陸の王朝の始まりを、庖犠(ほうぎ)氏、女媧(じょか)氏神農(しんのう)氏と記してあります。庖犠氏は、風姓蛇身人首。女媧氏も風姓蛇身人首。神農氏は、姜姓人身牛首。庖犠氏は燧人(すいじん)氏から受け継いだとされていますが、燧人氏の記述はありません。その前は有巣氏。有巣氏と燧人氏は人間の社会生活の始まりを意味するような名前です。『家を作った』と『火を起こした』・・・いずれも鳥族風姓です。

多分これは後世の人の記憶だろうと私は思います。しかしながら、我らがアジア人の先祖もこうした時代を生き抜いてきたことには違いありません。我らがアジア人の系統には二つの種族があるというのが、川崎真治先生を支持する私の意見です。すでに随想古事記の中で述べてきました。海を北上してきて、海洋民族のままの蛇族として暮らした部族とそこから分かれて大陸に侵入して新たに鳥族を名乗った部族で、互いに嫁を取り合う通婚関係だったと川崎先生は述べておられます。それぞれのトーテムは竜(蛇)と鳳凰(鳥)、雷と風です。私は俵屋宗達の『風神雷神』を初めて見た時に感じた心の底の動揺を懐かしく思い出します。あれは私たちアジア人が何万年と持ち続けている意識の根源だろうと思います。アジア人の先祖のひれ伏しおろがむべきは風神雷神だったのだと思います。風神雷神の怒りは地球の怒りであって、人間は身を任す以外にありません。広大な海原で怒涛に吞み込まれそうな中で団結して、生き延びる道を探したのだと思います。こうして初めてアジア人となった人々は、何らかの訳があって人類発祥のアフリカを捨て、海路アジアにたどり着きました。そこからアジア人達は生活形態を二分します。島嶼を根拠地にして海洋民族となった者達と、大陸に上陸して国家組織を築いた者達です。もちろんこの二つは密接にかかわりあって、わが国日本でも蛇に象徴される縄(蛇)文人と、鳥のように飛ぶ天女の羽衣人、つまり天孫族がいます。だから先にいた海幸彦が兄で、後から来た山幸彦が弟です。

 

『有巣氏』『燧人氏』、鳥族風姓ですが、『巣を作った』時点で船を捨て独立して鳥族と名乗ったのではと思います。ですが庖犠も女媧も蛇身人首、つまり母が蛇で父は鳥だと言っています。ずっと密接な関係を持って通婚関係を持っていたと川崎先生は仰っています。まあ羽衣、つまり羽をもっている爬虫類が鳥ですから、同じ純粋アジア人です。こうして鳥族の大陸アジア人は世界最古の統一国家を作っていきます。三皇五帝、ここに遅れ馳せの陸路伝いの牛族がやってきます。その証拠が神農氏で、姜姓人身牛首、つまり姓は姜で母は鳥父が牛だと言っています。神農氏は牛族で、のちに言う彦星です。この彦星が女媧氏のお姫様織姫と恋に落ちて、そして王朝を乗っ取ったというわけです。これから五帝の時代となります。風姓少昊(しょうこう)金天氏、風姓顓頊(せんぎょく)高陽氏、風姓帝嚳(こく)高辛氏、伊祁(いき)姓帝堯陶唐氏、姚(よう)姓帝舜有虞氏です。それからまた風姓が三人続きますから、鳥族が三代、次に犬か牛族、牛族・・・・・で夏王朝となり、殷王朝が続きます。これが紀元前2000年くらい。夏は姒(じ)姓牛族太祖は禹、殷は風姓鳥族太祖は湯です。禹は帝舜の禅譲によって帝位につきましたが、殷湯王は天命を革(あらた)めることによって、つまり易姓革命によって帝位につきました。風姓殷にしてみれば、天命を革めて鳥族王朝に戻したのですが、この殷帝国後大陸は陸伝いにやってきた牛犬馬の王朝交代劇となって現代に至って、すべての王朝は天命を戴くということでその正当性を主張することになりました。天命とは鳥族天帝からさづけられた使命ということです。アジアの王は鳥族天帝なのです。そして混血の始まりが、織姫彦星の伝え話です。

殷の滅亡後その末裔はどこに行ったのか、最終的に日本列島に逃れて大和王朝を作ったというのが私の説で、日本の天孫降臨のお話につながっていると思います。この天孫降臨は朝鮮半島伝いに起こったと思います。織姫伝説のあるところが鍵だと考えています。天孫の天はアジア大陸に最初に起こった王朝を指し、天帝とはその国の正当性を持った王の父祖のことです。そして天帝の正当性を持った殷を実際上滅ぼした周王朝は、自分を天子と称し天祖を祀らなければならなくなり周礼の発達を見たのだと思っています。

 

我が国の万世一系の天皇は、あえて言わせていただきますが、この天帝につながる唯一の王朝天子で、わが日本人は王朝を支え続けてきた国民ということになります。私は天孫降臨は紀元前1300年頃だと思います。其氏朝鮮というところを経て帯方郡を通り九州に至ったと考えています。今では大陸にも半島にも天帝王朝はありません。大和王朝の起源は神武天皇の橿原での建国宣言です。きっと父祖以来の亡国のご苦労を思って、八紘一宇の大和の理想を建国理念として、それまでの国名『邪馬台(ヤマト)』を『大和』と当て字して国号となさったと思います。これは聖徳太子が国号を『日本』と変えられたのも同じです。今でも私達は同じように『ヤマト』と日本を読んだりしています。万世一系はその王朝の証です。この延々たる私たちの先祖の営みの尊さは何事にも代えがたいものです。このあたりの内容は、『父の背負子・随想古事記』として記事にしています。私達日本人は代々父の背負子としてみんながそれぞれ受け継ぎ背負ってきたものです。放り投げてはならないものです、根無し草になってはいけません。子供に背負わさなければなりません。

 

 

なんだか一年ぶりくらいに予定していた題名の記事を書いたので、前回の記事と纏まりがつかないかもしれません、後で補修します。とりあえず投稿します。お許しください。

 

 


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2023.05.08

2023-05-07 12:44:17 | 父の背負子3(雑記)

何の記事も書かないまま半年を過ごしてしまいました。父の命日を明日にして、ご紹介のみです。お許しください。

 

父の背負子(随想古事記)

        父の願い   2010-04-30        

        私の邪馬台国   2012‐10‐04       

        随想古事記・はじめに   2012‐10‐05        

        随想古事記Ⅰ・あめつちの・・・・・   2012‐10‐09        

        随想古事記Ⅰ・イザナギとイザナミ   2012‐10‐12      

        随想古事記Ⅰ・アマテラスとスサノオ   2012‐10‐15       

        随想古事記Ⅰ・海幸と山幸   2012‐10‐23

 

        随想古事記Ⅱ・関連記事便覧   2012-10‐17        

        随想古事記Ⅱ・神話と言語   2012‐10‐17        

        随想古事記Ⅱ・天津神と国津神   2012‐10‐24        

        随想古事記Ⅱ・アジアの神話と歴史   2012‐10‐31

 

        随想古事記Ⅲ・大和の心1  2012‐10‐26        

        随想古事記Ⅲ・大和の心2   2012‐10‐27        

        随想古事記Ⅲ・大和の心3   2012‐10‐29        

        随想古事記Ⅲ・大和の心4   2012‐11‐02       

        随想古事記Ⅲ・大和の心5   2012‐11‐03

 

        随想古事記Ⅳ・おそれながら・・私の仮説   2012‐11‐04

       

        随想古事記・おわりに   2012‐11‐06

        随想古事記前章・民族の形成   2011-04-11

        随想古事記前章・五色人の謎Ⅰ  2011-04-13

        随想古事記前章・五色人の謎Ⅱ  2011-04-14

        随想古事記前章・五色人の謎補(私の五色人説)    2011-04-21

          アインシュタイン博士の言葉    2012-08-17

        私の『中朝事実』    2013-11-03

 


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あけましておめでとうございます。

2023-01-23 15:46:39 | その時々2

今日はもう、お正月の23日。遅くなってのご挨拶を申し上げます。今年は頑張って、最後の詰めを作り上げようと思います。そして私のエッセイ集を完成しようかと考えています。今日は新年の決意発表のみとします。こうでもしないと、重い神輿が上がらないというのが、本音です。


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2022・11・03

2022-11-03 02:17:32 | 父の背負子3(雑記)

今年もまた11月3日が巡ってきました。前回の『万世一系の天皇』という記事の続きを書かねばと思いながら、何とは無しの虚しさにまけて今日になってしまいました。反省しています。頑張って記事にしようと思いますが、ともかくも今日は恒例のご案内まで。

 

父の背負子(随想古事記)

        父の願い   2010-04-30        

        私の邪馬台国   2012‐10‐04       

        随想古事記・はじめに   2012‐10‐05        

        随想古事記Ⅰ・あめつちの・・・・・   2012‐10‐09        

        随想古事記Ⅰ・イザナギとイザナミ   2012‐10‐12      

        随想古事記Ⅰ・アマテラスとスサノオ   2012‐10‐15       

        随想古事記Ⅰ・海幸と山幸   2012‐10‐23

 

        随想古事記Ⅱ・関連記事便覧   2012-10‐17        

        随想古事記Ⅱ・神話と言語   2012‐10‐17        

        随想古事記Ⅱ・天津神と国津神   2012‐10‐24        

        随想古事記Ⅱ・アジアの神話と歴史   2012‐10‐31

 

        随想古事記Ⅲ・大和の心1  2012‐10‐26        

        随想古事記Ⅲ・大和の心2   2012‐10‐27        

        随想古事記Ⅲ・大和の心3   2012‐10‐29        

        随想古事記Ⅲ・大和の心4   2012‐11‐02       

        随想古事記Ⅲ・大和の心5   2012‐11‐03

 

        随想古事記Ⅳ・おそれながら・・私の仮説   2012‐11‐04

       

        随想古事記・おわりに   2012‐11‐06

        随想古事記前章・民族の形成   2011-04-11

        随想古事記前章・五色人の謎Ⅰ  2011-04-13

        随想古事記前章・五色人の謎Ⅱ  2011-04-14

        随想古事記前章・五色人の謎補(私の五色人説)    2011-04-21

          アインシュタイン博士の言葉    2012-08-17

        私の『中朝事実』    2013-11-03

 

この頃ほど私達は自分のアイデンティティを確認しなければならない危機の時代を迎えたことはないように思います。明治までは忘れていても守られてきました。明治から敗戦までは、私達の祖父母や父母は否応のない敵に対して牙を持っていたと思います。そして敗戦後牙を抜かれた私達は、祖先を思うことも無くなりました。これでは何のために日本人と生まれたのかわかりません。少なくとも、子孫に伝えるものは自覚しなければならないと思います。

 

 

 

 


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万世一系の天皇①

2022-08-25 22:04:31 | 父の背負子3(雑記)

前記事、天帝とは誰かの問題提起から、一連の記事を書こうと思っています。それは、ちょっと早いかもしれないのですが、私の心の遺産を子供達に文字に残して小冊子にしようと思いついたからです。このブログに残したまま放置したら、いずれ消えてしまうでしょうから。子供の目に触れることも孫の目に触れることも無くなるのが、現代の核家族の運命のように思います。歴史が本当は個人個人の記憶の集合物であるはずなのに、集合する術が消えかかっている・・・・・家族というつながりこそが歴史に命を吹き込むものです。大事に守っていくべきものです。

 

今回は日本の歴史の背骨、『万世一系の天皇』についてです。現在最近皇位継承をめぐって国民の間でいろいろな意見が飛び交っていますが、この事態は全く異様な状態です。そもそも日本は戦後国や天皇というものに対して全く無関係な教育をしてきたがゆえに、自分の存在すら何にも依ってないかのような錯覚に支えられた国民になってしまいました。そしてひとたび問題が起きると、人権だ国の保証だと、訳の分からない欲求に取りつかれてしまいます。国との関係を明確に持っていないのに要求だけするというあさましい国民になってしまいました。自分が日本人であるという根拠を何も教えられてこなかったので、日本人であることもまるで偶然の他人事のようです。日本人は、日本という国の意味も知らずに、そのことを無視して生きています。

 

天皇とは日本の歴史そのものであって、私たち個人個人の名も知らぬ顔も知らない先祖がそれぞれの時代をそれぞれの天皇の名のもとに生きて命を繋いできました。有名な源氏物語は、『いずれのおほんときにか・・・・・』と言って何という帝の時代であったかという書き出しで始まります。そういう生きた年代感覚が天皇の在位期間であったのです。私たちの祖先は、その時の帝の世に生まれたという実感を繋いできました。私達は先祖をしのぶときに、例えば景行天皇の御代に生きた自分のご先祖様とか、誰それ天皇の御代に生きた私のご先祖様とかをしのぶのです。そしてそれが『君が代』の意味なのです。結論を先に言いましょう。その理由は後から述べたいと思います。

天皇とは日本の国柄です。天皇のおわす国が日本です。主義主張ではありません。皇統は私たちの背骨で、私達はその日本の小さな細胞の一つ一つです。同時代に生きている細胞たちはもちろん横につながっていますが、その一つ一つは縦のつながりをも持ってそこに存在しています。私達は束なのです。その縦のつながりは万世一系で保証され紡がれてきたのです。そのことを万世一系というのです。なぜそれが大事なのか・・・・・それは万世同じ歴史を営んでいる国民の証明だからです。私達は少なくとも神武元年の国民の子孫です。あの時いた人々の子孫なのです。私達はそういう一体感を持っています。皇統が一体感の証です。これは本当に稀なことであって、そういう歴史を持っている国民は、今ではこの地球上で日本だけになりました。これは今後作ることもできないありがたい事実です。日本人の義務は、この日本を守り続けることです。生きた人々の束を守ることです。

 

『万世一系』の反対語というか対象語は、『易姓革命』です。王朝が乗っ取られるか滅亡させられて交替するのです。中国大陸の内乱の歴史、戦争の歴史です。違う国の国民になるのです。『万世一系』は秩序と平和を維持して束の国民として生き続ける思想です。『万世一系』は『万世一姓』というのが元だろうと思います。その意味は、同姓による継承ということです。その姓については②に譲ろうと思いますが、なぜ『一系』に替えられたのかということを推測すると、それは皇室が姓を捨てられたからだと思います。私は子供の頃父から、『日本では一番上位におられる皇室と一番下位にいる被支配階級に姓がない』と教えられました。英国の王室はハノーバー家ですが、ギリシャ王家の夫君を迎えられて、エリザベス女王がマウントバッテンハノーバーと付け加えました。ヨーロッパの王室は大体みんな親戚で、国民とより外国の王家とのつながりが強いのです。みんなハノーバー王朝と言ってよいと思います。中世以降でさえそういう王家という世界に対して、神武天皇は二千年以上も前に『八紘一宇』、つまり『みんな一家族』と大和民族にまとめてしまわれて個別の姓を捨てられました。以来日本人は皇室を宗家の家長とした精神構造を作り上げました。日本人の宗家は『万世一系』になったのです。それがなぜ男系となるのかについて、次章②で述べたいと思います。

 

 


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月遅れの七夕様・・・・・天帝とは誰か。

2022-08-08 09:33:11 | 父の背負子3(雑記)

九州では、七夕様もお盆も夏の行事は今でも月遅れの事が多い・・・・・というわけで昨夜から今朝方七夕様の名残の雨が降りました。2年余りのコロナ騒動続きで、昔からの行事が減ったような気がします。お正月も豆まきも、ひな祭りも端午の節句も、七夕様も・・・・・お花見も、挙句の果てにはご法事までも!!!入院した家族も見舞えず、私達は散り散りになりそうです。こんな時こそ私達は自分のアイデンティティを確認して、縦横のつながりを取り戻さなければならないと思います。

 

そこでアジアにおける最古の絆ともいえる国家の王である天帝について私の説をご披露したいと思います。天帝とは誰か・・・・・。私達は七夕祭りの行事を持っています。七夕祭りの主役は織姫様。織姫様は天帝のお姫様です。そこに牛飼いの彦星が現れ二人は恋に落ちますが、天帝はお許しになりません。これまでも記事にしたことがありますが、織姫様は鳥族、彦星は牛族・侵入民族です。(この部族についてはすでにいろいろと記事にしましたので、今回は省略します。)そして二人は天の川の両岸に別々に住まわされましたが、哀れに思われた天帝は一年に一度、七夕の夜にだけ会うことをお許しになりました。天の川にカササギが橋を渡すのです。

織姫様の父君、鳥族の王である天帝とはいったい誰だとお考えですか。私はツクヨミノミコトだと思います。アジア大陸最古の王朝は、アマテラス、スサノオとともに三貴子と言われるツクヨミノミコトの王朝だと思います。この方は『月読』というお名前が示す通り、暦をつかさどるので天帝と言われるのだと思います。中国三千年とも四千年ともいう中国の歴史に月読はいません。女媧伏羲といわれる織姫彦星から始まります。鳥族の王朝を牛族が乗っ取って天子(天帝の子・後継ぎ)を名乗ったところから始まります。それ以来中国の国は易姓革命、つまり乗っ取りの歴史です。『夏』という牛族の国に遅れながら重なって『殷』が起こったとされていますが、この殷が鳥族最後の天帝の王朝です。私はこの殷が我らが天孫降臨という日本渡来の主だと考えています。天孫というのは、鳥族の孫だという意味です。そして、随想古事記のカテゴリーでご説明したとおり、『鳥』が『邪馬』に替えられたのです。『邪馬』は『猪』であると、『混血の神々』の著者川崎真治先生はおっしゃっています。私達の日本は、もともと同種だった鳥族の天孫族と蛇の縄文族が天津神と国津神、天神地祇として建てた大和の国です。

七夕様はそんな鳥族の残した伝え話です。また織姫という名のしめす通り、ツクヨミ王朝に機織りは始まったのです。それで昔話に機織りをするのは、天女であり、鶴の恩返しに見られるような鳥の化身です。古事記では、天照大神の機屋が描かれています。そんな昔の私たちの国の始まりの始まりを、天の川の七夕様にしのぶのも良い風習だと思います。


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平戸の長茄子

2022-08-06 18:32:41 | 平戸

子供の頃の夏の味・・・・・きうりとスイカ、それから茄子とおそうめん。それもきうりと茄子は大きく長くちょっと都会の方々には想像がつきにくいかもしれません。きうりは味のないスイカのようですが、お日様の恵みを受けて青ぐさみがすっかり抜けたきうり。きうり揉みには最高です。ナスは30センチは優にあります。これを焼きナスにすると最高です。母が昔したように、焼き立てを水で指先を冷やしながら皮を剥きます。焼き芋のような身です。

            

この時季、舅と姑はテーブルの横にロースターを持ってきて、毎日囲碁友達差し入れの長茄子を焼いていました。飽きることのないメニューだったようで、長茄子を見ると思い出します。


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夫の動物園

2022-08-02 11:01:38 | その時々2

              

これに、猫が加わり、夕方にはトンビの家族が現れます。        

 

二月あまり更新しませんでした。記事の書き方も忘れそう・・・・・というのは大げさですが・・・・・近頃はイノシシは現れません。たまにイタチが走り抜けます。飼い主の急死で野良ネコちゃんになっている猫が二匹・・・・・キジとクロ。慣れませんが餌をもらいに来ます。そのおこぼれに、色々来るようになりました。観察だけの動物園です。


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